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第十二講 ドイツ哲学の巨人④

愛による癒し

 ドイツ民族の精神を自律的で自由なものにしたいと考えていたヘーゲルは、こうして古代ギリシアの精神にヒントを求めたのですが、やがてひとつの問題にぶつかります。それは罪の意識でした。

 どんな人間でも罪を犯します。「罪」という表現が強すぎるのなら、社会のルール違反といってもいいでしょう。キリスト教は人間を罪の意識におびえさせ、神にすがることによってのみ魂が安らかになる、と教えてきました。若いヘーゲルがキリスト教に強く反発したのも、キリスト教は古代ギリシアの宗教と異なって、人間から隔絶している神に人間を隷属させる宗教だと考えたからでした。キリスト教のいう「原罪」でなくとも、人間は一生のうち、どこかで道徳に反することを犯してしまいます。そのため人間は罪におののきます。自分の感性の欲求を、規律や道徳によって律しきれなかったという思いが、おののかせるのです。カントは、人間が心の奥底に持っている理性の声に従うべきだとは言いますが、罪を犯したときにどう対応したらいいのかについては教えてくれません。

 やっかいなのは、許されないことと分かっていても、仕方なく犯す「ルール違反」です。これは、個人の利益と国家の利益とを一致させ、国家のルールをそのまま個人の道徳に合致させようとしていたギリシア都市国家では、より深刻でした。なぜなら肉親の情や異性への愛慕は、共同体の規律や理性が命ずる道徳と、しばしば相反する方向に働くからです。

 少年時代からギリシア悲劇を愛したヘーゲルでしたが、この問題でも『アンティゴネ』という悲劇を例に挙げます。この作品は、「母を犯し父を殺すだろう」と予言され、知らず知らず予言を実現させたオイディプス王物語の続編に当たります。オイディプスの二人の息子は王位を争い、いったんは弟が国を追われるものの、外国と手を結んで祖国を攻めます。兄弟はふたたび戦い、相討ちとなって二人とも死んでしまいます。死んだ兄に代わって叔父が王国を治め、祖国に弓を引いた弟の埋葬を禁じました。しかし二人の妹アンティゴネは、兄弟への愛から国法に背いて埋葬を行うのです。肉親の情という感性に従い国法に背いたアンティゴネは、どうやって心の平安を求めたらいいのでしょうか。アポロンの神託は、神々の気まぐれだと告げ、運命を受け入れることしか勧めないでしょう。都市国家の指導者は、共同体の利害は構成員の利害と一致するはずだから、国法を優先すべきだったとしか言わないでしょう。

 罪の意識からいかにして癒されるのか。この問題にぶつかったとき、ヘーゲルはキリスト教を捉え直すことによって、活路を見出そうとします。イエスは、律法遵守による救済論を乗り越えるために、神への愛によって救われることを説きました。律法を守れないというだけで罪人と呼ばれていた人々と親しく語り合い、罪人の方が、「義人」であると自認している人々よりも救いの道に近い、と説いたのです。なぜなら罪人は、神の愛を素直に受け入れ、神を愛し、神が人を愛するように他人を愛することができるからです。

 愛することと愛されることは同じです。愛する者の間では、どちらが愛する主体でどちらが愛される客体(認識=この場合は愛の対象)だということはありません。また愛は、理性的な面と感性的な面と両方を併せ持っています。さらに愛は、死と対極にある、生のエネルギーを持っています。いいかえれば、愛は主体と客体を統合し、理性と感性を統合する、力強い生命力です。イエスが教えた愛は、すくなくとも隣人愛に関するかぎり、そうしたものでした。

 イエスが死んだ後、教会組織が拡大してからのキリスト教は、教会の教えを人間に強制するようになり、イエスが批判したはずの律法性を持ってしまいました。人間から隔絶した神も、人間の精神を支配する教会も、人間の主体性を否定する客体として、人間の上にのしかかっていたのです。だからこそヘーゲルは、キリスト教の律法性には否定的でした。しかしイエスが説いた愛については、どんな人間でも免れることのできない罪の意識を癒す力として、積極的に評価するようになりました。

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