梁惠王篇 七章⑥
自分の父母を他人の父母より大切に思う、自分の子弟を他人の子弟よりも可愛がる、これは人間の自然な情です。自然な情に逆らって、他人の父母を自分の父母と同等に大切にせよ、とか、他人の子弟を自分の子弟と同等に可愛がれ、とは儒教は唱えません。むしろ、こうした博愛あるいは兼愛思想は、自然な情に反するばかりか世の中の秩序を乱すとして、退けます。
少し話が外れますが、新約聖書で、イエスが漁師ゼベタイの子であるヤコブとヨハネを弟子にしたとき、兄弟は父ゼベタイを舟と一緒に棄ててイエスに従っています。墨子の兼愛思想は、キリスト教の隣人愛に非常に近いものです。そしてそれは、家族をはじめとする既存の共同体の紐帯(ちゅうたい)を引きちぎって成立するものです。儒教とはまったく相容れない考え方です。
孟子の、すなわち儒教の考え方は、人間の自然な情をそのまま育んで、発展させて、広げようというものです。ですから、自分の父母を敬うように、他人の父母を敬いなさいといいます。決して同等ではありません。自分の父母を一番大切に敬うのですが、程度は同じでなくても、他人の父母も敬いなさい、というのです。子弟についても同じです。自分の身近な人が一番なのですが、それを遠い存在まで広げていくことで、社会が平和に保たれます。逆にいえば、一番身近な存在とうまくやっていけないと、遠い存在とも関係が安定するはずがないのです。
引用された「詩経」は、「大雅・文王の什(じゅう)」のうち「思齊」の一節で、周王朝の開祖である文王の妻、文王の父の妻、文王の祖父の妻を歌ったものです。
さて宣王は、先代威王と同じように、他国と戦争をすることで国威の発揚を図っていました。孟子の矛先はそこへ向かいます。
【訓読文】
「抑(そもそも)、王は、甲兵(こうへい)を興(おこ)し、士臣を危うくし、怨みを諸侯に搆(むす)びて、然る後に心に快きか」
王いわく「否。吾(われ)何ぞ是(ここ)に快からん。将(まさ)に吾(わ)が大いに欲する所のものを求めんとすればなり」
いわく「王の大いに欲する所、聞くことを得(う)べきか」
王、笑いて言わず。
いわく「肥甘(ひかん)の口に足らざるが為(ため)か。軽暖(けいだん)の体に足らざるか。抑(あるい)は采色(さいしょく)の目に視るに足らざるか。声音(せいおん)の耳に聴くに足らざるか。便嬖(べんべい)の前(みまえ)に使令せしむるに足らざるか。王の諸臣、皆以って之(これ)を供するに足れり。而(すなわ)ち、王、豈(あに)是(これ)が為にせんや」
いわく「否。吾、是が為にせざるなり」
いわく「然らば、王の大いに欲する所のものは、知るべきのみ。土地を辟(ひら)き、秦・楚を朝せしめ、中国に莅(のぞ)みて四夷を撫(したが)えんと欲するならん。若(か)くのごときの為す所を以って、若くのごときの欲する所を求むるは、猶(なお)、木に縁(よ)りて魚を求むるがごとし」
【現代語訳】
「いったい王様は戦争を引き起こして、家来を危険な目にあわせたり、諸侯に怨みを抱かれるようなことをされて、それでお心は愉快でございますか」
王はいわれた「いや、自分だとて、どうして愉快なものか。ただ、私には大望があるからだ」
孟先生がいわれた「王様のおっしゃる大望を、お聞かせ願いますか」
王は笑うばかりでお答えにならない。
そこで孟先生がいわれた「では伺いますが、(王様が戦争を引き起こされるのは)肥えた肉や甘い食べ物が足りないためでしょうか。軽くて暖かい衣服が足りないからでしょうか。美しい女性を見たりないためでしょうか。美しい音楽を聴き足りないためでしょうか。御前で使われるお気に入りの近習が足りないからでしょうか。これらのものは皆、ご家来の方々が調達できるはずです。ですから、きっとそんなことではありますまい」
王がいわれた「もちろん、そんなことではない」
孟先生がいわれた「それなら、王様の大望はよく分かっております。領地を広げ、秦や楚の大国を来朝させ、中国に君臨して、四方の蛮族まで従わせようとのお考えでしょう。しかし、周囲に戦争を引き起こすようなやり方で、このような大望を成し遂げようとされるのは、まるで木によじ登って魚をとろうとするようなものです」
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