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第十二講 ドイツ哲学の巨人⑧

資本主義社会への視座

 ナポレオンは、一七九九年の憲法で所有権を「神聖な権利」の筆頭に置き、所有権を守るためにナポレオン法典を編纂しました。所有権とは、いうまでもありませんが、所有者の所有物に対する権利です。つまり特定の物が、ある「私」の所有物である、という主張です。しかし、その物が、ほかならない「私」の所有物であるということはどうやって証明されるのでしょうか。所有権について、ヘーゲルは逆説的なアプローチを取ります。

 主体性に目覚める前の「私」は、「私」のものに対して無頓着です。「私」のものには、まず衣類、食料、住居があるでしょう。物理的なものでいえば、自分の身体も「私」のものです。パイロットとかデザイナーという職業を能力と読み替えれば、これらの能力も「私」のものです。こうした「『私』のもの」は「私」の具体的限定的な表現でもあります。能力はいうまでもありませんが、衣食住についても、こんな服を着ているのが、こんなものを食べるのが、こんな家に住んでいるのが「私」の具体的な表現といえるでしょう。抽象的な「私」と具体的な「私」とが区別され、前者が後者を切り離したとき、「私」の所有が発生します。つまり、抽象的な「私」が所有の主体になり、具体的な「私」が所有物になるのです。無自覚な状態では、「私」のなかで渾然一体になって溶けこんでいたものが、主体性を自覚することによって、抽象的な「私」から区別されて外に出たのです。ヘーゲルは、これを疎外化と呼びました。

 しかし自分の中で区別しただけでは、誰も認めてくれません。特定の物が、他人の手に渡りうることが証明されて、「あぁ、あれは彼(彼女)の所有物だったのだ」と他人に思ってもらえます。つまり、他人の手に渡ることが証明されてはじめて、自分の所有物を、だれもが「私」の所有物であることを認めてくれるのです。少し堅苦しく言えば、所有権とは、対価が支払われる交換や、報酬を伴わない譲渡によって、あるいは交換や譲渡ができるという可能性によって、他人に承認されるのです。所有しているから、交換できたり譲渡できたりすると考えるのがふつうですが、ヘーゲルは、交換できたり譲渡できたりするから、抽象的な「私」が所有の主体として認められる、と考えました。そして認められた主体性こそが、所有権という権利なのです。

 「私」の所有物は、「私」から切り離され、他人の所有物と交換されます。人と人とが交換するのは、「私」が欲しいものを相手が持っており、相手が欲しいものを「私」が持っているからです。もちろん、通常の取引では貨幣が間に入ることで、こうした制限から自由になりますが、ここでは交換のもっとも原初的な形態である物々交換を前提にしましょう。もしこの世にふたりだけしか存在しなかったならば、「私」が持っているものは「私」が作ったものであり、相手が持っているものは相手が作ったものです。「私」は自分が得意なものを作り、相手も彼が得意なものを作ります。そして必要なものを必要な分だけ交換します。つまり、交換という行為を通じて分業という(ふたりだけではありますが)社会構造を実現しているのです。Aさんが商品aばかり作って、Bさんが商品bばかり作っているだけなら、分業とはいえません。作ったものをAさんとBさんが交換してはじめて、ふたりは分業していたのだといえます。現実の社会でも同じことです。交換によって所有権が裏付けられ、交換によって分業が社会の構造として成り立ちます。所有権によって、人間は所有の主体として認められ、分業を担うことによって、人間は社会の一員として認められます。ヘーゲルは、こうして所有と交換を土台にして、構成員の分業によって支えられる市民社会の構造を明らかにしましたた。

 ヘーゲル以前にも、個人と社会の関係をめぐる議論はありました。それは、個人と社会のいずれが実体なのか、という議論でした。しかしそこからは、当時のヨーロッパで大きな原動力になり社会問題も引き起こしつつあった資本主義経済、その活動の場である市民社会を解き明かすことができませんでした。資本主義や市民社会はこれまでの経済原理や社会構造とどこが違うのか、新しい枠組みの中で個人はどう生きればいいのか、という視座は生まれてきません。ヘーゲルの、個人、市民社会、国家をめぐる思索が、新しい社会の分析を可能にしました。

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