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2008年9月

第五講 ヨーロッパの形成⑧

取りて読め

 しかし、彼のもうひとつの問題である愛欲は、ますます彼を苦しめます。アウグスティヌスの母は、十年以上連れ添った内縁の妻を彼から引き離し、きちんとした家柄の女性と正式に結婚させようとしました。アウグスティヌスの立身出世の妨げになってはならないと、内縁の妻は泣く泣く彼と別れました。しかし、母が決めた許婚者はまだ幼かったので、結婚まで二年待たねばなりませんでした。アウグスティヌスはその二年が待てずに、別の女性と関係を持ってしまいます。

 なんという業の深さ。アウグスティヌスは己の愛欲の恐ろしさをあらためて知り、神と共に歩むには、結婚をあきらめて聖職者になるしかないと思います。そう思いながらも踏み切れません。踏み切れないのは業が深いためです。彼は最後の一歩でもがき、涙します。

 「主よ、あなたはいつまで怒っているのか。わたしたちの犯した古い不義のことを思い出さないで下さい。(中略)もうどれほどでしょうか。もうどれほどでしょうか。あすでしょうか。そしてあすでしょうか。なぜいまでないのですか。なぜいまでないのですか。なぜいまがわたしの汚辱の終わりではないのですか」。

 「隣りの家から、男の子か女の子かは知らないが、子供の声が聞こえた。そして歌うように、『取って読め、取って読め』と何度も繰り返していた。(中略)それでわたしは溢れ出る涙を抑えて立ち上り、わたしが聖書を開いて最初に目にとまった章を読めという神の命令に他ならないと解釈した。わたしはそれを手に取ってみて、最初に目に触れた章をだまって読んだ。『宴楽と泥酔、好色と淫乱、争いと妬みを捨てても、主イエス・キリストを着るがよい。肉の欲望を充たすことに心を向けてはならない』。わたしはそれから先は読もうとせず、また読むにはおよばなかった。この節を読み終わると、たちまち平安の光ともいうべきものがわたしの心の中に満ち溢れて、疑惑の闇はすっかり消え失せたからである」。

 アウグスティヌスの『告白』のクライマックスといえるこのくだりは、読み手の涙をさそい、その涙で読み手の心を洗ってくれます。

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第五講 ヨーロッパの形成⑦

プロティノスとの出会い

 アウグスティヌスは十年間、マニ教の考え方から抜け出せずにいました。そのあいだ彼の母は、息子が神を冒涜する言葉をしばしば口にするのを聞き、涙を流しました。あるときアウグスティヌスが、いつか母も自分とおなじようにマニ教を信じるようになれば、自分がマニ教のなかにいることを嘆かないでしょう、といいました。彼の母は、すぐさまこれを否定します。母があなたのもとにいくのではなく、あなたが母のもとに来るのですと。母のゆるぎない信仰心と、息子への信頼が、アウグスティヌスをつねに神の道へと引き寄せていました。

 アウグスティヌスが二十九歳のとき、マニ教の教師がカルタゴを訪れました。その教師は雄弁家として名が通っており、多くの人々の尊敬を集めていました。アウグスティヌスは、このころ自然哲学を勉強し、マニ教が説明する宇宙構造では、天体の運動をうまく説明できないことが分かってきていました。宇宙や世界の説明が誤っているのなら、教義そのものもあやしくなります。ですから、その高名な教師の意見を聞いてみようと思ったのです。そして彼は、その教師の天文学に対する知識があまりに貧弱なのに失望しました。ようやく彼は、マニ教にとどまっていては真理を探究できないことを悟りました。心機一転、彼は喧噪たるカルタゴを嫌い、学究活動に専念できる地を求めてローマに移ります。

 ローマで弁術論の教師となりましたが、アウグスティヌスの期待に反して、ローマの青年たちも、カルタゴに劣らず乱れていました。彼は、ミラノで修辞学を教えようと思い、ローマ市長に推薦状を依頼します。当時のローマ市長は、あのシンマクスでした。シンマクスの推薦で、彼はミラノに修辞学教授として招かれます。このミラノで、司教アンブロシウスの教えに触れたことが、彼を急速にキリスト教に接近させました。異教かキリスト教かをめぐって論をたたかわせた二人が、アウグスティヌスの人生にも大きな役割を演じたのです。

 ところで、アウグスティヌスはマニ教を離れるには離れましたが、彼をマニ教に強く惹きつけることになった問題、すなわち、なぜこの世に悪が存在するのか、という問題には答えを見いだせずにいました。そんな彼がミラノで、プラトン派、とくにプロティノスの著作に出会います。プロティノスは、霊的な存在からなる英知界と、物質的存在からなる感性界に分けつつも、霊的存在が善で物質が悪といっているのではありません。たしかに彼は、物質である肉体の中にある魂が、英知界の最高位にある「一者」のもとへ帰るとき、真の救いが実現すると考えましたが、それは肉体が悪であることを意味しません。プロティノスによれば、あらゆる存在の根拠である「一者」からまず知性が流出し、知性から魂が生まれます。これらの霊的な存在は実体です。プロティノスは、マニ教のように、悪が善なる霊的存在の対極に実体として存在するとは考えません。プロティノスは、善悪二元論を否定します。「一者」という最高の善である実体からエネルギーが流出して、完全なものから不完全なものまで、あらゆる段階の存在が創造されます。プロティノスの世界観では、悪という実体があるのではなく、善のエネルギーが欠如したもの、あるいは最低段階の善が、悪と呼ばれるにすぎないのです。悪が実体でないのなら、悪しき行為の責任は、行為者である人間の側、正確にいえば、行為者の魂にあります。ここに、罪をかかえた魂をいかにして救うか、という課題がはっきり浮かび上がります。ここまで理解したとき、彼を悩ました、悪はなぜ存在するのかという問題は解けました。

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第五講 ヨーロッパの形成⑥

マニ教の罠

 当時のローマ帝国内で、キリスト教の教義を取り入れながら、キリスト教が合理的に説明できない部分を批判して信者を惹きつけていたのが、マニ教でした。マニ教は、キリスト教の神が基本的には人格神でありながら、非人格的な聖霊をも、神やキリストと同質の神格と教えている点を批判しました。もともと、父と子と聖霊を同質な神格とする三位一体説は、ユダヤ教的な唯一人格神にくらべて分かりにくく、一般の人にマニ教の批判がもっともらしく聞こえたのもむりはありません。さらに、旧約聖書のなかで、アブラハムが複数の妻を持ったり、他人の妻を好きになったダビデ王がその夫を前線に送って死なせりしたことも、マニ教の批判対象になりました。ダビデとその女の間に生まれたソロモンは、神に祝福さえされているのです。そんな宗教が正しい教えであるわけがないではないか、とマニ教は指摘します。アブラハムが紀元前二千年の遊牧民であったということや、ダビデの第一子は神の怒りに触れて死んでいることを無視して、マニ教は人々の単純な道徳観に訴えたのです。

 すでにローマ帝国は、マニ教を禁じていたため、その信者たちは世俗権力と結びつくことなく、禁欲的な生活を送っていました。それにくらべてキリスト教は、コンスタンティヌス大帝によって公認された後、帝国の官僚機構や商人たちと結びついていました。むしろ教会の信者管理は、そのまま国家の臣民監視とかさなっていたともいえます。そのことが、権力への迎合を嫌い、反体制すなわち清廉公正と感じる若者をマニ教に走らせたのです。愛と肉欲に悩み、正しき道を求めていた若きアウグスティヌスも例外ではありませんでした。

 アウグスティヌスにとってマニ教がもっとも魅力的だったのは、「神が全治全能なら、なぜこの世に悪が存在するのか」という問いに、いちばん明解に答えてくれた宗教だからでした。マニ教の二元論は、善も悪も実体であり、悪の力が強く及ぶところでは正しきことが通らない、と説きます。人が悪しき行いをするのは、悪という実体が、その人の心に力を及ぼすからです。すると、悪しき行為の責任は、その人にあるのではなく、悪という実体にあることになります。善なる神から造られた人は、こうして罪に対する責任を免れられ、善なる神が造った善なる存在のままでいることができます。人間は善なる存在なのだけれど、たまたま悪という外部の超越した存在から操られたのであり、人間の力ではとても抵抗できなかった、ということができます。

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第五講 ヨーロッパの形成⑤

悩めるアウグスティヌス

 アウグスティヌスは三五四年、現在のアルジェリア東部のタガステという町で生まれています。父親は異教徒でしたが、母親はキリスト教を信仰していました。少年時代、彼が重い病にかかったとき、彼の母は、回復の祈願をこめて彼に洗礼を施そうとしましたことがあります。しかし意外にも回復が早かったので、洗礼は先に延ばされました。そのために彼は、キリスト教に帰依するまで長い長い回り道をすることになりました。もし彼の病がなかなか直らず、少年時代に洗礼してしまっていたら、古代における最大の護教家(キリスト教を守った人)と称えられる人物にはなり得なかったでしょう。長い迂回があったからこそ、キリスト教に対するあらゆる誹謗、正統派教理に対するあらゆる異見に反駁するだけの、強い信仰と論理性をかちえたのです。

 アウグスティヌスは、十六歳のとき、ある女性を愛し、彼女と肉体関係を持ちます。もちろん人間の愛は、動物の愛とはことなり、本能だけで突き動かされるのではありません。相手を賛美し、自己犠牲も厭わない精神的な面があります。しかし、愛情が強まるにつれて、自然と肉体を求めることも事実です。真に愛情を持っていた場合でも、まったく肉体を求めずにつきあい続けるのはむずかしいでしょう。

 アウグスティヌスは、若くしてこの愛欲のはざまに入り、長く苦しむことになります。人を愛し、肉体関係を持つのは、当時のモラルからいってもとりわけ罪なことではありませんでした。しかし彼は、愛欲を人間の業(ごう)と考え、肉欲を克服して神への賛美に昇華させようとしたのです。ここに彼の苦悩がありました。

 アウグスティヌスは十七歳で、故郷に近い学術都市カルタゴに留学します。そのカルタゴでも、彼はだれかを好きになってしまう自分を押さえきれません。恋に恋するといいますが、彼も、人を愛するという感情にあこがれたのです。愛する気持ちは最初は精神的なものでも、それが対象に注ぎ続けられると、肉を求める欲望となします。ついには、ひとりの女性と同棲するようになりました。彼は、十八歳ですでに男子の父となりました。

 カルタゴでは、修辞学を勉強しました。かれがのちにミラノに呼ばれたのも、修辞学の教授としてでした。十九歳のとき、修辞学のテキストに使われていた、ストア派の哲人キケロの著作を読み、哲学にめざめます。しかし哲学によって、真理への探求心と合理的なものの考え方を身につけたことで、彼は深いドロ沼に入り込みます。

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第五講 ヨーロッパの形成④

シンマクスとアンブロシウス

 コンスタンティヌス大帝の死後、帝国はふたたび複数の皇帝によって分割統治されました。それから半世紀近く経った三八四年、元老院議員で名門貴族であったシンマクスは、当時の皇帝テオドシウスに、前の皇帝によってローマの元老院から撤去された「勝利の女神像」を元に戻すよう嘆願します。この撤去には、ローマの伝統的な宗教への補助金をとりやめる命令もともなっており、キリスト教以外の諸宗教(異教)にとっては死活問題だったのです。「そもそもローマが伝統的な神を信じていたときは、ローマは連戦連勝、拡大につぐ拡大を遂げてきたではないか。それが、罪人として処刑された男を神と崇める宗教を、皇帝が保護し、信じるようになってから、ローマが外敵に脅かされるようになったのである。ここで、父祖伝来の神々を排斥するようなことをすれば、神々の怒りはきっとローマに下されるであろう」というのがシンマクスの弁でした。

 雄弁家であったシンマクスの言葉は人々の心を捉え、ローマではむしろキリスト教に対する風当たりが悪くなる気配さえ出てきました。これを察知したミラノの司教アンブロシウスは、公開意見状を出します。彼は、多神教であり偶像を崇拝するローマの伝統宗教は野蛮なものであると批判し、帝国の臣民は皇帝に忠誠を尽くし、皇帝は全能の神に忠誠を尽くすべきことを訴えました。皇帝も、アンブロシウスに従って、伝統宗教の補助を廃止しました。

 テオドシウス帝はアタナシウス派のキリスト教をローマ帝国の国教にして、他の宗教宗派を禁じました。ローマ帝国は彼によって再統一されますが、テオドシウス帝が三九五年に亡くなると、二人の息子によって東西に分割統治され、以後二度と統一されることはありませんでした。

 四一〇年、ゲルマン民族の一派であった西ゴート族は、イタリアに向かいローマを陥落させると、三日間にわたって略奪を行いました。首都ローマが侵略されたのは、過去八百年間なかったことです。ローマ陥落をキリスト教のせいだと恨む声は、シンマクスのとき以上に高まりました。このキリスト教の窮地を救ったのが、奇しくもアンブロシウスから洗礼を受けた、聖アウグスティヌスでした。

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第五講 ヨーロッパの形成③

父と子と聖霊と

 神とキリストが同質である、というアタナシウスの説が正統と認められたことは先に述べました。では、キリストは神と同質である性質をもったまま、どうやって「人間イエス」として現れたのでしょうか。また、なぜ神は、直接人間を救おうとしないで、そんなややこしい形で救おうとしたのでしょうか。この問題にも、アタナシウスが教説を立てました。

 ユダヤ教やキリスト教の神は、時と場所を超えた存在です。宇宙は神が創造したものですから、宇宙が存在する前から神はあり、宇宙が滅びた後も神は存在し続けるのです。神は宇宙のどこへも現れることができ、しかも同時にあらゆる場所に現れることができます。アタナシウスによれば、キリストも神性を保持していますから、同じように時と場所を超えた存在です。

しかし、キリスト教では神とキリストの「超存在性」に、歴史的な物語を付与しようとします。これは、キリスト教の親ともいえるユダヤ教が、神とユダヤ民族との歴史そのものを教典にしていることの影響を受けているのでしょう。神は時と場所を超えていますから、霊的存在です。その神が、人間を苦しみから救うため、人間という滅ぶべき肉体をもった存在として、この世に現れました(キリスト教ではこれを「受肉」といいます)。それが、神の子キリスト=イエスなのです。キリストは、神の教えを人間に教え、人間の罪をすべて背負って十字架にかけられた後、復活して弟子たちに布教を促してから、ふたたび霊的存在にもどりました。しかし、キリストの昇天の後も、神の救いの力が地上にいつまでも残るように、聖霊が教会にとどまりました。したがって、神とキリストと聖霊とは、時と場所を超えた神性を持っている、という意味で同質です。同質ではありますが、歴史的に別々の役割を持っていますから、まったくひとつの存在でもないのです。

 アタナシウスは、神が受肉したのは人間への愛にほかならない、といいます。天のいと高きところにいる全知全能の神であれば、わざわざ受肉して、十字架で苦しむことはなかったはずです。それをあえてするのが、神の人間への深い愛なのだ、と彼は解釈しました。これは、三世紀に活躍したオリゲネスの影響を受けています。神は人間の苦しみを長い間見ておられて、神自身も深く苦しまれました。苦しむあまりに、神性のひとつであるキリストが自然に人間の肉体を持ち、イエスの降誕になったのです。全知全能で苦しまないはずの神が苦しむところに、人間への愛の深さがあります。「苦しむ神」というオリゲネスの説は、そのエッセンスが正統派の教説に取り入れられました。

 アタナシウスは、コンスタンティヌス大帝とその後継者によって、しばしば追放されました。しかし、逃亡先がガリア(現在のフランス)やイタリアであったことが、アタナシウス派の教説が西方教会に根付く要因にもなりました。アタナシウス派とアリウス派の争いは、結局前者が勝利を収め、アリウス派は、ローマ帝国を出てゲルマン諸部族に伝わっていきます。

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第五講 ヨーロッパの形成②

公認の代償

 コンスタンティヌス大帝が帝国を再統一したとき、キリスト教会は、神とキリストの関係をめぐって論争が行われていました。

 いうまでもなくキリスト教は、ユダヤ教の流れをくむ一神教です。キリスト教の神は、ユダヤ教の神と同じです。キリスト教がやっかいなのは、さらに人間として生まれたイエスを救い主キリストと考えるところにあります。つまり、いったんは人間であったイエスが、実は神から遣わされた救い主だというのです。では、神と救い主キリストとはどういう関係なのでしょうか、もし異なる存在であるとすれば一神教の原則に反しないのでしょうか。

この問題はすでに二世紀から議論の対象になっていましたが、四世紀のはじめにアレクサンドリア(エジプトの学術都市)の司祭アリウスが、「神とキリストとは異質であり、キリストは神に従属するものである」というキリスト論を説き始め、エジプトを中心に支持を集めつつありました。アリウスは、次のように考えます。「神は絶対存在であるから分割されない、だからキリストは神から放射あるいは流出したものである」と。神の子キリストという表現そのものが、キリストが神の被造物であることを表しているのです。いずれにせよ、キリストは神に従属する存在であり、神聖ではありますが神性は持ちえません。一方これに対し、アレクサンドリアの司教アレクサンドロスは、キリストも神性を持つこと、その神性は神とまったく同質であることを主張したうえで、アリウスを破門しましたた。

 コンスタンティヌス大帝は、帝国が統一された以上、教会の教理もひとつでなければならない、教会はむしろ、一体となって帝国の社会的な安定に貢献するべきだと考えていました。また、皇帝は地上のすべての事柄について、神からその統治を任されている代理人であると解釈していましたので、教会の論争についても、神の代理人である皇帝が介入するのは当然だと考えました。そこで三二五年に、三百人以上の司教を召集して、小アジアのニカエアというところで皇帝主催の宗教会議を開きました(ニカエア公会議)。この会議は二ヵ月間におよびましたが、会議の費用はすべて帝国の国庫からまかなわれています。このとき、アレクサンドロスの秘書であった若き論客アタナシウスの努力もあって、神とキリスト、すなわち父と子は同質であることが確認され、アリウス派は異端を宣告されました。しかも会議の採択文は、帝国の法律にまでなりました。

 しかし、宗教会議が国家の費用でまかなわれ、決議がそのまま国の法律になることは、きわめて危険なことです。うらをかえせば、教説について、費用を出し法制化した皇帝がいつでも口を出せることになります。事実そうなりました。コンスタンティヌス大帝は、二年後ふたたび宗教会議を開催し、今度はアリウス派の教説を採択しました。さらに三三五年には、アレクサンドリア司教になっていたアタナシウスを破門し、教会から追放しました。大帝は、新都の中央教会堂でアリウスにミサを執り行わせようとしましたが、その前夜に正統派(アタナシウス派)がアリウスを暗殺したので、かろうじて「異端」の手による儀式は避けられました。しかし、その後も皇帝の宗教問題への介入は続き、そのたびに多くの血が流されたのです。

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第五講 ヨーロッパの形成①

遷都の大業

 ビザンティウム沖の海戦で対立皇帝を破り、単独支配者となったコンスタンティヌス帝は、そのビザンティウムに新都を建設することを決意します。コンスタンティヌス帝時代の前から、皇帝がローマに居を定めるのはまれでした。ローマはあいかわらず帝都でしたが、さかんに辺境を脅かすゲルマン民族やペルシアににらみをきかす関係上、ライン川、ドナウ川、黒海に沿った都市に駐在した方が、都合がよかったからです。

 しかしコンスタンティヌス帝は、帝都そのものを遷したのです。彼の意図は、帝国の防衛だけではありません。みずからキリスト教を公認し、母親もキリスト教に帰依した彼にとって、帝都はキリスト教の都である必要がありました。千年の歴史をもつローマは、それだけ古い伝統もこびりついています。四百もの神々を祀るローマを、一神教であるキリスト教の都に変えるのは不可能に思われました。ビザンティウムは、コンスタンティヌスの街を意味するコンスタンティノポリス(またはコンスタンティノープル、現在のイスタンブール)と名を改められ、さっそく市街地の拡張、教会の建設が着手されました。現在はイスラム寺院に造り変えられた聖ソフィア教会も、コンスタンティヌス帝が着工したものです。もっとも彼は、ローマにおいても、ペテロの墓と伝えられた場所に、礼拝のための教会堂の建立を指示しました。現在のサン・ピエトロ(聖ペテロ)大寺院です。

 三三〇年、まだ建設途上の新都に、元老院などおもだった政治機関が遷され、コンスタンティノポリスは正式に第二のローマになりました。一四五三年にイスラム教国であるオスマン・トルコに滅ぼされるまで、ローマ帝国、そして東ローマ(ビザンチン)帝国の首都として生き続けることになります。コンスタンティヌス帝は、キリスト教の公認とコンスタンティノポリスへの遷都によって、歴代皇帝のなかでは特別に「大帝」と称せられています。

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第四講 百家争鳴⑩

国家宗教へ

 五賢帝の最後を飾ったマルクス・アウレリウス帝は、前代までの黙認政策から、積極的なキリスト教徒の迫害に転じました。彼は、密告による逮捕を奨励し、捕まったキリスト教徒が棄教しなければ、拷問・処刑をいといませんでした。哲人皇帝がキリスト教徒を弾圧したのは、一神教のキリスト教がローマの古き伝統に合わなかったためです。とくに、殉教を喜び、殉教者を英雄視するキリスト教徒の態度は、心を平穏にして宇宙の秩序を受け入れるという彼の哲学に反していました。

 その後のローマ帝国の混乱期は、むしろキリスト教会にとって平和な時期でした。例外的に迫害を受けた時期を除く百年余の間、教会は順調に発展することができました。ローマ帝国の行政区に合わせてキリスト教会の管区が定められ、それぞれの管区では中心都市の司教を頂点に、小都市から農村部まで、教会の組織がはりめぐらされました。都市部では、聖職者たちは帝国の役人とつながりをもち、社会的な地位が向上しました。なかには商人と付き合うだけでなく、みずからも商業に手を出したり、奴隷を保有したりする司祭も現れます。

 キリスト教会は発展しましたが、ローマ帝国は荒廃しました。都市の財力は軍隊によって収奪され、農村は重税に耐えきれませんでした。明日の運命すら分からず、生活に苦しみ、虐げられた人々にとって、キリスト教の信仰が唯一の救いに思えましたた。キリスト教会が発展したのは、教会自身が迫害を免れていただけでなく、土地を追われ、経済的な基盤を失い、精神的にも頼れるものがなくなった人々があふれていたからです。もはや帝国は崩壊寸前でした。

 二八四年に即位したディオクレティアヌス帝は、広大な帝国をひとりで治めることをあきらめ、帝国を四分割して、それぞれ東西の正副帝が統治することに決めます。みずからは東の正帝となったディオクレティアヌス帝は、皇帝は「ローマ市民の第一人者」とする伝統を棄て、専制君主となりました。ディオクレティアヌス帝分割統治は、彼という重心があってこそ機能したのです。帝の死後、求心力はなくなり、分割統治はそのまま四帝割拠になりました。そのなかで抜け出したのが、コンスタンティヌスです。彼は父の軍隊を受け継ぎ、西の副帝となりますが、やがて、みずから正帝を名乗りました。そのままイタリアへ進軍し、ティベレ川をはさんでライバルと対決します。このとき、真昼の空にキリストの頭文字と「汝これにて勝て」という文字を見たと伝えられます。そこでコンスタンティヌスが、キリストの頭文字と十字架を、自軍の旗や盾に記したところ、戦いはコンスタンティヌス軍の圧勝に終わりました。もともと太陽一神教を信じ、父もキリスト教に寛大であった彼は、国家が認める合法的な宗教として、キリスト教を公認しました。それが、三一三年のミラノ勅令です。

 しかしローマ帝国の東半分は、伝統的なローマの宗教を奉じ、キリスト教徒を弾圧する別の皇帝が支配していました。三二四年、コンスタンティヌス帝は、東の皇帝と統一をかけて対決します。これに勝利をおさめた彼は、ローマ帝国の単独支配者になりました。そしてそれは、キリスト教が帝国全土で公認された時でもありました。

 ここから先は、ヨーロッパという世界が形成されるなかでお話していきましょう。

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第四講 百家争鳴⑨

ユダヤ教からの脱皮

 そろそろ、キリスト教がどうなったかについて話さなければなりません。ここで一度時代を二百年ほど戻ってみましょう。

 イエスの弟ヤコブや弟子たちによって作られた原始キリスト教団は、はやくから内部に二つのグループを持っていました。ひとつは、ヤコブや一番弟子であったペテロを中心とするグループです。彼らは、ユダヤ教の律法を守りながら、したがって基本的にはユダヤ人に対して、イエスの新しい教えを広めていこうとしていました。もうひとつは、ユダヤ教の律法を重視せず、積極的にユダヤ人の外(異邦人)へ教えを広めていこうとするグループです。イエスの直接の弟子ではありませんでしたが、強烈な体験によってイエスを受け入れたパウロは、その代表格でしょう。

 教団ができて三十年ほどは、ヤコブたちのユダヤ人キリスト教会が主流であり、異邦人キリスト教会は従属的な地位にありました。なんといっても、ヤコブやペテロたちはイエスの生前に接し、直接言葉を聞いているのです。しかし主流派にとっても、異邦人キリスト教会と袂を分かつのは避けたいことでした。すでに異邦人伝道は成功し、東地中海沿岸には、いくつも教会が生まれていたからです。また異邦人キリスト教会も、いくらパウロが卓抜した宗教家とはいえ、伝道の正当性を保つには、主流派と協力関係を維持する必要がありました。そこで、ユダヤ人キリスト教会はユダヤ人への布教を行い、異邦人キリスト教会はユダヤ教の律法を信者に強制しない、という妥協が成立しました。おたがいの方針に口出しをしない、という取り決めです。

 ところが、両者の関係をくつがえす事件が起きます。六六年に勃発したユダヤの反乱です。ローマの伝統的な神々への崇拝と、皇帝への忠誠とを結びつけようとするローマ帝国にとって、排他的な一神教を信仰するユダヤ人は、まことにやっかいな存在でした。初代ローマ皇帝アウグストゥスの頃は、ヘロデの自治を許していましたが、彼の死後は、ローマから総督を派遣して直接支配する方式に切り替えました。しかしその支配は、ユダヤの側から見ると過酷そのものだったのです。歴代の総督は、エルサレムの神殿に皇帝の像を立てさせたり、神殿から財宝を略奪したりしました。しかも抵抗する者には、徹底した弾圧をもって報いました。こうしたローマ帝国の支配は、政治的宗教的な反感をユダヤ人に植え付けるだけの効果しかありませんでした。また、時を同じくして、半世紀以上前にヘロデが着手した神殿の大改築とエルサレム市街の大改造という事業が完成し、大量の労働者がそのまま失業者になりました。都市の失業と農村の重税という経済的な不満は、積年の政治的宗教的反感と結びつき、いっきょにローマに対する反乱となったのです。

 反乱の初期には、ローマ軍の作戦ミスもあって、ユダヤ人はパレスティナの諸都市を占拠することに成功しましたが、七〇年にはエルサレムが陥落しました。死海近くのマサダの砦に立てこもった人々も、七三年に玉砕した。このエルサレム陥落のときに、ユダヤ人キリスト教会の異邦人キリスト教会に対する優位性は、完全に失われました。すでにヤコブはユダヤ教徒によって処刑され、ペテロはローマで殉教した後だったので、カリスマ的存在を失っていたことも、要因のひとつです。

 異邦人キリスト教会は、シリアのアンティオキア(現在はトルコ領南東端)、エジプトのアレクサンドリア、そして帝都ローマを中心に信者を広げていました。もちろん彼らも、平穏であったわけではありません。六〇年代後半や九〇年代前半には、常軌を逸した皇帝たちによる迫害がありました。しかしこの間も、イエスの行いやことばを記した福音書、ペテロやパウロの活動を記した使徒行伝、パウロの手紙などの使徒書簡が書かれています。五賢帝時代に入ると、キリスト教は非合法ではあるが、黙認されるようになしました。二世紀中葉までには、現在の新約聖書に収められている二十七編がすべて出揃ったと言われます。実際には、グノーシス派やユダヤ人キリスト教会の手によって、ほかにも多くの福音書や書簡が編まれましたので、二十七編のみを「正典」としたのは、四世紀になってからのことです。

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第四講 百家争鳴⑧

二元論の魔力

 肉体は汚れたものであり、魂はこの世界ではなく、神の世界に属するものであるという考えは、古今東西、広く見られます。肉体は、死ねば朽ち果てます。また、食欲や性欲など、衝動的な欲望を生みます。これに対し魂は、人が死んだ後も、不滅と思われました。魂は、神の世界を想像したり、善悪を判断します。ところで、魂は神の世界から降りて(あるいは落ちて)来たものだとしても、肉体はどうやって生まれたのでしょうか。肉体も神が造ったものなら、どうして汚れているのでしょうか、どうして魂と同じように不滅ではないのでしょうか。

 プロティノスは、「一者」からの距離が大きければ大きいほど、善のエネルギーが失われ、レベルの低い存在になっていく、という存在の段階論で説明しました。魂も肉体も「一者」から流出したものなのですが、後者は存在の連鎖における最低段階にあると考えました。つまりプロティノスは、魂と肉体を一つのものから生まれた「一元論」を採ったのです。しかしその一方、魂と肉体はまったく別のものを根源にしているという、二元論も成り立ちます。

 プロティノスと同時代のペルシアで、マニという思想家が現れました。マニは、ペルシアの国境にもなったゾロアスター教に、キリスト教やグノーシス思想を加えて、新しい宗派を立てます。マニ教は、光と闇、善と悪、誠心と物質をそれぞれ対立させ、徹底した二元論を採りました。

 絶対存在が完全な善であり、全知全能であるなら、どうしてこの世に悪があるのでしょうか。物質界も絶対存在が造ったのなら、どうして不滅ではないのでしょうか。マニは、この問いに明快な答えを出します。完全な善と同様に、完全な悪も存在するのです。この両者が争っているのが、この世の常態だと考えました。完全な善と完全な悪とが争うから、この世に善きものも悪しきものも存在し、合理性も非合理性も起こりうるのだ、とマニは唱えます。つまり義(ただし)き人が苦しめられ、悪しき人が栄えるときは、完全な悪が優勢なのです。完全な善が優勢なときのみ、合理的な世界になる、というのがマニ教の世界観でした。

 マニ教の二元論は、森羅万象の説明としては分かりやすいために、ローマ世界へも広く伝播しました。ローマ皇帝はのちにこれを禁じなければならないほどでした。しかしマニ教的二元論は地下に潜行し、十一世紀になって異端として再びヨーロッパに現れることになるのです。

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第四講 百家争鳴⑦

反宇宙の思想

 プロティノスが活躍した三世紀には、宇宙の創造について特異な解釈をする思想が、知識人のあいだに広まっていました。グノーシス派と呼ばれるこの思想は、宇宙を創造した「神」の前に、真の神がいたと考えます。真の神は、あらゆる存在が始まる前から存在し、英知や真理などを生み出しながら、充実界を形成しました。充実界は、プロティノスの哲学の英知界に当たります。ところが、その充実界の最下位者であった「知恵」は、充実界から脱落し、「創造者」を生むのです。「創造者」は、真の神の存在を知らず、自分が崇拝されるために、星辰界と地上界を創造します。しかし、世界の創造を後悔した「創造者」は、自分が創った世界を消滅させようと企てている、というのがグノーシス派の描く世界です。

 当時の多くの思想や宗教は、宇宙の構造を、至高の存在がいる英知界、太陽や星々といった永遠不滅の存在が満ちている星辰界、物質と感性が支配する地上界から成り立っていると考えました。魂は英知界あるいは星辰界から生まれ、地上界に降りて、肉体に閉じこめられました。だから、魂にとって、地上界は異邦であり、本来のすみかである星辰界もしくは英知界へと帰ろうとします。しかしグノーシス派が特異であったのは、星辰界も滅ぶべき世界と考え、宇宙の創造者を悪者と解釈するのです。したがってグノーシス派によれば、魂は地上界にあって肉体に閉じこめられているだけでなく、星辰界にいる「神」からもだまされ無知の状態に貶められているのでした。

 グノーシス派は、独自の宗教を創設するのではなく、さまざまな民族の神話や宗教の聖典を、彼らの宇宙観によって解釈し直す、というスタイルをとりました。とくにグノーシス派が好んで取り上げたのが、キリスト教の旧約聖書でもある、ユダヤ教の聖典、とりわけ創世記の天地創造から楽園追放まででした。例えば聖書では、イブが蛇にそそのかされて禁断の果実を食べ、創造主はこの罪をもって人間を楽園から追放したことになっていますが、グノーシス派の解釈はまったく逆です。すなわち、蛇こそが人間に知恵を授けた善き存在であり、「創造者」は自分の秩序に魂を封じ込めておこうとする、抑圧者にほかならないのです。

 グノーシス派は、イエスと同時代に起こりました。ローマは地中海世界を統一すると、支配下においた属州に、ローマの神々と皇帝の崇拝を求めました。とりわけ、エジプトやパレスティナ、シリアは高度に発達した文化や独自性の強い宗教を持ち、ローマの支配は、こうした地方の知識人にとって、政治的だけでなく文化的な屈辱に感じられたのです。みずからの文化の守り手であるべき知識人は、世界帝国ローマ=宇宙、ローマ皇帝=「創造神」、ローマによる支配=天体の秩序と法則、という図式を想定し、これを徹底して批判しました。政治的軍事的にはかなうべくもないローマに対して、こうするよりほかに抑圧感や閉塞感から解放される道はなかったのでしょう。

 グノーシス派の救済論は、星辰界の「創造者」からだまされてその秩序に服従している魂が、グノーシス(認識)によって、本来の父である真の神を思い出し、英知界の父と合一することをめざすものでした。すべての魂が英知界に帰るとき、「創造者」も回心して英知界へ入り、「創造者」が造った宇宙は炎の中に滅びます。そうしてすべては始元の状態にもどり、善なる真の神が支配する、平和で美しい世界になるのです。

 もちろん、ローマ帝国の為政者にとって、グノーシス派は危険きわまりない思想でした。また、ローマ帝国の公認哲学であるギリシア哲学の担い手にとっても、許しがたい宇宙観でした。ギリシア哲学では、星辰界は神々や英雄たちの住む場所とされ、天体の運行法則は地上における秩序の模範と考えられましたから、これを真っ向から否定するグノーシス派とは、戦わねばなりません。ギリシア哲学の集大成を成し遂げたプロティノスは、自分の思想との相違点をはっきりさせるため、『世界創造者は悪者であり、世界は悪であると主張する人々に対して』という論文を書いています。

 グノーシス派は、ローマ帝国に迫害されているキリスト教とも対立します。帝国内に広がっていく各地のキリスト教会で、このころ、イエスのことばや使徒の伝道記録をもとに、福音書や書簡、黙示録が編まれていました。一部のグノーシス派は、これらキリスト教の文献を、彼らの解釈原理でとらえ直し、新たな文献をつぎつぎに増殖させていきました。彼らは、正統派のキリスト教文献は否定しませんでしたし、グノーシス思想による解釈とはいえ、魂の救済過程にキリストも位置づけていました。そのため、キリスト教グノーシス派と呼ばれます。正統派キリスト教の立場からすれば、グノーシス派が創り出していく福音書や黙示録は、異端の文献にほかなりません。グノーシス派が、知識人のあいだに広まった思想であり、宗教文献を生み出していく力があっただけに、正統派キリスト教にとっては、もっとも警戒すべき存在でした。ですから、グノーシス派が隆盛を誇った二世紀から三世紀に、キリスト教会が、数多くの文献からキリスト教の「正典」を限定していく(それが新約聖書として編纂されます)作業が行われたのは偶然ではありません。

 グノーシス派は、多くの分派を作りながらも、大衆化に成功しなかったため、四世紀には勢いを失ってしまいました。

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第四講 百家争鳴⑥

存在の大いなる連鎖

 では、その「一者」はどういうふうに形容されるものなのでしょうか。残念ながら、その大きさも、その美しさも、その善意に満ちた度合いも、表現することはできません。人間が持っている言葉は、現実にあるもの、およびそれから論理的に思考されるものしか表現できません。なんらかの言葉を用いるとすれば、否定的な表現を積み重ねるしかないのです。したがって、以下のように表現することになります。「一者」は魂ではない、知性でもない。運動していないし、静止してもいない。運動も静止も、外部から力が加わって生じた状態だからです。すべての原因である「一者」は、外から制御されることはない。そもそも、ここにある、あそこにあるといった、存在ですらない。また「一者」は意志を持たない。意志は、それを持つものに働きかけ、自由を制限してしまうからです。「一者」は意志からも自由なのです。

 存在ではなく、意志も持たない「一者」から、どのようにして知性が生み出されるのでしょうか。「一者」は、あらゆる存在の究極の原因であり、その原因は一体でありながら満ち満ちています。満ち満ちた「一者」から、自然にあふれ出てきたものが、知性なのです。生み出そうと思って生むのではありません。自然な流出なのです。それによって、「一者」から何かが減ってしまうということもありません。ちょうど、エネルギーに満ち満ちた太陽から、自然に光と熱が発散し、だからといって太陽のエネルギーは衰えないのと同じです。

 生まれ出た知性は、また、魂の父といえます。知性は生じたとき、いっきょに英知界に存在するものすべてを生みます。「美しいイデア界の全体と、知性的な神々の全部を生むのである」。そのとき魂も生み出されますが、魂はその後、英知界から物質的な感性界へと流出していきます。魂は、より完成度の低い世界へと、下降していくのです。プロティノスは、このことを、魂の「むこうみずさ」と表現します。

 宇宙はこのように、「一者」から存在が次々に流出して、次第に低次の存在を生み出していくのです。宇宙には、完成度がもっとも高いものから一体性の度合いがもっとも低い存在、最高次のものから最低次の存在が充満しています。「一者」や知性は善意に満ちていますから、あらゆる存在を許したはずです。あるものの存在を許し、別のものの存在を許さない、という取捨選択はしなかったはずです。もし選択したとすれば、「一者」や知性は自由でなかったことになります。ですから、あらゆる存在が充満しているのです。宇宙にあらゆる階層の存在が充満していることを「存在の大いなる連鎖」といいます。

 魂は、物質に生命を与え物質の内にとどまると同時に、一部は英知界にもとどまっています。魂が、イデア界(英知界)の記憶を持っていることは、ソクラテスもいっています。われわれが、イデアについて語り真理を追求することができるのは、われわれの魂が、ふだんは忘れているが、英知界の記憶を持っているからなのです。そこに魂の救済の契機があります。魂は、一部をとどめている英知界にあこがれ、それゆえに、知性と一体化できる可能性があります。そして魂と一体化した知性が「一者」を観て、「一者」へ回帰するのです。

 宇宙の創造は、流出あるいは下降でした。それは自然の流れです。高いところから低いところへ流れ、有からしだいにエネルギーが失われていって無になっていくのは、自然の流れです。しかし、魂はこの自然の流れに対して、反転を決意することができます。回帰は、流出という自然の流れに逆らうわけですから、魂は大変な努力を要求されます。しかし、苦労して知性を直観し、やがて「一者」と合一したときの喜びは、たとえそれが一瞬のことだとしても、なにものにも代え難いにちがいありません。まさに法悦の境地です。プロティノスの救済論は、東洋的な神秘主義に近いものでした。

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