梁惠王篇 七章①
魏(梁)の襄王に見切りをつけた孟子は、東の隣国斉(せい)に向かいます。先代の惠王が亡くなったのが紀元前三一九年ですから、襄王に謁見し、時を経ずして魏を離れたとすると、斉に入ったのは紀元前三一八年だと思われます。斉は、孟子にとって初めて訪れる国ではありません。当時斉の都・臨淄(りんし)には、さまざまな思想家や遊説家が集まっていました。魏の惠王を訪ねる前の孟子も、そこにいたと言われています。諸子百家が集まる臨淄で諸思想に触れ、これらと議論を戦わせながら、儒教思想を深化させていったのでしょう。
斉は、周王朝を立てた文王・武王父子の名軍師であった太公望呂尚が封ぜられた国です。現在の山東省よりやや狭い地域を指します。紀元前七世紀に、陳という国から公子が亡命してきます。それからおよそ三百年後、彼の子孫(田氏)が太公望の子孫である君主を国都より追い、その座を奪取しました。孟子が生まれる十数年前のことです。春秋時代の斉は管仲に支えられた十六代桓公(春秋時代最初の覇者)、晏嬰(あんえい=晏子)に支えられた二十六代景公のときに勢いが盛んでした。戦国時代の斉を一大強国にしたのは、田氏の君主になって三代目の威王です。馬陵の戦いで魏に大勝したのも威王です。その威王も紀元前三二〇年に亡くなります。つまり、斉の威王と魏の惠王は相次いでこの世を去ったのです。その後を継いだのが宣王です。孟子が斉で会った君主も、この宣王でした。
【訓読文】
斉の宣王問いていわく「斉の桓公と晋の文公の事、聞くことを得(う)べきか」。
孟子対(こた)えていわく「仲尼の徒、桓・文の事を道(い)う者なし。是(こ)の以(ゆえ)に後世に伝わることなく、臣(われ)も未だ聞かざるなり。やむなくば則(すなわ)ち王のことをいわんか」。
いわく「徳、如何なれば、則ち以って王たるべきか」。
いわく「民を保(やす)んじて王たらんには、能(よ)く禦(とど)むるものなきなり」。
いわく「寡人のごとき者も以って民を保んずべきか」。
いわく「可なり」。
【現代語訳】
斉の宣王がお尋ねになった。「斉の桓公と晋の文公の事蹟について、お話を伺うことはできますでしょうか。」。
孟先生がかしこまってお答えになった。「孔子の流れをくむ者は、誰ひとりとして桓公や文公のことを口のするものはおりません。それでも是非にとおっしゃるなら、天下の王になる道についてお話し申し上げましょう(覇道ではなく王道についてお話しましょう)」。
王がいわれた。「どんな徳があれば、王となれるのだろうか」。
先生がいわれた。「ただ仁政を行って人民の生活を安定すれば、王になれます。これをなんぴととても妨げることはできません」。
王がいわれた。「私のような者でも、人民の生活の安定ができようか」。
先生がいわれた。「できます」。
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