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2009年3月

第十一講 近代哲学の地平⑨

哲学者と革命

  十八世紀後半、プロイセンをヨーロッパの列強まで押し上げたのは、フリードリヒ二世(大王)でした。カントは、フリードリヒ大王を偉大な君主だと思っていました。崇拝していたといってもいいでしょう。それは、イギリスやフランスで実現されようとしている自由や平等の思想を後進国プロシアにもってくるよりも、今は国力を上げるべきだとの国王の考えに共鳴したのかもしれません。国王は啓蒙君主と呼ばれ、文化の移植には熱心でしたから、当面はそれ以上を望むべきではないと考えたのかもしれません。あるいは、ルター派の流れを組む敬虔主義派の教育を受けたカントにとって、社会の改革よりは道徳の実践に関心が深かったのかもしれません。おそらくこれらすべてが理由だったのでしょう。

  フリードリヒ大王が亡くなった三年後にフランス革命が始まり、一七九一年にフランス国王が廃位されると、新しいプロシア政府は革命の波及を恐れて反動化しました。カントの言論にも制限が付けられましたが、彼は臣下としてこれに従いました。迎合するのでもなく、急激な変革を望むのでもない、カントらしい態度でした。

  カントはさらに生き、一八〇四年八十歳でこの世を去ります。彼の墓碑銘は主著のひとつである『実践理性批判』の「結び」から取られています。「ここに二つの物がある、それは、我々がその物を思念することを長くかつしばしばなるにつれて、常にいや増す新たな感嘆と畏敬の念とをもって我々の心を余すところなく充足する、すなわち私の上なる星をちりばめた空と私のうちなる道徳的法則である」。

  前者は理性の論理的な判断を拡張することによって、後者は理性の実践的な命令によって、確かなものと感じ取ることができます。そしてカントはいつも、それらのすばらしさへの感動と尊敬を、確信とともに抱きつづけたのです。

  さて、いよいよ十九世紀に入ってきました。政治の世界でナポレオンという強烈な個性を中心にヨーロッパが回ったように、哲学の世界にもひとりの巨人が現れます。次の講では、ナポレオンと同時代人の哲学者に焦点を当てましょう。

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第十一講 近代哲学の地平⑧

神の存在の要請

  カントは純粋な理性の綜合判断では、神の存在は証明できないとしました。その意味で、彼は自然科学と形而上学を切り離したと言えるでしょう。同時に、敬虔主義派の家庭に育ったカントは、「内なる声」である道徳に目を向けます。そしてそこから神の存在を求めようとします。

  多くの人間にとって、欲望はそれが実現されれば快感であり、それを留めようとする道徳は不快さを伴う義務のように感じられます。人間の欲望が向かうのは、道徳の命令とは反対の方向であることが多く、それが人間にとって道徳を苦痛にしています。また物理的にも時間的にも制約のある人間にとっては、世界は望みのまま意のままというわけにはいきません。逆に、もし道徳に従うことと自分の欲求が一致し、しかも欲求したものがすべて実現するとしたら、人間は善でありかつ幸福であることができるでしょう。

  しかしそのような時が来るのでしょうか。もし永遠にやってこないのであれば、理性が人間に道徳的法則を命令することは無意味になります。幸福の可能性を絶たれた人間は、もはや道徳の命令には従わず、自分に都合のいいように道徳の声を歪めてしまうにちがいありません。同時に、それほど近い将来にも訪れないでしょう。道徳と欲求が完全に一致するには、人間にとっては永遠ではありませんが、ずっと遠い将来まで時が経たなければならないのです。だからこそ、人間の心、すなわち魂は肉体とともに滅んではなりません。霊魂は不死であることが要請されるのです。

  また世界が望みのまま意のままということがありうるのでしょうか。道徳と一致する意志を持ち、その意志がそのまま実現される存在。このような存在がないのなら、理性が人間に、そこにできるだけ近づこうとする努力を命令するのは無意味になります。やはり完全な善であり、全知全能である存在が要請されます。

  霊魂の不死や神の存在は、論理的な思弁によって証明されるのではなく、道徳から要請されるのです。従来の形而上学は、理性の論理的な働きによって証明しようとしました。カントの考える新しい形而上学は、道徳による形而上学であり、理性の論理的な働きはおよぶことができない世界です。理性が実践の場で道徳的法則を命令するために、霊魂の不死や神の存在が要請される、とカントは考えました。

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第十一講 近代哲学の地平⑦

内なる声に従え

  人間にはみな欲望があります。おいしいものを食べたい、いいところに住みたい、金持ちになりたい、有名になりたい、異性を独占したい。これは人間の自然な欲望であり、放っておけば沸々と湧き起こるものです。そしてたまたま欲望が満たされると、快感が得られます。

  しかし同時に、自分のなかから別の声が聞こえます。この声はしばしば欲望を押し留めようとします。欲望に従っていまやろうとしていることは本当にやっていいことか、と。しかもこの声は要請ではなく命令です。欲望を押し留めることは、快感を得る可能性を放棄することであり、場合によっては不快を伴いもします。それなのに「内なる声」は、快感の放棄や不快にたいする報酬は何も与えず、ただ従えと命令するのみです。

  この「内なる声」は、本能で動く動物にはありえません。なるほど動物もしつけることはできますが、しつけの過程で報酬を与えなければなりませんし、しつけ自体も習慣にすぎません。これに対し「内なる声」は、理性ある人間にしかない声です。またこの声はあくまでも普遍性を要求します。今は苦しいときだからとか、昨日他人のためにつくしたから、という理由で容赦を求めても、断固はねつけます。この声は、いつでもだれにたいしても、同じように正しく振る舞うように命令します。

  カントはこの声を、人間が生きていく実践の場に現れる理性の声と考えました。そして、普遍性を要求しますから「道徳的法則」と呼びました。道徳的法則は感覚によって経験することができる、われわれの外部にある対象ではありません。ですから理性の論理的な判断によって体系化されたものではありません。しかし道徳的法則は、確かにわれわれを突き動かします。これについては否定することができません。つまり道徳的法則は、われわれの内部から直接に、われわれの実践の場に現れるのです。

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第十一講 近代哲学の地平⑥

人間の理性の限界

  では形而上学あるいは哲学はどうなのでしょうか。

  不完全な存在であるわれわれでも完全な存在を思い浮かべることができます。「無から有は生じないのだから、完全な存在である神は確かに存在する」。デカルトはこのようにして神の存在を「証明」しました。しかしわれわれは、「完全な存在」を思い浮かべただけです。この想定を確かめる経験的な感覚はありません。すくなくとも、かならず、いつでもだれでもが経験できる認識はないのです。また「無から有は生じない」という命題は、存在することが経験的に認識される事象については正しいことですが、思い浮かべられた観念(ここでは「完全な存在」という観念)を「有」とするわけにはいきません。したがって、経験的な認識もなく、想定された「存在」を確かに存在すると考えたデカルトの証明は、誤っていたことになります。

  ものが実在するには、その原因がなければなりません。その原因にもまた原因がありますから、どんどんさかのぼっていくと、第一原因ともいうべき絶対的な必然性があるはずです。これがアリストテレス、トマス・アクィナス、ライプニツらがとった、神の存在証明でした。しかしこの方法も、原因をさかのぼっていくうちに、どこかで感覚で経験できる実在ではなく、観念上の原因を考えるようになります。さらには、どこかの時点からあらかじめ「第一原因」を想定するようになります。したがってこの方法も、想定によってその存在を証明したとする点において、デカルトの証明と同じ誤りを犯しています。

  もうひとつ、古くから多くの哲学や宗教が用いている神の存在証明は、この世界にある存在の多様性や秩序は、最高の知性と能力をもった存在によって設計され創造されたとしか思えない、というものです。しかしこれは、世界をまのあたりにして感嘆したとき、自分の知性では到底説明できないから、実在を確認してもいない「原因」を想定したにすぎません。ですからこの証明もアリストテレスたちの証明と同じであり、やはり正しい判断ではなかったことになります。

  これら過去の形而上学が犯した誤りは、先天的綜合判断を行おうとするとき、感覚によって経験できる実在をこえたものに推論の土台を置こうとしたことにありました。感覚が経験できない対象からは、なんら必然性も普遍性も導き出すことができず、したがって先天的綜合判断にはなりえません。完全な存在である神や、神の世界と人間の世界にまたがる霊魂をも、判断の対象にできると思ったことが、人間理性の誤りであり、思い上がりだったのです。

  プラトンは感覚によって得られる実在をこえて、あるいは実在の具体性をそぎ落として、理念や理想形として想定される存在の「本質」に理性の目を向けました。しかしこのプラトンの試みは、カントに言わせれば、空中を自由に飛びながら空気の抵抗を感じた鳥が、真空ならもっとうまく飛べるだろうと思うのとなんら変わりません。プラトンは、理念(イデア界)という、現実の不完全性が取り払われた真空を飛ぼうとしても、理性は先に進めないことに気付かなかったのです。

  こうしてカントは、人間の理性は論理的な判断(先天的綜合判断)によっては形而上学を構築できない、と考えました。しかしそれは神や霊魂の存在を否定するものではありません。むしろ彼の信仰心はそれらを強く肯定します。

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第十一講 近代哲学の地平⑤

感覚と思考の形式

  カントは、われわれの側に先天的な形式があって、外部からの刺激である感覚をその形式にあてはめ、さらに形式にしたがった思考によって外部の世界を捉え返していく作業が、認識であると考えました。ではカントのいう先天的形式とは、どのような形式なのでしょうか。

  まずわれわれは、空間と時間の概念をもっています。この概念は経験を超えた(先天的な)ものです。なぜなら、なにものも存在しない空間を想像することはできますが、空間そのものを頭の中から取り去ることはできないからです。また多くの空間を想定することもできるますが、それらはより大きな空間の部分と考えることができます。同様に、時間そのものを頭の中から除くことはできません。われわれはこの空間と時間の概念を使って、感覚を自分のなかに取り入れます。つまりどこにあって、いつ存在する(した)かという捉え方です。ですから空間と時間の概念は、われわれにとっての、感覚の形式だといえます。カントはケーニヒスベルク大学で、ライプニッツやニュートンの自然学を学びました。ニュートンが打ち立てた古典物理学の体系が、カントの哲学にも色濃く反映されています。

  空間と時間という感覚の形式によってわれわれのなかに取り入れられた対象は、つぎに、われわれの思考の対象となり、論理的に処理されていきます。思考のなかで論理が働くときにも形式があります。例えばAがBであるといっても、すべてのAについてなのか、いくつかのAなのか、このAだけなのか、という量的な捉え方があります。AはBと同じものなのか、Bと反対のものなのか、Bとは別のものなのか、という質的な捉え方も考えられます。また、条件に係わりなくAはBなのか、AがBならCはDなのか、AはBまたはCなのか、という関係性を伴う捉え方もあります。最後に、AはBであることが推量される場合、AはBであることが断定される場合、AはBでなければならない場合、という形態による捉え方もあります。カントは、こうした分類で思考の形式を網羅しました。そして、これらの思考の形式も、経験によって得られたのではなく、先天的な形式です。

  カントは、「すべての認識は経験をもって始まる」が、経験そのものを作り上げる形式があるからこそ、「すべての認識が必ずしも経験から生じるのではない」といいます。感覚の形式と思考の形式からなる先天的形式は、繰り返される経験から独立して正しい認識を得ることを可能にします。つまり先天的認識ができるのです。リンゴを繰り返し見たり数えたりするという経験とは独立して、リンゴという存在があることを真理とみなすことができるのです。

  また、ある概念に新たな情報や概念を付け加えるような綜合的な判断も、われわれが先天的形式を使いながら論理的に思考していくことで、先天的綜合判断(経験の積み重ねから切り離されて真理と認めることができる判断)にすることができます。さらに、先天的綜合判断によって正しいと認められた真理を積み上げて、ひとつの体系にしていくのが理性である、とカントは考えました。

  自然科学はその対象が、数字、図形、物体、天体など、感覚によって経験しうるものです。対象についての認識は、その出発点においては経験的認識ですが、われわれは先天的綜合判断によって、新たな先天的認識を真理として付け加えていくことができるのです。また理性が、真理を積み重ねて体系(学問)へと発展させます。こうして、自然科学が真理を求める学問として成り立つことがカントによって証明されました。

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第十一講 近代哲学の地平④

認識のコペルニクス的転回

  ふたたび認識の問題にもどりましょう。それまでの西洋哲学は、われわれの外部に見たり触れたりできる「実在」があって、さらに「実在」の背後に存在の「本質」があると考えてきました。このことを「本質」の側からいうと、「本質」はわれわれの感覚でとらえることができる様々な性質や状態を伴うことで、具体的な「実在」になるといえます。例えば「黒い椅子」とか「飛んでいるツバメ」という実在に対し、椅子やツバメが本質です。われわれが存在を認識するとき、まず実在が我々の意識に飛び込んできます。われわれの五感が認識するのは具体的なものだからです。

  つまり、カント以前のヨーロッパでは、抽象的な本質がさまざまな特徴という衣を纏うことで具体的な実在となり、その実在がわれわれの感覚を通してわれわれの認識に達すると考えられてきました。われわれの認識は、外部にある存在がわれわれの心に投影されたもの、と解釈されたのです。そしてわれわれの意識という目を凝らせば、本質を垣間見ることができると考えました。プラトンのいうイデアはそのようなものだったはずです。

  こうした西洋哲学の伝統に対し、ヒュームは根本的な批判を投げかけました。彼は、対象がわれわれの感覚を刺激することによってのみ認識が形成されるのだから、外部の対象をありのままに把握することはできない、と説いたのです。ヒュームの批判はこういうことです。具体的な個々の実在を認識するというわれわれの経験によって認識は作られます。その認識をもって、存在を把握したと判断したり、理想形とも真理ともいえる存在の本質を垣間見たりすることはできません。なぜならヒュームの経験論では、経験から独立した、必然的で普遍的な真理を見出すことはできないからです。

  カントも、感覚が外部から刺激を受けることで対象を認識する、という点ではヒュームと同意見でした。またヒュームの経験論を一定程度認めていましたから、感覚から得られる認識だけでは、先天的認識、すなわち必然的で普遍的な認識にはいたらないというのも受け入れていました。

  そこでカントは、デカルトの有名な命題である「我思うゆえに我あり」をもう少し深く考えます。デカルトの「思惟する自己」は、すべてを疑い尽くしてもなお確かなものとして残りました。ですからわれわれは、「思惟する自己」を認識の基点としなければなりません。むしろ、外部にある(と思われる)存在からわれわれの意識へ投影されるのではなく、認識の基点である「自己」から外部にある存在へ意識を投げかけるのです。つまり外部の存在は、意識を投げかける対象なのです。そうだとすれば、われわれの外部にわれわれと独立した対象があるのではなく、われわれの方が、外部からの刺激を材料にして対象を構成していくと考えるほうが合理的なのではないでしょうか。

  われわれの認識が主観であり、われわれの意識が投げかけられた(オブジェクトされた)対象が客観である、という関係はカントによって確立されました。それはカント以前の、われわれと認識対象との関係を逆転するものであり、彼は自分の発見を、コペルニクスが天動説から地動説へ転回させたのに匹敵する、と誇っています。

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第十一講 近代哲学の地平③

先天的認識

  カントは「われわれの認識は経験をもって始まる」といいます。例えば犬を目の前にしたとしましょう。犬の姿が視覚に入り、鳴き声が聴覚に入ります。こうした感覚をもとに、われわれはみずからの思考力を働かせて、犬という対象を頭の中で構成します。逆に、感覚、つまり外部からの経験に先立って認識することはありません。しかし彼は続けて、「われわれの認識が必ずしもすべて経験から生じるのではない」ともいいます。具体的な例を挙げましょう。「一個のリンゴと一個のリンゴを合わせると、二個のリンゴになる」ことは経験できます。実際にリンゴを並べて、数えてみることが経験です。一方、「百個のリンゴと二百個のリンゴを合わせると三百個のリンゴになる」ことは、経験した人はあまりいないと思います。それでもわれわれは、これが真理であることを知っています。それは、「百足す二百は三百である」という、経験的なものを含まない認識をすでに持っているからです。

  そこで経験的なものを含まない認識を、先天的(ア・プリオリ)な認識と呼ぶことにします。では次に、この先天的認識は、どういう基準によって経験的なものを含む認識と区別されるのでしょうか。

 経験による認識は、まぎれもなく事実の認識です。しかもそれがある程度繰り返されると、そこに法則性があるように思えます。ヒュームが警告したのもそこでした。たしかに、稲妻が光ったら雷鳴が響いたとか、犬の顔を叩いたらかみつかれたとかいう経験は、ある程度繰り返し起きるでしょうが、必ず繰り返されるとは限りません。これに対し、「一足す一は」何回数えても「二」です。そこで、必ずそうなる、という必然性を先天的認識のひとつの条件にしましょう。

 また、「犬の顔を叩いたらかみつかれる」のは、「私」が昨日経験して、今日経験して、明日経験したとしても、将来にわたっていつでも経験する保証はありません。ある街で経験したからといって、別の街でも経験するとは限りません。「私」だけでなく「あなた」や「私の友人」が経験したとしても、すべての人が経験するという保証もありません。その点「一足す一は」、いつだれがどこで数えても「二」です。そこで時間、場所、認識する者によらない、普遍性が先天的認識のもうひとつの条件になるでしょう。

  必然性と普遍性を満たす先天的認識は、経験がもつ特殊性から独立しています。しかも、繰り返し、いつでもだれにでも起こりうるのですから、真理の認識です。カントはこうして、経験から得られるもの以外は真理として認めないというヒュームの経験論を克服しました。

  われわれは様々な学問の中で、「AはBである」とか「これこれの条件を満たすとき、AはBである」といった命題が正しいか正しくないか、を判断します。そのときの「正しさ」とは、かならず(必然性)すべての場合において(普遍性)正しいことですから、先天的認識の判断です。その先天的判断にも二種類あります。例えば「三角形は三つの頂点を持つ」という命題があります。この命題はすべての三角形についてかならず成り立ちますから、先天的判断であることは確かです。しかし、主語である「三角形」の概念の中にすでに「三つの頂点を持つ」性質が(三角形の定義として)含まれていますから、「三角形は三つの頂点を持つ」という命題は、「三角形」になんら新しい情報を付け加えるものではありません。ところが「三角形の内角の和は二直角である」という命題になりますと、「三角形の内角の和」の中には「二直角」という情報は含まれていませんから、幾何学的な証明によって新たに付け加えられたものです。カントは前者(「三角形は三つの頂点を持つ」)を分析的判断、後者(「三角形の内角の和は二直角である」)を綜合的判断と呼びました。

  数学や物理学など自然科学は、先天的綜合判断の学問です。したがってどのようにして先天的綜合判断は可能か、ということが分かれば、自然科学が成り立つ仕組みも分かります。そして自然科学の延長上にあると考えられていた形而上学・哲学が、はたして成り立つのかどうかもはっきりするはずです。

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