第十一講 近代哲学の地平⑨
哲学者と革命
十八世紀後半、プロイセンをヨーロッパの列強まで押し上げたのは、フリードリヒ二世(大王)でした。カントは、フリードリヒ大王を偉大な君主だと思っていました。崇拝していたといってもいいでしょう。それは、イギリスやフランスで実現されようとしている自由や平等の思想を後進国プロシアにもってくるよりも、今は国力を上げるべきだとの国王の考えに共鳴したのかもしれません。国王は啓蒙君主と呼ばれ、文化の移植には熱心でしたから、当面はそれ以上を望むべきではないと考えたのかもしれません。あるいは、ルター派の流れを組む敬虔主義派の教育を受けたカントにとって、社会の改革よりは道徳の実践に関心が深かったのかもしれません。おそらくこれらすべてが理由だったのでしょう。
フリードリヒ大王が亡くなった三年後にフランス革命が始まり、一七九一年にフランス国王が廃位されると、新しいプロシア政府は革命の波及を恐れて反動化しました。カントの言論にも制限が付けられましたが、彼は臣下としてこれに従いました。迎合するのでもなく、急激な変革を望むのでもない、カントらしい態度でした。
カントはさらに生き、一八〇四年八十歳でこの世を去ります。彼の墓碑銘は主著のひとつである『実践理性批判』の「結び」から取られています。「ここに二つの物がある、それは、我々がその物を思念することを長くかつしばしばなるにつれて、常にいや増す新たな感嘆と畏敬の念とをもって我々の心を余すところなく充足する、すなわち私の上なる星をちりばめた空と私のうちなる道徳的法則である」。
前者は理性の論理的な判断を拡張することによって、後者は理性の実践的な命令によって、確かなものと感じ取ることができます。そしてカントはいつも、それらのすばらしさへの感動と尊敬を、確信とともに抱きつづけたのです。
さて、いよいよ十九世紀に入ってきました。政治の世界でナポレオンという強烈な個性を中心にヨーロッパが回ったように、哲学の世界にもひとりの巨人が現れます。次の講では、ナポレオンと同時代人の哲学者に焦点を当てましょう。
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