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2008年12月

第九講 新しい宇宙観②

中世の宇宙観

  キリスト教神学は、プトレマイオスとは別の観点から彼の天動説を支持しました。

  中世の人々は、宇宙が天球と呼ばれる球体構造になっていると考えていました。宇宙を球体であると考えるのには、三つの理由があります。ひとつは、宇宙はその規模がどんなに大きいものであろうとどこかで閉じている、ということです。もし神から造りだされた宇宙のなかに神がいると、神も被造物のなかに含まれ、矛盾が生じてしまいます。そこで、神の居場所は宇宙の外側でなければならず、「外側」が存在するためには宇宙は閉じてなければならないのです。ふたつめは、宇宙はただひとつだけ造られたという考え方です。わが子キリストに人間の肉体を与え、すべての人間の罪をあがなって昇天させたという神の救済は、ただ一度、われわれ人間にたいしてのみ行われたはずだからです。最後に、完全なる神はただひとつしかない宇宙を完全なものに創造したでしょうから、宇宙の形も当然ながら、完全体である球形をしているという考えです。

  天球の外側は神の世界であり、ギリシア風にいえば叡智界でした。天球の外殻の内壁には恒星群が張り付いて、動かぬ位置から宇宙を照らしています。その内側を太陽および水星、金星、火星、木星、土星の惑星がまわっています。惑星群の一番内側をまわるのが月です。天球の外殻から月の軌道までは星辰界と呼ばれ、霊的な存在で満ちた、不変不滅の世界と考えられました。

  月の内側は月下界と呼ばれ、物質的な世界です。そこでは霊的存在である魂は肉体に閉じこめられ、罪を犯すことから免れていません。地球は天球の中心に置かれたが、これは地球に名誉ある地位を与えたのではなく、天球が一番よどむところ、塵や芥が溜まる場所を意味しました。

  この宇宙観は、天上が、完全なる存在、善なる存在である神にふさわしい場所という考えからの、自然な帰結でした。神は天上から奇跡を現します。旧約聖書に出てくるイスラエルの預言者たちも、天上から神の言葉を授かりました。イエス・キリストの昇天も、まさに天へ昇ったのであり、神の居場所である天上への帰還を意味しました。したがって、地球から離れて天球の周辺に近づけば近づくほど、より完全な存在であることになります。

  人間を、地球という宇宙でもっとも卑しい場所に棲む罪人と解釈できる点において、中世の宇宙観は、プトレマイオスの宇宙構造を採り入れたのです。

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第九講 新しい宇宙観①

秩序ある宇宙

  コスモスとはギリシア語で秩序を意味し、カオス(混沌)と対立する概念でした。それが宇宙を意味するようになったのは、宇宙生成についてのギリシア神話によります。神話では、天地の区分なく混沌としていた世界から、大地(女性神)や天(男性神)が生じ、やがて神々が誕生し、そのなかから主神となったゼウスによる世界支配が行われた、とされます。これは、混沌から秩序ある宇宙が形成されたことを意味していました。

  プラトンはギリシア神話の天地「創成」物語を、天地「創造」の哲学へと発展させます。プラトン哲学では、存在の真の姿はイデアと呼ばれ、イデアのみが実体であると考えられました。宇宙の創造者は、このイデアを見ながら、われわれの目に見える存在を作り続けるのです。あたかも椅子の設計図を見ながら、大工が木材を使って次々に具体的な椅子を作り上げるように。そして宇宙には、イデア(理想形)に近いものから不完全な作品まで、あらゆる段階の存在が充満しているとされました。

  しかし古代ギリシアでは、宇宙の生成について語る哲学者はまれであり、むしろ現存する宇宙の秩序を分析するほうが盛んでした。その典型が、三平方の定理を発見した紀元前六世紀のピタゴラスです。彼は、宇宙の各存在には整数比の関係があり、これが世界を秩序あるものにしている、と唱えました。ピタゴラスの「数への信仰」はギリシアの哲人たちの伝統となったばかりでなく、十六世紀ドイツの天文学者ケプラーの「第三法則」の発見にも寄与しています。ケプラーが、惑星の太陽からの距離と公転周期の関係を単純な比率で表わそうとしたのは、ピタゴラスの「数への信仰」に倣ったものでした。

  ピタゴラスは物の配置という存在の静的な関係に秩序を見ようとしましたが、紀元前四世紀のアリストテレスは、物の運動という存在の動きにも秩序を与えます。アリストテレスによれば、すべての物は理想的な完成型へ向かおうとしており、完全に近いものほど幾何学的にも完全な運動をします。ですから彼は、天体にある太陽や星は完全なものであるから等速円運動に従う、と考えました。

  アリストテレスの哲学や自然科学を受け継いだ、紀元後二世紀エジプトの天文学者プトレマイオスは、太陽中心説と地球中心説との間でさんざん迷いました。天体の運動を説明するのに、中心に置くのが太陽であろうが地球であろうが、幾何学的には同じだったからです。どちらを採用しても、当時発見されていた範囲の天体(太陽、月、水星、金星、火星、木星、土星)の運動なら、矛盾なく説明できたのです。アリストテレスが「完全な運動」とした同心円上の等速円運動は放棄せざるをえませんでしたが。しかし太陽を中心に置いた場合、地球は自転することになり、なぜ地球の自転と同じ速度の風が起こらないのか、という問題が生じてしまいます。当時の科学では、この問題は解決できませんでした。そのため彼は、地球中心説(天動説)を採用しました。そして彼の説が、ヨーロッパにおいては十六世紀まで支配するのです。

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第八講 ヒューマニズムと宗教改革⑪

カルビニズムと近代資本主義

カトリックでは、禁欲は修道院のような世俗外で行われるものであり、世俗の汚れたなかで平信徒が従事している職業は、衣食住の肉体的欲求を満たすためのものにすぎない、と考えられていました。ルターは職業に「天職」というニュアンスを付け、世俗の職業も神から与えられたものだから、これに従事しながらも禁欲的な生活を送ることができると唱えました。これが世俗内禁欲と呼ばれる生活態度です。しかしルターは社会秩序を保つことを重要視し、己の分をわきまえることを求めました。またルターは、商業活動に否定的で、その姿勢はカトリックと変わるところがなかったのです。

こうしたルターの職業観は、当時勃興してきた市民層、とくに中産的生産者層に応えることができませんでした。資本を投下し、生産物を売れば利潤が得られます。しかしその利潤が営利欲の結果と見られ蔑まれるのであれば、生産者は良心の痛みを感じつつ、あるいは魂の滅びにおびえつつ、社会生活を送らねばなりません。

カルバン派は「神に与えられた職業」を一歩すすめて捉えます。滅びの者ではないあかしを求めて、駆り立てるように勤労するのだから、そこに営利欲の入る余地はないのです。生産にはげめばはげむほど、営利欲にもとづくのではなく、禁欲的な労働と認められます。こうした生産活動によって得られた利潤は正しい労働の報酬であり、利潤は己の物欲には費やさず、そのまま資本へ投下されていきます。かくして、カルビニズムの職業観からは、勤勉で誠実で倹約的な資本家像が浮かびあがってきます。

このカルビニズムと近代資本主義の関連は、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で論じられていますが、ウェーバーはカルビニズムから資本主義が生じたとは言っていません。勃興しつつあった市民層が、その生産活動の倫理的根拠、うしろめたい思いをすることなく職業に打ち込める精神的支柱を求めてカルビニズムを取り入れた、と述べているのです。ましてや、宗教改革が西欧近代社会の生みの親のように解釈するのは極論です。たしかに、近代資本主義や近代国民国家の形成にプロテスタンティズム、とりわけカルビニズムが果たした影響は大きいのですが、あくまでもこれらの形成を推し進めた駆動力であって、形成そのものの原因となった社会的な背景、経済的な背景は他に求めるべきでしょう。

やがて資本主義は、利潤を正しい労働の報酬という結果としてではなく、利潤を多くあげる生産活動がより正しい労働と解釈し、利潤を自己目的化するようになります。さらに正しい労働という倫理観も忘れられ、形骸化した精神の下で巨大化していきました。ウェーバーは、巨大化した資本主義が行き着くところまで行き着いたときそこに立つ人々に、次の言葉を予言しています。「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、かつて達せられたことのない人間性の段階にまですでに登りつめた、と自惚れるのだ」。

 では講を改めて、いよいよ近代哲学の地平が開けるところへ話を移しましょう。

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第八講 ヒューマニズムと宗教改革⑩

峻厳なる神、隔絶せる神

カルバンの神学は「予定説」だといわれますが、予定説そのものはカルバンのオリジナルではありません。パウロの「ローマ人への手紙」に書かれている「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった」に由来します。神はあらかじめ恩寵をだれに施すか定めており、神の予定にたいして人間の意志や行為などまったくの無力である、だから「信仰のみ」によって恩寵を信じるしかない、というのがルターの教説でした。

カルバンはさらに徹底させて、神は救いの対象も滅びの対象も、宇宙創造の始まりから永遠に定めているのだから、人間の判断の余地はない、と唱えました。これを「二重予定説」と呼びます。

神が全知全能であり完全な善であるのなら、なぜこの世に悪が存在し、しばしば心正しき人より栄えているのだろうか、という問いは、あらゆる合理的宗教が解決しなければならない問題です。カルバンの二重予定説は、「人間にとって不合理に見えても、人知のはるかに及ばぬ神の意志から見ると十分合理的なのである。これを問いかけることこそ人間の不遜、神への冒涜にほかならない」と考えました。

カルバンの神は、いと高きところで、救う者と滅ぼす者とを定めた峻厳きわまる神でした。こうした神にたいし、カルバンのように自分は救われていると確信がもてる人間ならいいのですが、通常の人間はどうすれば信仰を保てるのでしょうか。ルターなら「信仰のみ」で自己の内面を満たすことが、救いの確信を得る道だと教えるでしょう。

カルバンの教説では、人間が知りうるのは、救いを予定された者と滅びを予定された者とがいる、という真理のみでした。教会も牧師も隣人も家族すらも助けてはくれません。超絶的存在である神と孤独に向き合う人間にとって、日々正しい行いを続けることで神の栄光をあらわすことだけが、滅びに予定された者でないあかし、として受けとめられました。しかし、そもそも人間の行為は、救われるかどうかにはなんの力にもならないのですから、「あかし」は確証ではありません。また、ひとたびでもあやまちを犯すと、その「あかし」すらなくなってしまいます。そうした不安を振り払うために、与えられた職業に没頭するよりほかありませんでした。

ルターによれば、人間は内面に恩寵を満たしてキリストと一体化すべき「神の器」でした。一方カルバンによれば、人間のために神があるのではなく、神の栄光をあらわす「道具」として人間が存在するのです。したがってカルバン派の信者は常に緊張した社会生活を送り、しかも現状に安住することなく、駆り立てられるように働くのでした。

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第八講 ヒューマニズムと宗教改革⑨

人文主義者から宗教改革者へ

  ルター派は結局東部ドイツの封建諸侯権力と結び付き、ドイツ的な教会にとどまりました。これは、ルターの改革が彼個人の内面的な体験にもとづき、外面的な変革をまったく無視したことに根本的な原因がありました。そのために、ローマ教会の権威を認めず聖書(福音)のみに従う新しい教えを信者が生活の中で実践しようとするとき、ルター派の教会はその具体的な方法を提示できなかったのです。しかし、ローマ教会から独立して新たな教会を打ちたてたという点では、歴史上大きな意義を持っていました。それまでの改革者は「異端」として葬り去られるか、よくても、西欧社会から追放されるかに終わっていたからです。

  このルター派が先鞭をつけた道をさらに発展させ、西欧を近代社会へと導いたのが、改革派と呼ばれる諸教会であり、そのなかでも影響が大きかったのが、カルバンのジュネーブにおける改革でした。改革派教会がルター派と異なるのは、その指導者の多くが人文主義から出発したことです。人文主義者は、ギリシア語・ラテン語に通じ、文献学の基礎にたって聖書を解釈する論理性や、時代の要請に敏感な感覚、そして国際的な交流網を持っていました。改革派の教説が、体験によってではなく思索によってえられたことも、市民層の経済活動に倫理的根拠を与えることができたのも、全ヨーロッパに展開していったのも、人文主義がベースにあったから、といえましょう。

  ルターより一世代後になるジャン・カルバンも、パリ大学で人文主義を学んでいます。カルバンは古典学者でしたが、ルターの影響を受け、福音主義(聖書中心主義)に身を投じました。しかしフランスで福音主義者を名乗ることは、きわめて危険なことでした。国王フランソワ一世は、フランス国内のカトリック教会を自分の権力下に収めていたので、フランスにおける宗教改革を好ましく思っていなかったからです。ドイツの諸侯と手を結び、宿敵である神聖ローマ皇帝カール五世を苦境に陥れる、という戦略的な目的のために福音主義に寛容であった時もありましたが、最後は弾圧をもって臨みました。

  カルバンもフランスから亡命し、スイスのバーゼルに逃れます。ここで彼は『キリスト教綱要』を執筆し、改革派の神学を体系化しました。この書によってカルバンの名は大いに高まりました。一五三六年、カルバンはシュトラスブルク(現在のフランス領ストラスブール)に向かう途中ジュネーブに立ち寄りますが、そこで活動していた改革派のファレルたちに強く懇願されて、彼らに加わります。カルバンたちが目指したのは、改革派教会が定めた規律をもって市民生活を規制していく、という政教一致的な政策でした。しかし、これには自由主義者市民の多くが反対し、いったんカルバンとファレルは追放されてしまいます。

  その後カルバンはシュトラスブルクに留まり、神学教授兼改革派牧師を勤めました。この地で彼は改革派の生活実践について思索を深め、また自らの生活においても妻を迎えました。そんなカルバンに、ジュネーブから招へいの知らせが届きます。五年前の改革は失敗に終わりました。そのため彼はかなり迷いましたが、結局ジュネーブに戻ります。

  ジュネーブでは自由主義者の反感、憎悪、妨害と戦いました。幾度も窮地に立たされましたが、強靱な意志でこれに耐え、果断に対処しました。ときには弾圧や処刑をもって報いたために、カルバンには冷酷、偏狭の評がつきまといますが、そこまで徹底して戦わなければ、改革は中途半端におわり、新しい時代を切り開くことはできなかったのです。カルバン自身は教養豊かでバランスのとれた人間でしたが、時代が彼に冷徹なることを求めたのです。

カルバンが戻って十五年経った一五五六年ごろになると、ジュネーブもようやく落ち着き、全ヨーロッパの改革派教会の中心地・司令部になっていました。一五五九年には、改革派のための大学を創設します。ここでカルバンの神学をたたきこまれた者たちが、ヨーロッパの国々へ散っていきました。元来病弱であった身体に鞭打って、宗教改革の完遂に生涯をささげてきたカルバンは、一五六四年、ようやくその勤めから解放されます。彼の遺体は、彼の遺言に従って、共同墓地に墓標も立てずに葬られました。

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第八講 ヒューマニズムと宗教改革⑧

保守派ルター

  むしろ、ルターは社会の変革には否定的でした。『キリスト教者の自由』のなかでも、隣人愛のためには己を下僕としなければならない、と述べています。信仰を拠り所にした者は、すべてのものから自由であるからこそ、教皇や国王が定めた法律にも適応することができます。いいかえれば、肉体はくびきにつながれていても、魂は自由な状態になれる、というのがルターの主張でした。だからくびきから逃れようとするのは、魂の救いには何の関係もない、肉体の要求であるとして、斥けたのです。

  宗教改革三大文書を書き上げたルターは、神聖ローマ皇帝カール五世によって帝国議会に召喚され、その場であらためてローマ教会からの破門と帝国からの追放を宣告されます。その直後、ザクセン選帝侯に保護された彼は、一年ほどをかけて聖書のドイツ語訳を行いました。そして「改革者ルター」も、ここで幕を閉じます。

  一五二四年から翌年にかけて西南ドイツを中心に、領主の不当な収奪にたいして農民一揆がおこりました。農民側は十二カ条の要求を掲げると同時に、かれらの要求が聖書にもとづくものであるかどうか、ルターら十五名の神学者に意見を求めました。ルターは、領主の搾取に苦しむ農民に一定の理解を示す一方、暴力による解決は神の道に反するものだとして、農民の自制をもとめます。ルターの結論は、農奴のままでもキリスト者の自由を享受できる、というものでした。たとえくびきにつながれようとも、それが与えられた環境ならそこにとどまらなければならい、と考えていたルターには首尾一貫した回答でした。

  その後農民一揆が過激化して、各地で武力衝突が起きるようになると、ルターは激しく農民を非難するようになります。そして諸侯・領主にむかって、農民を徹底して弾圧すべきだと勧めます。農民一揆は、その内部崩壊も手伝って、一五二五年中に鎮圧されました。

  こうして社会変革の動きにいっさい背をむけたルターは、大衆は放置しておくと秩序を乱すものだとの思いを強くし、諸侯・領主との結び付きを深めます。ルター派教会は、平信徒の監督という目的のために、諸侯の権力機構と一体化していきました。諸侯もカトリック派である皇帝への対抗と、領内の支配力強化を目的として、ルター派教会を保護しました。

  プロテスタントという呼称は、一五二九年、ローマ教会の正当性を強制しようとした皇帝にたいして、ザクセン選帝侯をはじめとするドイツ諸侯が抗議書(プロテスタティオ)を提出したことに由来します。しかしそれは、中世の亡霊である神聖ローマ皇帝にたいする、中世的封建社会にしがみつく封建領主からの抗議にすぎなく、それを宗教面から支えたのがルター派教会だったのです。

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第八講 ヒューマニズムと宗教改革⑦

ローマとの訣別

  しかしローマ教会はそう受け取りませんでした。信仰や教義の解釈について教皇は絶対に正しい、ということを建前にしているローマ教会にとって、ルターの指摘は、この建前への疑念に他ならなかったからです。ですから一度は穏便に収拾するかに見えたルター問題は、ルターが教皇への忠誠を何度も表明していたにもかかわらず、ローマ教会側からルターを破門するという結果になりました。

  事ここにいたって、ついにルターも反ローマの態度を鮮明にします。ローマから「破門威嚇書」が出されると、宗教改革三大文書と呼ばれる『ドイツ国民のキリスト教貴族にあてて』『教会のバビロン捕囚について』『キリスト教者の自由』を半年足らずで書き上げました。第一の文書では、ローマ教会によるドイツのキリスト教徒からの経済的な収奪を指摘し、ドイツの諸侯の民族感情に訴えて、ローマ教会からの独立を求めました。

  第二の文書では、ローマ教会の七つの秘蹟(洗礼、堅信、聖体、告解、叙階、婚姻、終油)を否定し、洗礼と聖餐の二つを典礼として認めました。先に述べましたように、このころすでにルターは、使徒パウロの「信仰による義人は生きる」という言葉から、ただ神の恩寵を信ずることによってのみその魂が救われる、との確信を得ていました。いいかえれば、罪の赦しにたいして、人の行為がなんらかの効用をもつのではなく、また教会や聖職者に功徳があるのでもないことを主張したのです。

  ローマ教会を中心にするカトリックも「信仰のみ」を教義にしていました。しかし同時に、人間の意志や行為が「罪の赦し」に及ぼしうる余地をまったく認めていないわけでもなかったのです。人間の側になんの力もないとなると、心正しく生きようとするはげみがなくなるためです。ここにカトリックの教義の「懐の深さ」があったのですが、ルターには欺瞞にしか思えませんでした。

  第三の文書は、一般の信者むけに書かれたもので、ルター派教会の基本的な考え方をまとめたものです。「たといあなたが足の爪先までも純粋に善行のみであったとしても、それによって義とされもしない」「キリスト者は信仰だけで充分であり、義とされるのにいかなる行いも要しない」「たしかに彼はすべての戒めと律法とから解き放たれているし、解き放たれているとすれば、たしかに彼は自由なのである。これがキリスト教的な自由であり、『信仰のみ』なのである」。

  「信仰は単にたましいが(中略)救われるようにするばかりでなく、(中略)あたかも新婦をその新郎にめ合わすようにキリストと一体ならしめる」「そこでキリストのもっておられたすべての善きものと祝福とはたましいに所属することになり、同様にたましいに属していたすべての不徳と罪過とはキリストに託せられる」。ルターの信仰は、罪人である人間が神の恩寵を信じることによって、罪人のままキリストと一体化して魂の救いを得るというものでした。信仰のみを拠り所とし、キリストを受容する、受動的な態度です。つまり、そこからは主体的に社会を変えていこうという動力は生じてきません。ここにルター派の限界がありました。

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第八講 ヒューマニズムと宗教改革⑥

罪のあがないを求めて

  エラスムスがスーパースターから、孤独な「異端容疑者」へ転落したきっかけになったのは、先に述べましたように、マルティン・ルターの宗教改革でした。しかしルターに始まる宗教改革は、十五世紀までのヨーロッパ人の精神を支配していたカトリック教会の権威をも失墜させました。話を二十年ほど戻して、そのルターがいかにしてローマ・カトリック教会と訣別したかを見てみましょう。

 ルターは、ドイツ東部の修道院で修行する修道僧でした。彼はたいへん真面目な修道僧で、真面目なあまり、自分が求める魂の救いがとてもたどりつけないことのように思えて、苦しみ、ふるえおののいていました。その昔エデンの園で、人類最初の女イブがへびにそそのかされ、その夫アダムとともに禁断の実を食べてしまいました。神はこれを怒り、かれらおよびその子孫に、生きるためには一生苦しまなければならないという罰を与え、楽園から追放しました。完全な善である神が創造した物であるにもかかわらず、人が悪に誘惑されやすく罪を犯しやすいのはここに起源があり、「原罪」と呼びます。

  ユダヤ教では、神による宇宙創造は現在も進行しており、これが完成に近づくと救世主を遣わし、人間ひとりひとりを生前の行いにもとづき「最後の審判」にかけると考えます。もし生前に罪を悔い改め、神がモーセを通じて人間に与えた律法を遵守していれば、義人として永遠の生命が与えられます。しかし律法を守らず罪人のままだと、永遠の滅びに落とされ、呪われた魂となります。これが神と人間との契約であり、律法は、契約を人間の側から守る倫理・生活規定でした。

ユダヤ教から派生したキリスト教も「原罪」の考えを受け継いでいます。ただキリスト教では、イエスが人の罪を肩代わりして十字架にかけられたことによって、律法を通じてではなく、イエス・キリストへの信仰を通じて義人となる道がうまれた、と考えるのです。ですからキリストへの信仰は、新しい神との契約であり、キリスト教が世界宗教になりえたのも、救いへの道をユダヤの律法から解放したからでした。

  マルチン・ルターは、修道院で厳しい修業や苦行を積みましたが、積めば積むほど、自分は罪人であるという思いから逃れられませんでした。神は、新しい契約によって、律法ではなくキリストへの信仰という「義人への道」を与えられました。しかし、いかに真摯に信仰し修業や苦行を行っても、罪人であるという意識を払拭することはできません。むしろ心が掃き清められればられるほど、完全に正しき心になるのは、神ならぬ人間には不可能なことに思えたのです。

 そんなルターのおののきを取り払ってくれたのが、新約聖書にある、使徒パウロが書いた「ローマ人への手紙」にある、「信仰によって義とされる」という考えです。パウロも悩み苦しんで、ユダヤ教徒からキリスト教徒へと回心しました。イエスの直弟子たちがユダヤの律法にこだわっていたのに対し、パウロは律法ではなく信仰によってのみ義(ただしい)人になることができる、そのためにイエスは人の罪をあがなって十字架につけられたのである、と主張しました。人を義とすることができるのは、律法の遵守でも厳しい修行でもありません。ただただ信仰のみ、なのです。パウロと同じように苦しんだルターが、パウロの言葉に救われたのは自然なことだったかもしれません。

  ルターが修道院の中で悩み苦しんでいたとき、世俗社会では免罪符というものが売られていました。もともと免罪符とは、ローマ教皇が発行する、罪の償いが免除されると信じられていた証書です。なぜそんなありがたい「効用」があるかといいますと、キリストがその弟子ペテロに魂を救済できる力、使っても使っても尽きることのない力を委ねた、と信じられたことによります。歴代ローマ教皇は使徒ペテロの後継者ですから、その「力」は教皇庁に貯えられており、信者は免罪符の購入によって、その恩恵にあずかることができるというのが教会の説明でした。

  免罪符もはじめは、ささいな教会への寄付金であったかもしれませんが、やがて教会の収入に大きな割合を占めるようになっていきました。とくにイギリスやフランスが国王中心の集権国家へ生まれ変わり、聖職者への叙任権や教会・修道院への課税権を国王側が確保するようになると、これらを収入源にしていたローマ教会は、財政の基盤をもっぱら集権国家化が遅れているドイツに頼るようになりました。宗教改革が後進国ドイツで始まった背景には、こうした経済事情があったのです。

  ルターが直面した免罪符も、ブランデンブルク辺境伯の弟が大司教の地位を手に入れるために、ローマ教会への支払代金を大富豪フッガー家からの借金でまかなったことに端を発していたました。すなわち、大司教の管区内で免罪符を発行し、フッガー家が貸付金の取り立てとして免罪符の売上を回収するという形をとりました。しかもその販売にあたっては、「お金が箱の中でチャリンと音を立てさえすれば、親類や友人の魂は煉獄の焔の中から飛び出し天国へに舞い上がるのだ。免罪符を買えば、キリストの母マリアを犯しても許されるのだ」と、とんでもない口上が使われていました。

  どのような善行も義人への確信に導くことができない、と悩んでいたルターにとって、この免罪符販売は明らかに誤った行為です。一五一七年、ルターは有名な「九十五カ条の論題」を発表します。この時点のルターには宗教改革の意思などはなく、教会関係者にいきすぎた免罪符販売を正すようにうながすだけのつもりでした。

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第八講 ヒューマニズムと宗教改革⑤

夢は遠く

  エラスムスの死の前年、彼の親友であったトマス・モアが処刑されます。

  モアは大法官という、イギリス国王顧問としては最高の地位に登りつめましたが、本来望んだ地位ではありませんでした。たしかに彼は法律家・政治家であり、外交使節としてイギリスの国益のために外国との交渉にも携わったこともあります。しかし法律家と修道士とのいずれを選ぶか真剣に悩んだ時期もあったくらいです。またエラスムスとの親交でも分かるように、第一級の人文主義者としての一面もあった彼にとって、政治家としてのキャリアを積むのは、けっして幸福なこととはかぎらなかったのです。

  モアは『ユートピア』のなかで、世界一周を果たした賢人ラファエル・ヒロスディの言葉を借りて、こう本心を明かしています。「現在の領土をそのまま平和にうまく治めてゆくということよりも、正当の権利があろうがなかろうが、なんとかして領土を拡張しようと一生懸命になっている」君主の顧問になるのは、労力の無駄である。また君主のまわりには、これにへつらい、国民から財産を絞り取ることしか考えていない「顧問」がいて、たとえ自分が正論を述べても、こうしたとりまき連中に妨害され、実施される可能性はない。それよりも、富も権力も求めず、悠々自適の生活を送る方がどんなに仕合わせか知れやしない。

  だが皮肉なことに、『ユートピア』が出版された翌年、ヘンリー八世に懇願されたため、意に反して政治顧問となりました。そしてその十年後、彼の人生を破滅へ導く事件が起こります。

  一五二七年、ヘンリー八世はスペイン王室出身の王妃との結婚が成立していなかったことの認定を、ローマ教皇に求めました。ヘンリーの王妃キャサリンは、もともとヘンリーの兄アーサーへ嫁いでいたのが、アーサーが数ヵ月で急逝したので、弟のヘンリーと再婚することになったのです。ところがヘンリー八世は、結婚後二十年も経って、自分との再婚は「兄弟の妻と姦淫してはならない」という聖書の教えに背く行為である、と主張したのです。王の本当の理由は、キャサリンが女子(後にブラディ・メアリとおそれられた女王)以外、子供がいなかったからです。当時は男子相続が建前でしたから、後継者を生めない王妃は不要になったのです。もちろん、若い侍女を妃(彼女から生まれたのがエリザベス一世)にしたいという理由もありました。

  ヘンリーの離婚問題はローマとの交渉にその可否が委ねられましたが、交渉が回を重ねるに従い、ローマ教皇との溝は深まるばかりでした。一五二九年になると、たんなる離婚問題では収まらず、イギリスの教会は最終的に誰の決定が優先するのかが問われました。そしてヘンリーは、結婚という宗教にかかわる問題も、イギリスにおいてはイギリス国王が最終的な決定権を持っていると解釈します。これは実質的にローマ・カトリック教会との訣別でした。エラスムスと同様、新旧教会の統一を望んでいたモアは、さらなる教会の分裂につながる国王の離婚に批判的な態度をとりました。

  しかし大法官たる者が国王の政策を批判することは、ヘンリーには我慢ができませんでした。一五三二年の「王位継承令」への署名を拒んだモアは、ロンドン塔に幽閉されます。次に成立した「王位至上令」は「国王はイギリスの教会の地上における最高首長であること」を確認し、これに反対するものを「大逆罪」で死刑にできることを決めました。国王の離婚およびローマ教会からの離脱に反対していたモアは、この罪で断頭台へ送られました。社会どころか自分の生活すらも理想通りに行かなかったモアの悔しさは、いかばかりだったでしょう。

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第八講 ヒューマニズムと宗教改革④

エラスムスとルター

  一五一七年、ドイツの神父マルティン・ルターによって、宗教改革の狼煙が上げられました。エラスムスはこのルターに、はやくから協力を求められています。ルターにとって、当代一のスーパースターと音信を交わしておくのは、味方を増やすのに得策だったからです。エラスムスも人文主義者の立場から、ローマ教会が定めた教理典礼ではなく、聖書や教父の著作を直接理解することを重視した点で、ルターと通じるものがありました。彼は、一五一九年のルターからの手紙にたいして、ルターへの理解を示す一方、論争はあくまで教皇そのものに向けられるべきではない、と忠告もしています。

  しかし一五二一年にローマ教会がルターを破門し、ルターも公然とローマ教会と対立するようになると、エラスムスは急速にルターと距離をおきます。もともと人文主義者としてのエラスムスは、平和主義者であり、ヨーロッパが宗教によって分裂し両教派が争うのを望んでいませんでした。できれば穏便に事態が収拾されるのを願っていたのです。

  また、魂の救いにたいしては、人間がどれだけ善行を積んだとしても何の効力ももなく、神の恩寵を信じひたすらこれにすがるほかない、というルターの信仰は、人間の理性を尊重するエラスムスには受け入れがたいものでした。彼も、表面的な善行はよろしくないと否定しますが、救いの道へ向おうとするという意志は人間の理性から生まれるものである、と論じます。つまり神の恩寵にすがるだけの人間ではなく、本来自由な意志を理性によって正しく使っていった結果が、救いの道へ向かい神の恩寵を信じるという行為なのです。一五二四年に書かれた『自由意志論』は、エラスムスからの反ルター宣言でした。

  エラスムスは結局カトリック側にとどまります。しかし、カトリック側はエラスムスを信用していたわけではなく、かえって、新旧両教派の再統一を望んでいる彼を異端視していました。往年のスーパースターは、図らずも宗教改革運動に巻き込まれ、そのために孤立したまま一生を終えることになりました。

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第八講 ヒューマニズムと宗教改革③

ベストセラー作家

  エラスムスは、人文主義者の代表格といえましょう。それは、彼が人類史上初のベストセラー作家だったからです。一四五六年にグーテンベルクが活字印刷を発明して以来、印刷術は少しずつヨーロッパで普及し、出版業者も現れていましたが、作品が次々にヒットして経済的に大成功した作家は、エラスムスが最初でした。エラスムスの著作は、印刷機を経ることで、短期間のうちにベストセラーになっていきました。

  ただしエラスムスは、作家が本業だったわけではありません。彼の専門はあくまで神学の研究でした。修道院で学んだ後、司祭に任ぜられ、パリ大学にも留学したことがありました。三十三歳のときイギリスへ渡る機会があり、そこでエラスムスより十歳以上年下でしたが才能豊かなモアと知り合いました。以後二人の友情は死ぬまで続きます。 

  イギリスではもうひとり、エラスムスの生涯に決定的な影響を与えた人物と会います。ジョン・コレットという貴族です。コレットは、フィチーノによって当時のヨーロッパ思想界の主流となっていた新プラトン主義の、イギリスにおける中心人物でした。エラスムスは、聖書そのものや、神学の基礎を築いた中世以前の教父たちが書いたもの、つまり原典に忠実にあたることが、神学の正しいあり方であることをコレットから学びました。それが、人文主義者エラスムスの出発となりました。

  イギリスからフランスへもどる際、イギリスの通貨持出し禁止令にひっかかり、有り金を没収されてしまった彼は、その損失を取り戻すべく、得意のラテン語を駆使した『古典名句集』を出します。これが大当たりで、たちまちヨーロッパ中に読まれました。彼の最初のヒットは、神学に関するものではなく、一種の慣用例集だったのです。その後も古代四大博士に数えられるヒエロニムスの文献研究や、新約聖書の注釈に力を注ぐ一方で、『古典名句集』の改定版、『キリスト教兵士提要』とベストセラーを発表していきました。

  そしてベルギー、オランダ、イタリア滞在をへてイギリスへ再び渡ったエラスムスは、代表作となった『痴愚神礼賛』を著します。この作品には親友モアへの献辞が記されていますが、作品に登場する痴愚神モリアも、モアの名にヒントを得たものでした。痴愚神モリアは、人間がいかに愚かな生き物であるかを説きます。また、知ってしまうと幻滅してしまうようなことにも幸せを感じて生きることができるのは痴愚のおかげだ、といって痴愚の効用にも触れます。さらに、賢人とされている学者、王侯・貴族、聖職者を槍玉にあげ、かれらの愚かさを徹底してこき下ろすのです。最後はエラスムスの聖書解釈を痴愚神に語らせて、痴愚神の名に隠された彼の知性をあらわにします。

  『痴愚神礼賛』の初版千八百部はたちまち売り切れ、一年足らずで版を五回も重ねました。エラスムスは十六世紀初頭のスーパースターでした。彼から手紙をもらったことがある、というだけで有名人になれたといいますから、今日の流行作家の比ではないでしょう。もちろん神学者としても偉大な業績をあげています。一五一六年に出版された『ラテン語注釈付ギリシア語新約聖書』は、新約聖書の原典を初めて活字にしたものであり、ヒューマニスト・エラスムスの面目躍如の書でした。

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第八講 ヒューマニズムと宗教改革②

人文主義

  人文主義はヒューマニズムの訳語です。しかし日本語でヒューマニズムというと、人道主義の意味に取られてしまいます(人道主義を意味する本来の英語は、ヒューマニタリアニズム)。いうまでもありませんが、ヒューマニズムの語源はヒューマン(人間)です。したがってヒューマニズムは、他の動物にはない、人間だけに備わっている特性、すなわち言語や理性などを尊重する考え方や学問の態度のことを意味します。とくに中世のスコラ哲学が、重箱の隅をつつくような、議論のための議論になってしまったとき、これにあきたらなくなった十四世紀から十六世紀のヨーロッパの知識人に広く受け入れられました。

  言語を尊重する態度から、古典研究が盛んになったのは当然のなりゆきです。中世後半から、ギリシア・ローマ時代の古典はヨーロッパに紹介されてきましたが、その解釈はキリスト教の文脈にしばられていました。しかし、そもそもギリシア時代にはキリスト教はなかったのですから、これにとらわれるのはおかしなことです。人文主義者たちは、宗教にとらわれない、言語に忠実な解釈を心掛けて原典に当たろうとしたのです。

  また、人間の理性にたいし楽観的な信頼を置き、個人、とりわけ個人の自由な意志を尊重しました。ですから、われわれがふつう「ルネサンス」という語から思い浮かべる、人間性の開放などの明るいイメージは、(本来の意味での)ヒューマニズムが大きく貢献しているのかもしれません。

  人間の理性を尊重しますから、ヒューマニズムは平和主義でもありました。この時代は、動物の生態学は発達していませんでしたから、人間以外の動物の場合、争いは暴力でしか解決できない、つまり弱肉強食が常であると考えられていました。ヒューマニズムは、人間なら理性で争いを回避するすべを見つけられるはずだ、と信じます。また、ヒューマニスト(人文主義者)はラテン語を共通語としており、著書もラテン語で出版すれば、ヨーロッパ中で読まれました。そのため、ヨーロッパはひとつという思いが強かったのです。そんな彼らにとって、ヨーロッパの国々がわずかの領地をめぐって戦争を繰り広げるているのは、耐えられないことでした。

  ただ、オランダ生まれの人文主義者エラスムスは『平和の訴え』のなかで、平和の女神に、人間より自然界の動植物の方が協調し合って生きている、と言わせています。キリスト教という、愛と平和の教えがあるのに、人間はどこへいっても争いが絶えません。いやひとりの人間の中でさえ、調和がとれておらず、欲望や感情で平衡が乱されています。しかし『平和の訴え』を書くこと自体、エラスムスが人間を信じ、平和の到来を信じていることにほかならないのではないでしょうか。

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第八講 ヒューマニズムと宗教改革①

理想郷物語

  一五一六年、イギリスで『ユートピア』という本が出版されました。ユートピアは、著者トマス・モアがギリシア語から造った語で、「どこにもない理想郷」という意味です。

  理想郷物語を書くことで自分の理想社会を表現するのは、モアのオリジナルではありません。すでにその千九百年前、古代ギリシアの哲人が行っています。プラトンはその著書『国家』で、哲人が支配する、規律正しく平和な国家を語り、無知な市民が煽動政治家にあやつられていた当時のアテネを批判しました。プラトンは現実世界でもこの理想を実現しようとしましたが、かえって弟子ともに政争に巻き込まれ、失敗に終わりました。その後、彼の他の著作に書かれている島と、理想国家が合わさって、アトランティス伝説が生まれました。太古、地中海の西端ジブラルタルのさらに西の大海に、アトランティスと呼ばれる大陸があり、平和で豊かな文明が築かれていたが、天災により一夜にして海底に沈んだ、というのです。大西洋を英語でアトランティック・オーシャンと呼ぶのは、この伝説に由来します。

  一方、キリスト教でいう理想郷とは、アダムとイブが住んでいた「エデンの園」であり、終末にキリストの裁きを通った者だけからなる「神の国」です。そのため、キリスト教の価値観が世俗を強く支配していたヨーロッパ中世では、見知らぬ場所に、人間によって統治されている理想的な社会が存在するという、ユートピア物語が成立することはありませんでした。

  十五世紀になると、ヨーロッパは大航海時代に入ります。喜望峰やインド航路の発見、地球球体説にもとづく世界地図の作成、これを信じて西へ西へと進んだコロンブスの新大陸発見は、西欧人の目をヨーロッパの外に向けさせました。また、十四世紀から続いていた戦乱は、平和への希求を人々に呼び起こしました。モアの『ユートピア』は、こうした時代を背景に書かれたものであり、その後フランシス・ベーコンの『ニュー・アトランティス』やカンパネラの『太陽の都』へと続く、ユートピア物のはしりでした。

  『ユートピア』における理想的な状態とは、やりたいことがいつでもでき、欲しいものが何でも手に入る、といった物質的なものごとではありません。その社会では、人間の幸福は「善良で健全な快楽」、とくに精神(心)の快楽にある、とされます。そして精神の快楽は、人間本来に備わっている「理性の導き」にしたがって「秩序づけられた生活をおくる」ことにより得られる、とモアは言います。人文主義者モアらしい人間観でした。

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