梁惠王篇 七章⑤
腕力がありながら一枚の羽根を持ち上げようとしない、視力がありながら車いっぱいの薪を見ようとしない。牛を可哀想にと思う慈悲の心がありながら、それを人民に及ぼそうとしないのは、それと同じ事だと孟子はいいます。つまり鳥や獣に対する慈悲の心があれば、人民にそれを及ぼし、仁政を施すことはできるはずだ、というのです。前節で、牛は目の前にいるが、羊は見ていなかったので、羊に思いが至らなくても仕方がなかった、と宣王を慰めたロジックは、ここでは使いません。目の前のものに対する慈しみの心(仁)を、目に見えないものへも及ぼしていくように導こうとしています。
宣王は、「しないこと」と「できないこと」の違いの説明を求めています。孟子の答えは明快です。そもそも人間の能力を超えたことは「できない」と言ってもかまいません。しかし、やろうという意志さえあればできることをやろうとしないことが「しないこと」です。王が民に仁政を施すことは、「やろうという意志さえあればできること」であり、王が民に王道政治を施せば、やがて天下の王になることもできる、というのが孟子が言いたいことでした。いよいよその核心に入ります。
【訓読文】
「吾(わ)が老(としより)を老(とうと)びて、よそ人(びと)の老(としより)に及ぼし、吾が幼(おさなご)を幼(いつく)しんで、よそ人の幼(おさなご)に及ぼさば、天下は掌(てのひら)に運(めぐ)らすべし。詩に『寡妻(かさい)を刑(のり)あらしめ、兄弟(けいてい)に至り、以って家邦(かほう)を御(おさ)む』と云えるは、斯(こ)の心を挙げて諸(こ)れを彼に加うることを言うのみ。故に、恩(なさけ)を推(お)しおよぼさば四海を保(やす)んずるに足るも、恩を推しおよぼさざれば妻子をも保んずることなし。古(いにしえ)の人の、大いにいまの人に過ぎたる所以(ゆえん)の者は、他なし。善く其(そ)の為(な)す所を推しおよぼせるのみ。今、恩は禽獣に及ぶにも足れども、功(いさおし)は百姓(ひゃくせい)に至らざるは、独(まさ)に何ぞや。権(はかり)ありて然るのちに軽さ重さを知り、度(ものさし)ありて然る後に長さ短さを知る。物皆(みな)然り。心を甚(はなは)だしと為(な)す。王、請(こ)う、之を度(はか)れ」
【現代語訳】
「自分の父母を敬うのと同じ心で他人の父母も敬い、自分の子弟を慈しむのと同じ心で他人の子弟も慈しめば、天下も手のひらの上にあるように、思いどおりに治めていけるのです。詩経に『自分の妻を導き正しくし、つぎに兄弟を正しくするように、順々に広げていけば、国家も治めることができる』と歌っているのは、これは身近なものに対する心を、そのまま他人へも広げていくことをいったにすぎません。ですから、慈しみの心をおし広げていけば天下を治めることもできますが、慈しみの心をおし広げないならば妻子ですら治めることができません。むかしの聖人が今の人より優れていたのは、慈しみの心であって、他の何ものでもありません。よく、その慈しみの心をおし広げたからなのです。今、王様の慈しみの心が鳥や獣にまで及んでいながら、政治の効果は人民に及んでいないのは、いったいどうしてでしょうか。秤(はかり)にかけてみなければ物の軽い重いは分かりませんし、物差ではかってみなければ物の長い短いは分かりません。すべての物はみなそうなのです。その(はかってみないと実際のところが分からないものの)中でも、人の心はもっとも基準を必要とするのです。王様、どうかご自分の心をはかってみてください」
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