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2009年6月

梁惠王篇 七章②

斉の桓公と晋の文公は、春秋戦国時代の覇者の筆頭格です。「孔子の流れをくむ者は、誰ひとりとして桓公や文公のことを口のするものはおりません」とありますが、二人の事は「論語」にも、わずかながら出てきます(「憲問」十五、十六、十七)。ここは、儒教では、商の湯王や周の文王・武王といった王者の仁による政治の方が、覇者の力による政治よりも優れていると考えるため、覇者を目指すのではなく、王者を目指すように説いたことを言っています。

宣王は「私のような者でも、人民の生活の安定ができようか」と言っていますから、謙虚なところがあったのでしょう。また、優しい心も持っていたようです。この王なら仁政を行えるかもしれない。孟子はその期待をもって対話を続けます。

【訓読文】

いわく「何に由(よ)りて吾(われ)の可なるを知るや」

いわく「臣(われ)之(これ)を胡(ここつ=人名)より聞けり。王、堂上に坐(いま)せるとき、牛を牽(ひ)きて堂下を過ぐる者あり。王は之を見て『牛いずくにゆくか』ととえば、(側近の者が)対(こた)えて『将(まさ)に鐘にちぬらんとす』といえり。王いわく『之を舎(お)け。吾はその觳觫若(こくそくじょ)として罪無くして死地に就(つ)くに忍びず』と。対えていわく『然(しか)らば則(すなわ)ち鐘にちぬることを廃(や)めんか』と。いわく『何ぞ廃むべけんや。羊を以ってこれに易(か)えよ』と。識(し)らず。諸(こ)のこと有りしや」

いわく「有りしなり」

いわく「是(こ)の心、以って王たるに足れり。百姓(ひゃくせい)は皆(みな)王を以って愛(おし)めりと為(な)すも、臣は固(もと)より王の忍びざりしを知れり」

王いわく「然りや。誠に(かかる)百姓もあるか。斉国は小(へんしょう)なりと雖(いえど)も、吾なんぞ一牛を愛まんや。即(すなわ)ち其の觳觫若として罪無くして死地に就くに忍びず。故に羊を以って之に易えしなり」

いわく「王よ、百姓の王を以って愛むとなせるを、異(あや)しむことなかれ。小を以って大に易えたり。彼、悪(いずく)んぞ之を知らん。王、若(も)しその罪無くして死地に就くを隠(いた)まば、牛と羊と何ぞ択(えら)ばん」

王笑いていわく「是れ誠に何の心ぞや。我其の財を愛みて之に易うるに羊を以ってせるにあらざりしも、宜(うべ)なるかな、百姓の我が愛むと謂(おも)えるとは」

【現代語訳】

王がいわれた。「どうしてそれが分かるのか」

孟先生がこたえられた。「私はご家来の胡齕(ここつ)殿からこんな話を聞きました。王様がいつぞや御殿におられたとき、牛をひいて御殿の下を通る者がいました。王様がそれをご覧になって『その牛はどこへ連れて行くのか』とお尋ねになると、その男は『新しく鐘をつくったので、これからこの牛を殺してその血を鐘に塗る儀式を行うのです』と答えました。王様は『その牛を放してやれ。おどおどして罪も無いのに刑場に連れて行かれるのは見るに忍びない(耐えられない)』とおっしゃられました。男が『それでは鐘に血を塗る儀式はやめにしましょうか』と答えると、『なぜ儀式をやめられようか。牛のかわりに羊にすればよかろう』とおっしゃられたとか。そんな事があったのですか」

王がいわれた。「たしかにあった」

孟先生がいわれた。「そのお心こそ、天下の王者になるのに十分なのです。ところが人民たちは、大(牛のこと)を小(羊のこと)に替えられたので、王様が物惜しみをなさったと申しております。しかし私は王様が殺すに忍びないという慈悲の心からおっしゃられたことを存じております」

王がいわれた。「そうか。そんなことを申す人民もいるのか。斉の国が小さな国だといっても、なんで牛一頭を物惜しみしようか。おどおどして罪も無いのに刑場に連れて行かれるのを見て可哀想にと思ったから、羊にかえさせたのだ」

孟先生がいわれた。「しかし王様、人民が王様が物惜しみをしているというのを不思議に思ってはなりません。小(羊)を大(牛)に替えさせたのですから、彼らには王様のお心が分からなかったのです。もし、おどおどして罪も無いのに刑場に連れて行かれるのを見て可哀想にと思われたのなら、牛と羊に何の違いがありましょうか(どちらも可哀想な事には違いがないではないですか)」

王が苦笑いしながらいわれた。「あのときは本当にどんなつもりだったのかな。私は物惜しみして牛を羊に替えさせたのではないけれども、人民が私が物惜しみしたというのはもっとものことである」

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梁惠王篇 七章①

魏(梁)の襄王に見切りをつけた孟子は、東の隣国斉(せい)に向かいます。先代の惠王が亡くなったのが紀元前三一九年ですから、襄王に謁見し、時を経ずして魏を離れたとすると、斉に入ったのは紀元前三一八年だと思われます。斉は、孟子にとって初めて訪れる国ではありません。当時斉の都・臨(りんし)には、さまざまな思想家や遊説家が集まっていました。魏の惠王を訪ねる前の孟子も、そこにいたと言われています。諸子百家が集まる臨淄で諸思想に触れ、これらと議論を戦わせながら、儒教思想を深化させていったのでしょう。

斉は、周王朝を立てた文王・武王父子の名軍師であった太公望呂尚が封ぜられた国です。現在の山東省よりやや狭い地域を指します。紀元前七世紀に、陳という国から公子が亡命してきます。それからおよそ三百年後、彼の子孫(田氏)が太公望の子孫である君主を国都より追い、その座を奪取しました。孟子が生まれる十数年前のことです。春秋時代の斉は管仲に支えられた十六代桓公(春秋時代最初の覇者)、晏嬰(あんえい=晏子)に支えられた二十六代景公のときに勢いが盛んでした。戦国時代の斉を一大強国にしたのは、田氏の君主になって三代目の威王です。馬陵の戦いで魏に大勝したのも威王です。その威王も紀元前三二〇年に亡くなります。つまり、斉の威王と魏の惠王は相次いでこの世を去ったのです。その後を継いだのが宣王です。孟子が斉で会った君主も、この宣王でした。

【訓読文】

斉の宣王問いていわく「斉の桓公と晋の文公の事、聞くことを得(う)べきか」。

孟子対(こた)えていわく「仲尼の徒、桓・文の事を道(い)う者なし。是(こ)の以(ゆえ)に後世に伝わることなく、臣(われ)も未だ聞かざるなり。やむなくば則(すなわ)ち王のことをいわんか」。

いわく「徳、如何なれば、則ち以って王たるべきか」。

いわく「民を保(やす)んじて王たらんには、能(よ)く(とど)むるものなきなり」。

いわく「寡人のごとき者も以って民を保んずべきか」。

いわく「可なり」。

【現代語訳】

斉の宣王がお尋ねになった。「斉の桓公と晋の文公の事蹟について、お話を伺うことはできますでしょうか。」。

孟先生がかしこまってお答えになった。「孔子の流れをくむ者は、誰ひとりとして桓公や文公のことを口のするものはおりません。それでも是非にとおっしゃるなら、天下の王になる道についてお話し申し上げましょう(覇道ではなく王道についてお話しましょう)」。

王がいわれた。「どんな徳があれば、王となれるのだろうか」。

先生がいわれた。「ただ仁政を行って人民の生活を安定すれば、王になれます。これをなんぴととても妨げることはできません」。

王がいわれた。「私のような者でも、人民の生活の安定ができようか」。

先生がいわれた。「できます」。

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梁惠王篇 六章②

惠王を継いだ襄王は、君主としての資質に欠けていました。孟子はそれを一度の謁見で見抜き、魏を去ります。

吉田松陰は、襄王のどういうところが暗愚であるのかをズバリ指摘しています。それは「天下は悪(いず)くにか定まらん」という天下国家のことを、孟子と会うなり、いきなり聞いてきたことです。「自国をどのようにしたら強くすることができるだろうか」とか、「自国のためにはどの国と手を結んでいけばいいのだろうか」と聞くのならまだ分かります。もちろん、そう問うたとしても、孟子は目先の利益にこだわることなく、王道政治を勧めたでしょう。しかし襄王は、魏が周囲の国に侵食されて危急存亡のときにあるにも関わらず、あたかも世間話をするかのごとく、「この乱れた天下はいったいどこに落ち着くのだろう」と聞いてきたのです。自国の置かれている状況認識が甘いというか、まったく鈍感で、愚鈍というよりほかはありません。松蔭も「たわけ者」と切り捨てています。

志があれば、自然とその発する言葉には、一般の人と違ったものがあるはずです。一方、自分の家や国家について切実に考えなければならないことを、世間話のように語る人間には価値がないと言います。松蔭のこの言葉は、われわれにも向けられていると思わなければいけません。しかも松蔭の厳しさは、こういうことを人物判断の秘訣だということも世間話のたぐいである、と断じます。天下国家を語るのも、人物を見極めるのも、切実に真剣でなければならないのです。

これで、「梁惠王篇六章」を終わります。

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梁惠王篇 六章①

魏(梁)の惠王は、紀元前三一九年に亡くなります。継いだのは子の襄王です。新王は凡庸というより愚者だったようです。梁惠王篇の六章は、この襄王との対話です。

【訓読文】

孟子、梁の襄王に見(まみ)ゆ。出でて人に語(つ)げていわく「之(これ)を望みたるに人君に似ず、之に就(ちかづ)けども畏るる所を見ず。卒然として問いていわく『天下は悪(いず)くにか定まらん』と。吾(われ)対(こた)えていえり『一つに定まらん』と。『孰(たれ)か能(よ)く之を一つにせん』。対えていえり『人を殺すことを嗜(この)まざる者、能く之を一つにせん』と。『孰か能く之に与(くみ)せん』。対えていえり『天下、与せざるものなし。王は夫(か)の苗を知るか。七八月の間(ころ)、旱(ひでり)なれば則(すなわ)ち苗は槁(か)れんも、天油然(ゆうぜん)と雲を作(おこ)し沛然(はいぜん)と雨を下(ふ)らさば、則ち苗は浡然(ぼつぜん)と興(おこ)らん。其(も)しかくの如くならば、孰か能く之を禦(とど)めんや。今夫(そ)れ天下の人の牧(きみ)に、未だ人を殺すことを嗜(この)まざる者あらず。もし人を殺すことを嗜まざる者あらば、天下の民はみな領(くび)を引(の)べて之を望まん。誠にかくの如くならば、民の之に帰すること由(なお)水の下(ひく)きに就(つ)きて沛然たるがごとし。誰(たれ)か能く之を禦めんや』と」。

【現代語訳】

孟先生が、襄王にお目にかかった。御殿を退いてから、ある人に話された。「新しい王様は遠くから見ても王様らしいところがなく、近づいてお会いしても威厳がない。初対面の挨拶もそこそこにいきなり、『この乱れた天下はいったいどこに落ち着くのだろう』とお尋ねになる。そこで私がかしこまって『いずれは必ず統一されましょう』とお答えすると、また『だれがいったい統一できるのだろう』と問われる。そこで『人を殺すのを好まない仁君であってこそ、はじめてよく統一できましょう』とお答えすると、『いったいだれがそれに味方するのだろう』とまた聞かれる。そこでこうお答えした。『天下に味方しないものは一人もありますまい。王様、あの苗をご存知でしょう。七月八月ごろ、日照りが続くと苗は萎れて枯れそうになります。しかし、このとき空に急に大きな雲がわき起こって、勢いよく大雨が降れば、苗はたちまちむっくりと起き上がるでしょう。もしそうなった(雨が降ってきた)ならば、だれが苗が起き上がるのを止めることができましょうか。ところで今、天下にいる君主で、人を殺すことを好まないものはおりません。もし、このようなときに人を殺すことを好まない君主が現れたならば、天下の人民はみな首を長くして、(その君主が自分たちの国の君主になってくれること期待して)眺めるでしょう。実際にそうなったら、水が勢いよく低いところへ流れていくように、この君主に帰服する人民は、次から次へと増えていくのです。誰がその流れを止めることができましょうか』。

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梁惠王篇 五章③

惠王の秦・楚に一矢報いたい、という強い願いは、孟子にはあまりに近視眼に見えるのです。秦の宰相公孫(商鞅)が行ったように、徹底した相互監視システムと厳罰主義で、国家を軍隊のように鍛え上げることも可能でしょう。しかしそのような政治では、民は常に緊張を強いられることになり、長く持つものではありません。為政者自身も恨みを買います。事実、商鞅は、庇護者であった孝公が亡くなり世継ぎの恵文王(始皇帝の高祖父)の代になると、新王の討伐を受けた後、遺骸は八つ裂きの刑に処せられています。

孟子が求めるのはあくまでも王道政治です。民が王を父母のように慕い、王が危急存亡のときは自主的に立ち上がって敵と戦う。小さい国の君主でも、王道政治を施せば、他国に滅ぼされるどころか、やがては天下に君臨する王となることも可能である、というのが孟子の惠王に対する回答でした。

戦場に駆り出されるのではなく、みずから武器を取って自国を守る兵は強いのです。逆に愚かな君主を抱いている民は、敵国の侵略に喜んで降参します。また、敵の君主が仁義にもとるようなふるまいをしていると、崩れるときはあっけなく敗れるものなのです。そのことは、この後、孟子自身が経験します。

吉田松陰は、ペリー再来航の際、アメリカへの密航を企てています。日本が西洋列強に侵略される前に、西洋文明を学んで対抗しようとしたのです。ですから、幕末に日本が置かれていた状況に強い危機感を持っていました。そんな松蔭が選んだのは、「仁政を民に施す。梃(つえ)を制(と)りて以って秦・楚の堅き甲(よろい)・利(するど)き兵(かたな)をも撻(う)たしむべし。疑うことなかれ」という文言です。松蔭には、魏の国情は他人事ではありませんでした。どうすればいいのか、という惠王の問いは、そのまま松蔭の課題でした。

松蔭は、孟子の回答をさらに膨らませます。仁政を徹底させるために、国境の城から兵を退け、農耕に従事させるというのです。民の暮らしを豊かにするために、兵役・労役を課しません。国防費を削減することで税を少なくすることもできます。民のためになる政治はすぐさま実行し、民を指導できる人物は家柄に関係なく登用する。それでは、実際に敵が攻めてきたらどうすればいいのでしょう。そのときは王が国中に号令を発します。

「我まさにこの民を愛育せんと欲す。いかんせん、隣国の逼迫となり、かえってこの民を苦悩せしめるに至る。哀しむに堪えず。民ら、意に任せて出で振り、その生命を全うすべし。我すでにこの国に主たり。一死社稷のためにするあるのみ。あえて寸歩を退避せず」。民に、敵に降ることで生き延びよ、といい、みずからは死をもって国家と運命をともにする覚悟を明らかにする。君主の態度がこのように毅然としていれば、自然と全国の忠義な者たちが立ち上がり、奮起して敵を追い払うことができます。

松蔭は、孟子が経験した斉による燕への侵攻、そして(おそらく孟子の死の五年後)楽毅に率いられた燕軍をはじめとする五国連合軍による斉の大敗を知っていました。民の力、とくに君主と民が心をひとつにしたときの力を信じ、またそれが歴史的に証明されていると考えていました。「民を貴しとなし、君を軽しとなす」とまで言う孟子もまた、王道政治の恩恵を受けた民の力を信じていたのです。

なお松蔭は、最後の「疑うことなかれ」を「信じて断行せよ」と解釈しています。そして、惠王が孟子の政策を用いなかったのは気にしないが、彼と同時代の将軍や藩主が用いないのを悔しく思う、と言っています。

これで、「梁惠王篇五章」を終わります。

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梁惠王篇 五章②

戦国時代に規模が大きかった七つの国(戦国の七雄といいます)のうち、魏と韓は、東西南北すべてを他国と接しており、国の規模を大きくするためには、他国へ攻めるしかありませんでした。逆に言えば、国力が衰え始めると他国から次々に攻め込まれるという、地政学上まことに不利な国でした。惠王は、秦や楚に国境の領土を割譲せざるを得なくなるとますます国境を気になり、いかにして自国の兵を強くし反攻するか、に心を傾けていたようです。もちろん、白圭のような土木の天才を登用して、河川氾濫予防の堤防や、人や物資の輸送用の運河を建設したことから、民生にもある程度心を砕いていたことが想像できます。孟子が、惠王が亡くなるまで魏にとどまっていたのは、王に少しでも期待できるところがあったからにほかなりません。

ここでも孟子は、国の規模を気にするのではなく、民に仁政を施すことだけを考えればいい、国防については民を信じ、己が先頭に立てば民はきっとついてくる、と言って、惠王を励まします。

【訓読文】

孟子対(こた)えていわく「地(とち)は方百里にして以って王たるべし。王もし仁政を民に施し、刑罰を省き、税の(みいり)を薄くし、深く耕し易(と)く(くさぎ)り、壮者(わかもの)には、暇日を以ってその孝悌忠信を脩(おさ)め、入りては以って其(そ)の父兄に事(つか)え、出でては以って其の長上に事えしむれば、梃(つえ)を制(と)りて以って秦・楚の堅き甲(よろい)・利(するど)き兵(かたな)をも撻(う)たしむべし。彼(かれら)は、その民の時を奪い、耕し(くさぎ)りて以ってその父母を養うことを得らざらしめ、父母は凍え飢えて兄弟妻子も離散せり。彼、この民を陥溺(かんでき)せしめんとき、王、往(ゆ)きてこれを征(う)たば、それ誰(たれ)か王と敵せん。故に仁者は敵なしといえり。王、請う、疑うことなかれ」。

【現代語訳】

孟先生がお答えしていわれた。「わずか百里四方(五十キロ四方)の小国の君主も、王であることには変わりありません。(ましてや王様の魏国は、それよりはるかに大きな国です)。王様がもし人民に仁政を行って、刑罰を軽くし、税の取立てを少なくし、土地を深く耕して早めに草刈りをさせ、若者には農事が暇なときに孝悌忠信の徳を教えこみ、家庭内ではよく父兄につかえ、外ではよく目上につかえるようにさせたならば、(もし攻め込まれたとしても)棍棒をとって、堅固な甲冑・鋭利な武器を持つ秦・楚の精兵をも叩きのめすことができるでしょう。一方、彼ら(敵国)は、季節にかまわず人民を労役や軍務に駆り出し、耕やして草刈りをして(穀物を収穫することで)父母を養うことができないようにさせています。そのため、父母は飢え凍え、兄弟妻子はちりじりばらばらです。彼らは、人民を穴に突き落とし、水に溺れさせるような政治をおこなっているのです。このとき王様がみずから征伐にゆかれたら、だれが王様に抵抗できますでしょうか。諺にある『仁者に敵なし』とは、このことをいっています。王様、どうか、私の申し上げることをお疑いなさいますな」。

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梁惠王篇 五章①

梁惠王篇の一章に始まった惠王との対話も、五章が最後になります。先に述べましたように、孟子が惠王が治める魏(梁)を訪れたのは、惠王の晩年、王が八十歳ごろです。惠王は八一歳で亡くなっていますから、孟子とは長くて数年の親交でした。

惠王の願いは、祖父・文侯、父・武侯の頃の隆盛を回復するまで至らなくとも、せめてこれまで敗れてきた国々に一矢を報いたい、ということでした。五章ではそれがテーマになります。

【訓読文】

梁の惠王いわく「われら晋国の、天下にこれより強きものなかりしは、(そう)の知れるところなり。しかるに寡人の身に及んでは、東のかたは斉に敗れて長子(これ)に死し、西のかたは地を秦に喪(うしな)うこと七百里、南のかたは楚に辱められたり。寡人はこれを恥ず。願わくば、死するときまでに壱(ひと)たびこれを(そそ)がん。之(これ)を如何(いかに)せば則(すなわち)ち可ならん」。

【現代語訳】

梁の惠王がいわれた。「先生もご存知の通り、わが晋の国(春秋時代の晋国ではなく、戦国時代最初の覇者であった魏のことを指している)は、以前は天下にならぶもののないほど強い国であった。ところが私の代になってから、東の方では斉に敗れて、太子の申(しん)は捕らえられ死んでしまうし、西の方では秦に領地を七百里も奪われ、南の方では楚に敗戦の辱めをうけてしまった。私は残念でならない。どうか私が死ぬ前に、ぜひ一度はこの恥をすすぎたい。さて、どうしたらそれが叶うだろうか」。

春秋時代の晋は、文公が(孟子の時代から約三百年前)覇者となり天下に号令をかけるまでになります。文公は、斉の桓公と並んで、春秋時代の覇者の代表です。また、晋国の公子でありながら、国の内紛から身の危険を避けるために、十九年間も逃亡の旅を続けたことは、宮城谷昌光さんの小説『重耳』に描かれています。晋はその後も、士会という名宰相によってふたたび輝きをみせましたが、凡庸な君主が続いたために、やがて韓・魏・趙の三国に分割されました。韓・魏・趙はみな、晋国の有力な家臣でありました。魏は三国のなかでも、最も盛んであったこと、晋の都であった曲を領土に含んでいたことから、晋の後継者を自認していました。惠王が、自国を魏や梁と呼ばずに、晋と呼んだのはそのためです。

魏は、晋から分離独立後最初の君主であった文侯、およびその子武侯のときに、戦国時代最初の覇者になります。しかし、すでに述べたとおり、惠王の治世になって三十年経った紀元前三四一年、斉に馬陵の戦いで大敗します。そのとき太子であった申も捕虜となり、死んでしまいます。翌年、惠王が登用しなかったために秦へ移った公孫(商)に率いられた秦軍に敗れ、黄河以西の地(河西地方)を秦に割譲します。秦にはその後もたびたび破れ、少しずつ侵食されることになります。さらに、昭陽に率いられた楚軍にも破れ、楚に対しても土地を割譲するのです。

たしかに、惠王の悔しさは並々ならぬものがあったでしょう。しかも八十歳という年齢を考えると、せめて一矢、一太刀報いたいという気持ちは分かります。

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梁惠王篇 四章②

仲尼とは孔子のことです。孔子は、氏が孔、(いみな=本名)が丘、字(あざな=本名で呼ぶのは無礼なので、代わりに呼ぶための名前)が仲尼です。有名な諸葛亮の字(あざな)が孔明であるのと同じです。

俑(よう)は、秦の始皇帝の陵墓に埋められていた兵馬俑(へいばよう)のように、死者を埋葬するときの副葬品です。日本の埴輪に相当します。春秋戦国時代に先立つ、商(殷)や西周時代は、王が死ぬと、その従者や馬などの動物たちを生きながらに埋めてしまう「殉葬」という風習がありました。しかし春秋時代になって、あまりに残酷であるため、本物の人間や動物の代わりに木製や陶製の「フィギュア」が使われるようになります。しかし孔子はそれですら、憎んだのです。慈しみ深い王であれば、たとえ象っただけのものであろうと、生前自分のために尽くしてくれたものたちを道連れにするはずがない、と考えたからでしょう。

三章では、孟子は惠王に対し、「人民が餓死しても、『私のせいではない。凶作の年だったのだ』とおっしゃる。これは人を刺し殺しておきながら、『私が殺したのではない。この刃物が殺したのだ』とおっしゃるのと何の違いがありましょうか」と言いました。惠王は、政治が人を殺すと言う意味がいまひとつ理解できなかったのでしょうか、「できることなら、もう少し先生に(詳しく)伺いたい」と聞きます。それに対する孟子の論理展開が見事です。棍棒で殺すのも刃物で殺すのも、殺すことに違いはない。刃物で殺すのも、政治が悪くてそのために人が死ぬもの、人が死んでしまうということでは違いはない。では、政治が悪くて人が死ぬというのはとういうことか、餓死者が多数出るような飢饉が天災ではなくて人災であるというのがどういうことか、孟子は続けています。

吉田松陰は、四章の中からは、「民の父母」という言葉を選んでいます。父母がわが子を愛養し教訓するように、君主は民を衣食住に困らないようにし、その後に民に道徳を教育しなければならないといいます。愛養し、その後に教訓する、という順序は、三章で述べられている王道政治のステップを踏まえています。

君主は民の父母のようでなければならない、というのは儒教独特の思想です。そもそも儒教は、人を慈しむ心(仁)を、先ずは家族に対して、そして地域の共同体へ、さらに国家へと広げていこうとする思想です。キリスト教のような博愛主義ではありません。孟子が活躍した当時の中国でも、墨子または墨翟(ぼくてき)が唱える遠近親疎を区別しない博愛思想(兼愛説)が流行していました。孟子は、自分の親と他人の親とをまったく区別しない、自国の君主と他国の君主とをまったく区別しないという思想では、家族や社会がめちゃくちゃになってしまうと考えます。ですから、慈しみの心を適切に適用する分別(義)が、仁と並んで重要になってくるのです。

これで、「梁惠王篇四章」を終わります。

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梁惠王篇 四章①

梁惠王篇の四章は、前章で使われた喩えが出てくることから、場面としても三章の続きだと思われます。

【訓読文】

梁の惠王いわく「寡人願わくは教えを承(う)けん」。

孟子対(こた)えていわく「人を殺すに梃(つえ)を以ってすると刃(やいば)にてすると異なることありや」。

いわく「以って異なることなし」。

「刃によってすると政(まつりごと)にてすると、異なることありや」。

いわく「以って異なることなし」。

いわく「(くりや)に肥たる肉あり、(うまや)に肥たる馬ありながら、民には飢えたる色(かおいろ)ありて野には餓莩(うえじにするもの)あり。此れ獣を率いて人を食(は)ましむるなり。獣の相(あ)い食(は)むすら且(なお)人はこれを悪(にく)む。民の父母と為(な)りて政を行いながら、獣を率いて人を食ましむるを免れずんば、悪在(いかん)ぞ其れ民の父母たらんや。仲尼(ちゅうじ)は『始めて俑(よう)を作りし者は、それ後(のち)無からんか』といいたまえり。その人に象(かたど)りて之(これ)を用いしが為なり。之をいかんぞ、斯(こ)の民をして飢えて死せしむるとは」。

【現代語訳】

梁の惠王がいわれた。「できることなら、もう少し先生に(詳しく)伺いたい」。

孟先生がかしこまってお答えになった。「棍棒で殴り殺すのと刃物で刺し殺すのとでは、なにか違いがありましょうか」。

王がいわれた。「いや、殺すことには違いはない」。

先生がいわれた。「刃物で刺し殺すのと政治が悪くて人が死んでしまうのとでは、なにか違いがありましょうか」。

王がいわれた。「それも、殺すことには違いはない」。

先生がいわれた。「では申しますが、いま王様の調理場には脂ののった肉があり、お厩には肥えた元気な馬が飼われていますのに、一方人民は、飢えて顔色が悪く、野外には餓死者の屍骸がころがっております。これでは獣をひきつれて人間を食わせているようなものです。獣同士の食い合いでさえ、人は憎まずにはおられぬものです。ましてや、人民の父母であるべきはずの王様が、獣をひきつれて人間を食わせているようでは、どうして人民の父母だといえましょうか。孔子は『最初に俑(ひとがた)を作りだした人は、その子孫は必ず断絶するだろう』といわれています。それは人間のかたちに作った人形でさえ、死者と一緒に埋葬するのを憎まれたのです。ましてや、生きた人間を餓死させるような政治はそれ以上に憎むべきものです」。

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梁惠王篇 三章④

孟子は、王道政治を三つのステップで説明しています。

①節度を保った労役、食物採取、森林伐採によって、食糧や木材の安定供給を図る。

木材は住居建築の材料でもあり、木炭という生活するうえで必須の燃料の材料でもあります。食と住が保障されてはじめて、人は父母や妻子を養い、死者を弔うことができます。儒教では、先祖を大切に祭り、自分が死んだ後は自分を祭ってくれる子孫を絶やさないことが極めて重要です。儒教が根本にしている先祖崇拝は、日本にも色濃く反映されています。一周忌や三回忌など、日本で仏教のものと思われている儀礼の多くは、じつは儒教がもとになっています。このことはこの後も時々触れますが、詳しくは、加地伸行さんの『沈黙の宗教-儒教』をお読み下さい。

②一世帯ごとに決まった耕地と宅地を割り当て、さらには養蚕と畜産を奨励する。

絹製の衣服を着て、肉を食べることができるのは、相当にゆとりをもった生活です。

③農村の塾で、子供たちに道徳教育を施す。

庠は商(殷)時代の、序は周王朝になってからの学校を意味する語です。ここでは、農村の塾、日本の寺子屋をイメージするといいでしょう。小さい頃から道徳を学べば、父母を大切にし、目上の人を敬い、老いた人をいたわるようになるので、皆が幸せな社会になるといいます。性善説を唱える孟子は、徹底して人間の本来の姿を信じています。ですから、生活が安定し、ゆとりさえ出て、人が本来持っている思いやりの心を育めば、理想的な社会になる、と確信しているのです。

王道政治は、上述の三つのステップを踏むことで人々が幸せに暮らす社会を現出させます。他国の民はこれを羨み、王道政治の為政者を慕って移民してくるか、自国の支配者を恨むようになります。そうなれば、王道政治の国の力はますます増し、他国はますます衰え、やがては天下がすべて王道政治の国へと吸収されていくのです。これが孟子が進める国策であり、他の遊説家の富国強兵策は、どれも人民のことは二の次に考える「五十歩百歩」の政策だと断じます。

節度をもって計画的な生産、収穫、消費、備蓄を行えば、干ばつや冷害による凶作のときでも飢饉には至りません。いいかえれば、飢饉は天災ではなく人災だと言います。その孟子流の喩えが、「我にあらず、兵(かたな)のつみなり」です。まさに刃物のように鋭い表現です。

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梁惠王篇 三章③

梁惠王篇の三章の後半では、孟子が理想とする政治が行われたならば、凶作のときにあわてて人や物資を移動させなくとも、そもそも飢饉の発生を防ぐことができると述べています。老いても衣食に困らない理想社会を描くともに、餓死者が出てしまうのは人災であると言い切ります。

【訓読文】

「農時に違(たが)わざれば、穀(こく)勝(あげ)て食うべからず。數罟(そくこ=細かい網)は洿池(おち=水をたたえた池)に入らざらしむれば、魚鼈(ぎょべつ=さかな・すっぽん)勝て食うべからず。斧斤(ふきん=おの・まさかり)時を以って山林に入らしむれば、材木は勝て用うべからず。穀と魚鼈と勝て食うべからず、材木勝て用うべからざる、是(こ)れ、民をして、生(いけるひと)を養い死(しせるもの)を喪(おく)りて憾(うらみ)ならしむるなり。生を養い死を喪りて憾ならしむるは、王道の始(はじめ)なり。

五畝の宅、之に樹(う)うるに桑を以ってせば、五十の者は帛(きぬ)を衣(き)るべし。雞(とり)豚(こぶた)狗(いぬ)彘(いのこ=おおぶた)の畜(やしない)、その時を失(あやま)つことなくんば、七十の者は肉を食らうべし。百畝の田、その時を奪うことなくんば、数口の家も飢うることなかるべし。庠序(しょうじょ=学校)の教えを謹(つつ)しみ、これを申(かさ)ぬるに孝悌の義を以ってすれば、頒白(はんぱく)の者は道路に負戴(にお)わず。七十の者は帛を衣て肉を食らい、黎民(れいみん)は飢えず寒(こご)えず。然(かくのごと)くにして王たらざる者は、未だこれ有らざるなり。

狗(いぬ)彘(いのこ)は人の食(しょく)を食らえども、検(くらにおさ)むることを知らず、塗(みち)に餓莩(うえじにするもの)有れども発(くらひら)くことを知らず。人死すれば、『我のせめにあらず、歳のつみなり』という。是(こ)れ何ぞ、人を刺して之を殺しながら『我にあらず、兵(かたな)のつみなり』というに異ならんや。王、歳を罪することなければ、斯(すな)わち天下の民も至らん」。

【現代語訳】

「すべて農繁期を避けて人民を労役に使うようにすれば、穀物は食べきれないほどよくとれるものです。漁師が沼池に目の細かい網を入れなければ、(幼魚は捕らずに成魚だけを捕るので)魚やすっぽんの類は食べきれないほど繁殖するものです。木こりが斧や斤をもって山林に入って伐採する季節を限定すれば、材木は使い切れないほどよく繁茂するものです。このように穀物も魚やすっぽんの類も食べきれず、材木も使い切れないほど豊かになれば、人民の生活は安定して、父母や妻子を養うにも、死者を弔うにも、遺憾なくできるものです。これこそ、王道政治の第一歩なのです。

一世帯あたり、五畝の宅地と百畝の耕地とを与えるとします(一畝は約三十坪)。宅地のまわりに桑を植えて養蚕をさせれば、五十すぎの老人は暖かい絹製の衣服が着られます。また、鶏、仔豚、食用犬、(食用の)成豚などの家畜を飼わせて、子を孕んだり育てているときに殺さないようにさせれば、七十すぎの老人は肉を食べられます。農繁期に労役を課すことがなければ、五六人の家族なら、飢えることはありますまい。つぎに、学校での教育を重視して、とくに親への孝、目上への悌の道徳を徹底させれば、白髪まじりの老人が路上で重い荷物を背負うようなことは見なくなるでしょう。七十の老人たちが絹物を着、肉を食べ、一般庶民は飢えも凍えもしません。このような王道政治をおこなって、ついに天下の王者とならなかった人は、いまだひとりもおりません。

ところが(王様の政治は)、(豊作の年に)犬や豚が人間の食べ物をたらふく食べるのを放っておいて、(余っている食糧を)倉に収めて貯えることをなさらない。(凶作の年に)路ばたに餓死者がころがっていても、倉を開いて救おうともなさらない。人民が餓死しても、『私のせいではない。凶作の年だったのだ』とおっしゃる。これは人を刺し殺しておきながら、『私が殺したのではない。この刃物が殺したのだ』とおっしゃるのと何の違いがありましょうか。もし王様が凶作のせいになさらず、ご自分の政治が悪いのだ(天災ではなくて人災だ)と自覚されて政治を改めたならば、天下の民は必ず王様の徳を慕って、この国に集まって来ることでしょう」。

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梁惠王篇 三章②

秦の孝公が公孫(のちの商鞅)を登用し、斉の威王が孫臏(ぴん)ら人材を揃えていたのに対し、魏の惠王は出遅れたことは先に述べました。しかし惠王も、堤防を築いて洪水を防ぐような土木工事に優れていた白圭を、宰相(または大臣)に用いています。「蟻の一穴」「蟻の穴から堤も崩れる」という慣用句は、戦国時代末期の思想家である韓非が著した「韓非子」から来ています。治水に巧みな白圭は、堤防を見回るとき、蟻の小さな穴から塞いでいくので、白圭が回ったあとの堤は洪水の心配がない、と書かれています。ただし、この白圭は、宮城谷昌光さんの小説で一介の浪人から大商人となり、さらには孟嘗君の養父として描かれている白圭とは別人のようです。白圭がいつごろ惠王に仕えるようになったかは不明ですが、おそらく斉や秦に大敗し、都を大梁に遷さざるを得なくなった後のことだと思います。

「寡人」とは「徳が寡(すく)ない人」という意味で、王侯が自分を謙遜して指す一人称です。ここでは惠王が自分のことを言っています。河内地方は、黄河の南側で新都大梁より東側をいうので、魏の東端といってもいいでしょう。また、秦に大敗したときに黄河以西の地を割譲していますから、その対岸で魏の領土として残った河東地方は、魏の西端でした。つまり、河内から河東へ人民を移したり食糧を搬送するのはきわめて大変なことです。自然河川だけでなく、運河のような人工的な輸送システムがないとできません。土木に天賦の才があった白圭がいたからこそ実現したシステムです。おそらく白圭は、治水によって天災による被害を小さくする努力はしましたが、それでも凶作になってしまったときには、国土を横断する輸送システムによって、人民と食糧の移動をある程度可能にするという対策をとったのでしょう。

惠王は、白圭という宰相を通じて、人民のために心を尽くしているつもりでした。しかも、やられっぱなしの秦や斉に一矢報いるには、国富と強兵が必要です。どちらも人口が多い方が有利です。「隣国の人民が少しも減らず、私の人民が少しも増えないのはなぜであろうか」という王の問いには、それだけ切実なものがあったのです。

しかし孟子から見れば、惠王の施策は他国の富国強兵策と大きく変わるものではありません。また、凶作時に人民と食糧を輸送するというのは、本質的には(根治療法ではなく)対処療法に見えました。そのことを王に分かりやすく説明すると同時に、孟子が理想とする道徳主義の政治、抜本的な農政改革の話へ王を引き込むために、得意の比喩を使います。さらには、「戦争がお好きのようですから」とチクリと皮肉を入れることも忘れていません。では、孟子が理想とする政治はどのようなものでしょうか。

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梁惠王篇 三章①

魏(梁)の惠王が老臣の忠告を聞かずに、若き公孫(商鞅)を秦に走らせ、鞅の政治改革によって強国となった秦に領土を侵食されていったことは、一章で述べました。祖父(文侯)、父(武侯)が築いた覇者の座から転げ落ち、最後は東の大国となった斉の傘の下に入らざるを得ないありさまでした。斉が威王によって、秦が孝公(鞅を宰相にした君主)によって大きく変わっていた時期に、いたずらに周りに戦争をしかけ、かえって他国に攻め入る隙を与えてしまったのですから、名君というには程遠いでしょう。そもそも、魏が退潮するきっかけとなったのは、紀元前三四一年、魏軍が斉軍に馬陵の戦いで大敗したことでしたが、両者が戦った原因は、その十五年前に魏による隣国趙への侵攻にあります。

また、斉の威王との間には、次のようなエピソードがあります。惠王と威王が会見したとき、惠王が戦車十二台を照らすことができる珠を自慢したのに対し、威王は戦車十二台どころか戦利先をも照らすことができる家臣こそ自分の宝だと答えます。惠王がようやく人材の重要性に気付いたのは、魏国が衰え始めてからでした。

孟子が「仁義あるのみ」といったからなのでしょう、惠王は自分にも仁(民を思うこころ)があると言いたげです。これを孟子は、有名な慣用句で一蹴します。

【訓読文】

梁の惠王いわく。寡人(かじん)の、国におけるや、心を尽くせるのみ。河内(かだい)の凶なれば、則(すなわ)ちその民を河東に移し、その粟(こめ)を河内に移す。河東の凶なれば、また然(しか)り。国の政(まつりごと)を察(み)るに、寡人の心を用うるが如くなる者なし。しかるに国の民少なきを加えず、寡人の民も多きを加えざるは、何ぞや。

孟子対(こた)えていわく。王は戦を好む。請う、戦を以(もっ)て喩(たと)えん。然(てんぜん)として鼓(たいこ)ならし、兵刃すでに接(まじ)わるとき、甲(よろい)を棄て兵(かたな)を曳(ひ)いて走(に)ぐるに、或るものは百歩にして後(のち)止(とど)まり、或るものは五十歩にして後止まる。五十歩を以(もっ)て百歩を笑わばいかん。

いわく。不可なり。ただ百歩ならざりしのみ。これもまた走(に)ぐるなり。

いわく。王もしこれを知らば、則ち民の国より多からんことを望むなかれ。

【現代語訳】

梁の惠王がたずねられた。「私は国の政治にはあらんかぎりの苦心をしている。たとえば河内(かだい)地方が飢饉のときには、移せるだけの人民を河東地方へ移住させ食べさせるとともに、移住できなかった者たちの食糧を河東地方から河内地方へ輸送する。河東地方が飢饉のときは、その逆のことをする。隣国の政治を見ていると、私のように心を砕いている者はいない。それなのに隣国の人民が少しも減らず、私の人民が少しも増えないのはなぜであろうか」。

孟先生がお答えしていわれた。「王様は戦争がお好きのようですから、ひとつ戦争にたとえて申し上げましょう。太鼓をドンドンと打ち鳴らし、敵味方で斬り合いがはじまったときに、鎧を脱ぎ捨て、武器を引っさげて逃げる者たちがおりました。ある者は百歩逃げて踏みとどまり、ある者は五十歩逃げて踏みとどまりました。五十歩で踏みとどまった者が百歩で踏みとどまった者をあざ笑ったら、いかがなものでございましょうか」。

王がいわれた。「それはいけない。(五十歩で踏みとどまった者も)百歩逃げなかっただけだ。逃げたことにはほかならない」。

孟先生がいわれた。「王様がもしこの道理がお分かりになられたら、王様の人民が隣国よりも多くなることを期待されるはずがないと存じます」。

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梁惠王篇 二章③

商(殷)の紂王を倒して周王朝を立てたのは武王です。文王はその父です。文「王」といいますが、彼が生きていた間は紂王の臣下であり続けたので、文王は追号です。文王の仁政は、周の領土の隅々まで行き渡り、その民はみな文王を慕い、互いに助け合い譲り合っていたそうです。また、後に斉国の始祖となった太公望呂尚を軍師に迎えたのも文王でした。儒教で聖人と讃えられる君主のなかで、歴史上の人物のひとりです。

紂王で滅んだ商王朝を建てたのは、湯王です。湯王は、夏王朝の桀王を倒しますが、そのとき諸侯に向けて演説したのが、「書経」の湯誓篇です。王も紂王も、暴虐の君主とされています。紂王は美男子で、頭脳明晰の上、腕力も優れていました。スーパーマンだったのです。しかしその天賦の能力を善政に用いず、自分勝手な暴政に走ってしまいました。スーパーマンだけに、周りが愚かに見えたのでしょう。近しい人間の忠告にも耳を貸さず、滅亡への道を突き進んだのです。暴君であったこと、愛妾(末喜、妲己)に溺れたこと、巨大な建築物(傾宮、鹿台)を造ったこと、徳のある対抗勢力(湯王、文王)を幽閉したことなど、伝承の上では、桀王と紂王は共通点が多いです。そのため、桀王のイメージは紂王をベースに作られたものとも言われています。

吉田松陰は、「偕(ともに)に楽しむ」ことと「独(ひと)り楽しむ」とこと違いを説明しています。文王は、庭園や鳥獣を楽しんだのではなく、人民が自分を慕って建物や庭園を造ることを楽しんだのです。人民も、文王が楽しんでおられるのを楽しんだのです。「偕に楽しむ」とは、王は民が楽しむのを、民は王が楽しむのを楽しむことをいいます。これに対し王は、台池・鳥獣そのものを楽しんでいます。これを「独り楽しむ」といいます。

さて、野山獄につながれている松蔭は、「偕(ともに)に楽しむ」ことができたのでしょうか。たしかに獄中で「孟子」の講義をしていたときは、彼の一回目の野山獄収監であり、その後、生家に幽閉されることになります。桂小五郎や高杉晋作を弟子にした「松下村塾(しょうかそんじゅく)」も、生家の敷地内でした。ですから実際には、兄弟親族や友人と楽しむことは実現しました。

しかし、この「梁惠王篇」を講義しているときは、そうした未来はまったく描けていなかったのです。にもかかわらず松蔭は、この獄で他の囚人たちと「孟子」を学び、人の人たる道を研究し、牢獄につながれていることを忘れられるような境地に至れば、それがすなわち「楽しみの楽しみ」である、といいます。松蔭の明るさ、あくまでも前向きに生きる姿勢には敬服せざるをえません。

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梁惠王篇 二章②

中国最古の詩歌集は「詩経」といいます。おもに西周(春秋時代の前、遷都する前の周王朝)時代に謡われた詩を、孔子が集めたものといわれています。その中には、庶民が生活の苦しさ、主君に対する不満、家族を喪った悲しみ、恋のときめきなどを謡った歌もあれば、周王朝が始まった頃の為政者を称える歌もあります。

また中国最古の歴史書「書経」には、伝説上の成人君主、夏、商(殷)、周の帝王の言行が記録されています。孟子は、こうした(当時にあっても)古典を引用して、君主と民とのあるべき姿を述べていきます。

【訓読文】

詩には「霊台を経(はか)り始(つく)る。これを経りこれを営(なわば)り、庶民これを攻(おさ)めて、日ならずしてこれを成せり。経り始ることうながすなきも、庶民は子のごとく来たれり。王、霊(ゆう)に在(いま)さば、(めじか)鹿(おじか)もここに伏したり。鹿は濯濯(たくたく)たり、白鳥は鶴鶴(かくかく)たり。王、霊沼(れいしょう)に在(いま)さば、ここに満ちて魚も躍る」といえり。文王は民の力を以(もち)いて台(うてな)を為(つく)り沼を為りたるに、しかも民はこれを歓楽(よろこ)び、その台を謂(な)づけて霊(めでた)き台といい、その沼を謂づけて霊き沼といいて、その(おおじか)鹿(こじか)・魚(うお)鼈(すっぽん)の有(い)るを楽しめり。古(いにしえ)の人は民と偕(とも)に楽しむ、故(ゆえ)に能(よ)く楽しめるなり。湯誓(とうせい)にいわく、「この日いつか喪(ほろ)びん、予(われ)、女(なんじ)と偕(とも)に亡びん」。民、これと偕に亡びんと欲すれば、台池鳥獣を有(も)つといえども、(あに)能(よ)く独(ひとり)楽しまんや。

【現代語訳】

ですから「詩経」にも、「文王が台(うてな:四方を観望できるような建物)をつくろうとして、見積もったり縄張りをしたりすると、おおぜいの人民がきそって工事をして、幾日もかからずに造りあげてしまった。文王は(この工事は)決して急ぐには及ばぬといわれたのだが、人民たちは文王を親のように慕い、たくさん集まってきたからたちまち出来上がったのである。(建物ばかりでなく庭園も立派にできて)文王が庭園にでていかれると、めじか・おじかは(ひとがきてもいっこうに驚かず)伏したままである。めじか・おじかはよく肥えふとって毛並みはつややかで、白鳥はその羽色が真っ白にかがやいている。文王が池のほとりに臨まれると、満々とたたえた水には、魚も跳ね踊っている」とあるではございませんか。文王は民の力で台や池をつくりましたが、民は怨むどころか(文王の徳をほめたたえ)歓んで、「霊台(めでたいうてな)」「霊池(めでたいいけ)」という名前までつけて、おおじかやこじか、魚やすっぽんがいることをわがことのように楽しんだものです。それというのも、いにしえの賢人は自分ひとりで楽しまないで、民といっしょに楽しんだからこそ、ほんとうに楽しめたのです。「書経」の「湯誓篇」に、(人民は夏の王を日照りの太陽になぞらえて)「ああ、苦しい。この太陽はいったい、いつ亡びるのだろう。その時がくるなら、自分もいっしょに亡(ほろ)んだとてかまわない」といって呪ったとありますが、こんなに民から「いっしょに亡んでしまいたい」とまで怨まれるようになっては、いくら立派な台や池や鳥・獣があったとしても、自分ひとりで楽しんでなどおられましょうや(楽しんでいられないでしょう)。

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梁惠王篇 二章①

二章は、一章に続いて惠王との対話です。謁見風景は前章と一変して、広い御苑の散策です。鳥や獣が放し飼いになっているほど広い御苑。王は、道徳主義を説く孟子は頭の固いまじめ人間に違いないと思い、このような御苑を楽しめるかと聞いてきます。老王のちょっとしたいたずらのようです。

【訓読文】

孟子、梁の惠王に見(まみ)ゆ。

王、沼(いけ)の上(ほとり)に立ち、鴻(おおがり)や鴈(こがり)や、(おおじか)や鹿(こじか)を顧(み)ていわく、「賢者もまたこれを楽しむか」と。

孟子対(こた)えていわく、「賢者にして後(のち)、これを楽しむ。不賢者はこれをもつといえども楽しまざるなり。

【現代語訳】

孟先生が、梁の惠王に謁見された。

王様は広い御苑の池のほとりに立たれ、大雁や小雁、大鹿や小鹿を眺めながらいわれた。「賢者も(わたしたちと同じように)こうしたものを見て楽しむのだろうか」。

孟先生はお答えしていわれた。「賢者であってこそ楽しめるのです。賢者でなくては、たとえ広い御苑があっても、それを楽しむことはできません。

惠王は、わたしのようなものはこの広い庭園を楽しんでいるが、聖人のような賢者(暗に孟子のことを言っています)は、まじめすぎるので楽しむことはできますかな、と問うています。孟子は、惠王のからかいも含んだ問いかけも、自説展開の糸口にしてしまいます。まってましたとばかり、「賢者も」ではなく「賢者だからこそ」楽しめると答えます。「賢者でないと楽しめない」と、一見逆のようなことを言って、王の関心を引き付けるのです。

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梁惠王篇 一章③

【訓読文】

王は何を以(も)ってわが国を利せんかといい、大夫は何を以ってわが家を利せんかといい、士と庶人とは何を以ってわが身を利せんかといい、上下こもごもに利を征(と)らば、すなわち国は危うからん。万の乗(くるま)の国にてその君を(あや)むる者は、必ず千の乗の家なり。千の乗の国にてその君をむる者は、必ず百の乗の家なり。万にて千を取り、千にて百を取るは、多からずとなさざるなり。いやしくも義を後にして利を先にすることをなさば、奪わざれば厭(あ)かじ。いまだ仁にしてその親を遺(わす)るる者はあらず、いまだ義にしてその君を後(かろ)んずる者はあらず。王、ただ義をいわんのみ。何ぞ必ずしも利をいわん。

【現代語訳】

もしも王様がどうしたら自分の国に利益になるのかといい、大夫(諸侯の家臣、士より上の職名)はどうしたら自分の家に利益になるのかといい、役人や庶民たちはどうしたらわが身に利益になるかといい、上の人間も下の人間もかってに利益をむさぼることしか考えなければ、国家は危機におちいるでしょう。万台の戦車をだせるくらいの規模の国で、その君主をあやめるものがあれば、それはきっと千台の戦車を出せるくらいの領地をもらっている家がらの家臣でしょう。千台の戦車をだせるくらいの規模の国で、その君主をあやめるものがあれば、それはきっと百台の戦車を出せるくらいの領地をもらっている家がらの家臣でしょう。万台の戦車をだせるくらいの規模の国にあって千台の戦車を出せるくらいの領地をもらい、千台の戦車をだせるくらいの規模の国にあって百台の戦車を出せるくらいの領地をもらうのは、決して多くないとはいえません(少なくはない厚遇・高禄です)。しかし、もしも仁義を後回しにして(軽んじて)、利益を第一に考える(尊ぶ)ようですと、領土の十分の一をもらっても満足しないで、主君をあやめてまでもすべてを奪い取らなければ飽き足りないことになります。昔から仁を志すもので自分の親を忘れた(おきざりにした)者はおりません。義をわきまえたもので主君を軽んじた(ないがしろにした)者はおりません。ですから王様、これからは仁義だけをおっしゃって(気にかけて)ください。どうして利益についてなどおっしゃる(気にかける)必要がありましょうか。

「万の乗(くるま)の国にてその君を(あや)むる者は、云々」の話術は、孟子の巧みさが出ています。実際、そうした下克上が起こっている時代背景もありますが、聞き手にとっては、非常に分かりやすいロジックになっています。

これで、「梁惠王篇一章」を終わります。

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梁惠王篇 一章②

王、何ぞ必ずしも利をいわん。ただ仁義あるのみ。

吉田松陰も、梁惠王篇の第一章からは、この文を取り上げています。松蔭は、「仁義はものごとの道理であり、本来行うべき道筋である。この(仁義という)道理を目標にすれば、自然と効果としての利益がついてくる」といいます。むしろ「効果ばかりを目標にすれば、道理を見失いかねない。効果を目標にすると間に合わせ仕事が多くなり、完全に成し遂げることも少ない。たとえ成し遂げたとしても(間に合わせ仕事で済ませたために)、長い期間にわたって維持することは難しい」と、その害を説明します。つまり、目先の効果を狙うとかえって長期的な効果は得られない、と断じているのです。

松蔭のこの言葉は、現代社会への警告としてもピタリと当てはまります。株価至上主義の短期的視野の経営が、結果的には「百年に一度」の金融危機・経済不況を招きました。目先の入試合格至上主義が、幅広い教養がなく、正解のない状況に対応できない若者を生み出してきました。

さて松蔭はここで、野山獄という牢に入れられているわが身を振り返ります。「再び世に出て太陽を拝するという希望は持っていない。学問をきわめてそれが完成したとしても、何の役に立つだろうか。このように考えるのが一般的であるが、これは孟子のいう『利』の考えである」とします。人として生まれながら、人としてあるべき道を知らないのは恥ずかしいことです。もし恥ずかしいという気持ちがあるのなら、書物を読み、人としてあるべき道を学ぶよりほかに方法はありません。そしてその努力によっていくらかの道を知るようになったならば、それだけでも悦ばしいことです。孔子が、「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」(「論語」里仁篇八)と言われたのは、まさにこのことです(「聞く」は学ぶ、「可」はそれで十分だ、満足だ、という意味です)。

梁惠王篇が年代順の記述になっていることはたしかです。そして、孟子が遊説活動の最初に、魏(梁)の惠王を訪ねたことも事実です。その冒頭で「王、何ぞ必ずしも利をいわん。ただ仁義あるのみ」と言い切っている孟子は、その後も終生変わることなく、功利主義(現実主義)が蔓延する世の中に戦いを挑み、みずからの道徳主義(理想主義)を打ち立てようと奮闘するのです。

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梁惠王篇 一章①

「孟子」は、全部で七篇から成っています。それぞれの篇が、上篇と下篇に分かれていますので、人によっては十四篇と数えることもあります。その第一が、梁惠王篇です。それぞれの篇名は、最初の章の二、三文字をとっているだけですので、篇名そのものに特別の意図はありません。この梁惠王篇(一章から二十三章)は、孟子の活動遍歴が年代順に並べられているので、孟子の活動や思想を概観するのに、分かりやすくなっています。また、基本的に申しと相手との対話編になっていますが、孟子の論理の組み立てのたくみさ、比喩のうまさ、を十分に味わうことができます。

【訓読文】

孟子、梁(りょう)の惠王に見(まみ)ゆ。

王いわく「(そう)、千里を遠しとせずして来たる。また将(まさ)にわが国を利すること有らんとするか」。

孟子対(こた)えていわく「王、何ぞ必ずしも利をいわん。ただ仁義あるのみ」。

【現代語訳】

孟先生が、梁の惠王に謁見された。

惠王はいわれた。「先生は、千里の道を遠しともせずに、この国へ来て下さった。(このようにはるばる来たからには)さだめし、(ほかの先生方のように)わが国の利益になる方策を提言して下さるのでしょうな」。

孟先生がかしこまってお答えになった。「王様はどうして利益のことばかりおっしゃられるのですか。(国を治めるのに)大事なのは仁義だけです」。

「孟子」の最初の篇の最初の章の冒頭の対話です。ここに孟子の理想が一言で言い表されているといっても過言ではないでしょう。

梁とは、魏のことです。魏が韓・趙とともに、主君の国である晋を分割して独立国になったことは先に述べました。諸侯として認められたのが、名君の誉れ高い文侯です。文侯の下で、魏は戦国時代最初の覇者となります。二代目の武侯も覇者の地位を保ちますが、東に斉、西に秦、南に韓・楚、北に趙、と他国に囲まれていた魏は、三代目の惠王のときに勢力が衰えます。紀元前三四一年の斉との戦い、翌年の秦との戦いは、魏に決定的な打撃を与えました。西側の領土を大きく削られた魏は、都を大梁(現在の開封市)に遷します。「梁の惠王」と呼ばれたのはそのためです。ちなみに、斉と魏の戦い(馬陵の戦い)で圧勝した斉の軍師が、「二人の孫子」のうちのひとり、孫(ぴん)です。

惠王が秦に大敗する遠因が、公孫をめぐるエピソードです。魏の宰相が臨終のとき、惠王に若き公孫鞅を後任に推挙します。彼を宰相にすれば必ずや魏を大国にする、という言います。さらに続けて、もし宰相にしないのであればすぐに殺すように助言します。他国に行けば必ずや魏にとって脅威となるから、生かしてはならないというのです。惠王は公孫鞅を宰相にすることもなければ、殺害することもありませんでした。やがて公孫鞅は秦の宰相になり、徹底した法治主義による国政改革を行い、秦を軍事大国に一変させます。これが秦の商鞅です(秦の王から商という領地に封じられたため)。臏も商鞅も、宮城谷昌光さんの『』に登場します。

このふたつの大敗から二十年が経ち、惠王も八十歳になっていました。孟子が王に謁見したのはそのころです。王は孟子のことを「叟」と呼んでいますから、そのとき孟子は五十歳を少しすぎたころだったのでしょう。孔子が「天命を知る」といって、魯国の政治に関わったのも五十歳でした。孟子も五十歳で本格的な遊説活動を始めたのです。

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孟子 はじめに④

本編では、「孟子」の訓読文と現代語訳を綴っていきます。訓読文については、金谷治著(朝日新聞社、中国古典選)、小林勝人訳注(岩波文庫)をベースにしています。貝塚茂樹著(講談社)は、章を選んで訓読・現代語訳を行っているので、該当する章がある場合にはこれも参考にします。

現代語訳は、ウェブサイトでは、すでに鈴元仁氏の「我読孟子」があります。詳しい解説と氏の見解が述べられているサイトです。これには到底及ばないと思いますが、私なりに「人類の知的資産」に貢献できることを願っています。

吉田松陰の『講孟記』にも、各章で言及していきます。また時代背景として、春秋戦国時代の人物にもときどき登場してもらいましょう。古典を読むのは、少々辛抱が必要です。歴史小説に出てくる人物を紹介することで、孟子が少しでも身近な存在になれば幸いです。

それでは、次回より本編を開始します。

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孟子 はじめに③

孔子と孟子とでは、その時代に百八十年の開きがあります。百八十年の間に時代は大きく変わっていました。孔子が活躍した春秋時代では、思想家はあくまでも君主の臣下でした。孔子とその弟子たちのサークルは、任官養成学校ともいうべきものでした。一方、孟子の時代には、諸子百家は君主の師として振舞うものも少なくなかったのです。そもそも孟子自身がそうでした。斉の宣王との関係を、君臣ではなく師弟のごとくあろうとしたのには一種の頑固ささえ感じます。それがために結局、王とは心が離れ、ついには斉にいられなくなってしまうのです。

戦国時代は、君主が自国の強化のために、諸氏百家を重んじた時代でした。孔子の時代の遊説家は、食うに困ることもしばしばでしたが、孟子の時代は、著名な遊説家は豪華な行列で大勢の弟子たちを引き連れて移動していたのです。君主の方も、遊説家だけでなく、一芸に秀でたものは食客として抱えていました。戦国四君のひとりである孟君(宣王の甥)は数千人の食客を抱えていたと言われます。彼は、盗みが得意な食客と、鶏の鳴き声の真似が上手い食客によって、命拾いをしています(鶏鳴狗盗)。

だた、もし孔子が孟子の時代に生まれていたとしても、孟子のように振舞ったでしょうか。私はそうは思いません。そこに、人格的に聖人のようであった孔子と、人格的には欠点も多かった孟子との違いがあります。貝塚茂樹(ノーベル賞受賞者湯川秀樹の長兄で、東洋史学者)が孟子をあまり好きでないひとつの理由も、そこにあるのかもしれません。ただ私は、人格的に欠点のある方に魅力を感じます。人間味を感じるからです。

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孟子 はじめに②

実は孟子の生没年ははっきりと分かっていません。紀元前三七二年~二八九年とされていますが、そもそも没年が明確でないのです。その上、数え年八十四歳で亡くなったという仮定のもとで計算していますから、生年はもっとあてになりません。まぁ、紀元前四世紀後半から三世紀初めにかけて活躍した人、と考えておけばいいでしょう。

秦の始皇帝による中国統一が紀元前二二一年ですから、孟子が遊説を始めたのは、統一からだいたい百年くらい前ということになります。ここで、中国の古代史を少しだけ復習させて下さい。

今から三〇五〇年くらい前、中国に周という王朝が誕生しました。その前の商(殷ともいいます)王朝の暴君を倒したのは武王ですが、その父・文王と、建国後まもなく亡くなった武王の後継をよく補佐した周公(武王の弟)もともに理想の君主とされます。しかし二七〇年余り経ち、周はいったん滅びます(それまでを西周と呼びます)。その後、都城を現在の西安付近から洛陽付近へ遷して再建されますが、もはや王室に往年の力はなく、権威だけが保たれます。遷都後の周を東周と呼びますが、春秋時代の方が知られた名称になります。この頃、諸侯の中に力あるものが現れ、周王に代わって国事を仕切ったこともあります。その代表例が、斉(せい)の桓公、晋の文公です(彼らは『孟子』の中に登場します)。

さらに時代が下って、紀元前四五三年、晋の有力な家臣であった、韓氏、魏氏、趙氏が国を勝手に分割し、独立国にしてしまいます。まさに下克上です。これ以降を、戦国時代と称します。下克上のもうひとつ大きな例は、太公望の名前で知られる呂尚以来二十世三二代続いた斉の血統が、他国から流れてきた公子の末裔に国主の座を簒奪されるという事件です。紀元前三八六年のことです。三百年かけた「国盗り物語」でした。孟子が活躍するのは、この戦国時代の真ん中(紀元前三三七年)からやや下ったあたりだと、頭に入れておいて下さい。

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孟子 はじめに①

『論語』の述而篇は、「述べて作らず。信じて古(いにしえ)を好む。ひそかに我が老に比す」で始まります。白川静は、「孔子がみずから、自己の一生の生き方について述べた」とみました(『孔子伝』)。孔子は自分のことを、祖述者であり創作者ではない、と規定したのです。しかし白川先生は、そこに「創造の秘密」があると言います。「伝統は運動を持つものでなければならない。運動は、原点への回帰を通じて、その歴史的可能性を確かめる。その回帰と創造の限りない運動の上に、伝統は生きてゆくのである」(『孔子伝』)。

孔子が最初の回帰者であり、運動の「樹立者」であるならば、孟子は次の節目となる回帰者であり、百家争鳴に埋もれかけた儒教に力を吹きこんだ再建者です。後ほど詳しく述べますが、比較的伝統が生き延びていた孔子の時代と異なり、孟子が生きた時代は弱肉強食の戦国時代でした。実力主義と実利主義が幅を利かせていたのです。まさにグローバリズム全盛の現代社会と合い通じるものがあります。その流れに抗するように、仁義を重んじ、民を慈しむ王道政治を唱えたのが孟子です。人の善性を信じ、家族から身近な社会、そして国家へとだんだんに信頼の関係を広げていくことの重要さを説いたのが孟子です。今回、私が孟子を取り上げようと思ったのは、グローバリズムで疲弊し、信頼という社会基盤が危うくなった現代社会にこそ、孟子が求められているのではないか、孟子に「回帰」することが求められているのではないか、と思ったからです。

私事になりますが、大学時代、『孟子』を繰り返し読んだ時期がありました。あまり深く考えることのできなかった私は、『論語』が保守的に思え、『孟子』の方に魅力を感じていました。吉田松陰が故郷の牢獄に入っていたときに、『孟子』の勉強会を行い、その講義録を『講孟記』という書に著しました。私はこれも愛読し、その序文にある「講究磨(礱は、すりみがくという意味で、磨に同じ)」の熟語から「講礱」というのを、自分で刷った冊子のタイトルにしたくらいです。思えば、二十九年をかけてぐるりと回って戻ってきたのです。ここにも「回帰」があります。

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