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2009年8月

梁惠王篇 十五章②

すでに、夏から商へ、商から周への革命を経験している中国でも、主君の追放でもある革命を一夫の殺(とがめて殺すこと)として是認した孟子の弁は危険思想と映り、それがために孟子を攻撃する知識人は少なくなかったのです。ましてや、万世一系の神話を持つ日本では、この考えはとうてい受け入れることはできませんでした。「君、大過あれば則(すなわ)ち諌む。之を反覆して聴かざれば則ち位を易(か)う」(万章篇十八章)や「民を貴しと為し、社これに次ぎ、君を軽しと為す」(尽心篇六十章)と並んで、非難の的になり、「孟子」の書を積んで日本へ向かう船は沈没する、という俗説まであったほどです。

さすがに吉田松陰は、これを非難することはしません。松蔭は、中国の流儀はわが国と違う、という表現で中国の革命の伝統を冷静に見ます。中国では、天が民の中から億兆の民の指導者となる人物を選び出し、その者に人民を治めさせるのです。また天子の座にいるものが人民を治める徳を持ち合わせていなければ、これを追放します。ですから中国では、放伐ということに誰も疑問を持たないのです。しかしながら日本は、天孫が降臨して天皇の系譜が連綿として続いており、その天皇が征夷大将軍を任命します。ですから、勝手に征夷大将軍を責めることはできない、といいます。孟子のこの章を曲解して、奸臣賊子の道に入ってはならない、と諌めています。薩摩・長州の連合が、明治天皇を擁して王政復古の大号令を発し、征夷大将軍徳川慶喜を朝敵にしますが、松蔭が生きていたらどう思ったでしょう。

さて、孟子が一夫というのは、仁義を損なった者のことです。すなわち、たとえどれだけ身分が高かろうと、どれだけ有能であろうと、仁義にもとる者が人民の上に立つことは許されない、というのが孟子の考えです。その意味で、孟子は道徳至上主義と言えるでしょう。人の上であればそれだけ道徳的な高潔さが求められるのです。そうであってこそ王道政治が敷かれるのであり、民は幸せになり、国は富むのです。こういう孟子の考えは、ヨーロッパの伝統にある「ノブレス・オブリージュ(高貴な義務)」に近いかもしれません。孟子は、湯王、武王の王道政治に倣いなさい、といったつもりでしょうが、宣王の心に真意が届いていたかどうか、はなはだ疑問です。

これで、「梁惠王篇十五章」を終わります。

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梁惠王篇 十五章①

中国は革命の国です。「革命」とは、天命をあらためる、という意味です。君主の姓が変わる(易わる)ので、易姓革命といいます。すでに中国には、夏王朝から商(殷)王朝への夏商革命、商王朝から周王朝への商周(殷周)革命がありました。宣王は、これは(し)、すなわち下の者が上の者を殺すことで、本来は許されることではないのではないか、と問います。

【訓読文】

斉の宣王問いていわく「湯(とう)は(けつ)を放ち、武王はを伐(う)ちたりとのこと、諸(これ)有りしや」。

孟子対(こた)えていわく「伝(でん)において之(これ)有り」。

いわく「臣にして其の君を(しい)すること、可なりや」。

いわく「仁を賊(そこな)う者は之を賊(ぞく)と謂い、義を賊う者は之を残(ざん)と謂い、残賊の人は之を一夫(いっぷ)と謂う。一夫の誅(ちゅう)せる聞くとも、未だ君をせるを聞かざるなり」。

【現代語訳】

斉の宣王がたずねられた「商の湯王は夏の王を追放し、周の武王は商の王を討伐したと聞くが、本当にあったことなのだろうか」。

孟先生がお答えしていわれた「そう伝えられております」。

王がいわれた「臣下でありながら、主君をあやめてもよいのだろうか」。

孟先生がいわれた「仁をそこなうものを賊といいます。義をそこなう者を残といいます。残賊の者は、もはや君主ではなく一夫(ただの普通の民)です。普通の民であるを武王が殺したとは聞いていますが、主君を殺してしまったとは聞いておりません」。

帝堯(ぎょう)帝舜(しゅん)に位を譲ったように、天子みずからが位を譲るのを前条と言います。帝舜は夏王朝の始祖となる(う)を後継者と考えていましたが、帝舜の存命中に君主の座は移行せず、帝舜の死後、が三年喪に服した後、諸侯に推されて王となりました。一方、武力によって前王を追放することを放伐といいます。宣王の問いに、湯王は王を「放」ち、武王は王を「伐」つ、とあるのは放伐を意識した言葉の選択です。

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梁惠王篇 十四章②

有能な人物を登用する際は、「尊いものを差し置いて身分の卑しいものを登用したり、一族のものを差し置いて血縁でないものを登用したりするのですから、慎重にしなければなりません」と孟子はいいますが、ではどのような手順をとればいいのでしょうか。

【訓読文】

「左右のもの皆賢なりというも、未だ可ならざるなり。諸大夫皆賢なりというも、未だ可ならざるなり。国人皆賢なりといいて、然る後に之(これ)を察(みきわ)め、賢なることを見て然る後に之を用いよ。左右のもの皆不可なりというも、聴く勿(なか)れ。諸大夫皆不可なりというも、聴く勿れ。国人皆不可なりといいて、然る後に之を察め、不可なることを見て然る後に之を去れ。左右のもの皆殺す可(べ)しというも、聴く勿れ。諸大夫皆殺す可しというも、聴く勿れ。国人皆殺す可しといいて、然る後に之を察め、殺す可きことを見て然る後に之を殺せ。故に国人之を殺せりといいうるなり。此(か)くの如くにして、然る後に以って民の父母為(た)るべし」。

【現代語訳】

「側近たちがみな優れた賢人であるといっても十分ではありません。身分の高い家臣たちがみな優れた賢人であるといっても十分ではありません。国中のものがみな優れた賢人であるといい、その人物をよく調べて、その上で君主みずから優れた賢人であると判断した後に、その人物を登用なさいませ。逆に、側近たちがみなだめだといっても聴き入れてはなりません。身分の高い家臣たちがみなだめだといっても聴き入れてはなりません。国中のものがみなだめだといい、その人物をよく調べて、その上で君主みずからだめだと判断した後に、その人物を罷免なさいませ。刑罰についても、側近たちが死刑にせよといっても聴き入れてはなりません。身分の高い家臣たちがみな死刑にせよといっても聴き入れてはなりません。国中のものがみな死刑にせよといい、その人物をよく調べて、その上で君主みずから死刑もやむなしと判断した後に、その人物を死刑になさいませ。そうすれば、『これは国中のものがみんなで死刑にした』と言ってもよいでしょう。ここまで慎重になされはじめて、人民の父母たる君主になることができるのです」。

人物の登用・罷免、刑罰にはここまで慎重にしなければならない、というのが孟子の説です。もちろん、国中のものの意見を聞くことのは、直接民主主義を行っていたアテネのような人口も少ない都市国家でないと現実的ではありません。ここは、御殿の中の統治側の意見だけでなく、市井(しせい)の統治される側の意見も聞け、ということでしょう。譜代の忠義な家臣がいなくなると、君主は独善的、独裁的になりがちです。君主が自戒して、広く意見を聞くようになれば、人民も子が父母を慕うように君主を慕うようになる、そうなれば王道政治も近い、というのが孟子の真意だと思います。

これで、「梁惠王篇十四章」を終わります。

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梁惠王篇 十四章①

譜代の家臣が有能であればいいかというと、そうとは限りません。春秋時代はむしろ有力家臣の勢いに主君である諸侯が圧倒される例が多く見られました。典型的なのは、最後は主君が追い払われ、国も韓・魏・趙の三つに分割された晋ですが、孔子の生国である魯も公室の分家である孟孫子・叔孫子・季孫子の三家が政治を左右しました。

戦国時代になると、こうした代々の貴族は力を失い、むしろ君主の力が突出し、君主がどういう政治家や軍師を登用するかが、国力に大きく影響るようになりました。つまり、能力を重視した人材の登用が、きわめて重要になったのです。

【訓読文】

孟子、斉の宣王に見(まみ)えていわく「所謂(いわゆる)故(ふる)き国なるは、喬木有るの謂(いい)を謂(い)うに非ざるなり。世つぎの臣有るの謂(いい)なり。王には親しき臣なく、昔者(きのう)進めし所も、今日は其の亡きをも知らざるなり」。

王いわく「吾(われ)何を以って其の不才を識(し)りて之(これ)舎(す)つべきや」。

いわく「国君は、賢を進むるには已(や)むを得ざるが如(ごと)くすべし。将(まさ)に卑しきをして尊きを(こ)え、疏(うと)きをして戚(した)しきをえしめんとす。慎まざるべけんや」。

【現代語訳】

孟先生が斉の宣王にお目にかかっていわれた「王様、伝統ある国と呼ばれるのは、その国の象徴として社稷(国の祭祀を行う祭壇)のある森にある大木があるからではありません。忠義な譜代の家臣がいることをいうのです。ところが、(譜代の家臣がいない)斉国の王であるあなた様には、親しく信頼できる家臣すらおらず、先日登用したものが、役に立たないので今日辞めさせる(あるいは忘れられている)かもしれないということさえお分かりにならない状況です」。

王はいわれた「どうしたら、人物が才能ががるかどうかを知って、(不才の者を)登用しないでおくことができるのだろうか」。

孟先生がいわれた「一国の君主たるものがすぐれた才能のある者を登用するときには、(彼以外の人物がいないから)やむをえず登用するのだというようにしなければなりません。(その理由は)尊いものを差し置いて身分の卑しいものを登用したり、一族のものを差し置いて血縁でないものを登用したりするのですから、慎重にしなければなりません」。

斉(せい)の国は、文王の軍師であった太公望呂尚が封ぜられた国でした。呂尚を含めて二十世三十二代続きますが、陳国からの亡命公子の子孫である田氏によって乗っ取られてしまいます。三百年かけた国盗り物語と紹介しました。呂尚は姜姓でしたので、それ以前を姜斉、以降を田斉と呼びます。孟子が暗に、斉には譜代の家臣がいない、といったのには、こういう歴史的背景があります。

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梁惠王篇 十三章②

先に述べたように、この章は君主の責任論です。友人の妻子を託されたのであれば、しっかりと世話をするのが、友としての責任です。役所の長官であれば、部下の管理を含めて組織をしっかり運営するのが、長官としての責任です。こうした責任を果たせないものに対しては、「見捨てるであろう」とか「やめさせるであろう」とか、きっぱりした反応をみせた宣王でしたが、自分の立場を問われると、とたんに知らぬ振りでごまかします。四境の内とは、東西南北の四つの国境の内側、すなわち国内のことです。それをうまく治めることが、君主としての責任です。それを問われて知らぬ振りとはどういうことでしょう。

吉田松陰は、「真剣に人情を思い、職責を思い、心の内に自省するところがあれば、(孟子の問いに対して)ただ頭をたれて一言も発することはできなかったはずである」といいます。それを何の反省もなく、側近と別の話を始めてはぐらかす宣王には、「すぐさま唾を吐きかけ、罵倒したくなる」と断じます。忍耐強く温厚な教育者である松蔭の、思想家としての激しい面が表れた言葉です。しかし松蔭は続けて、宣王ははるか昔の人間なので、今ここでそんなことを言っても仕方がない。むしろ物事に、職責を自覚して当たれるか、人情を考慮して臨めるか、ということを自分の問題として捉えようとします。他人を責める前に自分を省みる、教育者松蔭の姿があります。

これで、「梁惠王篇十三章」を終わります。

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梁惠王篇 十三章①

梁惠王篇の八章から十二章までは、「楽しむにも天下と以(とも)にし、憂うるにも天下と以にす」(あるいは「楽しむに天下を以(もっ)てし、憂うるに天下を以す」)という王道政治の根幹を一貫して説いてきました。民の暮らしを慮(おもんばか)り、民が楽しむことを自分の喜びとし、民が苦しむのは自分の憂いとし、民の暮らしが安定して家族という生産単位が再生産されるように民の暮らしを助けていく。これが仁政であり、仁政を施すことが天下の王者となる本道であるというのが、孟子の言わんとするところです。

十三章では趣(おもむき)を変え、王の責任の重さを宣王に自覚させようとします。

【訓読文】

孟子、斉の宣王に謂(かた)りていわく「王の臣に、其(そ)の妻子を其の友に託して、楚に之(ゆ)きて遊ぶ者あり。その反(かえ)るに比(かえ)るに比(およ)びて、其の妻子を凍え餒(う)えせしむれば、則(すなわ)ち之(これ)を如何(いか)にすべきや」。

王いわく「之を棄てん」。

いわく「士師(しし)の士(し)を治むること能(あた)わずんば、則ち之を如何にすべきや」。

王いわく「之を已(や)ましめん」。

いわく「四境の内の治まらずんば、即ち之を如何にすべきや」。

王、左右を顧(かえり)みて他(よそごと)を言えり。

【現代語訳】

孟先生が斉の宣王にいわれた「王様のご家臣のなかに、自分の妻子を友人に預けて、楚国(中国南部の大国で、斉からは遠国)へ外遊する者があったとします。ところが外遊から帰ってみると、自分の妻子を凍えさせ飢えさせていたとします。王様ならば、その友人をどうなさいますか」

王はいわれた「そのような者は見捨てるであろう」。

孟先生がいわれた「士師(裁判の長官)が無能で、配下の役人たちをうまく管理できないとしたら、この士師をどうなさいますか」。

王がいわれた「そのような者はやめさせてしまうであろう」。

孟先生がいわれた「では、国内がうまく治まっていないとしたら、(その国の君主として)どうなさいますか」。

王は左右の側近の方を向いて、別の話を始められた。

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梁惠王篇 十二章④

明堂(めいどう)という、周王朝がまだ力を持っていた頃、天子が当方の諸侯に対して儀礼や接待を行っていた御殿跡を取り壊してよいかと、宣王に問われた孟子は、その遺跡を王道政治の象徴として捉えました。儀礼や接待は、古代では政治そのものです。宣王に、文王や武王のような王道政治を行う意志があるのなら、取り壊すべきではないといいます。

文王は、農民の税を九分の一にとどめ、役人を世襲にさせていた、とことさら孟子が言うのは、宣王の斉では、農民の税が重く、役人も子に継がせることができない者が多かったからでしょう。「九分の一」の税とは、後に「井田(せいでん)の説」へと結実する農政で、土地を「井」の字に区切り(つまり九等分し)、そのひとつを国のために耕して収穫物を納める徴収方法です。農民の税負担を小さくするとともに、さらに豊作時には凶作時に備えるため一定の蓄えをすることで、農民の暮らしを安定させようというものです。当時の産業はほとんどが農業でしたから、税負担に耐えられない農民が土地を棄て流民化したり、凶作時に大量の餓死者が発生すると、国力が落ちます。農民の暮らしを安定させ、人口を増やしていくことが、富国政策の基本でした。役人を世襲させるのも、彼らの生活を安定させ、行政の担い手である知識階級を確保するためです。もちろん、生活が安定していれば政治に不満をもつことなく、反乱が起きる可能性を小さくする狙いもあったでしょう。

おとこやもめ・やもめ・ひとりもの・みなしご、は今でいうところの社会的弱者です。近代以前は、家族が生産単位でもありました。家族は三世代同居が前提です。壮年の男子が農耕を行い、老父母・妻子を養う。老父母や子供の世話をするのは妻です。ですから、夫がいなければ耕すものがなく、妻がいなければ家族を世話するものがなく、壮年の子がいなければ食べさせてくれものがなく、壮年の親がいなければ育ててくれるものがいなかったのです。家族を構成できない者は社会的弱者なので、政治が救わなければなりません。文王はセイフティネットを提供していたのです。

宣王の「やまい」である、財欲・色欲に対して、孟子は少し交わしながら、文王・武王の先祖の故事を持ち出します。

宣王の財欲は、いうまでもなく個人の蓄財です。しかも金銀・珍宝でしょう。孟子は「財」を食糧の話にすり替え、これを民と共有しなさいといいます。公劉(こうりゅう)という夏王朝下で諸侯だった周の君主は、遷都の際、残る者にも出立する者にも十分な食糧を蓄えさせました。この遷都が成功したことが、後に武王が天下を取ったことにつながった、というのです。少しこじつけの感は否めません。

宣王の色欲については、文王の祖父である古公父(ここうたんぽ)が妃を大事にした故事を挙げます。色欲を夫婦愛にすり替え、さらには民に家族を構成させる(男は妻を娶り、女は夫へ嫁ぎ、夫婦は子を産む)ことへつなげます。こうして新天地で家族を持つ民を増やしたことが、やがて文王の代に中国の三分の二を支配するようになり、武王の代で商王朝を倒すことにつながった、というのです。これもやや強引です。

ただ孟子の弁舌が上手いために、宣王も「そういうものか」と思わされたのでしょう。

これで、「梁惠王篇十二章」を終わります。

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梁惠王篇 十二章③

財宝を蓄えるのが好きでも、人民のために使うのであれば何の問題はない、だからすぐにでも王道政治を始めなさいという孟子に、宣王は、今度は「自分は好色だから、とても王道政治などできない」と第二の言い訳をいいます。

【訓読文】

王いわく「寡人に疾(やまい)あり、寡人は色を好む」。

対(こた)えていわく「昔者(むかし)、大王も色を好みて厥(そ)の妃を愛せり。詩にいう『古公父(ここうたんぽ)、来(ここ)に朝(あした)に馬を走らせ、西水の滸(ほとり)に率(したが)いて、岐(き)の下(ふもと)に至る。(ここ)に(きょう)の女(むすめ)と、(つい)に(あ)い宇(お)れり』と。是(こ)の時に当たりては、内にひとりみを怨む女なく、外に(つまな)き夫(おとこ)なし。王もし色を好みて百姓(ひゃくせい)と之を同じうせば、王たるに於いて何か有らん」。

【現代語訳】

王がいわれた「私には悪い癖があり、色を好むのです」。

孟先生は答えられた「昔、文王の祖父である古公父(ここうたんぽ)もやはり色を好んで、夫人の(きょう)氏を愛しました。詩経(大雅『(めん)』)にも『ある朝早くに古公父は馬を走らせ、西水(川の名前)のほとりに沿って進み、岐山(きざん)の麓に着き、妃の氏と、ここで暮らし始めた』とあります。(人民は古公父にならったので、)彼の時代には、家には婚期を逃して怨みをいう女もいなければ、外には年頃になっても妻がいない男もいませんでした。王が色を好まれても、人民がこれにならうような好色であれば、天下の王者となるのに、何の不可能なことがありましょうや」。

ここで引用されたのは「詩経」の「大雅」のうち「(めん)」からの一節です。古公父(ここうたんぽ)は文王の祖父です。彼の代に他国の攻撃を受け、それまでの領土を逃れて新しい土地へ移ります。それが岐山(きざん)の麓でした。周は、ここから大きく発展し、やがて文王の代に中国の三分の二を支配するようになり、その子武王になって、ついに商(殷)王朝を倒すのです。この歌は、古公父が岐山へ逃れた際、愛する氏もいっしょに連れて行き、新天地で仲良く暮らしたことを歌っています。

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梁惠王篇 十二章②

孟子は、文王の、民の暮らしを助け、とりわけ恵まれないものを優先して保護する仁政を語った後、詩経の一節をやや強引に王道政治と結びつけます。宣王はこれを素晴しい話だと感嘆します。そこへすぐさま「では、どうして王道政治をなさらないのか」と詰め寄っていきます。

【訓読文】

王いわく「善いかなこの言よ」。

いわく「王もし之(これ)を善しとせば、則(すなわ)ち何すれぞ行わざるや」。

王いわく「寡人に疾(やまい)あり、寡人は貨を好む」。

対(こた)えていわく「昔者(むかし)、公劉(こうりゅう)も貨を好めり。詩にいう『乃(すなわ)ち積み乃ち倉にし、乃ち糧(こうりょう)を(つつ)む、橐(とう=こぶくろ)に嚢(のう=おおぶくろ)に。思(ここ)に戢(やわら)ぎて用(もつ)て光(ほまれ)あり。弓矢斯(ここ)に張り、干戈戚揚(かん・か・せき・よう)、爰(ここ)に方(はじ)めて行(こう)を啓(ひら)く』と。故に居る者には積みたる倉あり、行く者には裹みたる糧あり。然る後に、に方めて行を啓くべし。王もし貨を好みて百姓(ひゃくせい)と之を同(とも)にせば、王たるに於いて何か有らん」。

【現代語訳】

王がいわれた「まことに善いお話である」。

孟先生がいわれた「王様、さように思し召すなら、どうしてご実行されないのですか」。

王がいわれた「私には悪い癖があり、財宝が大好きなのです」。

孟先生は答えられた「昔、周王朝のご先祖である公劉(こうりゅう)という方も、また財宝を好まれました。詩経(大雅『公劉』)にも『収穫を積み上げ倉に収め、乾飯(ほしい)をつくり詰め込んで持たせた。小袋にも大袋にも。(夏王朝の圧迫を避けて)心安らかになり、大いなる国にならんと。弓を張り矢を揃え、盾や矛(ほこ)、斧や鉞(まさかり)をもって、ここに出立した』とあります。居残るものには倉にたくさんの穀類があり、出て行くものには十分に詰め込んだ食糧(乾飯)がありました。そこで始めて安心して出立できたのです。王様も財宝がお好きなら、(公劉と同じように蓄えたり詰め込んだりしたものを)人民と一緒に使えば、天下の王者となるのに、何の不可能なことがありましょうや」。

ここで引用されたのは「詩経」の「大雅」のうち「公劉(こうりゅう)」からの一節です。公劉とは人の名前で、周王朝の始祖である后(こうしょく)の曾孫と言われます(ということは、文王・武王の先祖になります)。その公劉が、夏王朝(周王朝のひとつ前が商王朝、その商王朝の前が夏王朝)に圧迫されて、周の遷都を行ったときの様子を詠った歌です。

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梁惠王篇 十二章①

孟子が活躍した戦国時代は、諸侯はみな「王」を自称するようになり、周王朝は有名無実となっていました。孟子が文王、武王(文王の子)、周公(武王の弟)が行ったような王道政治を説くことの難しさは推して知るべし、です。この章でも宣王は、かつて周の天子が地方を巡遊したときに、東国の諸侯を集めて挨拶を受けた「明堂(めいどう)」という遺跡を取り壊してもよいであろうか、と孟子に聞いてきます。

【訓読文】

斉の宣王問いていわく「人皆、我に明堂を(こぼ)てと謂う。諸(これ)をたんか、已(や)めんか」。

孟子対(こた)えていわく「夫(それ)明堂は王者の堂なり。王、王政を行わんと欲すれば、則(すなわ)と之(これ)をつこと勿(なか)れ」。

王いわく「王政のこと、聞くことを得(う)べきか」。

対えていわく「昔者(むかし)文王の岐(き)を治めたまうや、耕す者は九分の一(を課税し)、仕うる者は禄を世つぎにし、関は(しら)ぶれども征(税)せず、沢梁(たくりょう)は禁なく、人を罪するに孥(ど)せざりき。老いて妻なきを(かん)といい、老いて夫なきを寡といい、老いて子なきを独といい、幼くして父なきを弧という。此(こ)の四者は天下の窮民にして、告ぐることなき者なり。文王の、政を発(おこ)し仁を施すや、必ず斯(こ)の四者を先にせり。詩にいう『(よ)いかな富める人、此の独(けいどく)を哀れむ』と」。

【現代語訳】

斉の宣王がたずねられた「人は皆、私に(斉の領内にある)明堂を取り壊すようにというが、本当に壊してしまっていいのだろうか、それとも壊すのをやめたほうがいいのだろうか」。

孟先生は答えられた「そもそも明堂は、天子が諸侯を集めて儀礼や接待を行われた御殿の大広間でした。もし王様が王者の政治を行おうとされるなら、決して取り壊してはなりません」。

王がいわれた「王者の政治とはどのようなものか、お話を伺うことはできますでしょうか」。

孟先生は答えられた「むかし文王がまだ諸侯のひとりで岐(現在の西省岐山県が周王朝発祥の地。文王の祖父である古公父(ここうたんぽ)が岐山のふもとで国を建てた)を治めていたころ、農民には九分の一しか税をかけませんでしたし、役人には(生活を安定させるため)俸禄を世襲させていましたし、川や沢地では梁(やな:魚を獲るための仕掛け)を禁じてはいませんでしたし、罪人を罰してもその妻子まで連座させませんでした。年老いて妻がいないのを鰥夫(おとこやもめ)といい、年老いて夫がいないのを寡婦(やもめ)といい、年老いて子がいないのを独夫(ひとりもの)といい、幼いうちに親をなくしたのを孤児(みなしご)といいます。この四者は、天下の窮民で、頼りにし助けてくれる者がいません。文王が仁政を行うにあたっても、必ずこの四者を優先しました。ですから詩経(小雅『正月(せいげつ)』)にも『善いかなこの富める人(文王のこと)、この寄るべなき人々を哀れむとは』とあるのです」。

最後に引用された詩経の一節は、孟子がわざと意味を変えています。元々、失脚した一族の長が世を憂い、己の運命を哀しんで作ったとされる歌なので、「哿いかな富める人、哀し此の独」と読み、「善いかな富める人、哀しいかな独りの私」と解釈すべきです。ただここは、宣王に王道政治を説くために、あえて曲げたのです。

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梁惠王篇 十一章③

子(嬰:あんえい)は、孔子よりも一世代ほど早い、斉の政治家です。一四〇センチに満たない背丈でしたが、智勇にすぐれ、たびたび主君を諌めています。子が仕えた君主は、霊公、荘公(霊公の子)、景公(荘公の弟)の三代ですが、霊公は怯懦(きょうだ)、荘公は蛮勇な君主でした。荘公は子の諫言を疎み、子は職を辞さざるを得なくなります。ようやく景公の代になって、子は活躍できるようになります。主君の怒りを恐れず正しい事をいい続けた子は、斉の国民からも人気があったといいます。詳しくは、宮城谷(昌光)さんの『子』をお読みください。

転附(てんふ)は芝(らいふ)、朝儛(ちょうぶ)は成山のことで、ともに山東半島のあった港町です。琅邪(ろうや)も港町ですから、景公は海が好きだったのかもしれません。成山は下って明の時代に、倭寇防衛の海軍基地として使われています。

この章は、君主は遊び楽しみのなかでも、民の暮らしぶりを案じ、必要に応じて対策を施さなければならないと言っています。そういう楽しみであれば、民もにともに喜び、むしろ君主が楽しまないことを心配するようになるのです。

吉田松陰は、この章からは「楽しむにも天下と以(とも)にし、憂うるにも天下と以にす」を選んでいます。この言葉こそ、孔子の学問の骨子だといいます。天下の問題を、つねに自分にひきつけて考え、これに対し自分はどうしたらいいか、自分をどう鍛えていけばいいか(己を修める)、に心を砕いていれば、たとえこのまま(松陰たちが捕らえられている野山獄で)果てたとしても、必ず自分たちの志を受け継いで成し遂げてくれる人が現れるだろうといいます。実際、松蔭亡き後、高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)、伊藤博文が明治維新を実現していったのですから、松蔭の信念が正しかったといえましょう。

これで、「梁惠王篇十一章」を終わります。

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梁惠王篇 十一章②

宣王のからかいまじりの質問も、孟子は、君主と人民が楽しみも憂いもともにするような王道政治を勧めるきっかけにしてしまいます。民のことを常に考えるような政治をしていれば、君主が楽しんでいても、民はそれを怨むようなことはないのです。

孟子は続けて、(桓公ほど有名ではありませんが)斉の明君であった景公と、その家臣子(あんし)との間の話に触れます。

【訓読文】

「昔者(むかし)、斉の景公、子に問いていわく『吾(われ)は転附(てんふ)・朝儛(ちょうぶ)に観(あそ)び、海に遵(したが)いて南し、琅邪(ろうや)に放(いた)らんと欲す。吾、何をか修めて以って先王の観びに比すべきや』と。子対(こた)えていわく『善いかな問いや。天子の諸侯に適(ゆ)くを巡狩(じゅんしゅ)という。巡狩とは守る所を巡(めぐ)るなり。諸侯の天子に朝するを述職(じゅつしょく)という。述職とは職(つかさど)る所を述ぶるなり。みな事(つとめ)にあらざる者なし。春には耕すを省(み)て足らざるを補い、秋には(おさ)むるを省て給(た)らざるを助(たす)く。夏(か=王朝名)の諺には、吾(わ)が王遊ばずんば、吾(われ)何を以ってか休(いこ)わん、吾が王豫(たの)しまずんば、吾何を以ってか助からん、といえり。〔昔は〕一たびの遊び、一たびの豫しみも、諸侯の度(のり)と為(な)りしも、今は然(しか)らず。〔王に〕師(したが)うものは行きて糧食し、〔民の〕飢うる者は食らわず、労する者は息(いこ)わず、睊睊(けんけん)として(あい)(そし)りて、民は乃(すなわ)ち(うら)みを作(な)せり。〔師うものは〕命に方(さから)い民を虐(しいた)げ、その飲食するところ流るるが若(ごと)し。流連荒亡は諸侯の憂い為(た)り。流れに従い下りて反(かえ)るを流といい、高きに従い上りて反るを連といい、獣(かり)に従いて厭(あ)くことなきを荒といい、酒を楽(この)んで厭くことなきを亡という。先王には、流連の楽しみと荒亡の行いとは無かりき。惟(ただ)君の行う所のままなり』。景公は説(よろこ)び、大いに国に戒(つ)げ、出でて郊に舎(やど)る。是(ここ)に於いて、始めて興発(くらひら)きて足らざるものを補い、大師を召(よ)びて『我が為に君臣と相い説(よろこ)ぶの楽(がく)を作れ』といえり。蓋(けだ)し徴招(ちしょう)と角招(かくしょう)とは是(これ)なり。其の詩には『君を畜(よろこ)ぶ何ぞ尤(とが)めん』という。君を畜ぶとは君を好(よみ)するなり」。

【現代語訳】

「昔、斉の景公が子にたずねられました。『私は(人民の暮らしぶりを視察するため)転附・朝儛(「てんふ」も「ちょうぶ」も斉国内の地名)を遊観し、東の海岸線に沿って南に下り、国境の港町である琅邪(ろうや)まで行ってみたいと思う。いったいどのようにしたら、古代の聖王と同じような巡遊ができるだろうか』。晏子はお答えしていわれました。『まことに善いことをおたずねになりました。天子が諸侯の領地にゆくのを巡狩(じゅんしゅ)といいます。巡狩というのは、諸侯が守っている所を巡るという意味です。また諸侯が天子に参朝するのを述職といいます。述職というのは、諸侯が自分の職務について天子に述べにゆくという意味です。つまり、天子にしても諸侯にしても、旅行することも大切な職務だったのです。(それだけではなく)春には耕作を見ては作物の種が不足しているのを補ってやったり、秋には収穫を見ては人手が不足しているのを助けてやったりします。ですから夏王朝の諺にも、「王様がお遊びにならなければ、我々はどうして休息できよう。王様がお楽しみでなければ、我々はどうして助けられよう」とあるのです。昔は、天子の一度の巡遊、一度の楽しみも、諸侯のお手本となったのです。ところが今は違います。王が出かけるときは家臣を大勢従わせますから、そのものたちが巡遊先で食糧を徴発するので、人民たちは飢えていても食べ物は取られてしまい、疲れていても休む暇を与えられません。そのため人民たちは目をそばだててそしりあい、お上を深く怨むようになるのです。その一方で、王に従った者たちは、天命に背いて人民を虐げ、彼らが飲み食いする量には際限がありません。流連荒亡は諸侯の憂いになっています。流とは川下りをして(舟遊びをして)戻るのを忘れることをいいます。連とは高地に登り(山遊びをして)戻るのを忘れることをいいます。荒とは狩りをしていつまでも厭きないことをいいます。亡とは酒を飲んでいつまでも厭きないことをいいます。(今の諸侯はこんなでたらめな遊びにふけって人民の暮らしなど省みませんが)古代の天子は流連荒亡とは無縁でした。あなた様(景公)は、どちらをお選びになりますか。それはあなた様の御心次第です』。景公は子の言葉にたいへんよろこんで、斉国中に国政の改革を告げ知らせました。巡遊をとりやめ、都を出て郊外に宿泊し、(人民の暮らしぶりを見て)初めて米倉を開いて、不足していた食糧を補いました。また大師(音楽長官)を呼んで「私のために、君臣が互いによろこびあうという主題の歌を作れ」とお命じになりました。今も伝わっている徴招(ちしょう)と角招(かくしょう)の二曲がそれです。その歌詞に『君を畜(よろこ)ぶ何ぞ尤(とが)めん』とあります。君を畜ぶとは、君を愛するということなのです」。

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梁惠王篇 十一章①

孟子と、大国斉の宣王との対話も回を重ねてきました。孟子は、この王に期待をもって、何とか民と楽しみをともにし、民と憂いをともにする仁政の方へ向かわせようとします。大国斉が王道政治を行うことで民も国も富むようになれば、他国もこれに倣うようになるでしょう。宣王も、孟子に慣れ親しんできたせいか、自分の遊楽を見せびらかし、賢者もこうした遊楽をするのだろうか、と孟子をからかうような質問をします。

【訓読文】

斉の宣王、孟子に雪宮(せっきゅう)に見る。

王いわく「賢者も亦(また)此(こ)の楽しみ有りや」

孟子対(こた)えていわく「有り。人は(己(おの)が楽しみを)得ざれば則(すなわ)ち其(そ)の上(きみ)を非(そし)る。得ずして其の上を非(そし)る者は非なるも、民の上と為(な)りながら、民と楽しみを同(とも)にせざる者も、亦、非なり。民の楽しみを楽しむ者には、民も亦其の楽しみを楽しみ、民の憂いを憂うる者には、民も亦其の憂いを憂う。楽しむにも天下と以(とも)にし、憂うるにも天下と以にす。然(か)くのごとくして王たらざる者は、未だ之(こ)れ有らざるなり」。

【現代語訳】

斉の宣王が孟先生と雪宮で会見された。王がいわれた「賢者にもこうした(りっぱな宮殿などの)楽しみはありますか」。

孟先生は答えられた「あります。人民は自分もそういう楽しみが得られないと、お上をそしり怨むものです。楽しみが得られないからといってお上をそしり怨むのもいいことではありませんが、人民の君主たるものが自分ひとりで楽しんで、人民とともに楽しまないのも、いいことではありません。君主が人民とともに楽しめば、人民も君主が楽しんでいる事を楽しみに思い、君主が人民とともに心配すれば、人民も君主が心配していることを心配するものです。天下とともに楽しみ、天下とともに心配することが肝要です。このようにして天下の王者にならなかった人は、これまでひとりもおりません」。

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