滕文公篇 三章⑤

文公と孟子との直接の対話は、ここでいったん終わります。日を置いて、文公は井田(せいでん)制について尋ねるべく、家臣を遣わします。

【訓読文】

畢戦(ひつせん)をして井地(せいち)を問わしむ。

孟子いわく「子(し)の君、将に仁政を行わんとし、選択して子を使わす、子必ず勉めよ。夫(そ)れ仁政は必ず経界(けいかい)より始まる。経界正しからざれば、井地均(ひと)しからず、穀禄(こくろく)平らかならず。是(こ)の故に暴君汙吏(おり)、必ず其の経界を慢(あなど)る。経界既に正しければ、田を分かち禄を制すること、坐(ざ)して定むべきなり。

【現代語訳】

(文公が家臣の)畢戦(ひつせん)を孟先生のところへ遣わして、井田(せいでん)制について尋ねさせた。

孟先生がいわれた。「あなたの主君がいままさに仁政を行おうとして、多くの家臣の中からあなたを選んで私の元へ遣わされたのですから、あなたも努めて学んでください。さて仁政とは、まず境界を定めるところから始まります。境界が正しくないと、井田の面積が等しくなくなり、その結果、(耕地からの収穫に不公平が生じ)禄高も公平でなくなります。ですから、昔から暴君や貪欲な役人たちは、必ずこの境界を(自分に都合がいいように)いいかげんにしたのです。(これに対し)いったん境界を正しく定めれば、田畑を井田に分けることも、禄高を決めることも、居ながらにしてたやすくできるのです」。

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滕文公篇 三章④

恒産ある者は恒心あり、恒産なき者は恒心なし。正しい税制によって、「恒産」、すなわち民の経済生活を安定させる方法を説いた後は、「恒心」のための道徳教育です。

【訓読文】

「庠(しょう)序(じょ)学校を設け為して、以て之を教う。庠は養なり、校は教なり、序は射なり。夏には校といい、殷には序といい、周には庠といい、学は則(すなわ)ち三代之を共にす。皆、人倫を明らかにする所以(ゆえん)なり。人倫、上(かみ)にて明らかにすれば、小民、下(しも)にて親しむ。王者起こること有らば、必ず来たりて法を取らん。是(これ)、王者の師為(た)るなり。

詩に『周は舊邦(きゅうほう)なりと雖(いえど)も、其れ命ぜられて惟(こ)れ新たにす』といえるは、文王の謂(いい)なり。子(し)力(つと)めて之を行わば、亦(また)以て子(し)の国を新たにせん」。

【現代語訳】

「(次に)庠(しょう)・序(じょ)・学校を作って、民を教育しなければなりません。庠は養の意味で、老人を敬い養う道を教えるところであり、校は教の意味で、子弟を教え導くところであり、序は射の意味で、射礼を教えるところです。夏王朝では校といい、殷(商)王朝では序といい、周王朝では庠といい、(それぞれ呼び方は異なりますが)そこで学ぶ内容は三王朝とも共通のもので、すべて、人倫(人の道)を明らかにする教育でした。上の者が人倫を明らかにすれば、下々の民は互いに親しむようになります。もし天下に王者が興ったならば、必ず(その王者はこの滕に)やって来て、(滕の)やり方を手本とするでしょう。そうなれば、(あなたは)王者の師に為ることが出来ます。

「詩経」に『周は古い国であるが、天命を受けて周を新たにした』とありますが、これは、天命を受けた文王の出現によって、古い国であった周が天下を統一できる国として一新されたことをいいます。あなたも、努めて、私が申し上げたことを実行すれば、また、あなたの国も一新することができましょう」。

射は、周では六芸(りくげい)のひとつで、君子が身につけるべき教養ですが、武を通して礼を学びます。「公孫丑篇」七章にも「仁者は射の如し」とあるように、心の鍛錬が目的なのです。

滕は小国なので、天下を統一するのは不可能です。ですから、孟子の説き方も、魏の惠王や斉の宣王に対するのとは違います。天下の王者にはなれなくとも、王者の手本になることはできるので、それを目指しましょう、といいます。

詩は、「詩経」の「大雅」の「文王篇」からの引用です。「文王之什」の首篇です。

吉田松陰は、この章から、先ず「王者起こること有らば、必ず来たりて法を取らん。是(これ)、王者の師為(た)るなり」の句を取り上げます。君子が政治を行うのは、ただ自分の国だけのためだけではなく、天下後世のために手本となることを願うべきで、それが手本となったとしても、それは自分が考えたとか自分が行ったとか、誇ってはいけないといいます。目先の功利で判断せず、天下後世のためになるかを考えるようでないと、政治を一新することはできないのです。

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滕文公篇 三章③

夏王朝の貢(こう)法、殷(商)王朝の助(じょ)法、周王朝の徹(てつ)法の三つのうち、どれが優れた税制なのでしょうか。孟子は、古の賢人の言葉を引いて、続けます。

【訓読文】

「龍子(ろうし)いわく『地を治むるに助より善きはなく、貢より善からざるはなし』と。貢は、数歳の中(うち)を校(くら)べて、以て常と為す。楽歳(らくさい)には粒米(りゅうべい)狼戻(ろうれい)し、多く之(これ)を取るも虐(むご)しと為さざるに、則(すなわ)ち寡(すく)なく之を取り、凶年には其の田を糞(つちか)うにも足らざるに、則ち必ず盈(みつる)を取る。民の父母と為りながら、民をして、盻盻然(けいけいぜん)として将に終歳(しゅうさい)勤め動(はたら)かんとすとも、其の父母を養うこと得ざらしめ、又、称貸して之を益(ま)し、老稚をして溝壑(こうがく)に転ばしむ。悪(いず)くにか、其の民の父母為(た)るに在らんや。

詩にいう『我が公田に雨ふりて、遂に我が私(田)に及ぶ』と。惟(た)だ助にのみ公田有りと為す。此れに由(よ)りて之を観れば、周と雖(いえど)も亦(また)助するなり」。

【現代語訳】

「古の賢人龍子は、『土地を治める税制としては、助法がもっともよく、貢法がもっとも悪い』と言っています。貢法は、数年間の収穫高を計量して、その平均を毎年の収穫高とみなします。(これに十分の一税をかけるわけです。)豊作の年には穀物はありあまって、あちこち散らばっているくらいです。ですからもっと多く(税を)取っても虐政にはならないのに、少なく取ることになります。一方、凶作の年には(次の年のために)田に肥料を施す資力も足りないのに、必ず(決まった税の量だけ)目いっぱい取ることになります。(これが貢法の制度的欠陥です。)民の父母(である君主)となりながら、その民は、怨んでにらみながら一年中懸命に働いても、自分の父母を養うこともできず、また、(行政側が)種もみや金銭などを貸し付けて高い利息を取るような貸付を増やすので、老人や子供は溝に転んで飢えて死ぬことにもなります。これではどうして民の父母といえましょうか。

「詩経」には『(まず)私たちの公田に雨が降り、ついに私の私田に(雨が)及ぶ』とあります。公田があるのは、(井田(せいでん)制をとっていた殷の)助法だけです。この詩は周人(しゅうひと)の作であることを勘案しますと、周王朝でも(徹法と併せて)助法も採っていたことが推測できます(ですから、あなたが治める滕でも井田制の助法を採用されるとよいでしょう)」。

「粒米(りゅうべい)」は穀物のつぶ、「狼戻(ろうれい)」は乱れて散らばっているさまをいいます。「糞(つちか)う」は、耕作地に肥料を施す、の意です。次の年の耕作のためには、土地に肥料を与えなければならず、それを買うための資力が必要です。また、税として収穫物から過度に取られてしまうと、種もみすら食糧に回さざるを得なくなり、翌年の不作を生むという悪循環に陥ってしまいます。

詩は、「詩経」の「小雅」の「大田(たいでん)篇」からの引用です。「甫田の什」という十篇の二つめの篇です。周王朝は徹法を布いており、徹法には公田はないはずなのですが、周人(しゅうひと)の作である詩の中に公田という語が出ているので、助法の併用も行われていたのでしょう。孟子が理想としていたのは、井田制と十分の一税です。周においても公田があったことは、龍子の言葉と合わせて、孟子が文公に助法を勧める根拠になっています。

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滕文公篇 三章②

恒産ある者は恒心あり、恒産なき者は恒心なし。ではどうすれば人々の経済生活を安定させることができるのでしょうか。孟子は、税制のあり方を取り上げます。

【訓読文】

「是(こ)の故に賢君は、必ず恭倹して下を礼し、民より取るに制(かぎり)あり。陽虎(ようこ)いわく『富を為さんとすれば仁ならず、仁を為さんとすれば富まず』と。夏后(かこう)氏は五十にして貢(こう)し、殷人(いんひと)は七十にして助(じょ)し、周人(しゅうひと)は百畝にして徹(てつ)す。其の実は、皆、什(じゅう)に一(の税)なり。徹は徹なり、助は藉(しゃ)なり」。

【現代語訳】

「ですから、賢君といわれる人は、恭しく倹(つづま)やかで、下の者にも礼儀正しく、人民から取り立てる税にも制限がありました。(魯の家臣であった)陽虎は『富を蓄えようとすれば仁者になることができず、仁者になろうとすれば富むことができない』といいました。さて、夏王朝では、成人ひとりに五十畝を与えて貢(こう)という税制を、殷王朝では、成人ひとりに七〇畝を与えて助(じょ)という税制を、周王朝では成人ひとりに百畝を与えて徹(こう)という税制を、それぞれ実施しました。各王朝によって制度の名前は違っておりますが、その中身は同じく十分の一税です。徹とは、年貢を徹、すなわち取るという意味です。助とは、藉(しゃ)、すなわち借りるという意味です」。

陽虎(または陽貨)は、孔子と同時代の魯の政治家です。はじめは魯の実権を握っていた公族に仕えていましたが、やがて反旗を翻し、魯の実権を握ります。このとき孔子を政権に招きますが、実現しませんでした。その後、公族の巻き返しに遭い、魯を追放されました。

一畝は約一・八二アールですから、五〇畝で約〇・九ヘクタール、七〇畝で約一・三ヘクタール、百畝は約一・八ヘクタールの面積です。助が「借りる」という意味だといったのは、井田(せいでん)制では、耕作地を三×三の九区画に等分し、真ん中の公田を除く八区画を私田として民に支給し、公田は民の労力を借りて耕すからです。

重税は、民を経済的に疲弊させ、飢饉のときには餓死したり、生き残ったとしても与えられた田畑を棄て、流民化したりする事態を招いてしまいます。そこで、夏・殷(商)・周王朝では、「十分の一」の税率を制度にしていた、と孟子はいいます。

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滕文公篇 三章①

三章は、滕の文公が即位してからの話です。

【訓読文】

滕(とう)の文公、国を為(おさ)むるを問う。孟子いわく「民の事は緩やかにすべからず。詩にいう、『昼は爾(なんじ)茅(かや)を于(と)り、宵(よる)は爾綯(なわ)を索(な)い、亟(すみや)かに屋(おく)を乗(おお)い、其れ始めて百穀を播(ま)け』と。民の道たる、恒産ある者は恒心あり、恒産なき者は恒心なし。苟(いやしく)も恒心なければ、放辟邪侈(ほうへきじゃし)為さざるなきのみ。罪に陥るに及んで、然る後に、従いて之を刑すは、是(こ)れ、民を罔(あみ)するなり。焉(いず)くんぞ、仁人の位に有りながら、民を罔すること為(な)すけんや」。

【現代語訳】

滕(とう)の文公が、孟先生に国を治める方法について質問された。孟先生がいわれた。「人民の暮らしに関わることは、決して引き延ばしてはなりません(速やかに行うべきです)。詩経にも『昼は茅を刈り、夜に縄をなって。急いで屋根をふきかえろ。それが終わってはじめて種が蒔ける(種を蒔く季節が始まる前に終わらせろ)』とあります。そもそも人民というものは、安定した収入がある者は、道徳心も揺るぎませんが、安定した収入がない者は、道徳心も安定しません。安定した心がなければ、放辟(自分勝手でわがまま)、邪侈(よこしまでぜいたく)など、悪いことで行わないものはありません(どんな悪いことでもしでかすものです)。(それを知っていながらとめる工夫は何もしないで)、ひとたび人民が罪を犯したならばこれを処罰するというのは、人民を網にかけて捕らえるようなものです。仁政を施すべき君主が政治の地位にいながら、このように人民を網にかけることがあっていいのでしょうか」。

いよいよ滕の文公が即位しました。礼を尽くして孟子を滕に招いたのでしょう。孟子もこれに応じて、文公の政治顧問となります。

「詩経」からの引用は、「豳風(ひんぷう)篇」の冒頭の詩「七月」という農業詩からです。引用された部分は、十月に五穀の刈り入れが終わった後、春の種蒔きの季節が始まるまでの屋内の作業の様子がうたわれています。収穫が終わって、男も女も田畑へ出ることがなくなります。種蒔きまでの間に、家の手入れを急いでしなければならない、そんな農村での庶民の暮らしぶりが描かれています。

苟(いやしく)も恒心なければ、放辟邪侈(ほうへきじゃし)為さざるなきのみ」およびそれに続く部分は、ほとんど同じ文章が「梁惠王篇」七章にも出てきました。人々の経済生活を安定させることが、仁政、良い政治の第一歩である、という孟子の信念は、斉(せい)の宣王に説いたときからいささかも変わっていません。

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滕文公篇 二章④

孟子に、「親の喪は他人に頼むわけにはいきません。世子(文公のこと)が決める問題なのです」と言われた傅役(もりやく)の然友は、滕へ戻って文公に伝えます。

【訓読文】

然友、反命す。世子いわく「然り。是(こ)れ、誠に我に在り」と。

五ヵ月蘆(ろ)に居り、未だ命戒あらず。百官族人、可とし、謂いて「知(さと)りたり」という。葬に至るに及び、四方より来りて之を観る。顔色の戚(いた)めること、哭泣の哀しめること、弔う者大いに悦(よろこ)べり。

【現代語訳】

然友が滕へ戻り、孟先生の言葉を伝えると、世子(文公)は「その通りである。これは私自身が決めなければならないことなのだ」といわれた。

(大喪の礼までの)五ヵ月間、喪主として仮小屋にこもり、いっさいの命令や戒告を出さなかった。先に反対していた一族や家臣たちも(世子が三年の喪を行うことを)認め、「世子は賢君であったのだ(ようやくそのことが分かった)」というようになった。いよいよ大喪の日になると、伝え聞いた人々が四方より観に来た。会葬者は、世子の顔色がやつれ、哭泣が哀しみに満ちているのをみて、大いに感服した。

文公みずから、「馬を乗り回したり剣を振り回したりして、学問をあまりしてこなかった」と言っていますから、公族や家臣たちもあまり期待していなかったのでしょう。文公が最初に「三年の喪を行う」と言ったときも、「学問をしていないので、やはり愚かな君だ」と思い、一斉に反対しました。「自分はこのことをしかるべき人から教えられたのであり、決して自分勝手に言っているのではない」と文公がいっても、「なんだ、どこぞの先生にかぶれて、その受け売りか」と、かえって逆効果だったのではないでしょうか。

しかし、孟子に背中を押された文公は、三年の喪をみずから決断し、仮小屋にこもり、粥をすするだけの生活を始めます。古来の正しい礼に従った葬礼を、自身の身体を苦しめてでも実践するのは、仁義礼智を重視する王道政治を布く、つまり不退転の覚悟で政治改革を断行する決意表明です。ここに及んで、公族や家臣たちの文公を見る目も変わりました。「文」とは王・諸侯の謚(おくりな)のなかでは最高のものです。周の文王、晋の文公(重耳)がその著名な例です。名君としての評価は、このときから始まったのです。

三年の喪は、春秋戦国時代になって、久しく行われていませんでした。また、吉田松陰によれば、これ以降の歴史においても、三年の喪に服した君主は数名に過ぎません(魏呉蜀の三国時代を終わらせた晋の武帝(司馬炎)もそのひとりに挙げられています)。文公は、これをまじめに実施したことで、歴史に名を刻みました。

吉田松陰は、この章における孟子の言葉の主意は、「自尽(自ら尽くす)」の二字にあるといいます。さらに再訪した然友に「他に求むべからざるのものなり(他人に頼むわけにはいきません)」「是(こ)れ世子に在り(世子が決める問題なのです)」と答えたのも、自分で決意することを促すものです。そしてこれは、先君の葬礼にとどまらず、すべてのことをそのようにしなければならないことを意味します。文公も孟子の言葉をよく理解し、「然り。是(こ)れ、誠に我に在り」と言ったのです。

これで、「滕文公篇二章」を終わります。

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滕文公篇 二章③

「三年の喪」とは、あしかけ三年、つまり二十五ヵ月(正確には丸二年と一日)、縫いとりをしない粗布の服をまとい、(喪に入って三日間の断食の後)お粥をすすり、仕事をせずにひたすら親の死を悼む、というものです。文公のような諸侯の場合は、いっさいの政務を大臣に任せなければなりません。戦国の世にあって、滕のような弱小国にとっては自殺行為です。「父兄百官」がこぞって反対するのも無理はありません。そこで文公は、再び然友を遣わして、孟子に助言を求めます。

【訓読文】

いわく「吾(われ)之(これ)を受けし所あるなり」と。

然友に謂いていわく「吾、他日、未だ嘗(かつ)て学問せず、馬を馳せ剣を試むることを好めり。今や、父兄百官、我を足れりとせず。其の大事を尽くす能(あた)わざらんことを恐る。子(し)、我が為に孟子に問え」と。然友、復(ふたたび)鄒(すう)に之(ゆ)きて、孟子に問う。

孟子いわく「然り。他に求むべからざるのものなり。孔子いわく『君薨(こう)ずれば、冢宰(ちょうさい)に聴(まか)せ、粥を歠(すす)り、面(おもて)は深墨(しんぼく)し、位に即(つ)きて哭するのみなれば、百官有司、敢えて哀しまざるものなし』と。(みずから)之に先んずればなり。上(かみ)、好むものあれば、下(しも)、必ず焉(これ)より甚だしきことあり。君子の徳は風なり、小人の徳は草なり。草は之に風を尚(くわ)うれば、必ず偃(ふ)す。是(こ)れ世子に在り」。

【現代語訳】

(滕の定公は)「自分はこのことをしかるべき人から教えられた(のであり、決して自分勝手に言っているのではない)」といわれた。

(その後)然友に向かって「自分はこれまで学問というものをやってこなかった。馬を乗り回したり剣を振り回したりすることを好んできた。だから今、一族の年長者や家臣たちは、私を未熟者とみなして反対するのだ。このままでは、三年の喪という大事を成し遂げられそうにない。そこで、私のために、孟先生に相談してきてもらいたい」といった。然友は、再び鄒(すう)へ行って、孟先生に相談した。

孟先生がいわれた。「なるほど、状況は理解できます。しかし、親の喪は他人に頼むわけにはいきません。孔子もこうおっしゃっています。『君主が薨去すれば、世子(太子)は政務を執政に任せ、粥をすすり、顔色は暗く沈み込み、喪主として哭泣の礼を行うだけである。すると大勢の家臣役人たちは誰ひとり哀しまないものはいない』。これは世子が率先して哀悼の意を表すからです。上に立つ者が好むことは、下の者は必ず、それに輪をかけてまねるものです。『君子(為政者)の徳は風であり、小人(庶民)の徳は草である。草はこれに風を加えれば、必ずなびくものだ』といいます。(三年の喪をすべきかどうかは)世子が決める問題なのです」。

「孔子いわく」の引用は、「論語」憲問篇四十章の「君薨ずれば、百官己を総(すべ)て、以て冢宰に聴くこと三年」からです。また「君子の徳は風なり、云々」は、「論語」顔淵篇十九章に、同じ内容が孔子の言葉として記されています。

孟子は文公に対し、「他に求むべからざるのものなり」「是(こ)れ世子に在り」と言って、決意を迫ります。父君の喪は、これから君主になる文公にとって最初の仕事です。ここで他人の権威をあてにしては、この先、厳しい状況に直面するたびに、他人に頼ってしまいます。最初が肝心なのです。だから孟子は突き放すように言ったのです。

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滕文公篇 二章②

滕の文公(この章の当時はまだ世子)は、傅役(もりやく)の然友を孟子のもとへ遣り、父君の葬儀の礼について尋ねさせます。

【訓読文】

孟子いわく「亦(また)善(よ)からずや。親の喪(も)は、固(もと)より自ら尽くす所(べ)きなり。曾子いわく『生けるときは之に事(つか)うるに礼を以てし、死せるときは之を葬るに礼を以てし、之を祭るに礼を以てす。孝と謂う可(べ)し』と。諸侯の礼は、吾、未だ之を学ばず。然りと雖(いえど)も、吾、嘗(かつ)て之を聞けり。三年の喪、齊疏(しそ)の服、飦粥(せんじゅく)の食(し)は、天子より庶人に達(いた)るまで、三代も之を共にす」と。

然友、反命す。定めて三年の喪を為さんとす。父兄百官、皆、欲せずしていわく「吾(わ)が宗国魯の先君も之を行うことなく、吾が先君も行うことなきなり。子(し)の身に至りて之に反(そむ)くは、不可なり。且(か)つ志(誌)にも『喪と祭とは先祖に従うべし』といえり」。

【現代語訳】

孟先生がいわれた。「まことに善いことをお尋ねになりました。親の喪には、もとより、子としてできるかぎりのことを尽くさねければなりません。曽子も『父母がお元気なときは、礼に従ってお仕えし、お亡くなりになれば、礼に従って葬り、また礼を守って、祖先となられた御霊をお祭りする。これを孝というべきである』といっています。諸侯の礼については、まだ十分に学んでおりませんが、以前、こういうことを聞いたことがあります。『親の喪はあしかけ三年、そのあいだは、縫いとりをしない粗布の服を着て、(喪に入って三日間の断食の後)お粥をすすって過ごす。これは天子から庶民にいたるまで同じきまりであり、夏・商・周と王朝が交代しても変わることはない』と」。

然友が復命すると、文公は三年の喪を行うことにした。すると一族の年長者や家臣たちはみな反対して、「我が国の御本家である魯国の歴代の君主もなさらなかったし、我が滕のご先代にもなさった方はいらっしゃいません。それなのに、あなた様の代になって先例に叛くことなさっては、けっしてなりません。昔の記録にも『喪と祭は先祖の定めに従え』とあります」といった。

孟子の答えで、曽子の言葉として引用されているのは、「論語」為政篇五章にある孔子の言葉です。孟子は、儒家のなかでは曽子の系統ですし、曽子は親孝行としても有名でしたので、「孝」についての孔子の話を、曽子の言葉と考えていたのかもしれません。むしろ、そのあとで引用されている「三年の喪」云々が、「礼記」に記されている曽子の言葉です。

さて、前章で孟子がいった「めまいがするほど強い薬」がさっそく出てきました。戦国時代、食うか食われるかの世にあって、しかも斉・楚二大国に挟まれた小国滕の君主として、あしかけ三年、すなわち二十五ヵ月も政務から遠ざかって喪に臥すというのは、極端な理想主義です。まさに劇薬です。その劇薬を飲む覚悟でないと、国政の改革はできない、というのが孟子の趣意です。

もちろん、これには文公の一族や家臣が一斉に反対します。彼らは、礼を重んじるのであれば、本家筋である魯は、孔子が尊敬してやまない聖君周公(周王朝を建てた文王の子、武王の弟)が開祖の国であり、孔子の生国でもあるので、その魯の先例に倣うべきだといいます。また滕にも、そのようなことを行った君主はいません。文公は孤立無援の状態です。

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滕文公篇 二章①

二章でも、滕の文公はまだ世子(太子)ですが、父君である定公が薨去したときの話です。

【訓読文】

滕(とう)の定公、薨ず。世子(せいし)、然友に謂(い)いていわく「昔者(むかし)、孟子、嘗(かつ)て我と宋にて言えりしこと、心に於いて終(つい)に忘れず。今や、不幸にして、大故に至れり。吾(われ)、子(し)をして、孟子に問わしめ、然る後に事を行わんと欲す。然友、鄒(すう)に之(ゆ)きて、孟子に問う。

【現代語訳】

滕(とう)の定公が薨去された。世子(文公のこと)が、傅役(もりやく)の然友に向かっていわれた。「先年、宋で孟先生にお会いしたが、そのとき孟先生が私にお話しされたことが、いまだに忘れられない。今、不幸にして、父君の大喪となった。そなたに、孟先生のところへ行って、葬儀の礼について聞いてきてもらいたい。その上で、大喪の儀を行いたいのだ」。そこで然友は、鄒へ赴き、孟先生にお尋ねした。

ここで、事が起きた前後関係を整理しましょう。

孟子と文公が初めて会った(「公孫丑篇」十五章)のは、孟子が斉(せい)の正使として滕を弔問したときですから、孟子が斉を去る紀元前三一二年より前になります。「公孫丑篇」が時の前後に従って書かれているという前提ならば、孟子が母の葬儀で魯に一時帰る(「公孫丑篇」十六章)前ですから、さらにさかのぼって紀元前三一五年より前になります。次に、文公は、楚への往路・帰路で、宋にいた孟子と話をしています(「滕文公篇」一章)が、これが紀元前三一一年です。そして、故郷の鄒に戻っていた孟子を、文公の傅役(もりやく)である然友が訪ねるのが、紀元前三〇七年(か三〇八年)です。したがって、本章で文公が「先年、宋で孟先生にお会いした」というのは、三、四年前の孟子との語らいのことをいいます。

傅役には、君主が、世子のために自分の家臣のなかから信頼できるものを選びます。ですから、然友は、まだ世子であった文公がにとって、先君の家臣なのです。然友のことを「子(そなた)」と呼ぶのは、そのためです。

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滕文公編 一章②

孟子、性善を道(い)い、言えば必ず堯・舜を称せり」とあるのは、孟子が四端、すなわち人間が生まれながらに持っている「惻隠」の心が「仁」の端緒、「羞悪」の心が「義」の端緒、「辞譲」の心が「礼」の端緒、「是非」の力が「智」の端緒であるという性善説を唱え、仁や義による政治の例として、帝堯や帝舜の話をしたのだと思われます。「性善」という語が出てくるのは、この章が初めてです。また、「四端」については、「公孫丑篇」六章で説明されています。

文公(この章では太子時代ですが、分かりやすくするため文公で通します)が帰路に再び孟子を訪ねたとき、孟子は「「世子よ、吾(わ)が言(ことば)を疑うか。夫(そ)れ道は一のみ」と言っています。孟子が堯・舜の道を説いたので、文公は、その目標の高さにかえって不安になり、とても自分にはできないと思ったのです。そこで孟子は、仁政への道はひとつだけであり、堯・舜のような聖人も、自分たちのような凡人も、同じ道を進まざるを得ない、といいます。

勇者の道もひとつだから、成けんは、景公がどれだけ他の勇者を褒めようが、自分も精進鍛錬して、その勇者に追いついてみせるという気概を示しました。孔子の高弟である顔淵も、君子への道はひとつしかないから、帝舜を目指して切磋琢磨するしかない、そうして努力すれば必ず聖人に近づくことができる、と言いました。公明儀は、孔子の門人曽子の弟子ですから、孟子とは思想的に同系列です。公明儀が言わんとしたのは、周公が父である文王を師と仰いでそれを目指したのなら、私も周公を目指して努力しよう、ということです。いずれの例も、目標がどんなに高く、険しくても、道はひとつなのでそこを目指すしかないが、刻苦勉励すれば近づけないことはない、といって文王を励ましているのです。

滕の領土は五十里四方といいました。「公孫丑篇」三章に、湯王は七十里四方、文王は百里四方の小さな国から天下をとった、とありますが、滕はこれらよりさらに小さな国です。しかも、大国である斉(せい)と楚に挟まれています。天下を取るどころか、存続さえ危ぶまれています。孟子はそんな弱小国の君主に、あえて王道を説くのです。

この章から吉田松陰が取り上げたのは、最後の句、「若(も)し薬、瞑眩(めんげん)せずんば、厥(そ)の疾(やまい)瘳(い)えず」です。松陰は、なぜこの薬がめまいを起こさせるのかということは、真に志を立てたものでないと知ることができないと言います。たいていの人間は、十人並みでいいと思っており、百人・千人・万人に傑出しようと思う者はきわめて少ないです。十人並みでいいと思っている人間は、自ら実践しようとはせず、好んで当てのない大言をはき、聖人になることも、仁政によって良い国にすることも、茶漬けでも食うように軽く言う者が多いのです。そんな者たちには、とうていめまいがするほど強い薬であることが分かりません。

松陰自身は、この言葉に接して、自らを省みるとき、背中に汗をかき、顔が真っ赤になり、身の置き所がないと感じます。この言葉こそが、自分にとっての良薬だといいます。高い志があるからこそ、自分がやらなければならないことの厳しさが分かるのです。

これで、「滕文公篇一章」を終わります。

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