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2009年4月

第十三講 人間性回復の闘い③

新しい人間観

 人間は自然のなかの存在です。人間は太陽の光、大気中の酸素、河川からの水によって生きています。それだけではなく、人間は生きていくために、穀物や野菜や果物を食べ、(ベジタリアンでなければ)動物も食べます。住むために、樹を切り倒し、石を砕きます。自然を対象とするという点では、他の動物と変わりません。動物も、他の動植物を食べ、自然に働きかけて棲み家を作るからです。「生きていくため」を超えて「欲しいから食べたい」「快適だから住みたい」という理由でも、やはり自然に働きかけています。つまり肉体的および感性的な面で、人間は外部にある自然の事物を必要とするのです。

 もちろん、外部にある事物を対象とする以上、これによって制約を受けます。欲しい物が好きなだけ手に入るわけではありません。好きなことがいつまでもできるわけでもありません。人間は、たいていの場合、限界に直面します。しかし制約があるからこそ、エネルギーが湧き起こり、情熱が生まれます。限界に苦悩するからこそ、その人なりの性格が現れ、愛を知るようになります。その意味でも外部の対象は、人間に生きる力を与えてくれます。

 デカルト以来、ヨーロッパの思想家は、人間は理性的な、思考する存在であることを前提にしてきました。たんに「考える」より「深く考える」のが、哲学で言う「思考する」です。「思惟する」という表現もあります。これに対し、人間はまず自然を必要とする存在であると唱えたのが、ヘーゲルの教えを受けたフォイエルバハでした。その上で彼は、人間が他の動物とどう違うのか、と論を進めます。

 動物にも感情があります。お腹が空いたとか、足が痛いといった感覚を持つだけでなく、なわばりを荒らされて怒ったり、親とはぐれて心細くなったりしますから、感情を持っているのです。さらに、荒らされたなわばりを取り戻そうとか、親とはぐれてこれからどうしようかとか考えるようになると、それはもう単なる感情ではないでしょう。意識と呼んでいいかもしれません。しかし、動物のこうした意識は、個体としての意識です。

 例えば、なわばりの取り戻しを図っているライオンがいたとしましょう。しかし彼は、自分の目で見渡し、自分の足で踏み入れる草原しか意識できません。彼が思い浮かべるのは、個別具体的な草原なのです。もちろん奪回できなければ、その草原をあきらめて、他の狩り場を探すでしょう。しかしそれでも、他の「具体的な」草原でしかありません。ライオンは、一般化された草原、言い換えれば、普遍的な自然を対象にできないのです。

 ライオンの意識が個体の枠をやぶれないのは、自然を対象にしているときだけではありません。自分に対する意識も、個体としての意識です。なわばりを取り戻そうとしているのは、具体的な自分です。彼には、ライオンのなかの自分という意識はありません。なわばりを奪回しようとしているのは、ライオンという「類」としての自分ではなく、個別具体的な自分です。

 人間の意識はこれと違います。人間が犬を見るとき、目の前の犬だけを意識しているのではありません。目の前の犬を通じて、犬一般に思いをめぐらすことができます。つまり、個別具体的な自然だけでなく、抽象化された全自然を意識することができるのです。

 人間は自分についても、人間という「類」のなかのひとりと考えることができます。個人としての自分の問題を、人「類」の問題へと一般化することができます。いいかえれば、人間の意識は、自分の「類」もしくは「類」の本質を対象とすることができるのです。フォイエルバハは、これを人間の「類的本質」と呼びました。

 動物の意識と人間の意識に対する彼の見方を、師ヘーゲルの人間観に翻訳してみましょう。動物は、特殊具体的な「私」でしかありません。一方人間は、特殊な「私」だけでなく、普遍的な「私」も持っています。動物の意識の対象は、あくまでも特殊な「私」だけです。これに対し人間の意識は、特殊な「私」のほかに、普遍的な「私」をも対象にすることができます。

 フォイエルバハの新しい視点は、思考することを人間の条件とは考えなかったことです。むしろ、人間には特殊な「私」のほかに普遍的な「私」、つまり「類」としての私があるから、思考することができるのだと考えました。思考するから人間なのではなく、人間だからこそ思考できる。人間は肉体を持ち、感性的です。しかし類的存在だから、思考する理性的な存在なのです。また、特殊な「私」は限定された存在ですが、普遍的な「私」には制約がありません。人間は何にでも思いを馳せることができます。したがって、類的存在としての人間は、自由です。

 フォイエルバハが説く人間の「類的本質」は、ヘーゲルの唱える「精神」に通じるものがあります。ヘーゲルの「精神」に肉体と感性を与えたのが、フォイエルバハの「類的本質」だと言ってもいいでしょう。そして、フォイエルバハの人間観を受け継いだのが、マルクスでした。

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第十三講 人間性回復の闘い②

不平等な市民たち

 封建的な王朝を倒した後には、自由で民主的な市民社会が実現されるはずでした。たしかに、資本家と呼ばれる一部の「市民」には、自由が保証され、自分たちが主権者であるような社会が到来しました。しかし多くの市民にとっては、支配者が王様から資本家に交代したにすぎません。むしろ、資本家が富めば富むほど、小規模経営の市民や農民は没落し、賃金労働者になるより他はありません。

 なぜ「市民」が市民を支配する体制になったのでしょうか。封建的な身分制度を打破しても支配と被支配の関係が残るのは、支配力の源泉が、封建的な身分制にあるのではなく、経済の仕組みの中にあるからではないでしょうか。

 十八世紀イギリスの経済学者アダム・スミスが前提としたのは、独立で平等な市民たちが、商品を市場で交換する社会です。市民は、自分の利益だけを考えて、商品の生産量と販売価格を決定し、代わりに何をどれだけ買うかも決定します。彼らは、社会全体の利益を考えることなく利己的に活動するのですが、「神の見えざる手」が働いて、社会全体の最大利益が達成されます。アダム・スミスは、労働者も労働力という「商品」を供給していると考えました。彼の考えでは、賃金も、労働者と雇用主との間で取り引きされる労働力の需給関係によって決まります。ですから失業は、賃金すなわち労働力の「商品価格」が高すぎるため、労働力に対する需要が少なくなっている状態であるといえます。賃金が十分下がれば、労働力の需要が喚起されて供給に追いつくので、失業はなくなるはずでした。アダム・スミスも、資本主義社会ではすべての人々が平等ではないことは認識していましたが、経済の仕組みを生産を中心に描くのではなく、商品交換を中心にしてしまったのです。

 これは、近代ヨーロッパの思想が、人間の自由意志や理性を問題にしてきたことと無縁ではありません。人間は、意識することにおいて自由であり、理性は平等に備わっている、と考えられてきました。ですから、生産や食物摂取という肉体的な活動よりは、交換という理性的な判断が問題にされる活動に注意が向けられたのも無理はありません。しかし、人間を自由な意志をもった理性的な存在と捉える所から出発したのでは、経済の仕組みの中にある、「市民」が市民を支配する力の源泉を探り当てることはできません。もっと根本から人間を捉え直す視点が、必要とされていました。

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第十三講 人間性回復の闘い①

ブルジョワの勝利

 ヘーゲルがなくなる前年、フランスでは七月革命と呼ばれる市民革命が起きました。ナポレオン没落後に復古したブルボン王朝は、ここに幕を閉じました。しかし革命の果実を得たのは、市民ではなく、資本家となっていた裕福な商工業者層でした。彼らは、自由主義者と評価されていたルイ・フィリップを王位に就けることで、穏健な共和派と王党派を満足させるとともに、革命が急進化するのを防いだのです。当時経済力を蓄えつつあった資本家にとっては、ブルボン王朝が守ろうとした封建的特権は、経済活動の障害でしかありません。ですから資本家層が、自由主義者だったのも当然でした。七月革命で誕生したルイ・フィリップの王政は、こうしたブルジョワたちの要求にかなう政策をとりました。フランスの産業革命は、七月革命によって花開いたのです。

 産業革命は、フランスの経済を新しい段階に押し進めます。資本家は、より多くの製品を生産し、それまで貨幣経済と縁のなかったところまで市場を拡大し、得られた収入を設備投資に回して、また生産を増やします。銀行家は、産業資本家に必要な資金を貸し、資本家の成功はそのまま、銀行の繁栄につながりました。貨幣経済に巻き込まれた人々は、もはや自給自足の生活を許されません。小さな農地しか持たない者たちは、自分たちの作物では食べるものも着るものも買えないので、土地を捨て、都市へ出てきて工場の労働者となります。つまり、持てる者はますます富み、持たざる者はますます貧しくなっていきました。

 そうなると、また労働者や市民が蜂起します。蜂起がしばしば発生するようになったため、ルイ・フィリップの王政(七月王政)もしだいに反動化していきました。そうなると、七月王政を支えた、オルレアン派と呼ばれる人々もまた、分裂していきます。復古主義的なブルボン派から、オルレアン左派、ボナパルト派、共和派まで幅広い勢力が七月王政に反対するようになりました。もちろん、政治の表舞台に出ることができない農民や労働者たちもいます。これらの人々の多様な期待と力のバランスが、思わぬ人物の台頭を生むことになったのです。

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第十二講 ドイツ哲学の巨人⑨

ナポレオン後のヨーロッパ

 一時はヨーロッパの大半を支配したナポレオンも、一八一五年のワーテルローの戦いに敗れた後、大西洋の孤島へ流されました。ナポレオンが歴史の表舞台から去ると、ヨーロッパ列強の指導者はすべてをナポレオン以前、またはフランス革命以前に戻そうとします。ナポレオン後のヨーロッパには、反動の嵐が吹き荒れていました。

 だが、歴史は後戻りをしません。フランス革命が掲げた理想、ナポレオンがヨーロッパ諸国に輸出した自由主義の思想は、諸国民に浸みわたっていました。ドイツにとって、十八世紀の状態に戻ることは、何十もの領邦国家へ分裂した状態の固定化を意味しました。危機感を感じた学生たちは、祖国の統一と政治改革に求めて運動を展開します。

 一八一八年からベルリン大学で教鞭をとっていたヘーゲルは、一貫して学生の自由主義運動には批判的でした。国家の斬新的な改革こそが、時代精神の自己実現につながると信じていたヘーゲルには、学生の運動は思慮に欠いた暴発としか映りませんでした。王政復古したブルボン王朝が倒され、裕福な商工業者の後押しを受けたルイ・フィリップが新たに王位に就くというフランスの政変(七月革命)の報を受けたときも、むしろ怒りを感じたと伝えられています。このことは、彼が国家主義者との誤解を受ける原因にもなっています。ヘーゲルは、七月革命の翌年、哲学界に君臨したまま命を全うしました。しかし彼の死とともに、彼の哲学を乗り越えようとする動きも活発になってくるのです。

 次回は講を改めて、ヘーゲル哲学を批判的に発展させたもうひとりの巨人についてお話しましょう。

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第十二講 ドイツ哲学の巨人⑧

資本主義社会への視座

 ナポレオンは、一七九九年の憲法で所有権を「神聖な権利」の筆頭に置き、所有権を守るためにナポレオン法典を編纂しました。所有権とは、いうまでもありませんが、所有者の所有物に対する権利です。つまり特定の物が、ある「私」の所有物である、という主張です。しかし、その物が、ほかならない「私」の所有物であるということはどうやって証明されるのでしょうか。所有権について、ヘーゲルは逆説的なアプローチを取ります。

 主体性に目覚める前の「私」は、「私」のものに対して無頓着です。「私」のものには、まず衣類、食料、住居があるでしょう。物理的なものでいえば、自分の身体も「私」のものです。パイロットとかデザイナーという職業を能力と読み替えれば、これらの能力も「私」のものです。こうした「『私』のもの」は「私」の具体的限定的な表現でもあります。能力はいうまでもありませんが、衣食住についても、こんな服を着ているのが、こんなものを食べるのが、こんな家に住んでいるのが「私」の具体的な表現といえるでしょう。抽象的な「私」と具体的な「私」とが区別され、前者が後者を切り離したとき、「私」の所有が発生します。つまり、抽象的な「私」が所有の主体になり、具体的な「私」が所有物になるのです。無自覚な状態では、「私」のなかで渾然一体になって溶けこんでいたものが、主体性を自覚することによって、抽象的な「私」から区別されて外に出たのです。ヘーゲルは、これを疎外化と呼びました。

 しかし自分の中で区別しただけでは、誰も認めてくれません。特定の物が、他人の手に渡りうることが証明されて、「あぁ、あれは彼(彼女)の所有物だったのだ」と他人に思ってもらえます。つまり、他人の手に渡ることが証明されてはじめて、自分の所有物を、だれもが「私」の所有物であることを認めてくれるのです。少し堅苦しく言えば、所有権とは、対価が支払われる交換や、報酬を伴わない譲渡によって、あるいは交換や譲渡ができるという可能性によって、他人に承認されるのです。所有しているから、交換できたり譲渡できたりすると考えるのがふつうですが、ヘーゲルは、交換できたり譲渡できたりするから、抽象的な「私」が所有の主体として認められる、と考えました。そして認められた主体性こそが、所有権という権利なのです。

 「私」の所有物は、「私」から切り離され、他人の所有物と交換されます。人と人とが交換するのは、「私」が欲しいものを相手が持っており、相手が欲しいものを「私」が持っているからです。もちろん、通常の取引では貨幣が間に入ることで、こうした制限から自由になりますが、ここでは交換のもっとも原初的な形態である物々交換を前提にしましょう。もしこの世にふたりだけしか存在しなかったならば、「私」が持っているものは「私」が作ったものであり、相手が持っているものは相手が作ったものです。「私」は自分が得意なものを作り、相手も彼が得意なものを作ります。そして必要なものを必要な分だけ交換します。つまり、交換という行為を通じて分業という(ふたりだけではありますが)社会構造を実現しているのです。Aさんが商品aばかり作って、Bさんが商品bばかり作っているだけなら、分業とはいえません。作ったものをAさんとBさんが交換してはじめて、ふたりは分業していたのだといえます。現実の社会でも同じことです。交換によって所有権が裏付けられ、交換によって分業が社会の構造として成り立ちます。所有権によって、人間は所有の主体として認められ、分業を担うことによって、人間は社会の一員として認められます。ヘーゲルは、こうして所有と交換を土台にして、構成員の分業によって支えられる市民社会の構造を明らかにしましたた。

 ヘーゲル以前にも、個人と社会の関係をめぐる議論はありました。それは、個人と社会のいずれが実体なのか、という議論でした。しかしそこからは、当時のヨーロッパで大きな原動力になり社会問題も引き起こしつつあった資本主義経済、その活動の場である市民社会を解き明かすことができませんでした。資本主義や市民社会はこれまでの経済原理や社会構造とどこが違うのか、新しい枠組みの中で個人はどう生きればいいのか、という視座は生まれてきません。ヘーゲルの、個人、市民社会、国家をめぐる思索が、新しい社会の分析を可能にしました。

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第十二講 ドイツ哲学の巨人⑦

国家と個人の自由

 民族の精神が理性に目覚め、主体性を発揮するという自己実現の過程で、現実世界に現れる姿が国家です。国家は、主体的な人間にとっても運命です。「運命としての国家」でお話しましたように、愛によって、主体と客体の対立を統一してもなお、人間の前に立ちふさがる運命なのです。ですから個々の国民は、国家の中で生き死んでいかざるをえません。ちょうど細胞が、人間の身体の中で生き死んでいくように。個々の国民の生き死にとは一見関係なく、国家は存続しているように見えます。しかし細胞なしには人間の身体が成り立たないように、個々の国民が、そのなかで生活することによってはじめて、国家も国家として成り立っているのです。たとえば、砂漠の中に王様だけがひとりいても、国家とは呼ばれないでしょう。いいかえれば、国家と国民は相互依存の関係にあります。

 身体のなかの細胞や器官は、人間という個体を維持し成長させるために、それぞれの機能を黙々と果たしていきます。人間も国家や社会のなかで、それぞれの役割を与えられています。しかし人間は、細胞や器官と異なって、自由を求めます。とりわけヘーゲルの時代は、権利を求めて人々が立ち上がり始めた時代です。他律的でなく、自律的で主体的であろうとしていました。では、国家のなかで、人間はどうやって自由な主体であることができるのでしょうか。

 問題を少し違った角度から見てみましょう。人間が、自由である、というのはどういうことなのでしょうか。小さかった頃、夢をいっぱい持っていた頃を思い出してみて下さい。「私」はスポーツ選手になりたい、女優になりたい、パイロットになりたい、小説家になりたい、デザイナーになりたい。「なりたい」と夢見るのは、「なりうる」可能性があるからです。いってみれば、何にでもなりうる存在が「私」です。しかし何にでもなりうる、というのは「名無しの権兵衛」と同じです。具体性がないと、存在そのものがあやうくなります。そこで、たくさん、ひょっとして無数にあるかもしれない可能性をひとつひとつ切り捨てて、具体的な「何か」に限定します。別にひとつに限定する必要はありません。家庭では母親、会社では部長、社外ではコンサルタントという肩書きだったりします。そうした具体的な「私」は、さまざまな局面で現実に現れる「私」の姿です。「私」という存在は、何にでもなるうる抽象的な「私」と、さまざまな姿に限定される具体的な「私」の統合体であるといえます。

 主体的な人間とは、抽象的な「私」と具体的かつ限定的な「私」の両方を、自覚しながら持っている人間なのです。会社の利益しか判断基準のないサラリーマン、教団に盲目的に従う信者、こうした他律的な人間は、具体的かつ限定的な「私」ではあります。しかし、具体的かつ限定的な「私」をすべて取り払ってもなお残るような、抽象的な「私」を持っているでしょうか。もうひとつ例をあげてみます。金鉱を採掘するために売られてきた奴隷も人間です。しかし彼にとって、「私」は金鉱を掘るための労働者でしかありません。もちろん、労働力を維持するために、食事をし睡眠をとります。しかしそれは、機械に燃料を入れたり、オーバーヒートを避けるためにスイッチを切るのと変わらないでしょう。金鉱労働者であることが「私」のすべてであり、そのほかのいかなるものにもなりえないのです。

 抽象的な「私」と具体的かつ限定的な「私」を自覚的に区別できるのであれば、具体的かつ限定的な「私」を抽象的な「私」から切り離すこともできます。ヘーゲルが考えた、近代社会における人間の構造から、近代社会の構造も見えてきます。

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第十二講 ドイツ哲学の巨人⑥

歴史を動かす力

 人間にとって国家は運命です。しかし、その国家も時代と共に形態が変わります。古代ギリシアの都市国家は、王政から貴族政を経た後、直接民主制を生みました。ローマは、自由農民が没落し貧富の差が拡大すると、共和政を維持できなくなり、帝政に移行しました。やがてローマ帝国もかつての力を失い、ゲルマン民族の大移動によって、ヨーロッパはその中心を地中海沿岸から内陸へと遷します。都市を中心とした流通経済が衰退し、封建領内の自給自足経済が主流になった中世を支配したのは、キリスト教会と封建諸侯でした。さらにはルネサンスや宗教改革を経て、イギリスやフランスは国王に権力が集められた国民国家に姿を変えます。そしてヘーゲルの時代、絶対王政の国家は市民煮よって倒さるか内部から改革され、国民の権利を認める国家へ変わろうとしていました。

 国家が運命であるのなら、何故変化するのでしょうか。何が変化を起こすのでしょうかか。キリスト教者なら、神が動かしているというでしょう。歴史も、神の計画が実現されていく過程だというにちがいありません。しかしヘーゲルは、神という絶対的な客体を設定しません。設定したとたん、人間の主体性は押しつぶされてしまうからです。

 では個々の人物や集団が、国家を変えるのでしょうか。たしかに、革命とかクーデターなど歴史が大きく回転するときは、指導的な政治家やグループが現れます。フランス革命でも、ジャコバンクラブが国王を処刑し、ナポレオンが共和政を帝政に変えました。しかしそれは、個々の人物や集団の力だけで歴史が動いたのではありません。歴史の大きなうねりの局面局面で、歴史を動かしている本当の力が、具体的な人間の身体を通して、現実世界に現れるのです。歴史の中には、何か大きな意志が働いて、ある特定の目的のためだけに、特定の人物をこの世に遣わし、目的を果たすと惜しげもなく表舞台から消してしまっているとしか思えないことが、しばしばあります。ヨーロッパでは、ナポレオンがまさにそうでした。

 ヘーゲルは、歴史を動かしている本当の力を、主体である人間の精神が普遍化したもの、と考えました。普遍化した精神と個別の人間との関係は、人間の身体と個々の細胞の関係に置き換えると分かりやすいでしょう。個々の細胞は、それぞれの役割を果たしながら、生まれ死んでいきます。死んだ細胞は、新しく生まれた細胞に取って代わられます。しかし、人間の身体は一定のままではありません。人間は赤ん坊から若者へと成長し、成熟した壮年期を経て、老いていきます。人間は、さまざまの細胞から成り、さまざまの器官から成っていますが、身体全体が統一されてはじめて人間といえます。人間こそが実体であり、細胞が実体ではありません。と同時に、細胞なしでは人間は生きられないのです。

 普遍化した精神は、ちょうど人間が赤ん坊から成長するように、自己実現を図ります。精神の自己実現過程が、歴史にほかなりません。そして精神の自己実現とは、人間の理性が自由を享受でき、主体性が発揮されることです。精神は、その自己実現過程で歴史を動かし、国家の形態を変えます。ヘーゲルは、専制君主国家を人民主権の共和国に変えようとしても、時代の精神が、または民族の精神がそこまで成長していなければ、時期尚早の企てであり、個々の人物や集団の力ではどうすることもできないと考えます。下手に蜂起しようものなら、その後に反動的な政治を招くだけです。むしろ現在の精神に応じた国家形態を受け入れ、その枠の中で精神を育んでいくしかありません。これが、ヘーゲルがドイツ民族についてたどり着いた結論でした。

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第十二講 ドイツ哲学の巨人⑤

運命としての国家

 ローマ帝国の辺境で誕生した原始キリスト教会は、パウロの伝道によってギリシア文化圏へ広がり、断続的な迫害を受けながらもローマ帝国全体へ浸透していきました。最初は虐げられた人々の信仰共同体であった教会のなかにも、貧富の差が生まれました。教会組織は階層化され、上級の聖職者は世俗の権力も兼ねるようになります。やがて皇帝すらもキリスト教に帰依し、ついには帝国の国教になると、キリスト教会という宗教組織が、国家の統治機構と重なり合うようになりました。神の愛と神への愛、隣人どうしの愛から出発したはずのキリスト教が、国家という客体、すなわち人間の外部にある厳然とした存在になったのです。しかも人間の主体性は、愛によって癒されるのではなく、かえって罪の意識におびえさせられるようになりました。

 同様のことが、ギリシアの都市国家についてもいえます。アテネの民主政治は、市民の直接参加によるものであり、国家の意思決定が市民の総意に基づいて行われていました。しかしそれは、ペルシア戦争後、アテネに富が集まり、ペリクレスなど有能な指導者に恵まれた全盛期に限られたことでした。それを過ぎると、直接民主制は衆愚政治へと変じ、アテネは他の都市国家との戦争に敗れていきます。やがてギリシアの全都市国家が、マケドニア王の支配下に入り、数世紀を経てローマに滅ぼされてしまいました。そこにはもう市民の総意に基づいた国家の意思はありません。王、軍閥、皇帝といった権力者の意思が、国家の意思なのです。

 こうしてみると、人間あるいは人間の主体性にとって、国家は外部にあって、人間と対峙する存在であることの方が、歴史の中では常態であるといえます。その国家は、愛によって人間という主体と合一できない、やっかいな客体です。ヘーゲルはこうした国家を、人間にとっての運命である、と称しました。

 ヘーゲルは、フランス革命が勃発した学生時代、ルソーやヴォルテールと同じように、人間の主体性が集まって市民社会となり、市民どうしの契約が争いごとがなく執行されるように監視する機構としての国家が存在すればいい、と考えていました。この考えは、フランス革命が急進主義を突っ走っていた時期の思想に近いものです。しかしナポレオンがクーデターによって第一執政となるころから、ヘーゲルは国家を運命としてとらえ、いかにして運命である国家と人間の主体性が和解できるかに、思索を傾けるようになりました。

 ヘーゲルは、共和国の第一執政からフランス帝国の皇帝となったナポレオンを受け入れました。一八〇六年、ナポレオンがプロイセン王国に侵攻し、ヘーゲルが住んでいたイエナの町を占領したときも、ヘーゲルは馬上の皇帝を称賛しました。それは、プロイセン王よりもナポレオンが統治者として優れていると評価したからです。封建的なプロイセンよりも、ナポレオン治下の方が、国民の権利が守られ、人間が理性的であることができると考えたからです。だから、プロイセンで政治改革が始まると、これを積極的に支持するようになりました。

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第十二講 ドイツ哲学の巨人④

愛による癒し

 ドイツ民族の精神を自律的で自由なものにしたいと考えていたヘーゲルは、こうして古代ギリシアの精神にヒントを求めたのですが、やがてひとつの問題にぶつかります。それは罪の意識でした。

 どんな人間でも罪を犯します。「罪」という表現が強すぎるのなら、社会のルール違反といってもいいでしょう。キリスト教は人間を罪の意識におびえさせ、神にすがることによってのみ魂が安らかになる、と教えてきました。若いヘーゲルがキリスト教に強く反発したのも、キリスト教は古代ギリシアの宗教と異なって、人間から隔絶している神に人間を隷属させる宗教だと考えたからでした。キリスト教のいう「原罪」でなくとも、人間は一生のうち、どこかで道徳に反することを犯してしまいます。そのため人間は罪におののきます。自分の感性の欲求を、規律や道徳によって律しきれなかったという思いが、おののかせるのです。カントは、人間が心の奥底に持っている理性の声に従うべきだとは言いますが、罪を犯したときにどう対応したらいいのかについては教えてくれません。

 やっかいなのは、許されないことと分かっていても、仕方なく犯す「ルール違反」です。これは、個人の利益と国家の利益とを一致させ、国家のルールをそのまま個人の道徳に合致させようとしていたギリシア都市国家では、より深刻でした。なぜなら肉親の情や異性への愛慕は、共同体の規律や理性が命ずる道徳と、しばしば相反する方向に働くからです。

 少年時代からギリシア悲劇を愛したヘーゲルでしたが、この問題でも『アンティゴネ』という悲劇を例に挙げます。この作品は、「母を犯し父を殺すだろう」と予言され、知らず知らず予言を実現させたオイディプス王物語の続編に当たります。オイディプスの二人の息子は王位を争い、いったんは弟が国を追われるものの、外国と手を結んで祖国を攻めます。兄弟はふたたび戦い、相討ちとなって二人とも死んでしまいます。死んだ兄に代わって叔父が王国を治め、祖国に弓を引いた弟の埋葬を禁じました。しかし二人の妹アンティゴネは、兄弟への愛から国法に背いて埋葬を行うのです。肉親の情という感性に従い国法に背いたアンティゴネは、どうやって心の平安を求めたらいいのでしょうか。アポロンの神託は、神々の気まぐれだと告げ、運命を受け入れることしか勧めないでしょう。都市国家の指導者は、共同体の利害は構成員の利害と一致するはずだから、国法を優先すべきだったとしか言わないでしょう。

 罪の意識からいかにして癒されるのか。この問題にぶつかったとき、ヘーゲルはキリスト教を捉え直すことによって、活路を見出そうとします。イエスは、律法遵守による救済論を乗り越えるために、神への愛によって救われることを説きました。律法を守れないというだけで罪人と呼ばれていた人々と親しく語り合い、罪人の方が、「義人」であると自認している人々よりも救いの道に近い、と説いたのです。なぜなら罪人は、神の愛を素直に受け入れ、神を愛し、神が人を愛するように他人を愛することができるからです。

 愛することと愛されることは同じです。愛する者の間では、どちらが愛する主体でどちらが愛される客体(認識=この場合は愛の対象)だということはありません。また愛は、理性的な面と感性的な面と両方を併せ持っています。さらに愛は、死と対極にある、生のエネルギーを持っています。いいかえれば、愛は主体と客体を統合し、理性と感性を統合する、力強い生命力です。イエスが教えた愛は、すくなくとも隣人愛に関するかぎり、そうしたものでした。

 イエスが死んだ後、教会組織が拡大してからのキリスト教は、教会の教えを人間に強制するようになり、イエスが批判したはずの律法性を持ってしまいました。人間から隔絶した神も、人間の精神を支配する教会も、人間の主体性を否定する客体として、人間の上にのしかかっていたのです。だからこそヘーゲルは、キリスト教の律法性には否定的でした。しかしイエスが説いた愛については、どんな人間でも免れることのできない罪の意識を癒す力として、積極的に評価するようになりました。

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第十二講 ドイツ哲学の巨人③

主体的な精神を求めて

 ヘーゲルの生まれたヴュルテンベルク公国は、現在のドイツ製南端に位置しています。いまでは、ダイムラーやポルシェといった優良企業の本社がある、ドイツの中でも最も豊かな地域のひとつです。しかしヘーゲルの時代は、封建領主による国家であり、ルター派教会を国教としていました。ヘーゲル家もルター派の敬虔な信者でした。しかもヘーゲルが通ったのは、ルター派神学の総本山といわれる大学の神学部でした。したがって彼がドイツ民族の精神を考えるときも、まず宗教に目が向けられたのです。

 ルター派プロテスタントにしても、カトリック教会にしても、現世の秩序には従順であることを信者に教えます。人々は、土地の移動が許されず、封建領主から小作料のほかさまざまな税金をかけられて、貧しい生活を強いられています。こうした人々に教会は、「あなたがたの苦しみは、経済的な苦しみにすぎない。たとえ身体が束縛されていても、内面にある魂は自由のままでいることができるはずである」と説きました。しかし本当に魂は自由なのでしょうか。神という自分の外部にある存在に、絶対的な服従を強いられていることにはならないかでしょうか。ヘーゲルは、キリスト教のこうした性格が、ドイツ民族の精神から自由を奪っているのではないかと考えました。

 ヴォルテールやルソーも、教会による人間の精神支配を批判しました。ヘーゲルの先達であり、ルター派の流れを組む敬虔主義の教会に属していながらも、ルソーをこよなく敬愛していたカントは、教会とルソーに次のような「折り合い」をつけました。社会を批判することなく苦しい生活をあるがままに受け入れるのは、他律的に、つまり教会に言われたとおりにただ服従しているからではありません。理性によって自分の力で自分を律しているから、耐えることができるのです。つまり、カントによれば、人間は自分を律することのできる自律的な存在なのです。それは、感性が要求するものを否定してまでも、理性の声が心の中からわれわれに正しい行いを命じるからです。神とか教会という外部にある存在に命じられるのではなく、理性によって道徳的であれば、むしろ支配されているのではなく自由だというべきでしょう。自律的な人間は自由な人間でもあるのです。

 しかし、ヘーゲルが思い描いていたドイツ民族が備えるべき精神は、カントの道徳律とは違っていました。カントの世界では、理性と感性とはいつまでも対立したままです。カントは、理性で感性を押さえ込もうとします。しかし理性でつねに自分を律するというのは、カントのような偉人はともかく、だれにでもできることではありません。むしろ多くの人間は、感性と理性とが表裏一体になりながら行動しているのです。したがって、ヘーゲルが求める精神は、そうした人々の指針になるようなものでなければなりません。またカントの道徳律は、いつの時代にもどの民族に対しても通用する、普遍的なものでした。一方ヘーゲルが求めていたのは、フランスで革命が進行している、人間が自由のために戦っている時代の、ドイツ民族のためのものです。そこで彼は、中等学校時代に愛読した世界に目を向けます。

 若いヘーゲルが理想にしたのは、古代ギリシアの宗教でした。ギリシアの神々そして精霊たちは、自然のあちらこちらに存在し、それぞれの役割を持ちながら全体でひとつの世界を形づくっています。神々は人間から隔絶しているのではなく、人間と交流します。人々は婚礼、出産、葬儀、旅行、出陣など、場合場合に応じて神々に働きかけ、神々の言葉を聞きました。道徳を重んじ、不徳が招いた災難を恥じることはあっても、神々を恨むことはありませんでした。不幸に逢っても、運命として受け入れるだけの潔さを持っていました。

 宗教のあり方は、政治形態にも反映されています。とくにアテネの民主政治においては、平等な権利を与えられた自由な市民が国家を運営していました。最高の意思決定機関は民会であり、官僚はくじによる持ち回り制でした。市民は軍役に就き、国家と市民の自由を守るために戦いました。アテネでは、立法、行政、軍事が市民によって担われていたのです。市民は、国家や宗教に従属させられている、という意識はなく、むしろ主体的な参加者でした。国家の目標は、市民ひとりひとりの目標の総体でした。

 もちろん、ヘーゲルの古代ギリシアの評価は多分に理想化されています。アテネには、自由な市民の他に多くの奴隷がおり、むしろ経済活動に従事していたのは奴隷たちでした。またアテネの貴族政が終わり民主政治が完成したのは、ペルシア戦争でアテネ海軍の主力となった無産階級市民の発言力が無視しえなくなったためです。有能な指導者ペリクレスが亡くなると、民主政治は衆愚政治に転じました。それでも、封建領主に政治権力と経済力が集中し、彼らのみが文化を享受できた当事のドイツに比べると、市民が政治に直接参加し、文化と祭儀を自らの手で担っていた古代ギリシアの社会がヘーゲルの理想に近かったのです。

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第十二講 ドイツ哲学の巨人②

ドイツ民族の問題

 ドイツの大哲人ヘーゲルはナポレオンと同時代人でした。彼はナポレオンより一年遅く生まれ、ナポレオンより十年遅い、一八三一年に六十一歳で亡くなっています。彼も、フランス革命の報を聞いたとき、血気盛んな青年でした。故郷近くの大学で十九歳を迎えようとしていたヘーゲルは、隣国の革命に感激し、学生仲間と共に興奮を分かち合いました。

 神の代理人として絶対権力をふるう国王、農民を縛り付け生産物を奪う封建貴族、人間の尊厳を押さえつけようとする教会。フランス革命が打倒したのは、こうした旧社会の支配者たちです。ヴォルテールは、国王とか貴族とか教会の権威を認めず、人間が本来持っている理性に照らして、間違っているものは間違っていると訴え続けました。ルソーは、人間の自由と社会が調和してこそ、人間の魂が平穏に保たれると唱えました。二人の思想が大きなうねりとなり、市民や農民を立ち上がらせ、ついには旧社会の秩序そのものを倒したのです。フランス革命は、人間の理性が新しい社会を創る力になりうることを、歴史のなかで証明しました。

 しかしヘーゲルの故国ドイツはどうでしょう。あいかわらず、数百もの領邦国家に分裂したままで、それぞれの領主が絶対権力を持っていました。市民や農民は、政治的には封建的な従属を強要され、経済的には重税に苦しんでいました。北部・東部ドイツに普及していたルター派教会は、カトリック以上に、信者に世俗権力への従属を求めていました。

 したがってヘーゲルの関心は、どうしたらドイツにフランスのような変革を起こすことができるかでした。このままでは、ドイツはヨーロッパ諸国の社会変化に取り残され、政治的にも経済的にもますます立ち遅れてしまうでしょう。どのようにすればドイツ人の精神が理性に目覚め、不合理で自由が束縛されている社会を突き動かす力になりうるか、そこにヘーゲルの問題意識はあったのです。

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第十二講 ドイツ哲学の巨人①

 

ナポレオンの時代

  一七七九年に始まったフランス革命は、自由や平等の理念を実現する新しい社会をめざして、旧制度を次々に廃止しました。しかし九三年にルイ十六世が処刑された後は、理想主義的な急進派による恐怖政治が始まり、多くの有能な政治家がギロチン台に送られていきました。やがて九四年後半から革命は現実主義に転じましたが、フランスは、革命の波及を恐れる外国からの干渉と、旧国王派の策謀に悩まされ、フランス革命の成果を守る者を求めていたのです。

  軍事的天才であり、革命の児を自負していたナポレオンは、まさにその人でした。一八〇四年十二月二日、パリのノートルダム寺院で「フランス人民の皇帝」ナポレオンの戴冠式が行われます。それからの十年余のヨーロッパは、皇帝ナポレオンを中心に回ることになります。

  ナポレオンは自分の権力が、戦勝がもたらす名誉によってのみ維持されることを自覚していました。したがって外国からの干渉を振り払ってしまうと、次は外国への侵略・征服しかありません。それがナポレオン政権の弱点になりました。彼はイタリア、スペイン、ドイツ、ロシアへ攻め込みます。彼の侵略は、同時にフランス革命の理念の輸出ともなり、やがてナポレオン支配にたいする諸国民の抵抗になっていきました。

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