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2009年2月

特別編

今日は50歳の誕生日。

当たり前ですが、何も変わりません。

断続的な変化は起きようがないからです。

むしろ日々の心構えの方が大事。

日々、少しずつ実行していく方が大事。

少しずつしか変われないのだから。

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第十一講 近代哲学の地平②

自然科学と哲学

  十六世紀以降、西欧の数学、天文学、物理学は目覚ましく発展しました。十八世紀初頭のニュートンは一連の発見・発明の到達点といえます。しかし同時に、自然科学と哲学は不可分でもありました。自然は神の被造物ですから、自然の構造や運動の法則を探求していけば、神の偉大な計画を垣間見ることができる、と考えたからです。つまり、存在の本質や、神・霊魂についての思索(形而上学といいます)は、自然科学(おもに物理学や天文学)を突き詰めた後に見えてくる分野だと思われていました。ですから自然科学者は哲学者でもありました。そして哲学者も自然科学への関心が深かったのです。ガリレオ、ブルーノ、デカルト、パスカル、スピノザ、ライプニッツ、ロック、ニュートン。かれらの自然科学と哲学(や形而上学)を切り離すのは不可能です。

  カントの出発点も自然科学でした。最初の論文では、ニュートン物理学を用いて、宇宙の構造と発生の起源を推論しています。彼も、宇宙発生のなかに創造者の意図を読み取ろうとしました。人間はその肉体において有限であり、いずれは滅びるべき存在ですが、その霊魂は永遠であるがゆえに、永遠なる存在、すべての存在の源となっている最高存在にあこがれます。実在を超えたところにある存在、霊魂、神への確信と関心は、カントが小さいときから育まれてきた宗教心と密接に結び付いていました。

  そんな彼にとって、経験論者ヒュームの思想は衝撃的でした。デカルトに始まる大陸の合理論は、揺るぎない認識から出発して、理性を働かせて論理を展開しながら、真理をひとつひとつ見つけていくアプローチです。若いカントもこの系列にいました。これに対しベーコン、ロック、ヒュームへとつながるイギリス経験論は、認識は経験によって作られるものという立場を取ります。したがって真理を見出すためにも、経験の中でひとつひとつ実証していくアプローチをとりました。とくにヒュームは、自然科学の法則と信じられていることも、経験のなかで繰り返し観察される現象にすぎないと考えました。ですから、こうした現象を経験から切り離して、普遍的な因果関係あるいは法則と認めることに反対しました。しかも、この因果関係を頭の中だけで展開させて神の存在を論じることはできない、というのがヒュームの説でした。

  ヒュームの思想は、自然科学の延長上に形而上学があるという考え方を否定するものです。しかしカントの信仰心は、形而上学そのものを否定することはできません。そこで彼は、ヒュームの経験論を認めながら、形而上学への道を探ることになります。

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第十一講 近代哲学の地平①

 

辺境の地の哲学者

  十八世紀のドイツに、彗星のように勃興してきた国がありました。ベルリンを中心とするプロイセン(プロシア)王国です。イギリス、フランス、オーストリアがヨーロッパの「桧舞台」だとすれば、プロイセンはその東北に位置する「辺境」でした。そんなプロイセンのなかでも東の辺境に当たるケーニヒスベルク(現在のロシア領カリーニングラード)で、一七四〇年、地元から一歩も出たことのない若者が、そのまま地元の大学に入学します。若者の名はイマヌエル・カント。

  カントは、敬虔主義派と呼ばれる宗派の家に生まれました。敬虔主義派は、ルター派のさらなる改革としてドイツで起こった宗派です。十六世紀に宗教改革の狼煙を上げたルター派が、その後急速に諸侯の権力と結び付いて保守化したのは、第八講で述べたとおりです。また、本質的に世俗への働きかけには消極的な宗派でしたが、十七世紀になると一般信徒の教会に対する態度も、牧師の説教を受動的に聴くだけになっていました。そこで、信者がより積極的に教会活動へ参加し、信仰を深め合うだけでなく、生活の中で実践していかなければだめだ、という運動が起こりました。ただ、内面を信仰で満たそうとするルター派の教理を基本にしていましたから、その道徳は家父長的であり、現世の身分秩序にはきわめて従順でした。信者は誠実で勤勉ではありましたが、カルバン派のように現実社会の改革へ向かうことはなかったのです。

  近代ドイツの哲学者には、敬虔主義派の家庭で育まれた人が多くいます。ヘーゲルやニーチェもその例です。彼らの哲学は、敬虔主義派の教えに従ったり反発したりしながらも、その影響を色濃く残しています。カントの場合も、信仰篤い母親の教育が、その哲学のバックボーンとなりました。

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第十講 理性の世紀⑧

寛容と革命

  「知識人の王者」ヴォルテールも、六十代の半ばからはほとんど隠棲状態にありました。南フランスの彼の住まいの近くには、トゥールーズという都市があります。この地方はもともとカトリック教会の力が強い土地柄でしたが、信教の自由を許したナントの勅令が廃止されると、カトリックによる新教徒への迫害が激しくなっていました。

  七十歳を越えていたヴォルテールの耳に、トゥールーズにおける新教徒虐殺の話が伝わったとき、老人は敢然と立ち上がりました。かれは、宗教と迷信、信仰と狂信の違いを訴えます。正しき人を導き、平和を愛する神が、こうした虐殺を許すはずがありません。カトリックであろうと、新教徒であろうと、魂を救われたいと望む人の命を理由もなく奪うのは間違っています。

  ヴォルテールが説いたのは、寛容の精神でした。理性による判断を経ていない盲信では、隣人愛は同じ宗派の人間にかぎられます。ですから自分とは違う教理を信ずるものを憎もうとします。しかし理性を働かせれば、相手が同じ人間であること、教理が異なるとはいえ魂の救いを求めて同じ神を信じていることはすぐに分かるはずです。何の理由もなく、自分に危害を加えようとするはずはありません。ならばどうしてひとつの国に、ひとつの町に住むことができないのでしょうか。

  啓蒙主義は、イギリスのジョン・ロックが道を開き、ヴォルテールが全ヨーロッパに広めたといわれます。啓蒙という日本語だとなんだかいかめしい語感がありますが、英語ではenlighteningです。つまり光を当てることを意味します。啓蒙主義は人間の理性に光を当てます。理性の力を信じ、それぞれが理性を働かせて価値観や信仰を選びとるのです。また、互いの価値観を尊重し、寛容の精神で共存できます。これがロックやヴォルテールの啓蒙主義でした。

  ヴォルテールの著作は、フランス絶対王制を支えた血統と宗教による支配の愚かさを暴き、理性による社会原理を打ち建てる火をつけました。その火は次第に大きくなり、ヴォルテールが死んで五年たって、彼もかつてつながれたバスティーユの牢獄を襲撃する力となりました。革命の炎は、パリからベルサイユへと延び、宮殿の主人を王座から引きずり降ろしてしまいます。ルイ十六世は処刑前の獄中で、ヴォルテールとルソーの本を読んだとき、彼らがブルボン王朝に引導を渡したことを悟りました。

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第十講 理性の世紀⑦

知識人の王者

  十六世紀のエラスムスが世界最初のベストセラー作家なら、十八世紀のヴォルテールは最大のベストセラー作家でした。ヴォルテールの著作は知識人だけでなく、一般大衆にも広く読まれました。また彼の戯曲は、不評なものもいくつかありましたが、多くが人気を博したため、文字という媒体以外でも彼の思想は人々に受け入れられました。

  それと同時に、彼はフランスの絶対王制にとって危険な人物でもありました。二十代で二度もバスティーユの獄につながれています。ベルサイユの宮廷詩人を務めた時期もありましたが、官憲に追われることが多かったようです。彼の著作のほとんどは、国家と教会から発禁処分を受けました。しかし国外では、十八世紀最大の知識人として、王者のようにふるまっていました。プロシアのフリードリッヒ大王やロシアのエカテリーナ女帝など、本物の王者がヴォルテールと親交を結びたがったのですから。

  彼は小説や劇によって、たくみに彼の思想を表現します。読者や観客は笑いながら、新しい哲学に目をさまされました。ヴォルテールは、政治家や僧侶のいうことを鵜呑みにせずに、自分で考えることが大切だということを説いています。すなおな心で見回してみると、世の中の決まり事なんておかしなことばかりです。ヴォルテールは、彼の戯曲のなかで、未開のインディアンや宇宙人にヨーロッパを観察させて、社会の非合理性を暴き出したのです。

  一七五六年に始まった七年戦争では、オーストリアを支援するために、フランスの兵士が派兵されました。オーストリアの国益のためにフランス人が、ドイツの地でプロシア人に殺されるのはなんとも馬鹿げています。しかしカトリック教会はフランス兵に神のご加護があるようにと祈り、ルター派のプロシアを呪っていました。リスボンの震災で三万もの人が命を落としたとき、教会は人の罪の重さを嘆きました。しかし亡くなった人にどんな罪があったというのでしょう。

  デカルトに始まる十七世紀の哲学では、こう考えられていました。この世界はあらゆる可能性の中で最善のものである、なぜなら全知全能の神は最善の世界を創造することができるし、神は完全な善であるから意図して最善でないものを創造することはない、と。ヴォルテールには、こうした十七世紀の哲学を受け入れられることはできませんでした。最善の世界でなおも人々が苦しまなければならないのは、人間が罪なる存在だからだという教会には、もっと反発しました。多くの人間が苦しむ世界が、神の栄光のためにあろうはずがありません。そんな神なら信じないほうがましです。もっと合理的に考えようではないか。人間の知恵で、戦争を回避したり、天災の被害を少なくしたりできるはずだ。ヴォルテールは、こう人々に訴えたのです。

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第十講 理性の世紀⑥

諸学問の編纂

  一七五一年から二十年余の歳月をかけて、ひとつの大事業が行われました。本文十七巻、図版十一巻からなる百科事典を編纂しようというのです。とくに十六、十七世紀に相次いだ科学上の発見や発明を受けて、これらをひとつの体系で分類する試みは、量的だけでなく質的にも、この事業をかつてなかったものにしました。さまざまの妨害や困難と闘いながら、完成までの編集責任をまっとうしたのが、ドゥニ・ディドロです。

  中世後半の学問体系であったスコラ哲学では、神の啓示がすべての価値判断の基準でした。人間の知性ではこれ以上すすめないところにたどりついたら、キリストや使徒たちの言葉によって、真理をうかがい知るのが正当な方法だとされたのです。また、神学がすべての学問の主であり、哲学はそのはしためでした。自然学の地位はそれ以下であったことはいうまでもありません。ルネサンス期にはスコラの体系は崩れましたが、人々はひとつのコスモス(秩序)が崩壊した後のカオス(混沌)のなかで、自然のなかに霊的な意志をみるような、アニミズムへと傾きました。

  一七一三年に生まれたディドロは、家庭教師などのアルバイト生活を続けながら、哲学や自然科学の書籍を乱読し、さまざまな思想を遍歴しました。彼がたどりついたのは、自然の諸現象を研究しても創造者の意図を知ることはできない、という結論でした。創造者の目的どころか、創造者すなわち神の存在そのものが、証明できないと考えたのです。なぜなら、自然の第一原因までさかのぼってもそこは混沌としており、全知全能たる神の秩序などどこにも見当たらないはずだからです。

  しかし、絶対王制とカトリック教会の支配が分かちがたく結び付いていた当時のフランスでは、ディドロの思想は危険きわまるものでした。彼は捕らえられ獄中につながれます。三カ月後に釈放された彼がすぐにとりかかったのが、百科全書の編纂でした。ディドロは、数学・物理学における功績で国際的に有名になっていた四歳下のダランベールを共同編集者にして、一七五〇年に百科全書のプランを発表します。

  彼は人間の論理的思考法を、学問体系の頂点に置きました。論理的思考法の下に、理性、記憶、想像が置かれます。つまり論理的思考を、現在、過去、未来の時間軸によって分けたのです。哲学は理性の下に位置付けられました。さらに、神学と自然学を、同格の学問として哲学の下に分類しました。ディドロは自然学を、思弁哲学に対する実験哲学と考えましたから、これを哲学の小分類にしたのです。その一方で、神学を哲学の下位分類として扱うのは、中世のスコラ哲学では考えられないことでした。しかも神学と自然学を同格にするということは、神を被造物と同じレベルにまで引きずり降ろすようなものでした。

  編集者の方針がこうでしたから、百科全書の編纂には、政界、宗教界、学界から強烈な反発が起こりました。執筆者の確保や政府との交渉、そして保守派からの妨害に、ディドロとダランベールは多大な労苦を費やしました。ダランベールは途中で編集責任を降りましたが、担当箇所の執筆は続けました。そしてようやく一七七二年に、全巻の完成をみたのです。

  十八世紀は「理性の世紀」と呼ばれます。それは理性が、神の摂理をかいま見るための手段であることをやめ、価値判断の基準にまで登りつめたからです。かつては教理が絶対であり、理性はこれと矛盾しないかぎりにおいて、その解釈を認められました。いまや、理性が教理を「合理的」と判断することで、その宗教が認められるようになったのです。

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第十講 理性の世紀⑤

神の摂理を求めて

  サンジェルマンやカリオストロが得意にしていた錬金術の起源は古く、古代エジプトでは死と再生の密議宗教に用いられ、古代ギリシアでは自然哲学を土台にしていました。古代の人々は、卑金属から貴金属を作りだそうという試みのなかで、生命を含めた自然はなぜ変化するのか、すべて変化するように見えるなかで、変化しない元素のようなものは何か、を問い続けました。ですから錬金術は、生成流転を繰り返す自然を説明する思想体系だったのです。やがてエジプトとギリシアのふたつの流れが、紀元前三世紀ごろに融合し、『ヘルメス文書』という一大思想書を生みました。

  中世ヨーロッパでは、古代ギリシア思想は異端とされたため、錬金術も魔術と同一視されました。その間、錬金術はアラビア世界で受け継がれ、ヨーロッパの表舞台からは姿を消します。しかしルネサンス期になると、中世の神学が構築する哲学や自然観にあきたらない人々が、プラトン哲学とともに、錬金術もヨーロッパに輸入しました。『ヘルメス文書』も、イタリアの哲学者フィチーノによって翻訳され、ヨーロッパ中に広められました。こうして十五世紀後半から錬金術は、ヨーロッパの哲学・芸術・自然科学の広い分野で取り入れられたのです。

  ヨーロッパ人は、自然にあるすべてのものが神の被造物であり、自然のなかで起きるすべての運動が神によって始められたものであると考えていました。そしてその自然を探求し、その構造や運動の原理を発見できれば、神の偉大な計画を、その片鱗だけでもうかがい知れると、信じていました。劣った物質から優れた物質を作り出すことは、無から有を生み出すことにも通じます。つまり神の万物創造の業(わざ)をかいま見ることになります。ですから、ルネサンス期のヨーロッパ人にとって新しい自然学であり、思想体系である錬金術への関心も高かったのです。その状況は十七世紀になっても変わりませんでした。

  十七世紀後半から十八世紀初頭にかけて、古典物理学の諸法則を次々に発見したニュートンも、錬金術を研究したひとりです。万有引力の法則は、地上の現象と天界の現象とを同一原理で説明しようとしたところに重要な意味がありました。彼自身、自然界の運動の観察からその第一原因、すなわち神へ到達することが、自然科学に与えられた使命だと考えていました。二十世紀の経済学者ケインズは、ニュートンを「理性時代の最初の人」ではなく「最後の魔術師」と呼びましたが、実は最後ですらありませんでした。フランスからイギリスに亡命し、王立協会会員にまでなったデザギュリエは、ニュートンより後、十八世紀前半に活躍した物理学者ですが、イギリス・フリーメーソンの会長でもあったからです。

  十六世紀のガリレオ、十七世紀のデカルト、そしてニュートン。彼らにとって自然科学とキリスト教とは不可分でした。物理学者、天文学者、化学者は研究対象を通じて、神の計画や摂理をかいまみようとしました。たしかに、十五世紀までの学者が神学やその「しもべ」としての哲学から自然現象を説明しようとしたのにたいし、ガリレオたちはあくまでも理性の判断を重んじています。しかし両者の究極の目的は同じでした。つまり、判断基準が神学から理性に替わったのであり、宗教が払拭されたわけではなかったのです。

  一方、十八世紀には新しい考え方も登場しています。フランス革命期の十八世紀末にギロチンの露と消えたラボアジエは、近代化学の父と称されます。彼は、自然現象についての錬金術による説明に疑問を感じ、徹底した実験によって反証しました。とくに物質の燃焼についての研究は、化学にとって、革命的な発想の転換になりました。

  それまでは、物質中にはフロギストンと呼ばれる元素があり、これが物質から出ていく現象が燃焼だと考えられていました。しかしラボアジエは、燃焼とは物質と酸素の結合にほかならないことを発見したのです。ちなみに酸素と命名したのも彼です。また「酸化」の概念から、これまで元素と考えられていた物質(たとえば水)が化合物であることも証明されました。こうして、自然学から神の摂理という背景がはがされ始めたのも十八世紀でした。

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第十講 理性の世紀④

フランス宮廷のいかがわしき訪問者たち

  フランス最後の王朝となったブルボン朝は、三代目ルイ十四世のときに最盛期を迎えます。「朕は国家なり」という王の言葉に象徴されるように、国内での王権は絶対的なものとなり、対外的にもフランスはヨーロッパ最強の国家になりました。パリ郊外にベルサイユ宮殿を建てたのもルイ十四世です。

    一七一五年にルイ十四世がなくなると、五歳の曾孫ルイがルイ十五世として継ぎます。華やかなベルサイユではサロンと呼ばれる、宮廷や貴族の屋敷での社交界がさかんでした。その主役である貴婦人たちは、競って芸術家や哲学者たちのパトロンになりました。ルイ十五世の寵愛を受けたポンパドール婦人もそのひとりです。そんなベルサイユに、一七五〇年ごろから不思議な人物が顔を出すようになります。

  サンジェルマン伯爵と自称する怪人物は、ポンパドール夫人の信頼を得て宮廷に出入りするようになりましたが、その正体はいまでも謎とされます。ユダヤ系のポルトガル人とも、スペイン王のご落胤ともいわれますが、まったく分かっていません。彼自身は、すでに二千年以上生きていると主張しつづけたといいます。実際、紀元前からのヨーロッパにおける出来事を、あたかも見てきたように詳しく語って聞かせることができたそうです。あらゆる言語を操り、あらゆる学問に通じ、芸術にも造詣が深かったといいますから、博学だったことは確かでしょう。

  サンジェルマン伯爵は、錬金術の知識も卓抜しており、みずから不老不死の薬を作ることができると誇っていました。彼が二千年以上生き続けているのもその薬のおかげだと、まことしやかに語っていました。彼の話があまりに真実味を帯びているので、聞き手はみな本当だと信じました。彼は、十九世紀初頭に実用化された蒸気機関車や蒸気船も予言したといわれます。しかしヨーロッパ中を歩き、博識ある彼なら、一六五〇年にサマセットが蒸気による揚水機を発明して以来、イギリスで蒸気機関の実験が行われていたのを知っていたことは十分考えられます。むしろ、そうした見聞をかき集めて、実用化されたときの社会生活を想像しえたところに、彼の並みはずれた才能があったのでしょう。

  一七七四年に、ベルサイユのあるじは、孫のルイ十六世へと替わります。そこへ、またしても怪人物が出没します。東方の王子として生を受け、フリーメイソン大首長というふれこみのカリオストロ「伯爵」です。実はこの男、シチリアの商人の息子でしたが、情婦ロレンツァをともなってフランスに現れ、またたく間にサロンの話題となりました。彼の錬金術に関する豊富な知識や、秘密結社フリーメイソンの幹部という謎めいた肩書きが、退屈しきった貴族たちの好奇心を誘ったのでしょう。カリオストロは、王妃マリー・アントワネットの名誉を大きく傷つける事件に巻き込まれたため、フランスを離れることになりました。しかし、イタリアへ戻ったところで捕らえられ、獄死します。「伯爵」にしてはあわれな最期でした。

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第十講 理性の世紀③

理性の世紀へ

  ロックは、哲学の分野でも大きな影響を残しました。

  ロックより四十年早く生まれたフランスの哲学者デカルトは、少しでも疑わしいものを排除していくことで、なにが実体かを突き止めようとしました。その際、感覚的なものは夢のなかでも同じ感覚をもちうるとして斥け、また慣習や常識、個人の経験にも信頼をおきませんでした。しかし、そう疑っている自分は少なくとも確かに存在すると考え、あの有名な「我思うゆえに我あり」という言葉にいたったのです。その「思惟する自己」を拠り所にし、理性による合理的な推論によって世界を再構成しようとしました。つまりデカルトは、普遍的な法則から合理的な推論によって個別の結論を導く方法(演繹法といいます)をとったのです。

  さてデカルトが「思惟する自己」の次に証明したのは、神の存在でした。人間は不完全な存在ですが、その不完全な人間が、完全な存在である神を想像することができます。無から有が生じるはずはないから、全知全能の神は確かに存在します。そればかりでなく、人間は生まれながらに神の観念を理性に刻まれている、と考えたのでした。

  ロックは、理性によって世界を捉えかえすというデカルトの考え方に賛成するものの、神の存在証明の結果、生まれながらに神の観念を持っているという考えには疑問を持っていました。実際には、神の観念は時代や民族によって異なっています。したがって、神の観念が生来のものと考えるのはおかしい気がします。そもそも人間の知識は、生まれたときは白紙の状態です。これを豊かなものにするには、理性を合理的に働かせた思考だけでは不可能です。なんらかの外界からのインプット、すなわち経験がなければなりません。

  ロックは、自然(外界)こそ実体であり、外界からの刺激である感覚は、外界から人間への働きかけであると考えました。一方、外界からの刺激に対し、快・不快といった感情や欲望のままに反応するのは、動物と同じであり受動的な反応にすぎません。人間はこの感覚にたいし理性を働かせ、別の捉えかたができるはずです。欲望をおさえ、一時の不快に耐えることが、より良い結果を生むこともありえます。そういう世界の捉えかえしは、理性ある人間特有のことですが、それは経験なしにできることではありません。むしろ、外部からさまざま感覚を得ることによって、つまり経験が積み重なることによって、判断材料や基準がそろっていくのです。

  経験を重視するロックの考え方は、ジェームス二世の祖父、ジェームス一世の顧問だったフランシス・ベーコン以来のイギリスの伝統でした。ベーコンは「自然の奴隷」であった人間が理性を使って自然の原理を理解し、「自然の支配者」へ転換することを提唱しました。ベーコンは、自然の原理を探求するときに、先入観を取り除いて素直に対象を捉えなければならないといいます。そのためには経験の積み重ねによって、普遍的な法則を導くやり方(帰納法といいます)が最適と考えました。ロックの思想はこの延長線上にあります。

  ロックは、人間の理性の働きが善き生き方を指し示し、結果的に神の意志にかなうものだと信じました。なぜならば、人間は神の栄光を表わすために創造された神の作品だからです。彼は成人してイギリス国教徒になりましたが、ピューリタンの家に生まれ、ピューリタンの教育を受けています。ピューリタンの偏狭性を嫌ったロックも、人間をあくまで神の栄光を表わす道具と考えたピューリタンの影響は拭えなかったのかもしれません。

  デカルトの合理論とロックの経験論。このふたつの考え方はアプローチこそ違っていますが、ともに人間の理性を徹底して信じ、理性による世界の再構成をめざしたのです。そして時代は十八世紀へと入っていきます。

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第十講 理性の世紀②

革命の理論化

  ジョン・ロックは、イギリスの大臣を務めたシャフツベリー伯爵の秘書兼アドバイザーでした。彼も伯爵とともにオランダへ亡命し、伯爵の死後もそこに留まっていました。しかしイギリス議会がジェームス二世を廃する動きに出たとき、オレニエ公に近づいて、イギリスと連絡をとるようになりました。そして名誉革命とともに故国へもどったのです。ウィリアム三世治下では、政治、経済、哲学、宗教の広い分野にわたる見識が買われて、政策への助言が求められたほか、新政府への批判に対してもすすんで論客となりました。

  名誉革命は政治的妥協の産物であり、なぜ王権は議会の制限を受けるのかとか、国民が国王を取り替えることが許されるのか、という点について説明できる理念はありませんでした。このままカトリックの王が続いては大変だ、かといって内乱をともなったピューリタン革命の再現はごめんだ、という思惑があって、そこにたまたま血縁的に問題のない、新教徒オレニエ公がいたのです。事実イギリス国内にも革命の正当性に疑問をもつ人はいました。またフランスのルイ十四世は、ジェームス二世の子を担ぎ出して、イギリスに攻め込もうとしました。こうした危機にあってロックは、国王と議会を所与の権力と考えるのではなく、国民がどうして権力を国家機構にわたすようになったかを論じます。

  人間に財産の蓄積手段がなかった時代は、生活に必要な分を採取して消費するから、自由に振る舞ってもだれも迷惑を被りません。しかし貨幣による財産の蓄積ができるようになると、私有財産の拡張をめぐって争い始めます。そこで財産と生命の保全のために、人々はある程度の自由や権利を手放しても、共同体を形成するようになりました。ですから国家という共同体においても、その構成員である国民に主権があり、国民の財産や生命を守る法が、すべてに優先されなければならないのです。

  ロックは、これまで支配権として未分化であった立法権と行政権を区別し、前者の後者にたいする優位性を主張しました。これにより、国王(行政権)が議会(立法権)の制約下にあること、国王がこうした国家の枠組みを破壊し主権者である国民の財産・生命を脅かすときは取り替えてもいいこと、が理論づけられました。

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第十講 理性の世紀①

イギリスの革命

  イギリスは、十七世紀に二つの政変を経験しました。最初の政変は、宗教上の対立と権力構造をめぐる対立が高じて、国王の処刑というショッキングな事態にまで進んだピューリタン革命です。イギリスに最初に統一王朝が開かれて以来九百四十年以上になりますが、この十年余りだけ、国王を戴かなかった時期でした。その後、処刑された王の息子が即位して王権が復活しますが、再び専制君主として振舞い、またカトリックに傾斜したためイギリス国教会およびピューリタン(第八講で紹介したカルバン派の流れをくむ宗派)を弾圧するようになりました。そしてその傾向は、跡を継いだ弟ジェームス二世になっても変わらなかったのです。

  すでにピューリタン革命を経験したイギリス国民は、今度は革命による王の廃位ではなく、ひたすら王の自然死を待ちました。流血と混乱を繰り返したくはなかったからです。それに、ジェームスには男子がなかったので、このままいけば王位はジェームスの娘メアリの配偶者、オランダの総督オレニエ公ウィレムが継ぐことになっていたからです。

  だがジェームスに男子が生まれると、もう国民は待てなくなりました。議会の代表は正式にオレニエ公を招びよせます。ジェームスの軍隊は、オレニエ公のイギリス上陸に対しまったく無抵抗でしたので、ジェームスもフランスに亡命せざるをえませんでした。一六八九年、オレニエ公はイギリス国王ウィリアム三世となり、妻メアリと共同で統治することになりました。さらにウィリアム三世は、国民の権利と自由ならびに王位の継承法について定めた「権利の章典」を受け入れました。これがイギリス立憲君王制の開始とされています。この無血革命を、イギリス人は名誉革命と呼んでいます。

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