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2008年10月

第五講 ヨーロッパの形成⑬

新しい皇帝

 ローマ教会は、ドイツからフランスにかけて勢力を広げていたフランク王国に頼ろうとします。しかしフランクは、中部フランスまで侵攻してきたイスラム教徒軍を迎え撃つのに、イタリアを支配していた王国と同盟した義理があったので、支援要請を断ります。そのあいだもフランク領内では、イングランド出身の修道士たちが精力的に伝道し、ローマ教会に従う教会を着実に増やしていきました。大教皇グレゴリウス一世の布石が効いてきたのです。

 七四一年は、東ローマ皇帝レオ三世、フランク王国宮宰(総理大臣)カール・マルテル、ローマ教皇グレオリウス三世が相次いで他界するという、歴史の節目になりました。

 カール・マルテルの後は息子のピピンがカロリング家を継ぎますが、彼にはカロリング家代々の悲願がありました。すでに百年まえから、カロリング家がフランク王国の宮宰を代々務めており、その権勢は王家を凌駕していたのですが、王位を簒奪することができずにいました。それほど、王の血統は神聖なものでした。そんなピピンに、新教皇は助け舟を出します。血の神聖さを上回る、神の神聖さを提供するのです。七五一年、ピピンが有名無実となっていたフランク王を廃し、カロリング王朝を立てたとき、ローマ教皇はピピンに、神が祝福したもう王であることを示す儀式を施しました。また、フランク領内のほとんど教会がローマ教会に従うようになっていたからこそ、ローマ教会による儀式が効力をもったのです。その五年後、ピピンはイタリアの王国を攻め、切り取った中部イタリアの土地を教皇に寄進しました。

 ローマ教皇にもようやく支援者ができましたが、これで十分ではありません。東ローマ皇帝と対等の後ろ盾でなくてはならないのです。ローマ教皇レオ三世(先の東ローマ皇帝とは別の人物)は、ピピンの後継者カール(フランス名シャルル)を、紀元八〇〇年の記念すべきクリスマスにローマに招きます。教皇の前にひざまづくカールの頭上に、「ローマ皇帝」の冠がのせられました。カールの戴冠は、カールにも知らされていない筋書きでした。フランス、ドイツ、北イタリアを支配下におくカールは、西ローマ皇帝の称号を受けるにふさわしく、またその称号にはローマ教会の庇護者としての期待もこめられていました。そのため彼はカール大帝(シャルル・マーニュ)と呼ばれます。

 次回は、ヨーロッパ中世における思想・哲学について語りましょう。

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第五講 ヨーロッパの形成⑫

東からの挑戦状

 時代は下って八世紀、東ローマ帝国からローマ教会への干渉は、まだ続いていました。このときにいたっても、ローマ教皇の就任には、東ローマ皇帝の認証が必要とされていたからです。

 七二六年、東ローマ皇帝レオ三世は、偶像崇拝の禁止を発令します。この禁止令は、東ローマ帝国でも国論をまっぷたつにしました。もともと旧約聖書では、いかなる偶像をもあがめてはならないことになっています。ユダヤ教はこれを忠実に守っています。七世紀初頭に始まったイスラム教も、ユダヤ教から派生した宗教ですが、偶像崇拝を許していません。しかしキリスト教はユダヤから出発してはいますが、ギリシア・ローマ世界に住む異邦人(ユダヤ人以外)に布教していくうちに、いつしか聖像や聖画を用いるようになりました。古代ギリシアの彫刻に見られるように、ギリシア・ローマ世界では、生命が躍動しているような神々の像を尊ぶ傾向があります。ユダヤ世界から脱皮し、ローマ帝国の国教になったキリスト教が、ローマ的慣習を受け入れたのはそれほど不思議なことではないでしょう。キリスト教会では、これを聖像「崇敬」と呼び、旧約聖書で禁じている偶像崇拝とは異なる、と説明していました。

 レオ三世が偶像禁止令(偶像破壊令)を出したのは、偶像崇拝に対するユダヤ教やキリスト教内部からの批判が絶えなかったことが大きな原因ですが、経済的な理由もありました。聖像の破壊を命ずれば、かならず修道院が反対します。皇帝は、当時東ローマにおいて大土地所有者になっていた修道院から、土地を奪うための口実を作りたかったのです。レオ三世の息子の代まで国論は割れたままでしたが、彼の死後、宗教会議が開かれ、聖像画の崇敬と崇拝を区別した上で、聖像崇敬を禁ずることは異端とされました。つまり、禁令は解かれたのです。しかし、この半世紀余りのあいだに、西ヨーロッパの状勢は一変します。

 話をレオ三世の時代へもどしましょう。聖像破壊令に対し、ローマ教皇グレゴリウス二世は強硬に反対します。聖像の崇敬については、ローマ教会は布教の手段としてむしろ奨めていました。したがって、これをくつがえすことは、みずから東ローマ皇帝への従属を認めると同時に、布教の重要なツールを放棄することになります。一方、レオ三世は、イタリアを支配していたゲルマンの王国と手を結び、ローマに圧力をかけます。グレゴリウス二世に替わって教皇になったグレゴリウス三世は、逆に聖像破壊者を破門しました。怒ったレオ三世は、東ローマ帝国内にあるローマ教会管轄下の教会をすべて取り上げ、これをコンスタンティノープル教会に移管しました。この時点で、東西教会の対立は決定的となり、ローマ教会は東ローマ皇帝からの完全独立を決意します。

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第五講 ヨーロッパの形成⑪

二人の大教皇

 孤立無援のローマ教会でしたが、ただ外敵にふるえていたわけではありません。西ローマ帝国末期から東ローマによる西方征服の時期、すなわち東方からの干渉が著しかった五世紀半ばから六世紀にかけて、歴代ローマ教皇のなかでも卓抜した人物が現れます。

 四四〇年から四六一年までローマ司教をつとめたレオ一世は、「ローマ帝国内ではローマ司教が教会権力の首座である」と主張しました。ローマ司教こそが聖ペテロの唯一の代理人であるのだから、コンスタンティノープル教会など他の教会司教より優位に置かれるべきだ、というのです。彼はこの主張を西ローマ皇帝に認めさせたうえ、ローマ司教の認可が帝国の法になりうることを宣言させました。もちろん、東ローマ皇帝やコンスタンティノープル教会はこの宣言を不快に感じていました。

 また彼は、東方教会で盛んに行われていた神学論争にも積極的に参加し、異端をことごとく斥けるほどの理論家でした。彼がかかわったもののうちでもっとも有名なのが、四五一年のカルケドン公会議(教会の代表者による公式の会議)です。キリスト教史上最初の公会議は、コンスタンティヌス大帝が召集したニカエア公会議でした。この会議では、神とキリストが同質の神格とする、アタナシウス派の理論が採択されました。これに聖霊が加わって、三位一体説が正統派の教義になったのです。しかしこのときは、キリストの神性に論点が集中し、「キリストの神性」と「人間としてのイエス」をどう説明するのかについては、目が向けられませんでした。第四回の公会議となったカルケドン公会議ではこの点が審議され、イエス=キリストは完全な神性と完全な人性を備えることが確認されました。同時に、神性と人性とは明確に分かれているのではなく、両者が混じり合うこともなく、変わることもなく、分かれることもなく、離れることもない、と規定しました。なんだか無理やりという感じがしないでもありませんが、このカルケドン信条は、キリスト教にとって、ニカエア信条(神とキリストが同じ神性を持つ)とならんでキリスト教にとって重要な考え方です。そしてカルケドン信条の原案者こそ、レオ一世でした

 しかしカルケドン公会議では、ローマ教会とコンスタンティノープル教会が同格であることも決議されましたた。当然、ローマ教会の優位性を唱えるレオ一世は抗議します。しかし彼の後ろ盾になるべき西ローマ皇帝は弱体で不安定であったため、レオ一世は、東ローマ皇帝とコンスタンティノープル教会に屈服せざるをえなかったのです。

 また、当時ヨーロッパ中を恐怖に陥れたフン族の族長アッチラが、北イタリアに侵入したとき、レオ一世はアッチラの陣中に赴き、ローマ攻略を思いとどまらせようとします。フン族はレオ一世との会見後、イタリアを去りました。ローマ市民は、レオ一世がローマを救ったのだと信じました。実は、アッチラがローマ攻撃を中止したのは、純粋に軍事的な理由によるものでした。それでも、だれもが鬼神のように恐れたアッチラに、単独で立ち向かった勇気は称賛に値します。知力、胆力ともに優れた人物でした。

 教皇(パパ)という呼称がローマ司教を指すことを定めたグレゴリウス一世は、五九〇年から六〇四年まで教皇座にありました。

 グレゴリウスは五七八年から七年間、ローマ司教使節として、コンスタンティノープルに滞在し、東ローマ皇帝の教会政策をつぶさに見ることができました。このとき身につけた政治感覚が、ローマ司教(教皇)になってから大いに発揮されます。彼は、西ヨーロッパのなかにローマ教会の支援者をつくるために、修道士を各地に派遣して、ゲルマン人への伝道活動を行わせました。その結果、イングランドの人々の改宗に成功しました。以後、ローマ教会の布教は、イングランドを基地にして西ヨーロッパに展開されることになります。

 グレゴリウスは理論的にも多くの著作を残し、アンブロシウス、アウグスティヌス、ヒエロニムスとならんで、西方の四大教会博士に数えられます。また、彼がその成立にかかわったローマ教会聖歌は、グレゴリアン・チャント(グレゴリウスの歌)と呼ばれ、西洋音楽の源泉になっています。

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第五講 ヨーロッパの形成⑩

かよわきローマ教会

 キリスト教会が、ローマ帝国内に広く浸透した後も、長いあいだローマ教会は、エルサレム、アレクサンドリア、アンティオキア(現在のトルコ南東部の都市)、コンスタンティノープルを含む五大教会のひとつにすぎませんでした。もちろんローマは帝国の首都でしたし、イエスの一番弟子であったペテロや、異邦人伝道につくしたパウロが殉教した地としても、尊重されていました。しかし、キリスト教を公認したコンスタンティヌス大帝が帝都をコンスタンティノープルに遷してからは、帝国の比重はしだいに東に移っていきます。とくに、ローマ帝国の東西分離をへて、西ローマ帝国が滅亡すると、東ローマ帝国が唯一の皇帝となりました。そうなると、皇帝のお膝元であるコンスタンティノープルの教会が、ローマ教会より立場が強くなります。宇宙を支配するのが神ならば、神から地上の支配を託されたのが皇帝であると考えられていたからです。

 さらにゲルマン人のイタリア支配が、ローマ教会を圧迫します。イタリアの支配者となったゲルマンの諸部族はみな、異端とされていたアリウス派のキリスト教を信じていましたから、正統のアタナシウス派を守っていたローマ教会を尊ぶことはありませんでした。ローマ教会は、後ろ盾もなく、西ヨーロッパに孤立していました。

 もっとも、わずかに希望はありました。西ローマ帝国が滅亡した二十年後、ゲルマン人の一部族であるフランク族がアタナシウス派に改宗しました。しかし、当時のフランク王国は内紛が続き、ローマ教会を支援する余裕などなかったのです。

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第五講 ヨーロッパの形成⑨

西ローマ帝国の滅亡

 アウグスティヌスは、その後アフリカのヒッポの司教となり、キリスト教の異端やマニ教徒との論争によって、キリスト教正統派を理論的に支えます。四一〇年のローマ陥落によってまきおこった、ローマ伝統宗教(異教)によるキリスト教批判に対しては、十三年の歳月をかけて、大作『神の国』を著しました。

二十世紀における哲学の巨人ホワイトヘッドがいうように、「ヨーロッパの哲学的伝統が、プラトンにつけられた一連の脚注」であるならば、アウグスティヌスは後世の「脚注」にもっとも影響を与えた思想家でしょう(プロティノスがその仲立ちをしたと言えます)。アウグスティヌスは、神学のかたちをとりながら、自由意志の問題、時間論など、近代ばかりでなく二一世紀の哲学にとっても大いに示唆のある思索を展開しています。地中海世界における百家争鳴期に現れたすべての思想を飲み込み、その矛盾ごとみずからの身体で咀嚼・消化しいった彼の魅力は尽きることがありません。

そのアウグスティヌスにも地上を離れるときがきました。四三〇年、ゲルマン人の一派ヴァンダル族がヒッポにせまったとき、彼は、ヴァンダル族を退けることができないのなら、町が占領される前に自分が天に召されることを望みます。そして、彼の願いそのまま受け入れられました。

 ヴァンダル族はアフリカに王国を建てたあと、イタリアに攻め上りローマを蹂躙します。ヴァンダル族の蛮行は、ヴァンダリズム(文化の破壊者)という語を生んだほどでした。ヴァンダル族はイタリアを略奪し尽くすと、豊穣なアフリカへもどっていきました。しかしその後も、ゲルマン人のイタリア支配は続きます。ついに四七六年、ゲルマンの傭兵隊長オドアケルにより、西ローマ皇帝は退位させられ、西ローマ帝国は滅亡しました。

西ローマ帝国の滅亡から百年近くたって、東ローマ皇帝ユスティアヌスは、旧西ローマ帝国領の征服を企てますが、彼が亡くなると元通りになります。ゲルマンの大移動によって古代の秩序がこわれた西ヨーロッパにとって、古きローマ帝国へ戻そうとする東ローマの西方征服は、ひとつのエピソードでしかありませんでした。ゲルマン人もローマ人も新しい秩序を求めていました。それにはさらに二百年もの年月が必要だったのです。

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