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第十二講 ドイツ哲学の巨人⑦

国家と個人の自由

 民族の精神が理性に目覚め、主体性を発揮するという自己実現の過程で、現実世界に現れる姿が国家です。国家は、主体的な人間にとっても運命です。「運命としての国家」でお話しましたように、愛によって、主体と客体の対立を統一してもなお、人間の前に立ちふさがる運命なのです。ですから個々の国民は、国家の中で生き死んでいかざるをえません。ちょうど細胞が、人間の身体の中で生き死んでいくように。個々の国民の生き死にとは一見関係なく、国家は存続しているように見えます。しかし細胞なしには人間の身体が成り立たないように、個々の国民が、そのなかで生活することによってはじめて、国家も国家として成り立っているのです。たとえば、砂漠の中に王様だけがひとりいても、国家とは呼ばれないでしょう。いいかえれば、国家と国民は相互依存の関係にあります。

 身体のなかの細胞や器官は、人間という個体を維持し成長させるために、それぞれの機能を黙々と果たしていきます。人間も国家や社会のなかで、それぞれの役割を与えられています。しかし人間は、細胞や器官と異なって、自由を求めます。とりわけヘーゲルの時代は、権利を求めて人々が立ち上がり始めた時代です。他律的でなく、自律的で主体的であろうとしていました。では、国家のなかで、人間はどうやって自由な主体であることができるのでしょうか。

 問題を少し違った角度から見てみましょう。人間が、自由である、というのはどういうことなのでしょうか。小さかった頃、夢をいっぱい持っていた頃を思い出してみて下さい。「私」はスポーツ選手になりたい、女優になりたい、パイロットになりたい、小説家になりたい、デザイナーになりたい。「なりたい」と夢見るのは、「なりうる」可能性があるからです。いってみれば、何にでもなりうる存在が「私」です。しかし何にでもなりうる、というのは「名無しの権兵衛」と同じです。具体性がないと、存在そのものがあやうくなります。そこで、たくさん、ひょっとして無数にあるかもしれない可能性をひとつひとつ切り捨てて、具体的な「何か」に限定します。別にひとつに限定する必要はありません。家庭では母親、会社では部長、社外ではコンサルタントという肩書きだったりします。そうした具体的な「私」は、さまざまな局面で現実に現れる「私」の姿です。「私」という存在は、何にでもなるうる抽象的な「私」と、さまざまな姿に限定される具体的な「私」の統合体であるといえます。

 主体的な人間とは、抽象的な「私」と具体的かつ限定的な「私」の両方を、自覚しながら持っている人間なのです。会社の利益しか判断基準のないサラリーマン、教団に盲目的に従う信者、こうした他律的な人間は、具体的かつ限定的な「私」ではあります。しかし、具体的かつ限定的な「私」をすべて取り払ってもなお残るような、抽象的な「私」を持っているでしょうか。もうひとつ例をあげてみます。金鉱を採掘するために売られてきた奴隷も人間です。しかし彼にとって、「私」は金鉱を掘るための労働者でしかありません。もちろん、労働力を維持するために、食事をし睡眠をとります。しかしそれは、機械に燃料を入れたり、オーバーヒートを避けるためにスイッチを切るのと変わらないでしょう。金鉱労働者であることが「私」のすべてであり、そのほかのいかなるものにもなりえないのです。

 抽象的な「私」と具体的かつ限定的な「私」を自覚的に区別できるのであれば、具体的かつ限定的な「私」を抽象的な「私」から切り離すこともできます。ヘーゲルが考えた、近代社会における人間の構造から、近代社会の構造も見えてきます。

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