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2009年7月

梁惠王篇 十章④

自国が大国であるときは相手を見下さず、自国が小国であるときは相手を必要以上に恐れず、おたがいにつかえあって、戦争を起こさないことが大事です(その意味では、越王践の例は、最初から雪辱を願っているわけですから、好例とはいえません)。しかし、ひとたび不義非道を見たならば、大勇を奮ってこれを討つべきです。ただし、人々が喝采を送り歓迎するようなものでなければなりません。ひとりよがりの正義で、世界からあまり賛同が得られないのに戦争を解決の手段とするのは避けるべきです。

松蔭は、未開人に侮られ、挙句の果てに攻め込まれるのは、自国が内部抗争にあけくれているからだといいます。内は人心を一丸にしてよく治め、外には奢り高ぶらなければ、周囲の国々からの尊敬も集めるのではないでしょうか。この章の解説だけではないですが、松蔭の警句は、幕末の長州藩だけでなく、そのまま今の日本に当てはまります。

これで、「梁惠王篇十章」を終わります。

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梁惠王篇 十章③

孟子は、「詩経」より周王朝の祭祀の歌を引用します。天の威光を畏れて、ここによく国を保つ。この言葉に感嘆しつつも、宣王はおのれを振り返り、とても隣国につかえるような性格でないと、自信がもてません。そこで孟子は、小人の勇気ではなく大人(たいじん)の勇気を持てばいいのです、と励まします。

【訓読文】

王いわく「大いなるかな、この言よ。されど寡人に疾(あ)しきことあり。寡人は勇を好む」。

対(こた)えていわく「王よ、請う、小勇を好むことなかれ。夫(か)の剣を撫(にぎ)り疾(はげ)しく視(にら)み、彼悪(いず)くんぞ敢えて我に当たらんやというは、此(こ)れ匹夫の勇にして、一人に敵する者なり。王よ、請う、之(これ)を大にせよ。詩に云う『王は赫(かく)として斯(ここ)に怒り、爰(ここ)に其(そ)の旅(りょ)を整え、以って莒(きょ)に徂(ゆ)くを遏(とど)め、以って周の祜(さいわい)を篤(あつ)うし、天下に対(こた)う』と。此れ文王の勇なり。文王は一たび怒りて、天下の民を安んじたり。書にいう『天の、下なる民を降(くだ)して、之(これ)が君を作(た)て之が師を作つ。惟(ただ)上帝を助けて之を寵しめんがためなり。四方の罪あるも罪なきも惟我に在(あ)り。天下曷(なん)ぞ敢えて厥(そ)の志を越(おと)すものあらんや』と。一人にても天下に衡(よこしま)なる行いするものあらば、武王之を恥じたり。此れ武王の勇なり。而(しか)して武王も亦(ま)た一たび怒りて、天下の民を安んじたり。今、王も亦た一たび怒りて、天下の民を安んずれば、民は惟王の勇を好まざらんことを恐れんのみ」。

【現代語訳】

王がいわれた「まことにすばらしい言葉であるが、自分には欠点があり、とかく血気の勇にはやってしまうので、仁者や智者のようにはできそうもない」。

孟先生がお答えしていわれた「王様、血気の勇にはやってはなりません。剣の柄に手をかけて相手をにらみつけ『あいつなんぞに負けるものか』というのは、匹夫の勇と申すもので、せいぜい一人を相手にするものです。王様には、このような小勇ではなく、大勇をお持ちになって頂きたいものです。「詩経」(のなかの「大雅」の「文王の什」の「皇(こうい)」)に『文王は激しく怒り、軍勢を整えて、(きょ)の国を侵す密の国の軍勢を防ぎとめ、周の国の幸福を増長するとともに、天下の民を期待に応えた』とありますが、これが文王の大勇なのです。文王がひとたび怒れば、天下の人民の期待に応えたのです。また書経には(武王が商(殷)を討つにあたって衆人に誓った言葉として)、『天が下界の民草をこの世に生み出されたとき、一人を君主を立て師を立てたのは、天帝を助けて、民草を愛護させるためであった。ゆえに四方(よも)の罪あるものを懲らし、罪なきものを安んずるは、すべて我ひとりの務め。天下に我が志を妨げるものがどうしてありえよう』とありますが、天下に只の一人でも無道なものが横行するのは、何よりの恥として、天に代わって征伐されました(商=殷の王を討ったことをいいます)。これが武王の大勇なのです。武王もまた、ひとたび怒れば、天下の人民の期待に応えたのです。(ですから勇が欠点などということはありません)。もし王様もひとたびお怒りになって、天下の人民を安じなさるなら、人民はみな、王様が勇気をおきらいになりはせぬかとひたすら心配するようになるでしょう」。

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梁惠王篇 十章③

孟子は、「詩経」より周王朝の祭祀の歌を引用します。天の威光を畏れて、ここによく国を保つ。この言葉に感嘆しつつも、宣王はおのれを振り返り、とても隣国につかえるような性格でないと、自信がもてません。そこで孟子は、小人の勇気ではなく大人(たいじん)の勇気を持てばいいのです、と励まします。

【訓読文】

王いわく「大いなるかな、この言よ。されど寡人に疾(あ)しきことあり。寡人は勇を好む」。

対(こた)えていわく「王よ、請う、小勇を好むことなかれ。夫(か)の剣を撫(にぎ)り疾(はげ)しく視(にら)み、彼悪(いず)くんぞ敢えて我に当たらんやというは、此(こ)れ匹夫の勇にして、一人に敵する者なり。王よ、請う、之(これ)を大にせよ。詩に云う『王は赫(かく)として斯(ここ)に怒り、爰(ここ)に其(そ)の旅(りょ)を整え、以って莒(きょ)に徂(ゆ)くを遏(とど)め、以って周の祜(さいわい)を篤(あつ)うし、天下に対(こた)う』と。此れ文王の勇なり。文王は一たび怒りて、天下の民を安んじたり。書にいう『天の、下なる民を降(くだ)して、之(これ)が君を作(た)て之が師を作つ。惟(ただ)上帝を助けて之を寵しめんがためなり。四方の罪あるも罪なきも惟我に在(あ)り。天下曷(なん)ぞ敢えて厥(そ)の志を越(おと)すものあらんや』と。一人にても天下に衡(よこしま)なる行いするものあらば、武王之を恥じたり。此れ武王の勇なり。而(しか)して武王も亦(ま)た一たび怒りて、天下の民を安んじたり。今、王も亦た一たび怒りて、天下の民を安んずれば、民は惟王の勇を好まざらんことを恐れんのみ」。

【現代語訳】

王がいわれた「まことにすばらしい言葉であるが、自分には欠点があり、とかく血気の勇にはやってしまうので、仁者や智者のようにはできそうもない」。

孟先生がお答えしていわれた「王様、血気の勇にはやってはなりません。剣の柄に手をかけて相手をにらみつけ『あいつなんぞに負けるものか』というのは、匹夫の勇と申すもので、せいぜい一人を相手にするものです。王様には、このような小勇ではなく、大勇をお持ちになって頂きたいものです。「詩経」(のなかの「大雅」の「文王の什」の「皇(こうい)」)に『文王は激しく怒り、軍勢を整えて、(きょ)の国を侵す密の国の軍勢を防ぎとめ、周の国の幸福を増長するとともに、天下の民を期待に応えた』とありますが、これが文王の大勇なのです。文王がひとたび怒れば、天下の人民の期待に応えたのです。また書経には(武王が商(殷)を討つにあたって衆人に誓った言葉として)、『天が下界の民草をこの世に生み出されたとき、一人を君主を立て師を立てたのは、天帝を助けて、民草を愛護させるためであった。ゆえに四方(よも)の罪あるものを懲らし、罪なきものを安んずるは、すべて我ひとりの務め。天下に我が志を妨げるものがどうしてありえよう』とありますが、天下に只の一人でも無道なものが横行するのは、何よりの恥として、天に代わって征伐されました(商=殷の王を討ったことをいいます)。これが武王の大勇なのです。武王もまた、ひとたび怒れば、天下の人民の期待に応えたのです。(ですから勇が欠点などということはありません)。もし王様もひとたびお怒りになって、天下の人民を安じなさるなら、人民はみな、王様が勇気をおきらいになりはせぬかとひたすら心配するようになるでしょう」。

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梁惠王篇 十章②

ここではいくつか故事が出てきますので、少し説明を加えます。ひとつは、湯王(とうおう)と葛伯(かつはく)の話です。まだ湯王が商王朝を建てる前、夏王朝の有力諸侯だったときのことです。方伯(諸侯の長)に命じられていた湯王(正確にはまだ王にはなっていないのですが、分かりやすくするため湯王と呼びます)は、隣国の君主葛伯が祖先を祭る儀式を執り行わないので、これを問いただしたところ、祭礼のいけにえとして使う牛や羊がないから行わないのだ、とうそぶきます。そこで湯王は葛伯に牛や羊を贈ったところ、葛伯はこれを自分で食べてしまい、祭りは行いませんでした。湯王が再び問いただすと、こんどは、お供えの穀物がないから行えない、といいます。そこで湯王は、老人や子供に肉や穀物を運ばせました。ところが葛伯は彼らを襲い殺し、食物を奪ったのです。怒った湯王は、殺された者たちを弔う戦いを起こし、葛伯を滅ぼしました。湯王が葛伯を攻めたとき、天下の人々は、湯王が私欲で他国を攻めているのではないことが分かっていましたから、皆これを歓迎しました。

もうひとつは、有名な「臥薪嘗胆」の話です。春秋時代、長江(揚子江)の南側に呉と越という国が接していました。呉は六代王の闔閭(こうりょ)のときに、兵法家として名高い孫武(孫子)などの家臣に恵まれ、強大となります。しかし、楚を攻めていた留守を、隣国の越に狙われ、苦い思いをします。腹の虫が収まらない闔閭は越を攻めますが、逆に越王勾践(こうせん)に敗れ、みずからも負傷し亡くなります。代わりに呉王となった夫差(ふさ)は父の臨終の際に復讐を誓い、恨みを忘れないために薪の上に寝て、軍備を整えます。数年後、夫差は越を滅亡寸前まで追い込みますが、部下が反対したにもかかわらず、降伏を申し入れた勾践を許してしまいます。さあ、今度、雪辱を誓うのは勾践の番です。勾践は苦い肝を嘗めながら、奴隷のような屈辱的な処遇にも耐え、帰国を許された後もひたすら富国強兵に努め、降伏から二十年後、ついに呉を攻めて、夫差を自害に追い込みます。呉は七代王の夫差で滅亡しました。

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梁惠王篇 十章①

十章では、宣王は隣国との付き合い方を聞いてきます。孟子は先ずこれに答え、隣国の非道にも寛大に接しながらやがて天下を治めるようになった仁者である大国君主の例や、隣国に仕えながら自国を保った智者である小国君主の例を上げます。そこで宣王が、自分には仁者にも智者にもなれる自信がない、というと、宣王の性格を上手に持ち上げながら、人民のためにその性格を発揮するように促していきます。

【訓読文】

斉の宣王、問いていわく「国に交わるに道ありや」。

孟子、対(こた)えていわく「有り。惟(ただ)仁者のみ、能(よ)く大を以って小に事(つか)うることを為(な)す。是(こ)の故に、湯(とう)は葛(かつ)に事え、文王は昆夷(こんい)に事えたり。惟智者のみ、能く小を以って大に事うることを為す。故に大王は獯鬻(くんいく)に事え、句践(こうせん)は呉に事えたり。大を以って小に事うる者は、天を楽しむ者なり。小を以って大に事うる者は、天を畏るる者なり。天を楽しむ者は天下を保ち、天を畏るる者は其の国を保たん。詩に云う『天の威を畏れて、時(ここ)に之を保つ』と」。

【現代語訳】

斉の宣王がたずねられた「隣国と交流するのになにかよい方法はあるだろうか」。

孟先生は答えられた「ございます。こちらが大国であっても隣の小国と礼を以って付き合うのはなかなかできることではありませんが、仁者だけができます。商(殷)の開祖湯王は、非道の葛伯の求めにも応じて、いけにえの牛・羊やお供えの穀物を贈りました。周の文王は、西の蛮族である昆夷とも親しくしていたのです。また、こちらが小国ならば隣の大国に滅ぼされないよう上手に付き合うことはなかなかできることではありませんが、智者だけができます。周の文王の祖父である古公父は、北の蛮族である獯鬻(漢代の匈奴に当たる)に上手くつかえ、越の王勾践は、隣国呉に降伏した後、屈辱を忘れないようにしながら(嘗胆)、呉に二十年も仕えたのです。大国でありながらよく小国と付き合うことができる君主は、天を楽しむ人であり、小国でありながら大国と上手く付き合うことができる君主は、天を畏れる人です。天を楽しむ君主は天下を保つことができ、天を畏れる君主は自国を保つことができます。詩経にも『天の威光を畏れて、ここによく国を保つ』とあります」。

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梁惠王篇 九章②

吉田松陰は、この章からは「其(そ)の麋鹿(びろく)を殺す者は、人を殺すの罪の如し」の句を選んでいます。そして、仁心(慈しみの心)は、親族より民衆へ、民衆より禽獣草木へと推し及ぼすべきであって、かりそめにも、その順序を乱してはならない、といいます。儒教では、自分の親を愛敬せずに他人を愛敬することは、徳や礼に反する行為なのです。それなのに、犬や馬を愛して賢才を無視したり、自国の民を虐待して外国人を優遇したりするのを見かけるのは、どういうわけでしょうか。

「外国人を優遇する」の原文は、「戎狄を養う」となっています。戎狄とは、東夷・西戎・南蛮・北狄から取られていますが、松蔭はけっして西洋人が野蛮だと言っているわけではありません。その武力は侮りがたく、武力の背景になっている西洋文明を、日本は学ぶべきだと考えていました。だからこそ、ペリーの艦隊に乗船を認めてもらって、アメリカへ密航しようとしたのです。しかし同時に、強烈な愛国心を持っていました。長州藩を愛し、日本を愛していたのです。ですから、外国人を遇するに当たって、日本人が迫害を受けるようなことには我慢がならなかったのでしょう。

これで、「梁惠王篇九章」を終わります。

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梁惠王篇 九章①

梁惠王篇の九章も、八章に続いて、民と楽しむことが王道政治の第一歩であることが語られます。

【訓読文】

斉の宣王問いていわく「文王の(その)は方七十里と。諸(こ)のこと有りしや」。

孟子対(こた)えていわく「伝(でん)に於(お)いて之(これ)有り」。

いわく「是(かく)の若(ごと)く其(そ)れ大なりしか」。

いわく「民、猶(なお)以って小と為(な)せり」。

いわく「寡人の囿は方四十里なるも、民、猶以って大と為すは、何ぞや」。

いわく「文王の囿は方七十里なりしも、芻蕘者(くさかるもの)も往き雉兎者(かりするもの)も往きて、民と之を同(とも)にせり。民以って小と為せる、亦(また)宜(うべ)ならずや。臣、始めて境(くにざさい)に至りしとき、国の大禁を問いて然(しか)る後に敢えて入れり。臣は聞きたり。関(せきしょ)の内に囿方四十里なる有りて、其(そ)の麋鹿(びろく)を殺す者は、人を殺すの罪の如しと。則ち是(こ)れ、方四十里、阱(おとしあな)を国中に為(つく)れるなり。民以って大と為せる、亦宜ならずや」。

【現代語訳】

斉の宣王がたずねられた「聖王とされる周の文王の狩場は七十里四方(一辺が約三七キロ四方)もあったというが、ほんとうだろうか」。

孟先生がお答えしていわれた「そのように伝えられております」。

王がいわれた「それほど大きいものであったのか」。

孟先生がいわれた「それでも人民は『まだ狭すぎる(もっと大きくされてはどうか)』と思っていたようです」。

王がいわれた「私の狩場は四十里四方(一辺が約二一キロ四方)しかないのに、それでも人民は『広すぎる』といっているのは何故であろうか」。

孟先生がいわれた「文王の狩場は七十里四方あっても、草を刈り薪(たきぎ)を伐るきこりや、雉(きじ)や兎(うさぎ)を追う狩人にも開放されており、彼らは自由に行き来することができました。文王は人民と共有されていたのです。人民がまだ狭すぎると思うのはもっともではありませんか。私が始めてお国の国境まで参りましたとき、斉国における厳しい禁令は何か聞いてから入国しました。私が聞いたのは『関所の内側に四十里四方の(立ち入り禁止の)狩場があり、そこで大鹿や小鹿を殺した者は、人を殺したのと同じ罪を科せられる』ということでした。これでは、四十里四方もある落とし穴を国の中に作っておいて、人民を陥れるようなものです。人民が広すぎるというのももっともではありませんか」。

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梁惠王篇 八章③

儒教の祖である孔子は、音楽を礼の一環として捉えていました。孔子が認めていたのは、古来の雅楽です。雅楽について孔子は、非常に関心が高く、斉に滞在したときは、伝説上の聖人君主である帝舜(しゅん)を称えた楽曲を、三ヵ月間食事の中身を忘れるほど没頭して学んだといいます(「論語」述而篇十三)。音楽を大事にしていたことは、教養を身に付ける過程を「詩(詩経のこと)に興り、礼に立ち、楽に成る」と述べたことでも分かります(「論語」泰伯篇八)。音楽の調和を学ぶことが、調和・均整のとれた人格形成の仕上げになるのです。

白川静によれば、孔子は巫祝社会の出身ですから、儀式に使う音楽・楽器に造詣が深いばかりでなく、音楽の天才でもありました。ただ、「述べて作らず」が孔子の自己規定ですから、みずから作曲はしなかったようです。

一方で、流行の音楽には厳しかったようです。「楽はすなわち舞(帝舜を称えた舞曲)し、声(の国で流行っている俗調の音楽)を放ち」(「論語」衛霊公篇十一)と、正調の音楽のみを採用すべきだと言っています。今風なものは、喜びも悲しみも必要以上に盛り上げて歌うので、人格的な調和を乱すと考えたのでしょう。

吉田松陰は、孔子の音楽に対する態度を踏まえて、宣王が流行の音楽が好きなことをとがめるどころか、むしろ天下の王になるきっかけだという孟子の弁を心に留め置くべきだと指摘します。君主が民と楽しみをともにするかどうかという区別に比べれば、古来の正調を好むか(孔子が退けた)今風の俗な音楽を好むかは、どうでもいいことなのです。先ず、君主が民と喜びをともにし、民のために政治に心を砕くようになった後で、やはり君主なのだから格調高くしないといけないと導けばいいのです。音楽の話をし始めて、狩りの話にまで拡大するということに目くじらを立てなくてもいいのです。松蔭なら、「楽」をガクと読もうがラクと読もうがどうでもいいことだというかもしれません。何が肝心なのか、何から取り掛からなければならないのか、そのことが一番大事だ、と松蔭は教えてくれます。

また松蔭は、これを学問への取り組みへと応用します。確かに世の中には、学問のための学問のようなものがあって、自分たちが目指すような、人の道を追求するための学問、世の人々を救済しようとする学問とは異なります。仮に前者を曲学、後者を正学と呼びましょう。今、ひとりの人物がいて、自分を鍛えよう、世の中のためになろうという志はあるのだけれど、正学を知らないために曲学を学んでいるとします。松蔭は、その人物の志を見て、たとえ今は曲学の中にいても、いや、曲学の中にいるからこそ、手を差し伸べて、正学の道へ進ませてあげたいといいます。

これで、「梁惠王篇八章」を終わります。

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梁惠王篇 八章②

「楽」の読みについては、音楽の意味として「ガク」と読む説と、音楽だけでなく狩などを含めた楽しみと解釈して「ラク」と読む説とがあります。現代中国語でも前者はyue(四声)、後者はle(四声)と、同じ字で音が異なります。すぐ後に狩りのことも出てきますので後者にも一理ありますが、狩りをひとりでするというのもおかしいので、ここまでは「ガク」と読むことにしました。

また、音楽と解釈しますと、宣王が顔を赤らめた理由も分かります。礼に則った古式の音楽(礼楽)は孔子も好んだといいますから恥じることもなかったでしょうが、今様の流行歌が好きというのは、君主として軟弱のようで、また教養のレベルも疑われるのでは、と思ったのではないでしょうか。しかし孟子は、礼楽でも今様でもかまわない、むしろひとりで楽しもうとしているか大勢で楽しもうとしているかが大事で、それが王道政治につながる、と説いていくのです。

【訓読文】

「臣は請(こ)う、王の為に楽(らく)のことを言わん。今、王、此(ここ)に鼓楽(こがく)するに、百姓(ひゃくせい)、王の鐘鼓(しょうこ)の声、管(かんやく)の音(ね)を聞けば、挙(みな)、首(こうべ)を疾(いた)め、頞(はなすじ)を蹙(しか)め、相(あ)い告げて『吾(わ)が王の鼓楽を好むこと、夫(そ)れ何ぞ我をして此(こ)の極(くるしみ)に至らしむるや、父子も相い見(あ)わず、兄弟妻子も離散せり』といわん。今、王、此に田猟(でんりょう)するに、百姓、王の車馬の音(おと)を聞き、羽旄(うぼう)の美を見れば、挙、首を疾め、頞を蹙め、相い告げて『吾が王の田猟を好むこと、夫れ何ぞ我をして此の極に至らしむるや、父子も相い見わず、兄弟妻子も離散せり』といわん。此れ他無し。民と楽(らく)を同(とも)にせざればなり。今、此に鼓楽するに、百姓、王の鐘鼓の声、管の音を聞けば、挙、欣欣然(きんきんぜん)として喜色有り。相い告げて『吾が王は疾病(やまい)無きに庶幾(ちか)きか。さにあらずんば、何を以ってか能(よ)く鼓楽せんや』といわん。今、王、此に田猟するに、百姓、王の車馬の音を聞き、羽旄の美を見れば、挙、欣欣然として喜色有り。相い告げて『吾が王は疾病無きに庶幾きか。さにあらずんば、何を以ってか能く田猟せんや』といわん。此れ他無し。民と楽(らく)を同にすればなり。今、王、百姓と楽(らく)を同にすれば、則(すなわ)ち王たらん」。

【現代語訳】

孟先生はいわれた「どうか王様に楽しみごとについてお話をさせて下さい。もし、王様が音楽を演奏されておられたとします。その鐘(かね)・太鼓の音(おと)、竹笛の音(ね)を聞いて、人民はみな頭を抱え鼻筋をしかめながら、『王様は音楽がお好きでご自分が楽しまれているが、どうしてそのために我々はたいへん苦しい思いをしなければならないのだ。親子はたがいに会うこともできず、兄弟妻子も離散することになる』と嘆き合うことでしょう。もし、王様が狩猟に出かけられたとします。王様の車や馬の音を聞き、美しい飾り旗を見て、人民はみな頭を抱え鼻筋をしかめながら、『王様は狩りがお好きでご自分が楽しまれているが、どうしてそのために我々はたいへん苦しい思いをしなければならないのだ。親子はたがいに会うこともできず、兄弟妻子も離散することになる』と嘆き合うことでしょう。これらはほかでもありません。ただ人民とともに楽しまれないからです。もし、王様が音楽を演奏されておられたとします。その鐘(かね)・太鼓の音(おと)、竹笛の音(ね)を聞いて、人民はみなにこにことしてうれしそうに、『王様はお元気らしい。ご病気ならどうして音楽を楽しんでおられようか』と語り合うことでしょう。もし、王様が狩猟に出かけられたとします。王様の車や馬の音を聞き、美しい飾り旗を見て、人民はみなにこにことしてうれしそうに、『王様はお元気らしい。ご病気ならどうして狩りを楽しんでおられようか』と語り合うことでしょう。同じことをなさってもこれほど違うのは、ほかでもありません。人民たちと一緒に楽しんでおられるからです。もし人民たちと一緒に楽しまれたなら、(人民の生活をお考えになるようになり、仁政が敷かれ、)やがて王様は天下の王となられるでしょう」。

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梁惠王篇 八章①

「孟子」の各篇は上下に分けられています。梁惠王篇も、七つの章を上、十六の章を下に配しています。そのため、多くは梁惠王篇(または梁惠王章句)上七章の次は、梁惠王篇(梁惠王章句)下一章になっています。ここでは、金谷方式を採って、八章と続けることにします。

その八章は、七章に続いて、斉の宣王との対話です。

【訓読文】

荘暴(そうぼう:宣王の家臣の名)、孟子に見(まみ)えていわく「暴(われ)、王に見(まみ)えしとき、王、暴に語(つ)ぐるに、楽(がく)を好むことを以ってせるも、暴は未だ対(こた)うること有らざりき。日(と)う、楽を好むことは如何(いかん)」。

孟子いわく「王の楽を好むこと甚(はなは)だしければ、則(すなわ)ち斉の国、其(そ)れ庶幾(ちか)からん」

他日、王に見えていわく「王、嘗(かつ)て荘子に語(つ)ぐるに、楽(がく)を好むことを以ってせりと。諸(こ)のこと有りしや」。

王、色(かおいろ)を変えていわく「寡人は、能(よ)く先王の楽を好むにはあらず。直(ただ)、世俗の楽を好むのみ」。

いわく「王の楽を好むこと甚だしければ、則ち斉は其れ庶幾からん。今の楽も、猶(な)お古(いにしえ)の楽のごとし」。

いわく「聞くことを得(う)べきか」。

いわく「独(ひと)り楽(がく)して楽しむと、人とともに楽(がく)して楽しむと、(いず)れか楽しきや」。

いわく「人と与(とも)にするに若(し)かず」。

いわく「少なきとともに楽して楽しむと、衆(おお)きとともに楽して楽しむと、れか楽しきや」。

いわく「衆きと与にするに若かず」。

【現代語訳】

荘暴が孟先生に会っていった「先日、私が王様にお目にかかったとき、王様は「音楽が好きだ」と仰せでしたが、私にはご返事ができかねました。音楽が好きだというのは(軟弱のようで、一国の君主としては)いかがなものでございましょう」。

孟先生は答えられた「王様が音楽がお好きだと、斉の国がよく治まり、王様が天下の王になるのも遠いことではありますまい」。

後日、孟先生が宣王にお目にかかったとき、こういわれた「王様はいつぞや荘どのに『音楽が好きだ』とおっしゃられたそうですが、そんなことがございましたか」

王は、顔を赤らめていわれた「私の好きなのは、古代の王が好まれた礼に則った音楽ではなく、ただ世俗で流行している音楽だけです」。

孟先生がいわれた「王様が音楽がお好きだと、斉がよく治まり、王様が天下の王になるのも遠いことではないでしょう。今流行の音楽も、古の聖人(文王、武王、周公など)が好まれた音楽と同じようなものです」。

王がいわれた「少しくわしく聞かせてもらえないだろうか」。

孟先生がいわれた「たとえば王様はおひとりで音楽を楽しまれるのと、ほかの人と一緒に音楽を楽しまれるのでは、どちらが楽しいですか」。

王がいわれた「それは、人と一緒の方がいい」。

孟先生がいわれた「それでは、少数の方と音楽を楽しまれるのと、大勢の人たちと音楽を楽しまれるのでは、どちらが楽しいですか」。

王がいわれた「それは、大勢と一緒の方がいい」。

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梁惠王篇 七章⑪

吉田松陰は、野山獄での講義の中で、この章は非常に分かりやすく、すぐれているので、原文を読むだけで大意が分かり、かつ心が奮起してくるに違いないと言います。その上で、政治の観点からすると、「今、王様が政治を改め、仁政を施されたなら、天下の役人はみな王様の朝廷に仕えたいと望み、農夫はみな王様の田畑で耕したいと望み、商人はみな王様の領内で商売をしたいと望み、旅人はみな王様の領内を通ろうと望み、他国の民で君主を怨んでいるものはみな王様のところへ来て訴えたいと望むことになるでしょう」の箇所が重要だと指摘しています。

松蔭は、諸藩の君主(藩主)・宰相(家老など重臣)は、孟子の時代に比べれば、そこそこの政治を実現していると評価します。しかし、役人が仕えたいと望み、農民が耕したいと望み、商人が商いをしたいと望み、旅人が訪れたいと望み、暴政に苦しんでいる人々が逃げ込みたいと望むような、つまり民を幸せにするような政治が実現できていない、と断じます。先ず、常に民の生活が立つようし、身寄りのないもの、病を抱えたもの、幼いものが安心できるようにし、学校教育に力を入れる。それを第一歩として、その後、他国(藩)の役人、農民、商人、旅人、暴政の犠牲者がこぞって入国したくなるような政治を目指すべきだといいます。さらには、他藩の非義非道があれば、これを改めさせることで、その藩の忠臣義士の心を晴らしてやるべきだといいます。もし長州藩の政治に関わる人々が、自藩だけでなく天下をよくしようと考え、そのような政治を行えば、萩城下に天下の人材が集まり、長州藩は天下羨望の的となり、他藩もこれに倣うにちがいありません。さらには、長州藩が他藩と手を携え、幕府を尊び、上は朝廷に仕え、下は国境を守り、内は人民を愛育し、外は外国に畏服させたなら、その偉業は並ぶものがないでしょう。

この松蔭の願い、長州藩を日本に置き換えると、そのまま現代に通じます。世界に羨望されるような国になれないのは、「為さざるなり、能わざるに非ざるなり(しないのであって、できないのではない)」といえます。

松蔭は政治から自分の身上に目を移します。「恒産無くして恒心有る者は、ただ士のみよくすと為す」の「士」を文字通り「武士」を解釈し、武士は生活の基盤がなくとも、武士たるもののあるべき姿を失ってはならないと、自省します。たしかに獄外にいる武士からみれば、囚人の身である松蔭や野山獄にいる人々は、「武士の道に外れたもの」かもしれません。しかし、人は人、自分は自分。ほかからどのように思われようと、どういう境遇に置かれようと、武士の道を追求すべきなのです。それができたなら、たとえ生涯を獄中で終えることになっても、悔いはないどころか、愉快なことではないかといいます。それができていないのは、「為さざるなり、能わざるに非ざるなり」であると、猛省するのです。決して野山獄の人々に強要することなく、自分の一身上の問題として誓いを立てます。こうした態度が、教育者松蔭の真骨頂であり、松蔭の人柄に触れた人すべてに彼を慕わせ、影響を与えたゆえんです。教育者は言葉をもって教えるのではなく、身をもって伝えるのが大事であり、そうすれば自然と感化できるのです。もちろん、そんな松蔭の感化を受けるのは、現代に生きるわれわれも例外ではありません。

これで、「梁惠王篇七章」を終わります。

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梁惠王篇 七章⑩

昔のりっぱな君主は、先ず民の生活を安定させていました。父母につかえる、というのは、隠居している両親に何不自由ない暮らしをさせることです。自分を育ててくれた両親への孝行がしっかりできるようにさせることです。妻子をやしなう、というのは、家を守って両親の面倒や子育てをしている妻、そして学びながら育っていく子ども達に十分な衣食を提供することです。孟子の時代は、女性が社会で働く事はありませんでしたから、こういう表現になっています。先に孟子は、凶作は人災だと言いました。政治が計画的に食糧の消費を調整すれば、飢饉を防ぐことができるのです。ですから、昔の明君のときには、凶作の年でも餓死する心配がなかったのです。そういう生活の安定があってこそ、人々は「礼を知る」ことができるのです。そういう生活の安定さえあれば、少し導くだけで、自然と不正や犯罪はなくなるのです。逆に、生活の安定がなければ、とても礼儀を修得する余裕などありません。

ここまで言ってきた孟子は、梁(魏)の惠王に説いた理想的な社会を、宣王にも繰り返します。

【訓読文】

「王、之を行わんと欲すれば、(なん)ぞ其の本(もと)に反(かえ)らざるや。五畝の宅、之に樹(う)うるに桑を以ってせば、五十の者は以って帛(きぬ)を衣(き)るべし。雞(とり)豚(こぶた)狗(いぬ)彘(いのこ=おおぶた)の畜(やしない)、その時を失(あやま)つことなくんば、七十の者は以って肉を食らうべし。百畝の田、その時を奪うことなくんば、八口の家も以って飢うることなかるべし。庠序(しょうじょ=学校)の教えを謹(つつ)しみ、これを申(かさ)ぬるに孝悌の義を以ってすれば、頒白(はんぱく)の者は道路に負戴(にお)わず。老者は帛を衣て肉を食らい、黎民(れいみん)は飢えず寒(こご)えず。然(かくのごと)くにして王たらざる者は、未だこれ有らざるなり。

【現代語訳】

「王様がもし本当に仁政を行おうとお思いになられるなら、どうして政治の根本に立ち返って、人民の生活を安定させることから始められないのですか。一世帯あたり、五畝の宅地と百畝の耕地とを与えるとします(一畝は約三十坪)。宅地のまわりに桑を植えて養蚕をさせれば、五十すぎの老人は暖かい絹製の衣服が着られます。また、鶏、仔豚、食用犬、(食用の)成豚などの家畜を飼わせて、子を孕んだり育てているときに殺さないようにさせれば、七十すぎの老人は肉を食べられます。分け与えた百の田畑の耕作に支障がないように農繁期に労役を課すことがなければ、八人くらいの家族なら、飢えることはありますまい。つぎに、学校での教育を重視して、とくに親への孝、目上への悌の道徳を徹底させれば、白髪まじりの老人が路上で重い荷物を背負うようなことは見なくなるでしょう。老人が絹物を着、肉を食べ、一般庶民は飢えも凍えもしません。このような王道政治をおこなって、ついに天下の王者とならなかった人は、いまだひとりもおりません」

宣王は、斉の桓公・晋の文公のような覇者になりたいと思い、そうなるための方策を孟子に尋ねたのですが、孟子は牛を救ったという宣王のやさしい心根の一端をとらえて、そこから仁政を施す王道政治の勧めへと論をつないだのでした。この章は、対話編としても見事だと思います。

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梁惠王篇 七章⑨

「恒産なくして恒心なし」は慣用句になっています。普通の人間は、「衣食足りて礼節を知る」です。十分な生活基盤がなく、食べるのにやっとの生活を強いられていると、社会が安定しなくなるのは、現代でも同じでしょう。むしろ、人間が罪を犯さなくてもすむような社会にすることが為政者の務めです。

【訓読文】

「是の故に、明君の、民の産(なりわい)を制(おさ)むるには、必ず仰いでは以って父母に事(つか)うるに足り、俯(ふ)しては以って妻子を畜(やしな)うに足り、楽歳(らくさい)には身(いのち)を終うるまで飽(くいあ)き、凶年にも死亡より免れしむ。然る後に駆けて善に之(ゆ)かしむ。故に民の之(これ)に従うや軽(やす)し。今や民の産を制むるに、仰いでは以って父母に事うるに足らず、俯しては以って妻子を畜うに足らず、楽の歳にも身を終うるまで苦しみ、凶年には死亡を免れざらしむ。此れ、惟(ただ)死を救うことにすら、(た)らざるを恐る。(なん)ぞ礼儀を治むるに暇(いとま)あらんや」

【現代語訳】

「だからこそ、古(いにしえ)の明君は、人民の生業(なりわい)の手段をたててやるにあたっては、上は父母に十分つかえるようにさせ、下は妻子を養えるようにしてやり、豊作が続けば一生を終えるまで腹いっぱい食わせ、凶作の年でも餓死する心配がないようにしたものです。そうした後で、人民をひっぱって善をなすように仕向けたので、人民はたやすくこれについていけたのです。ところが今の諸侯は、人民の生業の手段をたててやるにあたって、上は父母に十分つかえることができず、下は妻子を養うにも事足りず、豊作が続いても一生を終えるまで苦しみ続け、凶作の年には餓死することを免れません。ただただ、死なずにすむことだけを願って、ギリギリの生活にすら足りなくなることを恐れています。とても礼儀を修める余裕などありましょうや」

「制」は金谷氏の解釈をとり、「治(おさめる)」の意味から、生活の手段を立ててやる、と訳しました。

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梁惠王篇 七章⑧

鄒は孟子の故郷です。都市国家といってもいいくらいの小国です。鄒の隣りにあり、斉とも接している中規模の国が魯です。魯は孔子の生国です。孟子は「千里四方の国が九つ」といいますが、戦国の七雄である、秦・楚・韓・魏・趙・斉・燕のほかにどの国を加えたのでしょうか。春秋時代に盛んだった呉と越は、孟子が宣王と謁見しているときにはなくなっています(呉は春秋末期に越に滅ぼされ、越も孟子が斉に入る十五年前に楚によって滅ぼされています)。大国というよりは中規模で、すでに他国と張り合う力は失っていますが、魯と宋を加えたのではないかと思います。

さていよいよ、「仁政とはどのような政治なのか」という本題へと進み、宣王との対話も大詰めに入っていきます。

【訓読文】

王いわく「吾(われ)(くら)くして是(ここ)に進むこと能(あた)わず。願わくば、夫子(ふうし)吾が志を輔(たす)けて明らかに以って我を教えよ。我は不敏(おろか)なりと雖(いえど)も、請う、之を試(こころ)みん」

いわく「恒産無くして恒心有る者は、惟(ただ)士のみ能(よ)くすと為す。民の若(ごと)きは則(すなわ)ち、恒産無ければ因(よ)りて恒心無し。(いやしく)も恒心無ければ、放(ほうへき)邪(じゃし)、為さざる無し。罪に陥るに及びて、然る後に従いて之を刑するは、是れ民を(あみ)するなり。(いず)くんぞ仁人の、位に在ること有りながら、民をすること為すべけんや」

【現代語訳】

王はいわれた「私は愚か者なので、仁政の域まで進むことは(私ひとりでは)とてもできない。どうか先生、私の志(こころざし)をたすけて、もっと分かりやすく私に教えて下さい。私はおろかではあるが、(先生の助けがあれば)仁政を試みたい」

孟先生がいわれた「恒産(きまった生業)がなくとも、恒心(平常心)を失わずにいられるのは、限られた教養人だけです。一般の人民は恒産がなければ、そのために恒心はなくなるものです。もし恒心がなくなると、自分勝手でわがまま、よこしまでぜいたくなど、悪いことで行わないものはないと言ってよいでしょう。(それを知っていながらとめる工夫は何もしないで)、ひとたび人民が罪を犯したならばこれを処罰するというのは、人民を網にかけて捕らえるようなものです。仁政を施すべき君主が政治の地位にいながら、このように人民を網にかけることがあっていいのでしょうか」

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梁惠王篇 七章⑦

宣王が周囲の国々と戦争をするのは、もちろん、美味しいものをもっと食べたいわけでも、心地よい衣服をもっと着たいわけでも、美女をもっと侍らせたいわけでも、美しい音楽をもっと聴きたいわけでも、使い勝手のよい近習がもっと欲しいわけでもありません。一国の王ですから、そんなものはいくらでも手に入ります。宣王は、斉をもっと強大な国にして、他の強国(秦・楚・韓・魏・趙・燕)に号令をかけるような覇者になりたいのです。また中国の周辺にいる、東夷・西戎(せいじゅう)・南蛮・北狄(ほくてき)といった中華文明に浴していない民族をも、従え手なずけたいのです。

しかし、今のやり方だと、その目的は決して成し遂げられない、と孟子は言い切ります。

【訓読文】

王いわく「是(か)くの若(ごと)く其(そ)れ甚(はなは)だしきか」

いわく「殆(ほとん)どこれより甚だしきもの有り。木に縁(よ)りて魚を求むれば、魚を得ずと雖(いえど)も、後の災い無し。若(か)くのごときの為(な)す所を以って、若くのごときの欲する所を求むれば、心力を尽くして之を為して、後に必ず災い有らん」

いわく「聞くことを得べきか」

いわく「鄒人(すうひと)と楚人(そひと)と戦わば、則(すなわ)ち、王、以って孰(いず)れが勝つと為さんや」

いわく「楚人こそ勝たん」

いわく「然らば則(すなわ)ち、小は固(もと)より以って大に敵すべからず、寡(すくな)きは固より以って衆(おお)きに敵すべからず、弱きは固より以って強きに敵すべからず。海内(かいだい)の地に方千里なるもの九つあり。斉は惟(ただ)其の一つを有(たも)つ。一を以って八を服せんとするは、何を以ってか鄒の楚に敵するに異ならんや。蓋(なん)ぞ亦(ま)たその本に反(かえ)らざる。今、王、政を発(おこ)し仁を施さば、天下の仕うる者をして皆王の朝(ちょう)に立たんと欲せしめ、耕す者をして皆王の野に耕さんと欲せしめ、商賈(しょうこ=商人)をして皆王の市(いち)に蔵(おさ)めんと欲せしめ、行旅(こうりょ=旅人)をして皆王の塗(みち)に出でんと欲せしめ、天下の其の君を疾(にく)む者をして皆王に赴愬(ふそ)せんと欲しめん。其(も)し是(か)くの若(ごと)くあらば、孰(たれ)か能(よ)く之を禦(とど)めんや」

【現代語訳】

王がいわれた「そんなに無理なことだろうか」

孟先生はいわれた「いや、それよりももっと無理でしょう。木によじ登って魚をとろうとするのは、魚をとれないとはいっても、後々の災難を招きはしません。しかし、今のようなやり方でこのような大望を成し遂げようとされるのは、いくら全力を出し尽くしてもできないばかりでなく、後々(諸侯の怨みを買って)必ず災難を招くでしょう」

王はいわれた「そこのところを、もっと聞かせてはくれまいか」

孟先生がいわれた「では今、鄒と楚が戦ったとしたら、王様はどちらが勝つとお思いですか」

王がいわれた「それは、もちろん楚が勝つであろう」

すると孟先生がいわれた「そのとおりです。ということは、小は大にはかないません。寡は多にはかないません。弱は強にはかないません。今、天下には千里四方(一辺が五四〇キロメートルの広さ)の大国が九つあります。斉は、ただそのうちの一つにしかすぎません。一つの国で残りの八つの国々を征服しようというのは、鄒が楚を相手に戦争をしかけるのと、なんの違いがありましょう。(目的が達せられるはずのない無謀な戦争をなさるよりも)なぜ政治の根本に立ち返えられないのですか。今、王様が政治を改め、仁政を施されたなら、天下の役人はみな王様の朝廷に仕えたいと望み、農夫はみな王様の田畑で耕したいと望み、商人はみな王様の領内で商売をしたいと望み、旅人はみな王様の領内を通ろうと望み、他国の民で君主を怨んでいるものはみな王様のところへ来て訴えたいと望むことになるでしょう。もしこのようになったら、誰がいったいその流れをとめることができましょうか」

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梁惠王篇 七章⑥

自分の父母を他人の父母より大切に思う、自分の子弟を他人の子弟よりも可愛がる、これは人間の自然な情です。自然な情に逆らって、他人の父母を自分の父母と同等に大切にせよ、とか、他人の子弟を自分の子弟と同等に可愛がれ、とは儒教は唱えません。むしろ、こうした博愛あるいは兼愛思想は、自然な情に反するばかりか世の中の秩序を乱すとして、退けます。

少し話が外れますが、新約聖書で、イエスが漁師ゼベタイの子であるヤコブとヨハネを弟子にしたとき、兄弟は父ゼベタイを舟と一緒に棄ててイエスに従っています。墨子の兼愛思想は、キリスト教の隣人愛に非常に近いものです。そしてそれは、家族をはじめとする既存の共同体の紐帯(ちゅうたい)を引きちぎって成立するものです。儒教とはまったく相容れない考え方です。

孟子の、すなわち儒教の考え方は、人間の自然な情をそのまま育んで、発展させて、広げようというものです。ですから、自分の父母を敬うように、他人の父母を敬いなさいといいます。決して同等ではありません。自分の父母を一番大切に敬うのですが、程度は同じでなくても、他人の父母も敬いなさい、というのです。子弟についても同じです。自分の身近な人が一番なのですが、それを遠い存在まで広げていくことで、社会が平和に保たれます。逆にいえば、一番身近な存在とうまくやっていけないと、遠い存在とも関係が安定するはずがないのです。

引用された「詩経」は、「大雅・文王の什(じゅう)」のうち「思齊」の一節で、周王朝の開祖である文王の妻、文王の父の妻、文王の祖父の妻を歌ったものです。

さて宣王は、先代威王と同じように、他国と戦争をすることで国威の発揚を図っていました。孟子の矛先はそこへ向かいます。

【訓読文】

「抑(そもそも)、王は、甲兵(こうへい)を興(おこ)し、士臣を危うくし、怨みを諸侯に(むす)びて、然る後に心に快きか」

王いわく「否。吾(われ)何ぞ是(ここ)に快からん。将(まさ)に吾(わ)が大いに欲する所のものを求めんとすればなり」

いわく「王の大いに欲する所、聞くことを得(う)べきか」

王、笑いて言わず。

いわく「肥甘(ひかん)の口に足らざるが為(ため)か。軽暖(けいだん)の体に足らざるか。抑(あるい)は采色(さいしょく)の目に視るに足らざるか。声音(せいおん)の耳に聴くに足らざるか。便(べんべい)の前(みまえ)に使令せしむるに足らざるか。王の諸臣、皆以って之(これ)を供するに足れり。而(すなわ)ち、王、(あに)是(これ)が為にせんや」

いわく「否。吾、是が為にせざるなり」

いわく「然らば、王の大いに欲する所のものは、知るべきのみ。土地を(ひら)き、秦・楚を朝せしめ、中国に莅(のぞ)みて四夷を撫(したが)えんと欲するならん。若(か)くのごときの為す所を以って、若くのごときの欲する所を求むるは、猶(なお)、木に縁(よ)りて魚を求むるがごとし」

【現代語訳】

「いったい王様は戦争を引き起こして、家来を危険な目にあわせたり、諸侯に怨みを抱かれるようなことをされて、それでお心は愉快でございますか」

王はいわれた「いや、自分だとて、どうして愉快なものか。ただ、私には大望があるからだ」

孟先生がいわれた「王様のおっしゃる大望を、お聞かせ願いますか」

王は笑うばかりでお答えにならない。

そこで孟先生がいわれた「では伺いますが、(王様が戦争を引き起こされるのは)肥えた肉や甘い食べ物が足りないためでしょうか。軽くて暖かい衣服が足りないからでしょうか。美しい女性を見たりないためでしょうか。美しい音楽を聴き足りないためでしょうか。御前で使われるお気に入りの近習が足りないからでしょうか。これらのものは皆、ご家来の方々が調達できるはずです。ですから、きっとそんなことではありますまい」

王がいわれた「もちろん、そんなことではない」

孟先生がいわれた「それなら、王様の大望はよく分かっております。領地を広げ、秦や楚の大国を来朝させ、中国に君臨して、四方の蛮族まで従わせようとのお考えでしょう。しかし、周囲に戦争を引き起こすようなやり方で、このような大望を成し遂げようとされるのは、まるで木によじ登って魚をとろうとするようなものです」

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梁惠王篇 七章⑤

腕力がありながら一枚の羽根を持ち上げようとしない、視力がありながら車いっぱいの薪を見ようとしない。牛を可哀想にと思う慈悲の心がありながら、それを人民に及ぼそうとしないのは、それと同じ事だと孟子はいいます。つまり鳥や獣に対する慈悲の心があれば、人民にそれを及ぼし、仁政を施すことはできるはずだ、というのです。前節で、牛は目の前にいるが、羊は見ていなかったので、羊に思いが至らなくても仕方がなかった、と宣王を慰めたロジックは、ここでは使いません。目の前のものに対する慈しみの心(仁)を、目に見えないものへも及ぼしていくように導こうとしています。

宣王は、「しないこと」と「できないこと」の違いの説明を求めています。孟子の答えは明快です。そもそも人間の能力を超えたことは「できない」と言ってもかまいません。しかし、やろうという意志さえあればできることをやろうとしないことが「しないこと」です。王が民に仁政を施すことは、「やろうという意志さえあればできること」であり、王が民に王道政治を施せば、やがて天下の王になることもできる、というのが孟子が言いたいことでした。いよいよその核心に入ります。

【訓読文】

「吾(わ)が老(としより)を老(とうと)びて、よそ人(びと)の老(としより)に及ぼし、吾が幼(おさなご)を幼(いつく)しんで、よそ人の幼(おさなご)に及ぼさば、天下は掌(てのひら)に運(めぐ)らすべし。詩に『寡妻(かさい)を刑(のり)あらしめ、兄弟(けいてい)に至り、以って家邦(かほう)を御(おさ)む』と云えるは、斯(こ)の心を挙げて諸(こ)れを彼に加うることを言うのみ。故に、恩(なさけ)を推(お)しおよぼさば四海を保(やす)んずるに足るも、恩を推しおよぼさざれば妻子をも保んずることなし。古(いにしえ)の人の、大いにいまの人に過ぎたる所以(ゆえん)の者は、他なし。善く其(そ)の為(な)す所を推しおよぼせるのみ。今、恩は禽獣に及ぶにも足れども、功(いさおし)は百姓(ひゃくせい)に至らざるは、独(まさ)に何ぞや。権(はかり)ありて然るのちに軽さ重さを知り、度(ものさし)ありて然る後に長さ短さを知る。物皆(みな)然り。心を甚(はなは)だしと為(な)す。王、請(こ)う、之を度(はか)れ」

【現代語訳】

「自分の父母を敬うのと同じ心で他人の父母も敬い、自分の子弟を慈しむのと同じ心で他人の子弟も慈しめば、天下も手のひらの上にあるように、思いどおりに治めていけるのです。詩経に『自分の妻を導き正しくし、つぎに兄弟を正しくするように、順々に広げていけば、国家も治めることができる』と歌っているのは、これは身近なものに対する心を、そのまま他人へも広げていくことをいったにすぎません。ですから、慈しみの心をおし広げていけば天下を治めることもできますが、慈しみの心をおし広げないならば妻子ですら治めることができません。むかしの聖人が今の人より優れていたのは、慈しみの心であって、他の何ものでもありません。よく、その慈しみの心をおし広げたからなのです。今、王様の慈しみの心が鳥や獣にまで及んでいながら、政治の効果は人民に及んでいないのは、いったいどうしてでしょうか。秤(はかり)にかけてみなければ物の軽い重いは分かりませんし、物差ではかってみなければ物の長い短いは分かりません。すべての物はみなそうなのです。その(はかってみないと実際のところが分からないものの)中でも、人の心はもっとも基準を必要とするのです。王様、どうかご自分の心をはかってみてください」

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梁惠王篇 七章④

孟子が宣王を励ますため、羊は目の前にいなかったので、羊に対する哀れみの気持ちは薄かっただけですと言います。目の前の牛を可哀想と思う心が大切なのだと説きます。自分ではうまく説明できなかった「慈しみの心」を孟子に褒められて、宣王は孟子の話に引き込まれてしまいます。そして自分から問うのです。「牛を可哀想と思う心が、どうして天下の王となるのことにつながるのか」と。

【訓読文】

いわく「王に復(もう)す者有りて、『吾(わ)が力は以って百鈞(きん)を挙ぐるに足るも、以って一羽(う)を挙ぐるに足らず。明(めい)は以って秋毫(しゅうごう)の末(さき)を察(み)るに足るも、輿薪(よしん)を見ず』といわば、則(すなわ)ち王之(これ)を許さんか」

いわく「否(いな)」

「今恩(なさけ)は禽獣に及ぶに足るも、功(いさおし)の百姓(ひゃくせい)に至らざるは、独(まさ)に何ぞや。然らば則ち一羽の挙がらざるは、力を用いざるが為なり。輿薪の見えざるは、明を用いざるが為なり。百姓を保(やす)んぜららざるは、恩を用いざるが為なり。故(ゆえ)に王の王たらざるは、為(な)さざるなり、能(あた)わざるに非(あら)ざるなり。

いわく「為さざると、能わざるとの形は、何以(いか)に異なるや」

いわく「大山(たいざん=泰山)を挟(わきばさ)みて以って北海(ぼっかい=渤海)を超えんこと、人に語(つ)げて『我能わず』という。是(こ)れ誠に能わざるなり。長者(めうえ)の為に枝(し=肢)を折(ま)げんこと、人に語げて『我能わず』という。是れ為さざるなり。能わざるに非ざるなり。故に王の王たらざるは、大山を挟みて以って北海を超ゆるの類(たぐい)に非ざるなり。王の王たらざるは、是れ枝を折ぐるの類なり」

【現代語訳】

孟先生がいわれた。「いま誰かが王様に、『私の腕力は、百鈞(三千斤=約千八百キロ)もある重いものでも持ち上げられるのだが、一枚の羽根は持ち上げられない。私の視力は、秋に生えかわる細い毛の先でも見分けられるのだが、車いっぱいに積んだ薪(たきぎ)はいっこうに見えない』と申し上げたら、王様はこれを信じますか」

王はいわれた「いや、信じない」

孟先生がいわれた「いま王様のご慈悲は鳥や獣にまでも及んでいるほどなのに、王様の政治の効果が人民には及んでいないのは、いったいどういうわけでしょう。一枚の羽根を持ち上げられないのは、力を出そうとしないからです。車いっぱいに積んだ薪が見えないというのは、見ようとしないからです。人民の生活が安定しないのは、ご慈悲をかけようとしないからです。ですから、王様が天下の王者でいらっしゃらないのは、なろうとなさらぬからであって、なれないのではありません」

王はいわれた「しないことと、できないことでは、具体的にどうちがうのか」

孟先生がいわれた「(それでは喩えを申し上げましょう)。泰山(斉国にある山)を小脇にかかえて渤海(斉国の北にある湾)をとびこえることを、人に『自分にはできない』というのは、本当にできないことをいっています。目上の人に腰を曲げてお辞儀をすることを、人に『自分にはできない』というのは、できないのではなく、しないことをいっています。ですから、(王様が仁政を敷かれて)天下の王者でいらっしゃらないのは、泰山を小脇にかかえて渤海をとびこえようとする類(たぐい)のことではなく、目上の人に腰を曲げてお辞儀をする類のことなのです」

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梁惠王篇 七章③

牛が殺されに引かれていくのを見て「可哀想」と思った宣王には、憐憫の情があり、それが民を慈しむ心につながると考え、孟子はこのエピソードを持ち出しました。孟子は、牛を殺すのも羊を殺すのも「五十歩百歩」だと言っています。「論語」では、孔子の弟子が、「ある儀礼が形式化しているので、それに用いる羊のいけにえも廃止してはどうですか」と問うたのに対し、孔子が「お前は羊を愛(おし)むであろうが、私は儀礼が崩れるのを残念に思う」と答えています(「八佾」十七)。孟子の場合は、民に仁政が施されることを優先したのでしょう。

【訓読文】

いわく「傷(いた)むことなかれ。是れ乃(すなわ)ち仁の術なり。牛を見れども未だ羊を見ざればなり。君子の禽獣に於(お)けるや、その生けるを見てはその死するを見るに忍びず、その声を聞きてはその肉を食(くら)うに忍びず。是の以(ゆえ)に君子は庖廚(ほうちゅう=くりや)より遠ざかるなり」

王説(よろこ)びていわく「詩に『他人に心有り、予(われ)之(これ)を付度(はか)る』と云えるは、夫子(ふうし)の謂(いい)なるかな。我乃ち之を行い、反(かえり)みて之を求むれども、吾(わ)が心に得ず。夫子之を言いて、我が心に於いて戚戚(おもいあ)たるもの有り。此の心の王たるに合(た)る所以(ゆえん)の者は何ぞや」

【現代語訳】

孟先生がいわれた。「(人民たちが王様が物惜しみしたと言っていることは)お気になさいますな。これ(王様が牛を可哀想だとおもわれたこと)こそが仁への道筋なのです。(羊に替えよとおっしゃられたのは)牛はご覧になられていましたが、羊はまだご覧になっていなかったからです。鳥でも獣でも、その生きているものを見ていては、殺されるのはとても見ることはできないでしょうし、その(殺されるときの)声を聞いては、とてもその肉を食べることはできないでしょう。ですから、君子は調理場より遠いところに居間を建てるのです」

王は喜んでいわれた。「詩経」に『他人の心を、われよく推しはかる』とあるが、これは先生のことをいったようなものだ。自分でこのこと(羊に替えさせたこと)を行ったのに、自分で振り返ってそのときの自分の心の内を考えても分からなかった。先生の話を聞いて、自分の心に思い当たるものがあった。しかし、この心があれば王者となるのに十分であると(先生が)いうのはどうしてだろうか」

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