第十三講 人間性回復の闘い③
新しい人間観
人間は自然のなかの存在です。人間は太陽の光、大気中の酸素、河川からの水によって生きています。それだけではなく、人間は生きていくために、穀物や野菜や果物を食べ、(ベジタリアンでなければ)動物も食べます。住むために、樹を切り倒し、石を砕きます。自然を対象とするという点では、他の動物と変わりません。動物も、他の動植物を食べ、自然に働きかけて棲み家を作るからです。「生きていくため」を超えて「欲しいから食べたい」「快適だから住みたい」という理由でも、やはり自然に働きかけています。つまり肉体的および感性的な面で、人間は外部にある自然の事物を必要とするのです。
もちろん、外部にある事物を対象とする以上、これによって制約を受けます。欲しい物が好きなだけ手に入るわけではありません。好きなことがいつまでもできるわけでもありません。人間は、たいていの場合、限界に直面します。しかし制約があるからこそ、エネルギーが湧き起こり、情熱が生まれます。限界に苦悩するからこそ、その人なりの性格が現れ、愛を知るようになります。その意味でも外部の対象は、人間に生きる力を与えてくれます。
デカルト以来、ヨーロッパの思想家は、人間は理性的な、思考する存在であることを前提にしてきました。たんに「考える」より「深く考える」のが、哲学で言う「思考する」です。「思惟する」という表現もあります。これに対し、人間はまず自然を必要とする存在であると唱えたのが、ヘーゲルの教えを受けたフォイエルバハでした。その上で彼は、人間が他の動物とどう違うのか、と論を進めます。
動物にも感情があります。お腹が空いたとか、足が痛いといった感覚を持つだけでなく、なわばりを荒らされて怒ったり、親とはぐれて心細くなったりしますから、感情を持っているのです。さらに、荒らされたなわばりを取り戻そうとか、親とはぐれてこれからどうしようかとか考えるようになると、それはもう単なる感情ではないでしょう。意識と呼んでいいかもしれません。しかし、動物のこうした意識は、個体としての意識です。
例えば、なわばりの取り戻しを図っているライオンがいたとしましょう。しかし彼は、自分の目で見渡し、自分の足で踏み入れる草原しか意識できません。彼が思い浮かべるのは、個別具体的な草原なのです。もちろん奪回できなければ、その草原をあきらめて、他の狩り場を探すでしょう。しかしそれでも、他の「具体的な」草原でしかありません。ライオンは、一般化された草原、言い換えれば、普遍的な自然を対象にできないのです。
ライオンの意識が個体の枠をやぶれないのは、自然を対象にしているときだけではありません。自分に対する意識も、個体としての意識です。なわばりを取り戻そうとしているのは、具体的な自分です。彼には、ライオンのなかの自分という意識はありません。なわばりを奪回しようとしているのは、ライオンという「類」としての自分ではなく、個別具体的な自分です。
人間の意識はこれと違います。人間が犬を見るとき、目の前の犬だけを意識しているのではありません。目の前の犬を通じて、犬一般に思いをめぐらすことができます。つまり、個別具体的な自然だけでなく、抽象化された全自然を意識することができるのです。
人間は自分についても、人間という「類」のなかのひとりと考えることができます。個人としての自分の問題を、人「類」の問題へと一般化することができます。いいかえれば、人間の意識は、自分の「類」もしくは「類」の本質を対象とすることができるのです。フォイエルバハは、これを人間の「類的本質」と呼びました。
動物の意識と人間の意識に対する彼の見方を、師ヘーゲルの人間観に翻訳してみましょう。動物は、特殊具体的な「私」でしかありません。一方人間は、特殊な「私」だけでなく、普遍的な「私」も持っています。動物の意識の対象は、あくまでも特殊な「私」だけです。これに対し人間の意識は、特殊な「私」のほかに、普遍的な「私」をも対象にすることができます。
フォイエルバハの新しい視点は、思考することを人間の条件とは考えなかったことです。むしろ、人間には特殊な「私」のほかに普遍的な「私」、つまり「類」としての私があるから、思考することができるのだと考えました。思考するから人間なのではなく、人間だからこそ思考できる。人間は肉体を持ち、感性的です。しかし類的存在だから、思考する理性的な存在なのです。また、特殊な「私」は限定された存在ですが、普遍的な「私」には制約がありません。人間は何にでも思いを馳せることができます。したがって、類的存在としての人間は、自由です。
フォイエルバハが説く人間の「類的本質」は、ヘーゲルの唱える「精神」に通じるものがあります。ヘーゲルの「精神」に肉体と感性を与えたのが、フォイエルバハの「類的本質」だと言ってもいいでしょう。そして、フォイエルバハの人間観を受け継いだのが、マルクスでした。
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