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2009年9月

梁惠王篇 十八章③

斉が他国同盟の圧力を受けたのが侵攻から間もない時期なのか、圧力を受けてまもなく撤退したのかはよく分かりません。斉は、威王、宣王の二代で隆盛を誇りました。しかし、燕への侵攻とその後の撤退を境に、凋落が始まります。宣王の後を継いだ王(びんおう)は隣国の宋を併呑しますが、周囲の国々の斉への反感を強めるだけでした。

燕の昭王は、斉への恨みを晴らすため、優れた人物を招きたいと郭隗(かくかい)に相談します。郭隗は「先ずは隗より始めよ」といい、自分を破格の待遇にさせます。郭隗くらいの人物ですら好待遇を受けるのですから、もっと優れた人物が「我こそは」と燕を訪れるに違いないと考えたのです。そして楽毅(がくき)がやってきます。昭王の信任を得た楽毅は、趙などと連合軍を編成し、斉を攻めます。一挙に七十あまりの城市を落し、斉を滅亡寸前まで追いやるのです。その間に昭王が亡くなり、次の王が楽毅を疑って燕に呼び戻したので、斉はなんとか生き延びることができました。ただ往年の勢いは二度と戻ってきませんでした。

吉田松陰は、本章の中の「未だ千里を以って人を畏るる者を聞かざるなり」の一語に、胸を刺される思いだと述べます。日本の国土は、北は北海道(松蔭当時は蝦夷地)から南は沖縄(当時は琉球)まであるのですから、けっして狭いとはいえません。アメリカやロシアのような大国が来航してきても恐れることはないのです。二国にくらべて小国のイギリス、フランスにいたっては問題にもなりません。湯王のように構えていたならば、天下にわが国をにらみつけるような国などいないのです。おどおどして、外国の言いなりになっている為政者たちは、何の面目が立つだろうか、と叱咤しています。これもまた、現代のわれわれにとって、耳の痛い言葉です。

これで、「梁惠王篇十八章」を終わります。

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梁惠王篇 十八章②

商王朝の開祖、湯王(とうおう)の征伐は、正義の戦いでした。梁惠王篇十章で述べられた通り、湯王は葛伯(かつはく)の非道を正そうとして耐えに耐えた後に、これを討伐しました。決して自国の利益のために滅ぼしたのではありません。この緒戦に表れているように、湯王が他国を攻めるのは、暴君、悪逆非道の君主を討ち、その人民を虐政から救うためでした。そして最後に夏王朝最後の王である桀を破り、天下の王者になったのです。それに比べて斉による燕の占領は、たしかに先王の「禅譲」による宰相派と太子派の内戦による荒廃から燕の人々を救ったかもしれませんが、こんどは占領軍による残虐行為がこれにとって代わっただけです。とても正義の戦いとは言えません。孟子は即時撤退を進言します。

【訓読文】

「今、燕は其(そ)の民を虐(しいた)げ、王は往(ゆ)きて之(これ)を征(う)つ。民、将(まさ)に己(おの)れを水火の中より(すく)わんとするならんと以為(おも)いて、食(たんし)壺漿(こしょう)して、以って王師(おうし)を迎えたるに、其の父兄を殺し、其の子弟を係累(つな)ぎ、其の宗廟(そうびょう)を毀(こぼ)ちて、其の重器(じゅうき)を遷(うつ)せるが若(ごと)きは、いかにして其れを可とせんや。天下は固(もと)より斉の(つよ)きを畏るるに、今また地を倍にして、しかも仁政を行わざるは、是(これ)天下の兵を動かすなり。王よ、速やかに令を出(い)だし、其の旄倪(ぼうげい)を反(かえ)し、其の重器を止め、燕の衆に謀(はか)って君を置(た)てて後に去らば、則(すなわ)ち猶(なお)止むるに及ぶべきなり」。

【現代語訳】

「今、燕の為政者は人民を虐(しいた)げていました。そこへ王様が軍を進めてこれを征伐されたので、燕の民は、この王様こそ水攻め火攻めのような悪政から救って下さる方だと思い込んで、食物を箪(わりご:蓋つきの飯びつ)に詰め、漿(しょう:酸味のある飲み物で、酒の代用)を壺に入れて、王様の軍隊を歓迎したのです。ところが燕の長老たちを殺し、若者たちを捕らえて縄でしばり、燕の祖先を祭る廟を取り壊し、燕の宝物を斉へ持ち帰ったりするような所業は、どうして許されるわけがありましょうか。天下はもともと斉国の強大さを恐れています。今また領土を二倍にしてしまいました。しかも仁政を行わず、人民を苦しめることが、天下の諸侯を動かして斉を攻める原因を作っているのです。王様、速やかに命令を出して、捕らえた燕の老人と子供を解放してやり、燕の宝物も返還し、燕の民衆の意思を聞いて彼らの君主を立てて、斉の軍隊を撤退させることです。そうすれば、天下の諸侯が同盟して斉を攻めるのをやめさせることができるでしょう」。

このときの孟子の進言は受け入れられず、斉の占領は続きます。侵攻から二年、周囲の国からの支援を受けた燕の抵抗を抑えきれなくなった斉軍は撤退を余儀なくされ、燕は先王の次子を王に立てます。名君昭王です。斉の燕侵攻は結局失敗に終わり、燕の人びとの斉に対する怨恨だけが残りました。いけにえの牛を殺すのを止めさせたような優しいところのある宣王に、王道政治を行ってもらう期待をかけていただけに、孟子の失望は大きかったはずです。宣王との間の溝が広がった孟子は、このあと斉を離れ、失意のうちに故国である(すう)へ帰っていくのでした。

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梁惠王篇 十八章①

斉が燕をあっさりと占領してしまったことは、他国へ大きな衝撃を与えました。晋が韓・魏・趙の三国に分裂して始まった戦国時代は、これに秦・楚・斉・燕を加えた七大国で力のバランスを保っていました(「戦国の七雄」といいます)。孟子が活躍していたとき、すでに韓や魏は衰えていましたが、それでも七ヵ国の一角が滅びてしまう事態はなかったのです。そこで対斉同盟を結んで斉を攻めようという動きが起こりました。

【訓読文】

斉人(せいひと)燕(えん)を伐(う)ちて之(これ)を取る。諸侯、将(まさ)に謀(はか)りて燕を救わんとす。

宣王いわく「諸侯に寡人(かじん)を伐たんと謀る者多し。何を以ってか之を待(とど)めん」。

孟子対(こた)えていわく「臣、七十里にして政を天下に為せる者を聞けり。湯(とう)是(こ)れなり。未(いま)だ千里を以って人を畏れる者を聞かざるなり。書にいう『湯、一(はじ)めて征(う)つに、葛(かつ)より始む』と。天下は之を信じ、東面して征てば西夷(せいい)は怨み、南面して征てば北狄(ほくてき)は怨み、『奚為(なんす)れぞ我を後(あと)にするや』といいて、民の之を望みしことは、大旱(たいかん)に雲霓(うんげい)を望むが若(ごと)し。市(あきない)に帰(おもむ)く者は止まらず、耕す者は変わらず。其(そ)の君を誅して其の民を弔(あわれ)むこと、時雨(じう)の降るが若(ごと)くにして、民大いに悦びたり。書にいう『我が后(きみ)を徯(ま)つ。后来たらば其(すなわ)ち蘇(よみがえ)らん』と」

【現代語訳】

斉国が燕国を攻めて勝利した後、燕を占領し続けた。そこで諸侯は、燕を救うため、同盟の相談を始めた。

宣王がたずねられた「多くの諸侯が燕を占領し続ける私を伐つ相談をしているという。いったいどうしたらこれをやめさせることができるだろうか」。

孟先生がお答えになられた「私は、七十里(三十五キロ)四方しかない小国の君主でありながら、遂に天下の王者となった人は聞いております。商の湯王(とうおう)がその人です。一方、千里(五百キロ)四方もある大国でありながら、他国を怖れている人は聞いたことがありません。書経には『湯王の征伐は、非道の君主であった葛伯に対する戦いから始められた』とあります。このとき天下の人民は、湯王の征伐が正義の戦いであると信じていたので、東に向かって征伐すると西の蛮族が怨み、南に向かって征伐すると北の蛮族が怨んで、『なぜ我々の国から先に征伐して下さらないのか』と言ったと書かれていますが、これはひどい旱魃(かんばつ)のときに雨雲や虹に待ち望む様(さま)と同じです。湯王の軍が入ってきても、市場の商人は普段どおり商売を続けていましたし、農夫も普段どおりに田畑を耕していました。湯王は暴君を征伐するだけで、人民に対してはよくあわれんだので、まさに恵みの雨が降ったかのように、人民は大いに悦んだものです。書経にも『わが君のお越しを待つばかり。わが君が来られたなら生き返る』と記されています」。

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梁惠王篇 十七章②

燕の一時的な滅亡と、郭隗(かくかい)、楽毅(がくき)の活躍による鮮やかな復興と斉への逆襲は、宮城谷昌光氏の『楽毅』、芝豪氏の『隗より始めよ』に詳しいです。是非お読み下さい。楽毅は稀代の軍略家で、祖国が滅亡するときの孤軍で大国を苦しめ、斉へ攻め入ったときは電光石火で七十余城を落します、三国時代の諸葛亮(孔明)が尊敬してやまない人物でした。

斉が燕へ侵攻したのは、紀元前三一五年ごろといわれます。孟子が斉の宣王の顧問となったのはその三、四年ほど前ですから、斉が燕を攻めることは孟子も認めていたと言わざるを得ません。実際、公孫丑篇十六章(篇を上下に分ける場合は下八章)に、王命を受けた大夫からの「燕を討ってもよいか」という質問に対して、孟子は「よろしい」と答えたと、記されています。

孟子が目指すのは王道政治です。太陽のように暖かい仁政を施すことで、民が為政者を慕うようになり、隣国の民までもが「あの国の民になりたい」と思うようになり、自然と天下を取っていくのが理想です。軍拡強兵策で隣国を攻め取っていくのは覇道として退けていたはずです。なぜ、燕の内戦に乗じて、いわば火事場泥棒的に侵略することに賛同したのでしょうか。

あえて孟子を弁護すれば、内戦で苦しんでいる燕の民を慈悲の心で救ってやり、先王(かい)や王を僭称した宰相に代わって、斉の宣王が仁政を敷くのであればいい、ということだったのでしょう。占領を続けるかどうかの問いについても、この姿勢は一貫しています。斉と燕を、周と商に喩え、文王のときの状態だったら撤退すべきであり、武王のときの状態であったなら併合してもよい、というのが孟子の答えでした。

しかし占領軍によほどの規律がないと、民心をつなぎとめることはできません。戦勝に浮かれていた宣王には、占領軍の様子は分からなかったでしょう。残念ながら斉軍には、敗戦国の民をいたわるような高い倫理規律はなく、略奪の限りを尽くし、燕の国都は酸鼻を極めていたのです。やがて孟子も、こうした占領の状況を知ることになります。それに対する孟子の答えは、次の章で語られます。

吉田松陰は、「燕を取るの難(かた)きに非ず、燕を守るの難きなり。但し、民心を得る者は善(よ)く守るを得るなり」と言っています。大業を興すことができるのは、征服のときではなく、戦いが終わった後の、無事の日々における征服者側の態度によるのです。その政治が、真に民心を考える者であれば、自分は何もいう必要はない。「世の軽佻浮薄(けいちょうふはく)の徒、此の義を思わずして、いたずらに遠略(遠大な計画)に志すは、吾が甚(はなは)だ懼(おそ)るる所なり」は、後の日本を予見しているようです。

これで、「梁惠王篇十七章」を終わります。

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梁惠王篇 十七章①

斉の北隣り、当時の中国全体でいっても最北東に、燕(えん)という国がありました。やはり周王朝の始めから続く国で、斉の宣王の父、威王と同じ頃、公をやめて王と名乗るようになりました(易王)。その子、(かい)のときに、宰相にあやつられ、そればかりか伝説の帝を真似て、その宰相に王位を「禅譲」するという愚行にいたったのです。そのため燕国内は、王を僭称した宰相一派と、先王となった噲の長子一派とが争う内戦状態になりました。国都である(けい:現在の北京)には宰相派がたてこもり、これを太子派が攻めるという構図でした。そこへ太子派の支援を大義名分にした斉軍が燕へ侵攻します。内戦に苦しんでいた燕の民は、無抵抗で斉軍の進撃を許します。斉は、わずか五十日で燕を打ち破ってしまいました。

本章の宣王の問いは、燕の占領政策について、すなわち占領を継続してそのまま併合してしまうのか、あるいは占領軍を引き上げて燕を独立国として復興させるのか、です。

【訓読文】

斉人(せいひと)燕(えん)を伐(う)ちて之(これ)に勝つ。

宣王問いていわく「或るひとは寡人(かじん)に取ることなかれと謂い、或るひとは寡人に取れと謂う。万乗の国を以って万乗の国を伐ちたるに、五旬にして之を挙(あ)ぐ。人力(じんりょく)にては此(ここ)に至らじ。取らざれば必ず天の(わざわい)有らん。之を取りてはいかん」。

孟子対(こた)えていわく「之を取りて燕の民が悦(よろこ)ばば、則(すなわ)ち之を取れ。古(いにしえ)の人に之を行いたる者有り。武王是(こ)れなり。之を取りて燕の民が悦ばざれば、則ち取ることなかれ。古の人に之を行いたる者有り。文王是れなり。万乗の国を以って万乗の国を伐ちたるに、食(たんし)壺漿(こしょう)して、以って王師(おうし)を迎えしは、(あ)に他有らんや。水火を避けんとてなり。水の益々深きが如く、火の益々熱きが如くならんには、亦(また)運(うつ)らんのみ」。

【現代語訳】

斉国が燕国を攻めて、これにうち勝った。

宣王がたずねられた「ある人は『燕国の占領を続けてはなりません』といい、ある人は『燕国を併合してしまいなさい』という。戦車を万台も出せるような大国が同じ大国と戦って、わずか五十日でこれに攻め克った。人の力だけではとてもこれだけのことはできはしまい。(つまり天の意志があったからこそなので)もし併合しないなら、かえって天の咎を受けるかもしれない。燕国を併合してしまってはどうだろうか」。

孟先生がお答えになられた「もし燕国を併合しても燕の民がよろこぶようであれば、併合なさいませ。古人にもその例があります。周の武王がそれです(武王は、商の民心が商を離れていたので、これを倒し周に呑み込んだのです)。もし燕国の占領を続けると燕の民がよろこばないようであれば、併合をおやめなさいませ。古人にもその例があります。周の文王がそれです(文王は、まだ商の民心が商を離れていなかったので、天下の三分の二を領有しながらも、商を討伐しなかったのです)。戦車を万台も出せるような大国が同じ大国に打ち勝ったのに、敗戦国の燕の民が食物を箪(わりご:蓋つきの飯びつ)に詰め、漿(しょう:酸味のある飲み物で、酒の代用)を壺に入れて、王様の軍隊を歓迎したのは、ほかでもありません。水攻め火攻めのような悪政から逃れたいからなのです。ですから、もし斉の占領が続いて、水がますます深くなり、火がますます熱くなるように惨い政治がさらにひどくなったならば、燕の民心は他国へ移ってしまうでしょう」。

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梁惠王篇 十六章

前々章では、人材を登用するにはどのようにすればいいかを論じました。この章では、登用した人材をどのように扱えばいいかを論じています。そこには、自分がこれまで学んできて構想してきた政治思想を思う存分実行させて欲しいという、孟子の思いもあります。

【訓読文】

孟子、斉の宣王に見(まみ)えていわく「巨室(きょしつ)を為(つく)らんとせば、則(すなわ)ち必ず工師(こうし)をして大木を求めしめん。工師が大木を得(う)れば、則ち王は喜びて、能(よ)く其(そ)の任に勝(た)えたりと為(な)し、もし匠人が(き)りて之(これ)を小さくすれば、則ち王は怒りて其の任に勝えずと為さん。夫(そ)れ人幼くして之を学び、壮(そう)にして之を行わんと欲するに、王は、姑(しばら)く女(なんじ)の学びし所を舎(お)きて我に従えといわば、則ち如何(いかん)。今此(ここ)に玉(はくぎょく)有れば、万(ばんいつ)なりと雖(いえど)も、必ず玉人(ぎょくじん)をして之を彫琢(ちょうたく)せしめん。国家を治むるに至りて、則ち姑く女の学びし所を舎きて我に従えといわば、則ち何を以って玉人に玉を彫琢することを教うるに異ならんや」。

【現代語訳】

孟先生が、斉の宣王に謁見していわれた「もし王様が大きな御殿をお建てになろうとされたら、必ず大工の棟梁に(大きな御殿に合う)大木を探させるでしょう。そしてその棟梁が大木を手に入れたなら、よくその任務を果たしたと評価されるでしょう。しかし、配下の大工が大木を切って小さくしてしまったならば、王様は立腹され、その大工が任務を果たせなかったと評価されるでしょう。さて、幼い時から学問に励み、大人になって学んできたことを実行しようと思っている人に、王様がもし『とりあえずお前の学んだことは置いて、わしの言うことに従え』とおっしゃったとしたら、これはせっかく大木を手に入れたのに小さく切ってしまうのと同じことではありませんか。今ここに原石のままの宝玉があるとします。たとえ、その値が一万鎰(銀二十万両=銀七千五百キロ)もするような高価な玉だとしても、必ず玉磨きの専門家にこれを磨かせるでしょう。ところが国家を治めることになると、『とりあえずお前の学んだことは置いて、わしの言うことに従え』とおっしゃるならば、それは(玉磨きの素人である)王様が専門家に磨き方を教えるのと同じことではありませんか」。

孟子には、「君主は、賢者を師とし、その意見を聞き、これに従うべき」という強烈な信念がありました。結果的にはそれが、宣王との関係を次第に悪化させるのです。

これで、「梁惠王篇十六章」を終わります。

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