第五講 ヨーロッパの形成⑬
新しい皇帝
ローマ教会は、ドイツからフランスにかけて勢力を広げていたフランク王国に頼ろうとします。しかしフランクは、中部フランスまで侵攻してきたイスラム教徒軍を迎え撃つのに、イタリアを支配していた王国と同盟した義理があったので、支援要請を断ります。そのあいだもフランク領内では、イングランド出身の修道士たちが精力的に伝道し、ローマ教会に従う教会を着実に増やしていきました。大教皇グレゴリウス一世の布石が効いてきたのです。
七四一年は、東ローマ皇帝レオ三世、フランク王国宮宰(総理大臣)カール・マルテル、ローマ教皇グレオリウス三世が相次いで他界するという、歴史の節目になりました。
カール・マルテルの後は息子のピピンがカロリング家を継ぎますが、彼にはカロリング家代々の悲願がありました。すでに百年まえから、カロリング家がフランク王国の宮宰を代々務めており、その権勢は王家を凌駕していたのですが、王位を簒奪することができずにいました。それほど、王の血統は神聖なものでした。そんなピピンに、新教皇は助け舟を出します。血の神聖さを上回る、神の神聖さを提供するのです。七五一年、ピピンが有名無実となっていたフランク王を廃し、カロリング王朝を立てたとき、ローマ教皇はピピンに、神が祝福したもう王であることを示す儀式を施しました。また、フランク領内のほとんど教会がローマ教会に従うようになっていたからこそ、ローマ教会による儀式が効力をもったのです。その五年後、ピピンはイタリアの王国を攻め、切り取った中部イタリアの土地を教皇に寄進しました。
ローマ教皇にもようやく支援者ができましたが、これで十分ではありません。東ローマ皇帝と対等の後ろ盾でなくてはならないのです。ローマ教皇レオ三世(先の東ローマ皇帝とは別の人物)は、ピピンの後継者カール(フランス名シャルル)を、紀元八〇〇年の記念すべきクリスマスにローマに招きます。教皇の前にひざまづくカールの頭上に、「ローマ皇帝」の冠がのせられました。カールの戴冠は、カールにも知らされていない筋書きでした。フランス、ドイツ、北イタリアを支配下におくカールは、西ローマ皇帝の称号を受けるにふさわしく、またその称号にはローマ教会の庇護者としての期待もこめられていました。そのため彼はカール大帝(シャルル・マーニュ)と呼ばれます。
次回は、ヨーロッパ中世における思想・哲学について語りましょう。
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