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2008年11月

第七講 混沌のルネサンス⑦

ルネサンスが残したもの

  ルネサンスの意義は、中世の秩序を崩壊させ、人間を一度混沌のなかにたたき落としたことにあります。一方、ヨーロッパの近代精神へはどれだけの影響を及ぼしたのでしょうか。

  二十世紀初頭の神学者トレルチは、懐疑的です。「ルネサンスからは革命、暴力、冒険のたぐいはいくらでも生じはするが、原理的にまったく新しい社会秩序の建設は到底生じないのである」「それ(ルネサンス)が目標とするところは、万能人であり、優雅な宮廷人であり、精神的自由人であり、教養人なのであって、(プロテスタンティズムの現世肯定が生み出した)職業人や専門人とはまさに正反対のものである」(『ルネサンスと宗教改革』)。ヨーロッパ近代精神の創造に対しては、十六世紀の宗教改革や十八世紀の啓蒙主義がより普遍的に寄与した、というのがトレルチの説です。

  ルネサンスの思想や芸術は、イタリアでは貴族によって支えられ、パトロンが没落するとともにルネサンス文化も衰退しました。アルプス以北では当時隆盛しつつあった中央集権国家の国王たちに保護され、その権威を称賛する道具になりました。宗教改革や啓蒙主義のように、市民を新しい社会の経済や政治へと駆り立てる原動力にはなりえなかったのです。

  しかし、フィチーノのプラトン・アカデミーやブルーノの宇宙論は、中世的コスモスの解体であり、新たな宇宙の中心、新たなコスモスへの模索でした。その模索は、デカルトが「我思うゆえに我あり」と言ったとき、ようやく近代の地平を見たのです。「思惟する自己」が存在の証しとなり、宇宙を観る視座となりました。やはりルネサンスの哲学は、中世スコラ哲学からデカルト以降の近代哲学への橋渡しとなったという意味で、ヨーロッパ精神史のなかで、普遍的な意義を持っているといえましょう。

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第七講 混沌のルネサンス⑥

 

カオスのなかで

  ルネサンスというと、人間への賛美にみちた明るい芸術や、迷信から脱却した合理主義的な思想を連想しますが、それはルネサンスの一面にしかすぎません。

  ルネサンス期に描かれた絵画には、死のイメージがつきまとうものやグロテスクなものが数多くあります。これには、十四世紀中葉に、三人にひとり、三千五百万もの命を奪いヨーロッパ中を恐怖に陥れたペストの流行が大きく影響しています。疫病は、死に対しては人間が平等であることや、自然の力の前では人間はまったく無力であることを人々に悟らせました。聖職者も王侯貴族もペストの前には無力であり、死に至る様は平民となんら変わることがないならば、この世の聖俗界の階層に何の意味があるのでしょうか。また、十四世紀から十五世紀にかけてフランス、イギリス、イタリアなどで戦乱が続いたことも、人々に死を身近なものにしました。中世においては十字架のキリストや殉教する聖人という形でしか表現されなかった死が、ルネサンスでは具体的な人間の死として描かれ、現世の生に執着することの空しさや、神にたいする人間の卑小性を訴えることになりました。

  ルネサンスにおける思想面の指導者フィチーノは、同時に神秘主義者でもありました。占星術・錬金術・魔術について書かれた古代の文書『ヘルメス文書』は彼によって翻訳され、ヨーロッパ中で読まれました。この文書は、プラトン主義、グノーシス思想、二元論、汎神論といった異教もしくは異端の思想を紹介するとともに、自然科学の教科書でもありました。占星術や錬金術はむしろ中世よりもルネサンス期に爆発的に流行したのです。ルネサンス以降も錬金術はりっぱな科学でした。十八世紀初頭のニュートンですら錬金術をまじめに研究していたのですから。

  ユダヤ教の密教ともいうべきカバラ理論も、ルネサンスの神秘主義思想の重要なテキストになりました。フィチーノによる新プラトン主義も、肉体のなかに閉じこめられている霊魂を叡智と意志の力で救い出し、存在の階梯を登りつめ、神と合一することができると考えた点において、神秘主義的でした。

  生と死、人間への賛美と卑小化、科学と魔術、合理主義と神秘主義。ルネサンスは二面性に満ちています。ルネサンスにおいては、中世の価値観は崩壊しましたが、新たな価値観は確立していませんでした。ルネサンスは中心を失った巨大なカオスだったのです。

  ダ・ヴィンチのおもな関心は「コスモス(宇宙秩序)」にありました。彼にとって、水の流れを制御する治水や水力学も、葉脈を対象とする植物学も、マクロとミクロの違いこそあれ、コスモスの探求であることに変わりはありませんでした。彼の代表作「モナリザ」は、ミクロコスモスである人間の女と、マクロコスモスである大地や川との調和を表現したものです。

  ただダ・ヴィンチは、無限のミクロコスモスとマクロコスモスとを統合して、ひとつのコスモスや価値体系にするところまでは至りませんでした。むしろ十六世紀には、宇宙は中心がなく無限の広がりをもっている、という考えが流行します。やがて中心のない宇宙に漂っている不安に耐えきれず、むしろ宇宙の中心や神の居場所は自然のあらゆる存在のなかにあるという考えに傾いていきます。宇宙無限論を説き、十五年の逃亡と九年の獄中生活の後、異端として火刑に処せられたジョルダーノ・ブルーノは、その典型でした。ルネサンス人はカオスのなかでさらに苦悩します。新たなコスモスが打ちたてられるには、十七世紀前半のデカルトまで待たなければならなかったのです。

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第七講 混沌のルネサンス⑤

孤独なルネサンス・マン

  ダ・ヴィンチは、一四五二年、フィレンツェ近郊のヴィンチ村に生まれました。レオナルド・ダ・ヴィンチとは、ヴィンチ村のレオナルドという意味ですから、本来でしたら、レオナルドと呼ぶべきでしょうが、ここでは一般的な呼称に従っておきましょう。彼の父は息子が絵描きとして才能があることが分かると、当時フィレンツェで売れっ子の画家であったベロッキオの工房に弟子入りさせます。一四七〇年代は師の作品を手伝っていましたが、権力者ロレンツォの覚えはあまりよくありませんでした。そのためか、ベッロキオから独立した三年後には、フィレンツェを離れます。

  八一年から十八年におよぶミラノ時代になって、彼の万能ぶりはいかんなく発揮されます。幾何図形を基本要素にして写実的な絵を描いていく手法や、遠近法による奥行きのある構成は、このときに完成されました。解剖学的に正確な人体描写も、彼の絵画や彫刻の完成度を高くしました。「最後の晩餐」はミラノ時代の代表作ですが、裏切り者のユダをテーブルの手前に置くという従来のしきたりを破って、弟子達の衝撃が中心のイエスへ収斂していく、みごとな構成になっています。ベストセラーでも取り上げられた絵ですが、キリストの右隣の人物は、マグダラのマリアではなく、やはり使徒ヨハネでしょう。軍事や自然科学に関するノートも、このころ多く書かれています。

 ダ・ヴィンチがフィレンツェに戻ったのは、一度メディチ家が追放され、スペイン王の後押しでようやく君主に返り咲いた翌年でした。ロレンツォ時代の華やかな雰囲気は失われていましたが、ミケランジェロなど天才たちは残っていました。帰国したダ・ヴィンチの存在はかれらにも大きな影響を与えました。もっともミケランジェロはダ・ヴィンチの好敵手でもあり、「ダビデ像」など同じテーマで二人が競わされたこともあります。ダ・ヴィンチは「モナリザ」を完成させた一五〇六年、再びフィレンツェを離れ、二度と戻ることはありませんでした。二度目のミラノで七年、宮殿の設計や運河工事に携わった後、ローマへ赴きますが、そこは油の乗り切ったミケランジェロやラファエロの独壇場であり、老芸術家の出番はあまりなかったようです。

  晩年のダ・ヴィンチはフランス王フランソワ一世に招かれ、王の居城であったロワール川沿いのアンボワーズ城近くに住まいを与えられます。アンボワーズ城の有名な二重螺旋階段は、ダ・ヴィンチの設計と伝えられます。フランソワ一世は、ルネサンス文化をイタリアから輸入し、やがてフランスがヨーロッパ文化の中心になる基礎を築いた王です。王の庇護の下、生涯孤独だった希代のルネサンス・マンは、ここで静かに息を引き取りました。

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第七講 混沌のルネサンス④

花の都フィレンツェ

 ルネサンス時代を代表する都市フィレンツェは、古代ローマ時代からトスカナ地方の中心都市でしたが、市民による自治がはじまったのは十二世紀前半です。十四世紀には、国際金融業と毛織物工業によって経済的な発展を遂げ、周囲の都市を配下に置きつつ、北イタリアでもベネチア、ミラノ、ジェノバとならんで、有力な共和国になりました。その間、いくつかの商家が政権を握りましたが、一四三四年からは銀行業によって巨富をなしたメディチ家が、フィレンツェを支配するようになります。

 最初の支配者コジモ・デ・メディチは、その経済的才覚によって巨万の富を築くとともに、その政治手腕によって政敵を倒し、数々の危機を乗り越え、フィレンツェの国際的地位を高めました。その一方で彼は、ギリシアの古典とくにプラトンの著作を集めさせ、そのための図書館を建てました。また、アルベルティら「万能の天才たち」に絵画や建築の機会を与え、文化・芸術の振興に力を尽くしました。

 コジモが一四六四年に世を去ると、その子ピエロの短い治世を経た後、コジモの孫ロレンツォが十七歳の若さで家督を継ぎます。ロレンツォは、政治家、外交家としては天賦の才能がありましたが、メディチ家の本業である銀行業は他人に任せきりで、メディチ銀行の経営は、むしろ彼の時代に大きく悪化しました。すでにメディチ家は、商人ではなく、君主になっていたのです。またロレンツォは、祖父コジモに劣らず学術、芸術を奨励・保護した。彼のもとで、プラトン・アカデミーのフィチーノ、ダ・ヴィンチ、「ヴィーナスの誕生」で有名な画家ボッティチェリが活躍しました。若きミケランジェロを発掘したのも、ロレンツォです。

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第七講 混沌のルネサンス③

プラトンの復活

  十三世紀後半、トマス・アクィナスがアリストテレス哲学をキリスト教神学へ取り入れ、信仰との調和をめざしつづけたスコラ哲学を完成させたそのときから、新しい思想の潮流が起きます。ある思想体系が完成を見たとたん、論争が激しくなるのは常であり、トマスの場合も例外ではありませんでした。もともとトマスたちスコラ哲学者が、アリストテレスをキリスト教神学と調和させようとしたのは、十二世紀にアリストテレスの著作が西欧へ逆輸入され、その内容が当時の西欧の知識水準を、とくに自然科学の分野ではるかに超えていたためでした。つまり西欧は、アリストテレスの遺したすぐれた学問体系を、キリスト教神学と矛盾することなく吸収したかったのです。

  しかし一方で、西欧にはプラトンからプロティノスへとつながる思想系譜が、地下水脈として連綿と流れていました。五世紀初頭のアウグスティヌスは、神が完全な善であるならなぜこの世に悪が存在するのかという問題を解決するのに、プラトン思想の後継者であるプロティノスを取り入れました。それ以来、西欧の人たちが自覚していたかどうかは別として、キリスト教の救済論とプラトンの思想とが、二重螺旋のようにからみあっていたのです。したがって、トマスがアリストテレス哲学をキリスト教神学へ取り入れたことは、西欧精神文化の遺伝子構造に違和感を与える結果となりました。

  魂の救済における人間の意志の役割の問題は、そのいい例です。トマス以前のキリスト教では、意志は他のものに突き動かされる働きではなく、自発的に行為を選択することであるとされていました。ですから魂の救いにあたっても、神へ近づこうと決意することがなによりも先立って必要であるというのが、アウグスティヌス以来の伝統でした。これに対し、トマスはアリストテレス哲学を取り入れましたから、魂が救われるためには、その人間の知性が覚醒されて「救われたい」という意志を動かさなければならない、と考えました。つまり知性を意志に優先させ、意思を知性によって動かされる受動的なものにしたのです。

  またトマスは神の存在証明にあたっても、アリストテレスの「第一動者」の考え方を用いました。宇宙の万物は運動し変化していますが、運動や変化は他者によって動かされるものです。すると最初に運動や変化を起こした存在がなければなりません。これが「第一動者」です。しかし神がすべての存在を動かしている究極の原因だとすれば、神によって動かされるという点においては、人間も他の存在も変わらなくなってしまいます。そこからは、神が人間を愛するあまり受肉して人間の罪をあがなったという、神と人間との特殊な関係は表れてきません。このため、アリストテレスが用いた神の存在証明そのものに、疑念が向けられることになりました。

  こうしたアリストテレス哲学への反発を通じて、中世の間、ヨーロッパの人々に意識されなかったプラトンやプロティノスの思想が、西欧の思想潮流の表面に現れたのです。また東ローマ帝国がオスマン=トルコ帝国に滅ぼされ、首都コンスタンティノープルから多くの古典学者がイタリアへ逃げてきたことは、プラトンやプロティノスの著作が西欧に紹介されるきっかけとなりました。

  この潮流を決定的にしたのが、十五世紀後半を通じて活躍したマルシリオ・フィチーノです。フィレンツェの支配者コジモ・デ・メディチの侍医を父に持った彼は、コジモの孫ロレンツォの家庭教師となり、ギリシアの古典を買い集めてその翻訳・注釈につとめました。フィチーノたちのサークルはプラトン・アカデミーと呼ばれ、イタリアだけでなく全ヨーロッパに影響を及ぼしました。いまや西欧精神文化の中心は、スコラ哲学の総本山パリ大学ではなく、フィレンツェのプラトン・アカデミーになったのです。

  フィチーノは、プロティノスが唱えた一者、叡智、魂、物質の四段階の世界をキリスト教にあてはめて、神、天使、霊魂、質、量の五段階を設けました。この階層のなかで、肉体の中に霊魂をもつ人間は神的世界と可視的世界とをつなぐ存在と位置づけました。一者(神)から無限に存在が流出されるという「流出の原理」と、完全な存在から不完全な存在まであらゆる段階が存在するという「充満の原理」からなる「存在の大いなる連鎖」は、フィチーノによってヨーロッパ中に広められます。ダ・ヴィンチやミケランジェロもフィチーノの新プラトン主義に強い影響を受け、しばしば絵画や彫刻によって表現しました。トマス・アクィナスのスコラ哲学がアリストテレスとキリスト教との合体であるとするならば、ルネサンスはプラトンの再発見であり、プラトンとキリスト教文化との再結合であったといえましょう。

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第七講 混沌のルネサンス②

中世とルネサンス

  ルネサンスは、十九世紀フランスの歴史学者が、十四世紀から十六世紀のヨーロッパ、とくにイタリアで起こった文化現象を指すのに用いた語です。もともとフランス語で、再び生まれる、という意味です。そのため、ルネサンスとは古代ギリシア・ローマ文化の再生あるいは復興と考えられがちですが、別にそれまでギリシア・ローマの文化が消滅していた訳ではありません。西欧とは東で接していた東ローマ(ビザンチン)帝国や、エジプトやスペインを支配していたイスラム教国のなかでは、ヨーロッパの古代文化は連綿と受け継がれていました。また中世の西欧が、キリスト教文化ではなかった古代の学問や芸術を、つねに拒絶していたわけでもありません。むしろ、「異教」の文化は幾度となく逆輸入されてきたのです。たとえば、フランク王国のカール大帝は、民族大移動によって荒廃した西欧の文化を、古代の思想・芸術によって復興しようとしました。彼の試みはその王朝の名を取ってカロリング・ルネサンスと呼ばれています。第六講で紹介しましたように、中世後期のスコラ哲学に多大な影響を与えたのが、ギリシアの哲人アリストテレスでしたので、スコラ哲学の最盛期を十二世紀ルネサンスと呼ぶ学者もいます。

  ですから、ブルクハルトをはじめとする十九世紀の学者が、中世は宗教の支配する暗黒で停滞した社会であり、ルネサンスによって人間中心の近代社会が開かれたとするのは、あまりに単純な図式です。しかも、中世とルネサンスの時代を明確に区分するのは難しいのです。中世神学を完成させたトマス・アクィナスと、ダンテやジォットーとは、生年に四十年の差しかないのですから。中世末期とルネサンスは重なっているのです。

  それでもルネサンスは、中世の一部とは違うと言わざるをえません。中世においてもギリシア・ローマ文化の西欧への流入が継続的に行われ、ときには思想形成へ影響を与えたとしても、ローマ・カトリック教会を中心とする価値体系は健在でした。ルネサンスにおいてはじめて、ギリシア・ローマの文化が芸術・科学・哲学・政治思想にわたる広範な運動として現れ、やがて伝統的な価値観を崩壊させていったのです。

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第七講 混沌のルネサンス①

万能の天才たち

  英語には、ルネサンス・マンという表現があります。「万能の人」という意味です。たんに多芸というだけでなく、一芸一芸が抜きんでているような人をいいます。十九世紀のスイス人美術史学者ブルクハルトが、ルネサンス時代の芸術家を普遍人、または万能人と呼んだのに由来するのでしょう。

 生々しい地獄の叙述から愛と神の摂理に充たされる天国までを『神曲』のなかで綴ったダンテ、最初のルネサンス画家といわれ、フィレンツェにある「花の聖母」寺院を設計したジォットー、といった十四世紀の天才たち。『絵画論』『建築論』を著すほどの理論派美術家でありながら、法律、経済、物理、数学の分野でも学者として名を挙げたアルベルティは十五世紀に活躍しています。十五世紀末にはレオナルド・ダ・ヴィンチが現れ、十六世紀のミケランジェロを迎えます。なかでもダ・ヴィンチは、ブルクハルトが普遍人の典型に挙げた人物でした。

  ダ・ヴィンチは「モナリザ」や「最後の晩餐」のような絵画ばかりを得意としたのではありません。人体解剖図や「はばたき飛行機」の図面が残されているように、生物学、力学、光学、数学、機械工学など理学工学一般にも秀でていました。さらに、教皇アレクサンドル六世の私生児であり、卓抜な政略家であったチェーザレ・ボルジアの軍事顧問として、土木、治水、都市計画にも従事しました。ナポレオンも、ダ・ヴィンチの技術が軍事面で利用できないか、彼のノートを調査させたといいます。ダ・ヴィンチの残したノートのうち、四分の三は美術以外の分野でしたから、彼は芸術家というより、絵が上手な自然科学者と呼ぶ方がふさわしいのかもしれません。

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第六講 異端と正統⑩

薔薇の名前

 現代イタリアの記号論学者ウンベルト・エーコが書いた推理小説『薔薇の名前』は、世界中でベストセラーになりました。

探偵役のウィリアム・バスカヴィル(バスカヴィルのウィリアム)は、イギリス出身のフランシスコ会修道士で、ロジャー・ベーコンが彼の師であり、ウィリアム・オッカムが親友であるという設定でした。もちろん、バスカヴィルという名前は、シャーロック・ホームズの探偵小説『バスカヴィル家の犬』から取られています。小説は、教皇ヨハネス二十二世と皇帝ルートウィヒ四世との対立、ミケーレ・ダ・チェゼーナらフランシスコ会厳格派を中心とする清貧論争、弾圧された異端の残党と異端審問官、といった十四世紀初頭の構図を背景に起こった連続殺人事件を扱います。犯人の老修道僧は、修道院の図書館で発見されたアリストテレスの著作が、人々の価値観を変えてしまうことを恐れるあまり、これを見つけた他の修道僧を殺していったのでした。

 エーコがこの小説で、トマス・アクィナスによって中世後期の思想体系が完成したとたん、それが近世にむかって大きく崩れ始めていったことを書きたかったのだと思います。ヨーロッパに逆輸入したアリストテレスの哲学・自然学は、ヨーロッパの思想家を大いに悩ませました。いったんは、トマスがキリスト教の信仰と調和させて、アウグスティヌス以来の中世前期の神学をこえる体系をうちたてたものの、次の瞬間から、信仰と理性は分離し始めました。アリストテレスは、質料と形相が結びついた個々の具体的な存在を実体と考える一方、存在を存在そのものとして普遍的に考察し、「第一動者」にたどり着きました。形而上学において、神の知性に思いを馳せながら、個々の人間の幸福や実践論については、倫理学や政治学など別の分野に著しました。アリストテレスの壮大な哲学は、こうしたバランスの上に成り立っていたのです。そしてこのあやうさは、トマス自身が内包していたものでもあります。トマス研究家として出発した碩学エーコは、それがだれよりも分かっていたのでしょう。

 五世紀半ばの西ローマ帝国の滅亡に始まり、十五世紀半ばの東ローマ帝国の滅亡に終わるヨーロッパ中世は、しばしば暗黒の停滞期といわれます。しかしゲルマン民族の大移動、東ローマの西方征服、ノルマン人の大移動など、ヨーロッパは大きくかき回されて、ようやく十世紀中葉にその枠組みができあがりました。しかも十一世紀末には十字軍、十二世紀から十三世紀には皇帝と教皇が激しく対立し、やがてそれぞれ没落していきます。異端の流行、神学上の大変革を経験した後、十四世紀にははやくも近世の胎動が始まっています。停滞どころか、激動の千年でした。

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第六講 異端と正統⑨

近世の扉

 キリスト教にアリストテレスを調和させたトマスには、批判者も多くいました。なかでもパリ大学において、ドミニコ会と同じ托鉢僧団であるフランシスコ会出身の教授は、学問的レベルも高く、トマスにとっての強敵でした。トマスと同時代人のボナベントゥラは、フランシスコ会の総長でもあり、中興の祖といわれている人物です。また次の世代では、ドゥンス・スコトゥスが、パリ大学内のフランシスコ会代表として、トマスを批判し続けました。彼らは、いずれもトマスのアリストテレス受容に反対していました。

 フランシスコ会はオックスフォード大学でも、著名な思想家を生んでいました。トマスと同時代人には、「驚異博士」とあだ名されたロジャー・ベーコンがいます。当時の西欧は、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)やイスラム諸国に比べて、文化の後進地域でした。これを憂慮した彼は、先進国のヘブライ、ギリシア、アラビアの言語を習得して、知識を吸収しなければならない、と説いきました。ベーコンは数学を重視し、光学や医学に功績を残したほか、錬金術や機械工作にも力を注ぐなど、中世後期における進歩的な科学者でした。

 トマスに遅れること二世代後には、ウィリアム・オッカム(オッカムのウィリアム)が登場します。ウィリアムは、最初オックスフォード大学の神学部教授でした。しかし一三二四年、異端の嫌疑をかけられ、南フランスのアビニヨンに置かれていた教皇庁に召喚されます。当時教皇庁とフランシスコ会の間では、イエスの清貧をめぐって大論争が巻き起こっていました。イエスがまったく私有財産を持っていなかったのならば、キリスト教会も財産を持つべきでないのではないか。少なくとも必要以上の財産は、世俗に返還し、喜捨・寄進を受けるべきではないのではないか。こうしたフランシスコ会の提議に対して、教皇庁は異端宣告をちらつかせます。しかもこの論争の背後には、教皇をかついでいるフランス国王と、これに対抗している神聖ローマ皇帝(ドイツ王)との覇権争いもあったのです。

 フランシスコ会総長のミケーレ・ダ・チェゼーナは、ウィリアムに清貧についての研究を依頼します。ウィリアムは、イエスの生活を調べていくうちに、教皇ヨハネス二十二世の方が誤っているという結論に達します。身の危険を感じた彼は、密かに教皇庁を脱出し、神聖ローマ皇帝ルートウィヒ四世の庇護下に入りました。皇帝に対して、「陛下が剣で私を守ってくださるなら、私はペンで陛下をお守りします」といった話は有名です。以後二十年間、皇帝派の論客として、皇帝を神学上の攻撃から守りました。

 ウィリアムは、神は絶対存在として人間を超越しているのだから、神の啓示は信仰として受け入れるべきであって、人間の理性による推論と結びつけようというのは不遜な試みである、と考えました。彼は、経験によって得られる知識、およびそこから自明な論理によって得られる結論のみに、理性の守備範囲を限定しました。ウィリアムは、トマスがすべての精力を傾けて実現しようとした、信仰と理性の統合を放棄し、むしろその分離を促したのです。彼もまた、ロジャー・ベーコンと同様、近世への扉を大きく開いた思想家でした。

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第六講 異端と正統⑧

神学のゴシック建築

 中世最大の思想家トマス・アクィナスは、ドミニコ修道会出身であり、パリ大学の神学教授として、またナポリ大学を盛んにした功労者として、さらには教皇の神学・哲学上のアドバイザーとして活躍した人です。

 当然トマスも、キリスト教の神学とアリストテレスの哲学とをいかに矛盾なく調和させるかについて、心を砕きます。それまでのヨーロッパの神学者や哲学者は、イスラムの思想家たちによっていったん咀嚼されたアリストテレスを受け入れるか、その反対に、原典に正確であろうとするあまり、アリストテレスの一字一句にこだわっていました。しかしトマスは、徹底したキリスト教神学への理解と、それに裏打ちされた自分の神観や世界観のなかに、アリストテレスを位置づけたのです。彼は、アリストテレスを自分流に解釈したのではありません。アリストテレスを逐語的に訳し、キーワードになる用語については他の著作と照らし合わせる、といった地道な努力では、トマスは人後に落ちませんでした。また、過去のキリスト教の理論家や神学者の著作を網羅していることでも、トマスは抜きんでていました。

 理性によっても「神が存在する」ことを知ることはできます。しかし、その神はどういう神なのか、われわれ人間とどういう関係があるのか、については理性では知ることはできません。これは「神についての知」であり「神が持っている知」です。人間の理性ではとうてい知ることはできないのですが、神は、聖書という啓示を通して、人間に知らせているのです。だからといって、理性による真理がまったく不要かというと、そうではありません。啓示による真理を、より確実に論理だって理解するために、理性がたどり着くところまでは、理性によって真理に近づかねばならないのです。

 啓示による真理と理性による真理が、矛盾しているように見える点もありますが、よくよく考えると矛盾はしていません。例えば、世界の永遠性の問題についても、神が無から物質を創った時を起点とすれば、物質の総量が一定と考えても、キリスト教の神学には抵触しないでしょう。神が世界を創ったということは、どんなに理性を働かせてもたどり着けません。しかし、世界がこれほど秩序正しく存在し、運動していることを思うと、何者かが計画的に「創造」したと考えるのがもっともらしいでしょう。すくなくとも十三世紀の自然科学のレベルでは、もっとも可能性のある説明でした。理性では「もっとも可能性が高い」としかいえませんが、神からの啓示である聖書に、神による天地創造が記述されています。つまり、理性による推理が、啓示による真理で補われた、と考えたのです。

 トマスは、キリスト教の神学を、アリストテレスの哲学のような、体系的な学問にしたいと思っていました。すなわち、真であることが証明された論題を、ひとつひとつ積み上げていって作り上げる体系です。その試みが巨大な努力の結晶となったのが、主著『神学大全』でした。これはキリスト教の初心者に対し、「神は存在するか」とか「神は完全であるか」など、ひとつひとつ問題に答える形式で、正しい信仰へいたる道筋を示したものです。彼は学習の順序が重要だと考え、まず神の本質について、次に神の恩寵としての徳について、最後に人が神にむかう道について、という三部構成にしました。そして一部一部は、細かな設問を積み上げて、大きな問題が解かれる手法を取りました。細かな設問でも、まず正統派教理に対する素朴な疑問から出発し、それに対し正統派神学者の説を網羅したうえで、トマス自身の説を述べていきます。その精緻かつ壮大な構成は、中世の寺院様式であるゴシック建築に喩えられます。

 トマスは『神学大全』で、アリストテレスの『形而上学』や『倫理学』をかなり利用しています。彼は、過去の教理学者の意見を紹介しながらも、それが権威ある説だからという理由で採用するのではなく、理性による合理的な推論で、設問に答えていきました。当然どこかで、理性を超える判断が必要になりますが、そのときは神の啓示である聖書のことばを借りて、もっとも可能性のある答を導き出す方法をとりました。

 しかし、第三部「神にむかう道なるキリスト」が、キリストの秘跡の記述まですすんだとき、トマスは突然筆を置きます。「兄弟よ、私はもうできない。私が受けた啓示に比べれば、私がこれまでやってきた仕事はわらくずのようなものだ」といって、執筆も講義も行わなくなりました。トマスの晩年には、数々の奇跡が起こったという伝説が残ります。トマスは死後、「彼が解いた問題の数だけ、彼は奇跡を行った」と称えられ、聖人に列せられました。

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第六講 異端と正統⑦

伝統神学との確執

 アリストテレスの著作は、哲学、政治学、倫理学から動植物学のような自然学まで、すべての分野に及んでいました。自然学などは、それまでヨーロッパが持っていた学問レベルをはるかに超えており、ヨーロッパの学者には大変魅力あるものでした。しかし同時に、アリストテレスの思想体系を受容することは、大きな問題をはらんでいました。

 その問題とは、アリストテレスの神観とキリスト教神学との関係です。アリストテレスが考える最高存在は、ある面でキリスト教が信じる神に似ていました。すなわち、完成された存在であり、これ以上何者にもなりえないがゆえに、「存在」であるとしか表現できないもの、です。他者を動かす原因にはなりえても、自分の外に自分を動かす原因を持たない究極の原因が、アリストテレスの最高存在でした。キリスト教の神も、「出エジプト記」で神自身がモーセに言ったとおり、「有りて有るもの」としか表現されない唯一絶対神であり、この神が万物を創造し、宇宙の始めから終わりまですべての存在を動かしている、と考えられていました。

 アリストテレスは、理性による論理的な推論だけで、キリスト教の神に類似した存在にたどり着きました。ものの運動には原因があります。その原因をさかのぼっていくと、もうこれ以上さかのぼれない原因があるはずです。その原因こそ、みずからは動かず他者を動かす「不動の動者」または「第一動者」です。すると彼は、聖書の導きなしに、いいかえれば神の啓示なしに、神の存在を知ることができたことになります。

 しかし一方でアリストテレスは、キリストや聖霊のことには言及していません。彼はイエスよりも四百年近く前に生まれた人ですから、言及しなかったのはあたりまえのことです。しかし中世の神学者は、これをあたりまえと考えませんでした。むしろ彼らにとって、キリストや聖霊の存在こそが当然の真理であり、これらをアリストテレスが知ることができなかったのは、理性だけではたどり着けない真理があることを示していると解釈しました。つまり、理性によっても神の存在を導くことはできますが、その神がどのような神なのか、神は世界をどのように動かそうとしているのか、神は人間をどのようにして救うのかについては、神の啓示によってのみ知ることができると考えたのです。

 それだけなら、啓示による真理が理性による真理を包含する、といった解釈で片づきます。やっかいだったのは、アリストテレスの最高存在が、キリスト教の神と相容れない面も持っていたことです。例えば、アリストテレスは、あらゆる存在の材料は無から生じたわけでもなく、無に帰するわけでもないと考えました。宇宙の物質の総量は不変であり、したがって永遠に存在すると説きました。しかしキリスト教では、神が世界を創造したのであり、神が創造する前は何もなかったとされます。また神が創造した世界は、神の計画が成就するときに終末が訪れ、創世から終末までのあらゆる魂に対して神の審判が下ります。つまり、世界には始まりと終わりがあり、アリストテレスが唱えた宇宙の永遠性は否定されているのです。

 アリストテレスの神観(形而上学)は、彼の自然学の論理的帰結、あるいは延長線上にあるものでした。だから、アリストテレスの神観を否定して自然学だけを取り入れるのには、困難がありました。それでも、もしアリストテレスの神観とキリスト教神学が、まったく異なったものであったら、ヨーロッパの学者は割り切ることもできたかもしれません。しかし、あるところは類似していてあるところは矛盾している神観を、切り捨てるわけにはいかなかったのです。したがって、キリスト教とアリストテレス哲学、いいかえれば信仰と理性をいかに調和させるか、ということが十三世紀の思想家にとっての大問題でした。

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第六講 異端と正統⑥

アリストテレスの復活

 パリ大学が設立した十二世紀ごろ、ヨーロッパで哲学上の変革が起きます。

 これまで述べてきましたように、ヨーロッパの思想にはふたつの潮流があります。ひとつは、ユダヤ教の唯一絶対神が源流です。ユダヤ教では、神との契約である律法を遵守することで魂が救済されると考えられましたが、イエスは、律法を遵守することのではなく、神の慈悲を信じることこそが救いの道だと教えました。イエスによって開かれた新しく博い道は、パウロによって世界宗教へと完成されました。もうひとつの流れは、ギリシア人が持っていた合理的な思考を、「魂の世話」に適用したソクラテスに始まります。ソクラテスの思想は、プラトンやアリストテレスに受け継がれ、存在の究極の原因、魂のふるさとを探求する哲学に発展します。ギリシア哲学の系譜は、プロティノスによって、存在の創出原理と魂の救済論へと体系化されました。そしてアウグスティヌスが、ユダヤ・キリスト教の潮流に、ギリシア哲学の潮流を流し込んだのです。

 しかしギリシア哲学は、キリスト教にとって「異教」の学問であったため、思想としてはキリスト教神学に取り込まれていながら、哲人たちの著作は、中世前半を通じて禁断の書とされました。とくにアリストテレスの著作は、古代ローマ最大の学術都市であったアレクサンドリアの図書館に、数十巻におよぶ膨大な量が収められていたにもかかわらず、キリスト教世界ではほとんど日の目を見ることがなかったのです。これらの著作はその半ばが散逸し、今日では他の著書による言及や注釈でしかうかがい知ることができません。

 そのアリストテレスが、中世後半になって、イスラム世界からヨーロッパに逆輸入されてきました。イスラム教は、キリスト教よりも現実的でしたので、アリストテレスを「異教」として拒絶するのではなく、イスラムの教理に抵触しないところは、積極的に研究し吸収していたのです。イスラム世界からの経路には、交易や戦争によって直接入ってきたもの、東ローマ帝国経由によるもの、そしてイベリア半島でキリスト教国が支配域を広げたことによるもの、といくつかあったと思われます。とりわけスペインは、イスラムの大思想家を多く生んだ地域であり、ここにアラゴンやカスティリャなどのキリスト教国の支配が及ぶようになると、イスラム思想家たちの著作が多く流入してきました。もちろんヨーロッパ側に、ギリシア語やアラビア語をラテン語に翻訳できる学者が増えたことも、アリストテレスの復活に寄与していました。

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第六講 異端と正統⑤

 

学問の都

 先にも触れましたが、パリ大学は、中世後半において、神学・哲学の中心でした。現在パリ大学が位置するカルチェラタンは、直訳すれば「ラテン地区」になります。そこには、ヨーロッパ中から、最高の学問を求めて学生が集まってきました。母国語の異なる彼らが、共通語としてラテン語を用いていたので、その名称が付いたのです。しかしパリ大学は、最初からこの場所に構えていたのではありません。

 総合大学と訳されているウニベルシテ(ユニバーシティ)は、もともとは組合のことでした。パリ大学の場合は、教職員の組合を意味していました。十二世紀の半ば、パリで私塾を開いていた教師たちが組合を形成したのが、パリ大学の起源です。これに対して、単科大学と訳されるコレッジ(カレッジ)は、学生の寮でした。ちなみにパリ大学の別称ソルボンヌは、宮廷礼拝堂司祭ソルボンが、神学部のコレッジを建てたことに由来します。

 大学が形成される以前のヨーロッパで一般的な学校であったスコラ(スクール)は、ギリシア語のスコーレ(暇)が語源です。スコラは、王室、司教座教会、修道院、いずれかの付属学校でした。ヨーロッパのウニベルシテは、その創立期にはスコラを踏襲して、教会などに従属していました。パリ大学も、その教職員すべてが、ノートルダム寺院の裁判権下にあり、そのため大学も、寺院があるシテ島の中に置かれていました。

 ところが一二一二年、裁判権、教育管理権などをめぐって、大学側とパリ司教側とが全面的に対立します。とくに、教授の任免と卒業証書の発行にあたっては、寺院の収入に関わる問題ですので、パリ司教もなかなか譲ろうとはしませんでした。一二一九年、パリ司教が大学全体を破門したのに対して、当初から大学側を味方していた教皇は、ドミニコ会から教授団を送り込みます。ドミニコ会は教皇直属の組織であったから、パリ司教には彼らを破門する資格がありません。三年後には大学ごと、シテ島からセーヌ川左岸に移って、パリ司教の干渉をさらに遠ざけました。そこが、いまのカルチェラタンです。

 自治権闘争は、一二二九年から二年間の休講を経て、大学側の全面的勝利で決着しました。しかし、闘争の過程で教皇の援助を仰いだため、その後のパリ大学は、ローマ教皇の理論的(ときには実践的)サポーターとして機能します。すなわち、中世において大学の主流派はドミニコ修道会でしたが、彼らは異端審問の推進組織として働きます。また、近世においてパリ大学の主流派であったイエズス会は、反宗教改革の担い手となりました。

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第六講 異端と正統④

清貧を求めて

 ドミニコが南フランスで異端説教を始める数年前、イタリアのアッシジでも、新しい動きが起こっていました。

 アッシジの裕福な商家に生まれたフランチェスコは、父の職業を継ぐのを嫌い、アッシジの軍に参加しました。しかし敵に捕らえられ、三年間捕虜として故郷に帰れませんでした。さらに大病を患って生死の境をみた彼は、すべての世俗的な欲を捨てます。イエスと同じような清貧の生活を送ることを決心したのです。

 一二〇九年、十一人の有志とともに、彼はアッシジ郊外の丘の上に「小さき兄弟たちの修道会」を設立します。フランチェスコたちは、ボロ布同然のガウンをまとい、腰を麻の紐で縛っただけの服装で、共同生活を始めました。彼らは、イエスがそうしていたように、街々をまわり、人々に悔い改めることを説きました。彼らも托鉢によって職をつないでいたため、乞食僧団と呼ばれました。

 フランチェスコの活動は、最初のうち異端まがいに思われていましたが、彼みずからローマに赴き趣旨を説明したため、一二〇九年、教皇インノケンティウス三世からも正式に認可されました。また一二一二年には、フランチェスコと同郷のクララが、女子修道会(クララ修道会、または第二修道会)を建てます。フランシスコ会は、創設から二十年足らずで、会員三千人の組織に急成長しました。

 フランチェスコは、修道会の発展には興味を示さず、異教の民の改宗に熱意を燃やしました。彼は遠くエジプトに渡り、イスラム教国の王を改宗させようと図ります。もちろん王の改宗には成功しませんでしたが、フランチェスコの熱心さに心を動かされた王は、彼にイスラム地域での宣教活動を許可します。

 しかしエジプトからもどったフランチェスコが見たものは、あまりに変貌したフランシスコ会でした。清貧を求めたはずが、多くの人々の喜捨によって、修道会の財産は豊かなものになっていました。フランチェスコは、一二二四年の第一回総会には出席したものの、すぐに会を離れ、数人の弟子たちとともに瞑想生活を送ります。その間、自然にあるすべての生命を讃える詩を綴りました。一二二六年、最後までイエスのような生活を守り続けた彼は、大気に溶け込むように静かに息を引き取ります。その翌年、彼の遺志を継いだ修道士によって、平信徒の会(第三修道会)が設立されました。フランチェスコは「もうひとりのキリスト」と称えられ、聖人に列せられました。いうまでもなく、サンフランシスコは聖フランチェスコのことです。

 本家であるフランシスコ会はその後も発展を続け、十三世紀末には会員数が三万人を超えます。しかし組織的に発展すればするほど、フランシスコ会の原点である清貧からは遠ざかるばかりでした。そのために修道会は、現実に合わせていこうとする穏健派と、聖フランチェスコの遺志をあくまで貫こうとする厳格派の対立を常に抱えていました。厳格派からは、聖霊派と呼ばれる、よりラディカルな一派が出て、教皇庁をはじめとするカトリック教会全体の蓄財を批判します。そのために、聖霊派は異端とみなされたこともありました。結局、穏健派と厳格派とは歩み寄れず、フランシスコ会は分裂しました。現在のフランシスコ会は、先に教皇の承認を受けた穏健派です。厳格派からは、カプチン会など新たな修道会が生まれています。

 フランシスコ会は、ドミニコ会と同様、教皇直属の組織でした。また、学究を重んじたことも共通しています。パリ大学やオックスフォード大学では、多くのフランシスコ会出身者が活躍し、ドミニコ会修道士と競い合っていました。

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第六講 異端と正統③

托鉢僧団

 アルビの異端に対しては、アルビジョア十字軍による武力弾圧と、修道会による説得工作の、硬軟両面の作戦がとられました。当初異端派の説得には、フランスを中心に大組織を誇ったシトー会の修道士たちがあたりました。しかし彼らはかえって、異端派に教理教論で打ち負かされるありさまでした。

 スペイン出身のドミニコが、ローマへ赴くのに、南フランスに立ち寄ったのはそんな時でした。ドミニコは異端の隆盛に接し、トゥールーズにとどまって異端派の説教を始めます。彼は、異端者たちが清貧の生活を送っているのを見て、みずからも何の私有物をもたず、托鉢を行いながら、異端信仰の地域を回ったのです。一二一五年に彼が設立した、トゥールーズの説教者の養成所が教皇に認められ、翌年修道会として認可されました。

 それまでのキリスト教の修道会は、世俗とのかかわりを避け、修道士たちは、人里離れた山中で自給自足の集団生活を送っていました。世俗の仕事にたずさわっていると、神が求めるような正しい行いを貫き通すのは困難です。たとえ自分ひとり正しく生きようとしても、人をだまして得たようなものを食したり着たりするかもしれません。むしろ俗塵から離れ、世俗の人々に代わって、聖書を勉強し神の言葉に従う方が、キリスト教を信じるすべての者の救いになる、と考えられたのです。ただ実際は、寄進によって修道院の財産・収入は豊かでしたし、労働が読書と同等に重視されために、一般修道士の学問的レベルは高くありませんでした。

 こうした既存の修道会と異なり、ドミニコ修道会は世俗にすすんで入っていきました。世俗の人と一緒に生活しながら、異端に傾く彼らを、正統派キリスト教へ引き戻そうと説得するためです。異端の指導者たちとの神学・哲学論争をたたかわせるため、修道士たちは研学に多くの時間を割きました。発足当初のこうしたスタイルは、その後も引き継がれます。またそれまでの修道会が、いずれかの教区に属し、したがってその地の司教または大司教の配下にあったのに対し、ドミニコ会は、教皇直属の修道会でした。ドミニコ会は、アルビで成功を収めた後、異端審問の先兵として、ヨーロッパ中に派遣されます。その理由には、もちろん神学研究の豊かさもありましたが、教皇直属の組織であることが大きかったのです。

 ドミニコ会の学究水準の高さは、ヨーロッパの神学・哲学のメッカであったパリ大学に、多くの教授を送り込んでいたことからもうかがえます。その神学の緻密さと壮大さゆえに聖人に列せられるまでに至った、中世最高の哲学者トマス・アクィナスは、ドミニコ会出身教授の代表格です。

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第六講 異端と正統②

異端の流行

 異端は、十一世紀から十三世紀前半にかけて、フランスやイタリアの広い地域で流行しました。一口に異端といっても、大きく二つのタイプに分けられます。ひとつは、すべての存在を善悪の二元論に帰してしまう教義を信じていたグループ。もうひとつは、正統派キリスト教でありながら、財産を共有し、家族のつながりを否定した共同生活を特徴とするグループです。

 アルビの異端は前者のタイプです。霊的な存在を善、物質的な存在を悪と考え、とくに肉は不浄とされ、それゆえに肉食や性行為を禁じていました。彼らは別名、ギリシア語で清浄を意味する、カタリ派と呼ばれました。フランスのカタリ派は、アルビジョア十字軍と、後に述べるドミニコ修道会によって、一二四四年には壊滅されましたが、イタリアのカタリ派は、十五世紀初頭まで残っていたという記録があります。

 カタリ派の二元論は、三世紀のペルシアを起源とするマニ教に似ていたため、古代ローマにおいて衰退したはずのマニ教が、ふたたびヨーロッパに入ってきたもの、と長らく考えられてきました。マニ教そのものでなくとも、マニ教の影響を受けた東方の異端ではないか、という説もあります。

なぜこの世に悪人が栄え、正しい人がかえって虐げられているのかを考えると、人は二元論に陥りがちです。二元論は、宇宙では究極の善と究極の悪とがつねに戦っていると説明します。また、善と悪は、ひとりの人間のなかにも同時に存在します。悪が善より優勢のときは、人の魂は正しい判断力を失い、物的な欲望に走るのです。世の中全体で悪が優勢ならば、物欲に走った悪人が栄えることになります。森羅万象は善悪の戦いとバランスだ、という二元論は、不合理に見えるこの世界を大変わかりやすく説明してくれます。古代最大のキリスト教理論家聖アウグスティヌスですら、いったんはマニ教の罠に落ちたのですから。戦乱続く中世ヨーロッパにおいて、正しく生きながらも苦しめられている人々のあいだに、二元論は自然に起こったのではないのでしょうか。

 バリ島には、バロンダンスという伝統舞踊劇があります。善の聖獣バロンと悪の魔女ランダとの終わりなき戦いを描いたこの劇は、二元論をよく表しています。善と悪のバランスの上に、宇宙が成り立っている。両者が戦っている間は、この世に幸福もあり不幸もある。両者が手をたずさえるとき、すべてはひとつになり、至福が訪れる。唯一の神を信仰していないところでは、むしろ二元論が一般的なのかもしれません。

 キリスト教など一神教の世界で、二元論が異端とされるのは、ふたつ理由があります。ひとつは、完全なる善と対抗しうる完全なる悪を想定していること。これが一神教の原則を破っています。もうひとつは、キリスト教の救済論が、二元論の世界ではまったく意味を失うからです。

 二元論は、人間の力ではどうしようもない悪の存在が人間に罪を犯させる、と考えます。人間が悪いのではなく、超自然的な力に操られて罪を犯しているのです。つまり罪に対する責任は人間にはありません。一方キリスト教では、すべての人間には原罪があるとされます。罪から免れている人間はいません。人間はその原罪ゆえに苦しみます。人間を罪の苦しみから救うために、キリストが人間の罪を背負って十字架にかかりました。つまり、神が人間の罪をあがなったのです。キリスト教から見れば、罪に対する責任が人間の魂にないとする二元論は、キリストによる救済を否定する異端でしかありません。

 一方、第二のグループ(財産や家族のつながりを否定するグループ)に属する異端のうち、もっとも勢力が大きかったのが、リヨンの商人ワルドが始めたワルド派でした。ワルドは裕福な暮らしをしていましたが、あるとき突然回心し、全財産をなげうって清貧の生活に入りました。彼はさらに、布教の許しをローマ教皇に願い出て、受け入れられています。しかし、財産の共有や共同生活という彼らの生活態度が、教会の教えと相容れなかっただけでなく、蓄財の著しかった教会への批判と受け取られたので、異端として弾圧されました。弾圧を受け始めると、一部はカタリ派とも交流をもちましたが、最後まで二元論には組みしなかったようです。ワルド派は、教義が正統派であったこともあり、弾圧が激しかったにもかかわらず生き続け、現在でも北イタリアに二万人ほど存在していると言われます。

 いったい何が、人々を異端に惹きつけたのでしょうか。ヨーロッパ中世の後半は、民衆の信仰意識が異常に高まった時期でした。エルサレムの奪回をめざしてイスラム教徒と戦った十字軍を熱狂的に支持したのも、カタリ派やワルド派の異端に走ったのも、根は同じでした。みな、信ずるに足るだけの、清く正しきものを求めていたのです。その証拠に十一世紀後半、教皇グレゴリウス七世が、聖職の売買や俗人による聖職者の叙任を禁止して、教会および修道会の世俗化を改めようとした時代には、異端の動きは見られません。純粋な正統派信仰と異端運動とは、紙一重の差なのです。

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第六講 異端と正統①

もうひとつの十字軍

 東ローマ皇帝の要請を受けたローマ教皇によって、一〇九五年に招集された十字軍は、その四年後、セルジュク・トルコ帝国が支配していたエルサレムを陥落します。しかし、成功らしい成功をおさめた十字軍は、これが最初で最後でした。公式には計八回行われた十字軍は、回を追うごとに宗教色を失い、諸王諸侯の政治的利害や、イタリア諸都市の経済的利害が優先されました。第一回十字軍から一世紀あまり経ったころ、ヨーロッパ内部へ向けて、もうひとつの十字軍が編成されます。

十三世紀初め、フランス南東の都市リヨンに、北フランスの諸侯を主力とした軍が集結しました。この軍は、フランス深南部にあるアルビを中心に広がっていた異端を撲滅するために組織されたことから、アルビジョア十字軍と呼ばれます。十字軍を迎え撃つのは、トゥールーズ伯など南フランスの諸侯、それにスペイン北東部を支配していたアラゴン王でした。

 北フランス軍が一二一三年に、トゥールーズから三十キロと離れていないミュレで南仏・スペイン連合軍を破ったときは、この異端討伐戦争は短期間に終結するものと思われました。しかし、十字軍の指導者であったシモン・ド・モンフォールが戦死すると、再び連合軍が勢力をもりかえし、両軍は一進一退を続けます。ちなみに、イギリス議会制の礎を築いたシモン・ド・モンフォールは、このときの十字軍指導者の同名の息子です。一二二六年にフランス王が介入して、ようやく両軍のバランスが崩れました。三年後にフランス南部は平定され、トゥールーズ伯領はフランス王の弟が相続することで、決着がつきました。

 この戦乱の結果、北部にしか及んでいなかったフランス王家の支配がフランス全土に広がることになりました。つまり、いちばん得をしたのは、フランス王家だったのす。またアルビジョア十字軍は、南仏の言語や文学を壊滅させるという、文化破壊の役も演じました。

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