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2008年1月

ブルーノの著作から

無限の空間のうちにこの世界と類似した無数の諸世界が存在しうるということ、この宇宙はこの地球に似た星と証するたくさんの物体を包み容れうるように延長しているということ。そしてさらにそれらは(この地球をはじめとする星々に似ているものであろうと似ておらぬものであろうと)それぞれに存在することが善である理由を一様に具えているということです(『無限、宇宙および諸世界について』清水純一訳、岩波文庫p.60)。

最新の宇宙論(無限にある存在、膨張する宇宙)を400年以上前に予見しているかのような、ブルーノの著作である。

神の善は無限に拡散できるのだから、宇宙に存在は充満しており、その存在それぞれが一様に善なのである。この「一様に」というのが、重要である。どの存在も他の存在よりすぐれて善であることもなく、また他の存在より劣って善であることもない。神の属性は無限にあるから、神の属性を映している無限の宇宙もまた、無限の存在を抱えるし、存在は無限に注ぎ込まれ、宇宙は充満しているのだ。神の属性は無限にある→宇宙には無限の存在→実体である神は宇宙そのもの、というのはブルーノから80年遅れで登場するスピノザも『エチカ』で論じている。無限にある神の属性が宇宙にある無限の存在に写像されているから、宇宙のすべての存在が神の中心であり、すなわち宇宙の中心である。これも、現代の宇宙論と一致する。膨張する宇宙の中心は一点ではなく、どこに観測地点を設けても、そこが中心なのである。

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許すこころ

宇宙には存在が充満しており、すべての存在があるべくして存在する。すべての存在は宇宙の中心であり、かけがえのない存在。そういう気持ちでこの世界を見たら、すべての存在を許すことができるだろう。いや、「許す」などと不遜なことはいえない。まさに共にあるのだ。

今日、マンハッタンを歩いていたら、ふとそういう気持ちになって、周りのいろんな人種の人たちと一緒にいる実感がした。こんな気持ちが長続きすればいいのに。残念ながら、それから30分と経たないうちに、自宅へ帰る郊外電車で、あぁ隣に人が来なければいいなぁと思ってしまう自分がいる。

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宇宙の中心(続き)

膨張する宇宙は、どこが中心ということはなく、どこもが中心である。ブルーノはこのことを充満の原理から導いたはずだ。存在が充満している宇宙。宇宙には「存在すべきでない存在」などなく、すべての存在が宇宙の中心なのである。そういう宇宙を受け入れることが愛なのでなはいか。すべての存在を許し、すべての存在を中心とみて尊ぶ。万物に仏を観るようなものかもしれない。

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宇宙の中心

ジョルダーノ・ブルーノは、宇宙に中心はないこと、いいかえればどこもが中心であること(汎心論)を唱えたために、カトリックから異端の断を下され、火刑に処せられた。天動説から地動説は、当時異端とされたものの、数百年の時を経て異端は取り消されている。しかしブルーノはまだ異端のままだ。

しかし、ブルーノの「予見」は、現代宇宙論と整合性を持っている。宇宙は膨張し続けている。地球は太陽系の中の星であり、太陽は天の川銀河系にある2000億個の恒星の中のひとつであり、天の川銀河系も局所銀河群の中のひとつの銀河系であり、局所銀河群も乙女座銀河団の中のひとつの銀河群であり、乙女座銀河団も乙女座超銀河団の中のひとつの銀河団であり、乙女座超銀河団も宇宙全体の中のひとつの超銀河団なのである。ユダヤ・キリスト教が描いた唯一絶対神と人間とのかけがえのない物語が、広大な宇宙の中のありふれたドラマであることは、カトリックには耐えられないことである。太陽系と同じような「世界」は宇宙の中にたくさん存在することも唱えたブルーノに下された異端の断が、いまだに解けないのは十分うなづける。また、宇宙は膨張し続けているが、どこがその中心ということができない。地球上から観測すると、どの星を見ても、地球を中心に膨張しているように見える。宇宙のどの地点から見ても、そのように観測されるだろう(これを分かりやすくするのに風船の表面にいくつか印を付けておいて膨らませる譬えがある)。すなわち、宇宙のどこもが中心なのである。ブルーノはすでに16世紀末にこの概念に達している。まさに天才であった。

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最近「自分探し」を聞かないが

一時、「自分探し」がブームであった。サークルに入ったり、旅に出たり、と、自分の外に探しに出かけた人が多かった。最近、その話題をあまり聞かない。書籍やドラマのテーマとして上がってこない。「本当ではない今の自分」などというものはなく(「本当はやりたいことが出来ない自分」とか「中身と外見が違う自分(性同一障害など)」はあるが)、ましてや「本当の自分」が自分の外にあることなどない、というのが理解されたのであれば問題ない。しかし、メディアで取り上げるのに飽きられただけであって、まだまだ多くの人が「自分探し」をやっているのであれば、大いに問題である。

自分の「外」は客体だ。自分の認識対象が認識主体になるわけがない。自分は、認識主体を掘り下げないと見えてこないはずである。外に行けば、現状(日常に拘泥されているという状態)から離れれば、自分が見えてくるというのは安易な発想だろう。日常に拘泥されながらも、そこに踏みとどまって、足元を掘っていくしかないのではないか。

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八百万の神々

カトリックは、父なる神・子なるキリストのほかに、聖母マリア、聖ペテロ、聖パウロに始まって諸々の聖人が山ほどいる。こういう聖人信仰は、唯一絶対神という信仰に、多くの人は耐えられないことの証左だろう。そういう意味では、キリスト教の母体であるユダヤ教はすごい。ユダヤ教には預言者はいても聖人はいないのだから。イスラム教はどうだろうか。

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夢の中の自分

前にavatarのことを書いた。夢の中の自分は、自分の思い通りにならない。では夢の中で勝手な行動をする自分は、勝手な行動をするように、夢を見ている自分の無意識がそうさせるのか。夢の中の自分が無意識が意識上に出てきたものであれば、そのときは、意識が主観で無意識が客観になっているのか。なんだか哲学の初歩で躓いている気がする。

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沿岸部で農業を

レスター・ブラウンの『プランB 2.0』を読んで、環境問題で一番難しいのは「水」だという思いがますます強くなった。

CO2の排出による温暖化は、人間の節度と努力で解決できるだろう。食糧不足も、遺伝子組み換えの植物を拒否しなければなんとかなる(瀬に腹は変えられないはずだ)。しかし水の問題は、進行が急速であり、しかも後戻りが効かない。

砂漠化したら耕地には戻らない。河川が枯れたり、湖が縮小したりすると、もう水は帰ってこない。レスター・ブラウンによると、アメリカの穀倉地帯はオガララ滞水層という補給されることのない地下の「貯水池」からガンガン汲み上げている。小麦1kgを収穫するのに、1000リットルの水(1000倍の重さ)がいる。トウモロコシ1kgだと1900リットルになる。農業が一番水を使うのだ。穀物だけではない。牛が体重を1kg増やすのに、その10倍の穀物飼料が必要になる。穀物飼料の構成が、小麦とトウモロコシ半々だった(実際にはトウモロコシが多い)としても、牛1kgに15000倍の水が必要なのである。つまり(農業の一部でもある)牧畜業も水を使う。

そこで提案。工業地帯を沿岸部に作るのがこれまでの常識であった。つまり貿易のためには港に近いことが重要であった。しかし、農業を沿岸部で行うというのはどうだろう。海には限りない水がある(皮肉なことに、温暖化によって、海の水は増えているのだ)。ドバイを見て分かるとおり、淡水化技術も進んでいる。アメリカだったら中西部の穀倉地帯を、五大湖周辺や、大西洋・太平洋沿岸部に移すのは荒唐無稽な話だろうか。

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競争と繁栄

人類は、法が整備(とくに私有財産権)された下で、自由な競争ができるようになって急速に豊かになった(豊かになるスピードがそれまでの数千年とここ300年ではまったく異なる)というのが、保守主義者グリーンスパンの考えである。これは、基本的に正しい。しかしいくつか、「そうはいっても」という点がある。

ひとつは、資本が一定程度蓄積されるまでは、自由競争でないケースがあるのではないか。とくに、国内経済ではなく国際経済を考えると、ほとんどの国が保護貿易を経験している。イギリスでは19世紀半ばまで、穀物法によって穀物保護貿易を行っていた。アメリカも南北戦争の背景になったのは、保護貿易によって興隆し始めたばかりの自国産業を守りたい北部と、綿花の輸出を自由貿易によって促進したい南部との経済問題であった。アメリカが自由貿易を唱えて、工業化が始まったばかりの諸国の門戸をこじ開けようというのは、いささか自分勝手すぎる。資本蓄積のために、国家主導の経済運営も、歴史的過程としては認められるべきだと思う。

もうひとつは、競争したくない人への配慮。これを敗者として、繁栄の外に置くのは、はたして成熟した社会と言えるのだろうか。競争したくない人もそこそこに幸せに暮らせるような社会がいい。ブラジルみたいな。リスクを積極的にとって競争する人には、リスクに見合ったリターンがあるのは当然である。うまくバランスがとれないものか。そう、大切なのはバランスなのだ。どちらか、ではなく、どちらも、というのがあっていい。改革かバラマキか、ではなく、改革とスローライフの両方を追求する。格差はあっていい。スローライフの人は、格差を否定してはいけない。価値観の差が生活レベルの差になるだけなのだから。

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幸せな国

昨年の8月と年末の2回、ブラジルへ行った。

夏(ブラジルは冬)はサンパウロとブラジリアへ出張、年末はリオとイグアスの滝へ観光。アンケート調査によると、ブラジル人の7割が、ブラジルに住んで幸せと感じている。これはすごいことだ。1人当たりのGDPが5,800ドルくらい(日本はその6倍以上)で、失業率も10%(日本は3.8%)あるなかで、1.8億人の7割が幸せと感じられる国ってすばらしいと思う。

ブラジルにいると、自然の恵み(果物をはじめとする食べ物、冬でも暖かい気候)が、人間を幸せに感じさせるのかと思う。欲求のレベルが低いから、人々が満足に思っているのだろう、という批判もあるかもしれない。しかし、日本人もブラジルに来ると、幸せに感じ、ブラジルを好きになってしまうのだ。これって何なのだろう。日本には何がかけているのだろう。

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セカンドライフ

リンデンラボ社のセカンドライフ。自分の分身avatarを仮想世界で活動させるわけだが、そのavatarは、どういう存在なのか。分身というのだから、自分の身体の一部ではない。あくまでも「分かれた身体」であり、自分とは独立して存在している。自分はavatarを完全にコントロールしているのだろうか。違う人格を持たせた場合、自分の本来の意識とは違った行動になるのではないか。avatarに引きずられて、思わぬ行動を指示したりしないだろうか。

ネットという匿名の世界では、自分のある一面、現実の世界ではほとんど表面にでてこない性格を設定することができる。しかし自分で設定したつもりの性格が、ネットでの発言の中でしだいに「暴走」するようになり、書き込んでいる自分のほうが、引きずられていないか。そう考えると、ネットの中の発言という「ことば」が、その論理性によって人格をもつのではないか。つまり、ある書き込みに対し、コメントを受けると、その論理一貫性の中で次の書き込みをする、すると本来の自分(それは何だ!)ではコントロールが聞かないような発言内容になっていく。これは現実世界でもよくあることだ。とくにネイティブでないわれわれが英語でビジネスをすると、本当に自分の言いたいことからどんどんずれていってしまう。自分ではコントロールが聞かなくなった言動をする「ネットの中の自分」は、自分にとっての何なのだろうか。セカンドライフのavatarもそんな独立性を持つのではないか。

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「自分」をどうとらえるか

刻々と変化する存在。その存在のひとつである自分。自分をどうとらえるか。どうしたら、他でもない、確固たる自分を認識することが出来るのか。

宇宙の中の自分。自分と宇宙との境目はどこなのか。確定的な境界線を見出すことは出来ない。それは意識の面でも物理的にもそうだ。意識の面ではどうか。脳が「自分」と思う範囲が自分だとすると、自分の手や足は本当に自分か。あるいは、自分が作った仮想世界なら、他者と思っている対象も自分の一部ではないのか。今見ている世界が、自分の意識で創られた世界だととらえるしかなかったら。本当に自分とは別個の対象(objectの語源のように自分が投じたものではなく、自分の意識が登場する前から存在する客観的なモノ)は存在するのか。物理的には、不確定性原理から、境界はあいまいだ。正確には境界を継続的に認識することは出来ない。

宇宙が自分であり、自分の中に宇宙がある。でも、自分は他でもない自分なのだ。他の誰かとは違う。何故なのか。どこから自分なのか。自分とは何か、の前に、自分はどこにいるのか、の問いが先立たないか?

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ブルーノの過激さ

プロティノスから一気にスピノザまで行ってしまったが、ジョルダーノ・ブルーノを忘れてはいけない。「汎神論」の裏返しである「汎心論」を唱えたのがブルーノなのだから。ラブジョイの『存在の大いなる連鎖』で、僕が一番好きなのが第4講「充満の原理と宇宙論」である。そこにブルーノの過激な異端性が述べられてある。ガリレオの異端が取り消されても、ブルーノのそれは取り消されないのは、それだけキリスト教の本質に関わる「異端性」だからなのだ。

僕は、ローマのカンポ・デ・フィオリにある彼の銅像の前に立ち、400年前に思いをめぐらした。通りかかったデンマーク人に、お前は彼がどういう人物か知っているのか、と聞かれ、知っているどころか、大変尊敬する人物であり、彼の著作も読んでいる、と答えたら、大いに驚かれた。ブルーノについては、エリザベス朝のロンドンでスパイ活動を行っていたという説があり、それについて、膨大な文章で論証を試みている本がある(ジョン・ボッシー著『ジョルダーノ・ブルーノと大使館のミステリー』)。これはけっこう楽しめた。ブルーノがカトリックのためにスパイをするというのは首を傾げるが、ヨーロッパをまたにかけたスパイ活動という設定は魅力的だ。その話を、友人のシェイクスピア研究者に話したら、加藤周一の「小さな花」を勧められた。これは、僕にはあまり面白さが分からなかった。というより、よく分からない話だったというのが正しい。

話が脱線してしまったが、数学と哲学(スピノザやウィトゲンシュタイン)ではなく、物理学と哲学という意味で、ブルーノ(地球物理学と哲学)とホワイトヘッド(量子力学と哲学)には共通点がある。宇宙を(自然を)そのままとらえようとする、抽象化したとたんに正確な記述でなくなる、静止させたとたんに現在でなくなる、というのもブルーノに通じるかもしれない。

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充満の原理

アーサー・O・ラブジョイの主著『存在の大いなる連鎖』のメインテーマは「充満の原理」である。宇宙には存在が充満している。あらゆる可能性の存在が充満している。充満の原理は、新プラトン主義のプロティノス以来の思想であり、アウグスティヌスによってキリスト教に取り入れられてから、ヨーロッパの思想の底流を流れている。量子力学の成果を取り入れた哲学者ホワイトヘッドに至るまで。

神が全知全能であるならば、どうして善のみを存在させることができなかったのか。この世に悪が存在するのは、いったいどういう意味なのか。アウグスティヌスは、悪を「善の欠けたもの」と考え、善に対抗できるようなsuperpowerの悪を認めない。アウグスティヌスの説を正統とするならば、世界には、悪魔も地獄もない(私も悪魔や地獄は信じない)。

存在は、意味を超えて、存在する。旧約聖書でいう「有って有るもの」とは存在すべてに通じる。存在のすべてが神なのである。つまり、充満の原理は汎神論に他ならないのではないか。スピノザの神こそが、神なのである。

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2008年の抱負

2008年(戊子)が明けた。NYで迎える3度目のNew Year Dayである。NYは、元旦(といってもあと30分で1月2日になってしまうが)だけがお休みで、2日から会社も学校も始まる。

それでも、元旦は1年の始まり。今年は、日本の社会、環境(とくに水問題)、宗教(とくにケルト、そして二元論+四元素+五行)、哲学(ラブジョイとホワイトヘッド)について、少しずつ掘り下げ、書き残すことにしよう。そうでないと、一歩も進まない。掘り下げていくとつながってくるかもしれないし、ひとつのストーリィになるかもしれない。細かな草稿から、小説が生まれることを期待して。

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