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2009年10月

梁惠王篇 二十三章④

梁惠王篇は、孟子が魏(梁)の惠王(一章から五章)および王(六章)、斉の宣王(七章から十八章)、(すう)の公(ぼくこう:十九章)、(とう)の文公(二十章から二十二章)、魯の平公(二十三章)との対話を収めたものです。ただし、魯の平公とは会見しておらず、平公と楽正子、孟子と楽正子との対話になっています。おそらく、この順序でこれらの国々を回ったものと思われます。

一章の冒頭は、惠王が「亦(また)将(まさ)にわが国を利すること有らんとするか」と聞いたのに対し、孟子は「王、何ぞ必ずしも利をいわん。ただ仁義あるのみ」と、さらりと答えています。孟子が理想とする王道政治を、戦国の七雄(秦・韓・魏・趙・楚・斉・燕)のいずれかで実施して、それによって天下が統一されていくことをめざしている心意気が感じられます。気力に満ちた孟子の息遣いが聞こえるようです。

それが最後の二十三章になりますと、「吾(われ)の魯侯(ろこう)に遇(あ)わざりしは天なり」と、達観した孟子がいます。もちろん、の文公への「君子は業(ぎょう)を創(はじ)め、統(とう)を垂(た)れ、継ぐべきことを為さんのみ。夫(か)の成功は則ち天なり。君、彼(か)を如何(いかに)せんや。強(つと)めて善を為さんのみ」は、同じく天命に身をゆだねるにしても、決死の覚悟です。為すべきことを為すのみ、とは力強い言葉です。ですから、孟子は達観して無為の境地になったのではなく、あくまでも懸命の有為です。事実、このあと故郷へ戻り、短い晩年を弟子の育成に尽くすことになります。

もとより孟子は、法を厳しくすることで富国強兵策を進めるやり方には反対でした。力による支配は覇道政治とし、斥けていました。ですから「何ぞ必ずしも利をいわん」といい、「ただ仁義あるのみ」と答えたのです。孟子は、仁政を施すことで、人々が親を慕うかのように移り住んで国を富ませ、他国の民が喜んで支配下に入るのを望むようになれば、おのずと天下は統一できると信じていました。力で周りを攻め滅ぼしていく方法もありますが(実際の歴史では、秦がそのようにして統一しました)、けっして長く支配できるものではないと考えていました。

大国の政治顧問としての挫折、とりわけ斉の宣王に期待をかけながら結局たもとを分かれてしまったことは、かえって孟子を先鋭化させました。現実との妥協の余地を取り払い、「王道政治原理主義」とでもいうべき、徹底した仁義思想の深化に突き進ませたのです。

梁惠王篇は政治に関する対話が多かったので、私の解説も歴史的背景や政治思想に偏っていました。次の公孫丑篇は、孟子が斉に来て、去るまでの対話を記録したものですが、人間の内面の分析も述べられています。私も、歴史や政治から倫理へ少し軸足をずらして記述したいと思います。

これで、「梁惠王篇」を終わります。

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梁惠王篇 二十三章③

自分が設定を試みた会見が実現しなかった楽正子(がくせいし)は、孟子のところへ不首尾の顛末を報告します。

【訓読文】

楽正子(がくせいし)孟子に見(まみ)えていわく「克(こく)、君に告げて、君、為(まさ)に来たりて見んとせるも、嬖人(へいじん)の倉(ぞうそう)という者ありて、君を沮(はば)みたり。君は是(こ)の以(ゆえ)に来ることを果たしたまわざりき」

いわく「行くも之(これ)を使(せし)むるものあり。止(とど)まるも之を尼(とど)めるものあり。行くと止まるとは、人の能(よ)くする所に非ず。吾(われ)の魯侯(ろこう)に遇(あ)わざりしは天なり。臧氏の子、焉(いずく)んぞ能く予(われ)をして遇わざらしめんや」。

【現代語訳】

楽正子(がくせいし)が孟子にお目にかかって申し上げた「私が殿様にお勧めして、殿様もここへ来て先生にお会いになろうとされていたのですが、お気に入りの近習で倉(ぞうそう)と申す者が邪魔をしました。殿様はこのために来訪をお取りやめになりました」

孟先生がいわれた「人が行くにしてもその人を行かせるものがあり、止まるにしても止めるものがあるのだ。人が行き、止まるのは、人間の力が及ぶところではない。私が魯侯(ろこう)に会えなかったのは、天命なのだ。倉のごとき者が、なんで私が平公に会うのを阻むことができようか」。

楽正子は、会見が実現できなかったことを大変申し訳なく思っていたにちがいありません。また、あの倉(ぞうそう)さえ邪魔に入らなければ、とさぞかし近習を憎らしく思っていたことでしょう。そんな愛弟子を孟子は諭します。自分が魯の平公と会えなかったのは天命なのだ、と。

吉田松陰もこの章からは、「吾(われ)の魯侯(ろこう)に遇(あ)わざりしは天なり」の一文を選んでいます。講義を以下のように続けます。「これは、孟子がみずから決心して天に誓ったものである。この誓いがあったからこそ、孟子は、時運に恵まれようが恵まれなかろうが、すべてを天に任せて、自分の運不運を顧みなかったのである。ひたすら、道を明らかにし義を正しくし、言うべきことを言い、為すべきことを行うだけであった」と。そのまま松蔭の生き方に重なり、このあと野山獄を出て、松下(まつもと)村で高杉晋作らに教えたのも、このような生き方でした。

明治維新の三年前、高杉晋作は下関でクーデターを起こします。かつで自分が創設した奇兵隊の宿舎へ単身乗り込んで隊員に訴えたのが、「一里行けば一里の忠、二里行けば二里の義をつくすのみ」という有名な文句です。高杉の考えは無謀だと思われ、彼の呼びかけに応じたのはわずか八十余名でしたが、これが倒幕の流れを一気に作ることになりました。まさに高杉は天命に任せ、天が時代の流れを作ったのです。松蔭は高杉に「死んで永遠に価値があると信じるなら、いつ死んでもよい。また生きて大きな仕事ができるという見通しがあれば、いつまでも生きたらよいのである。つまり僕のみるところでは、人間というものは、生死を考えず、要するにしなければならないことをやりとげる心がまえがたいせつなのだ」と語っていたといいます。

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梁惠王篇 二十三章②

お気に入りの家来が孟子を批判するの聞いて、魯(ろ)の平公は孟子と会うのをやめます。そこへ、孟子の愛弟子で、当時魯に仕えていた(おそらく宰相であった)楽正子(がくせいし:楽正が姓で、名は克)がやってきて、平公に翻意を促します。

【訓読文】

楽正子(がくせいし)入りて見(まみ)えていわく「君、奚為(なんす)れぞ孟軻(もうか)に見(み)たまわざるや」

いわく「或るひと寡人に告げていわく『孟子の後(のち)の喪は前(さき)の喪に(こ)えたり』と。是(こ)の以(ゆえ)に往(い)きて見ざるなり」。

いわく「何ぞや、君の所謂(いわゆる)えたりとは。前には士を以(もち)いて、後には大夫(たいふ)を以い、前には三鼎(さんてい)を以いて、後には五鼎(ごてい)を以いたればか」。

いわく「否(いな)。棺槨(かんかく)衣衾(いきん)の美を請(い)うなり」。

いわく「所謂えたるには非(あら)ざるなり。貧富の同じからざればなり」。

【現代語訳】

楽正子(がくせいし)が、御殿に入ってきて、平公に謁見していった「殿様、どうして孟軻(もうか:楽正子は孟子の弟子であり、いわば身内なので、主人である平公に対して孟子の本名でいっている)とお会いにならないのですか」。

公がいわれた「私に、『孟子は母の葬式をその前に行った父の葬式よりも越えてりっぱなものにしました(そのような礼儀を知らぬ者とお会いになってはなりませぬ)』と告げた者がいる。だから、孟子のところへ出かけて会うのをやめたのだ」。

楽正子がいった「殿様がおっしゃる『越えた』というのはどういうことでしょうか。前(の父のとき)には士の礼で葬儀を行い、後(の継母のとき)には大夫(たいふ)の礼で行ったからでしょうか。あるいは前には三つの鼎(かなえ)を用いたのに対し、後のは五つの鼎を用いたからでしょうか」。

公がいった「いや違う。葬式に用いた棺桶や外棺(そとばこ)、死者に着せる衣服や衾(ふすま)が、前よりもりっぱすぎるのをいったのだ」。

楽正子がいった「それならば越えたことにはなりません。前には貧しく、後には裕福であったからなのです」。

楽正子については、告子篇三十三章にその人となりが描かれています。魯(ろ)から宰相にとスカウトが来たとき、孟子は大変喜びました。嬉しくて夜も眠れないほどであったといいます。別の弟子である公孫丑(こうそんちゅう)が、孟子がそれほど喜んでいるのは楽正子が剛毅だからか、思慮深いからか、博識だからかと聞くと、孟子はいずれも違うと答えます。孟子は、楽正子が「善を好む」人だから嬉しいのでした。

平公の家来ある倉(ぞうそう)は、孟子の継母の葬儀が父の葬儀より豪華だったことをとらえ、孟子が礼儀を知らない人間と決め付けています。彼は物事の表面だけを見て、実質を見ていません。親の葬儀は心を尽くすのが一番の礼儀です。父のときには身分も高くなく資産もなかったので、それなりの葬儀しかできませんでした。父の葬儀がりっぱにできなかったからといって、大国の政治顧問になり裕福になったにもかかわらず、継母の葬儀を質素に行っていれば、今度は母に対する孝はどうなるのでしょうか。たしかに継母のときには少々華美が過ぎたのかもしれません。しかしだからといって「礼を知らない」ことにはならないでしょう。

楽正子はこのように反論して、なんとか平公に孟子と会ってもらおうとしましたが、結局会見は実現しませんでした。

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梁惠王篇 二十三章①

(とう)の文公のもとで政治顧問をしていた孟子は、二年ほどして職を辞します。故郷の(すう)へ戻る途中に、孔子のふるさと魯(ろ)へ立ち寄り、その君主平公に会おうとします。

【訓読文】

魯(ろ)の平公、将(まさ)に出(い)でんとす。人(へいじん)の倉(ぞうそう)という者、請(と)いていわく「他日、君の出(い)づるときは則(すなわ)ち必ず有司(ゆうし)に之(ゆ)く所を命(つ)げたまえり。今、乗輿(じょうよ)已(すで)に(か)けるに、有司は未だ之く所を知らず。敢(あえ)て請(と)う」。

公いわく「将に孟子に見(あ)わんとするなり」。

いわく「何ぞや、君が身を軽(かるがる)しくして匹夫に先んじることを為したまう所の者は。賢なりと以為(おも)いたまえるか。礼儀は賢者より出ず。而(しかる)に、孟子の後の喪は前の喪に(こ)えたり。君よ見(あ)うことなかれ」。

公いわく「諾(よし)」と。

【現代語訳】

(ろ)の平公がお出かけになろうとした。そこへ、お気に入りの家来である倉(ぞうそう)という者がたずねた。「いつも殿様がお出かけなさるときには必ず役人に行き先を告げられますが、今日は、もう馬をお乗りになる車につねげておりますのに、役人はまだ行き先を知らされておりません。僭越ながらお尋ねしますが、どちらへ行かれるのでしょうか」。

公がいわれた「孟先生に会いに行こうとしている」。

倉がいった「何ということ。殿様が御(おん)身を軽々しくされて、たかが一平民のためにこちらから出向こうとされるとは。まさか孟子のことを賢者であるとお思いではありますまいな。礼儀というものは賢者から出るものです。しかるに孟子は、母の葬式をその前に行った父の葬式よりもりっぱなものにしました。殿様、このような礼儀を知らぬ者とお会いになってはなりませぬ」。

公がいった「わかった」。

孟子は三歳のときに父をなくしたといわれています。そして「孟母三遷」や「孟母断機」で知られる厳しい母によって学問を究める人物に育てられたとされます。しかしもし三歳で父をなくしているのであれば、その葬儀を孟子が行うことはありません。おそらくは、孟子がまだ諸国遊説に出る前の、役人としてもそれほど位の高くないときに、父親が亡くなったのではないでしょうか。家柄も大きな資産を持つほどのものではなく、孟子の当時の職階に見合う程度の葬儀しかあげられなかったと思われます。

一方、りっぱな葬儀をとりおこなったのは、継母が亡くなったときでした。このとき孟子は大国斉(せい)の政治顧問になっていましたので、その高い身分にふさわしい葬儀になったのでしょう。しかし男尊的な考え方では、母の葬儀を父のそれより豪華にするのは、礼を失すると考えられます。魯(ろ)の平公の家来である倉(ぞうそう)は、そこを批判したのです。

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梁惠王篇 二十二章②

日本の歴史上、軍事的圧迫を受けた際に、為政者ととともに民も一緒に他の地域に逃れたという例は、私の知る限り、皆無です。中国史上でも、多いわけではありません。土地を「人を養う所以のもの」とする民にとって、干ばつ・洪水によって飢饉にならないかぎり、生まれた地を離れることはなかったのでしょう。アジア系といわれるフン族が東から圧迫したために、それに押されてローマ帝国領内へ侵入したゲルマン民族は、各部族の族長から民にいたるまでみな移動していますが、狩猟民族だったからともいえます。

ですから吉田松陰が、岐山の故事は大王だからこそ成功した策であると言い切るのも理解できます。君主は、民のことを一番に考え、内においては善政を敷き、外に対しては独立の気概を示すことです。そして最終的に死を覚悟して戦う場合も、民を強制的に巻き込んではなりません。

ちなみに岐阜県の県名も、この岐山に由来しています。「阜」は土でできている小山、つまり丘のことです。美濃(岐阜県の南側)を支配していた斎藤氏を滅ぼし、天下統一への足がかりを得た織田信長は、斎藤氏の居城稲葉山城のふもとに城下町を作ります。その地は当時「井口(いのくち)」と呼ばれていましたが、これを漢語風に改めたいと思い、禅僧から出された三案「岐山・岐陽・岐阜」の中から岐阜を選んだといわれています。「陽」も、日が当たる側、という意味で、山の南側や川・湖の北側を指します。大王が岐山へ遷都し、そこを本拠地にした周が、やがて商(殷)を倒して天下統一を果たしたことに、信長は自分の目標を重ねたのです。

梁惠王(りょうけいおう)篇における(とう)の文公との対話は、二十章から本章までの三章だけですが、孟子の政策を実行に移した唯一の例が滕でした。梁惠王篇では、孟子が文公へ覚悟を迫るところで終わっていますが、公孫丑(こうそんちゅう)篇を経て、文公篇の十五章のうち前半の五章で、孟子の政策が詳しく述べられています。

これで、「梁惠王篇二十二章」を終わります。

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梁惠王篇 二十二章①

本章は、前章で出てきた大王(周王朝の始祖武王の曽祖父である古公父のこと)の遷都の話がふたたび取り上げられ、今回は大王に従った民の気持ちについても述べられています。

【訓読文】

(とう)の文公問いていわく「滕は小国なり。力を竭(つく)して以って大国に事(つか)うるとも、則(すなわ)ち免るるを得ざらん。如之何(いかにせば)則ち可ならん」。

孟子対(こた)えていわく「昔者(むかし)、大王が(ひん)に居りしとき、人(てきじん)、之(これ)を侵(おか)せり。之に事うるに皮幣(ひへい)を以ってするも免るるを得ず。之に事うるに犬馬を以ってするも免るるを得ず。之に事うるに珠玉を以ってするも免るるを得ず。乃(すなわ)ち其(そ)の耆老(きろう)を属(あつ)めて之に告げていわく『狄人の欲する所のものは吾(わ)が土地なり。吾(われ)之を聞けり。君子は其の人を養う所以(ゆえん)のものを以って人を害(そこな)わずと。二三子(にさんし)よ、何ぞ君無きを患(うれ)えん。我将(まさ)に去らんとす』とて邠を去り、梁山(りょうざん)を(こ)えて、岐山(きざん)の下(ふもと)に邑(まちづくり)して居れり。邠の人は『仁人(じんじん)なり。失うべからず』といいて、之に従う者、市(いち)に帰(おもむ)くが如きなりき。或るひといわく『世(よよ)の守りなり。身の能(よ)く為すべき所に非ず。死を効(いた)すとも去ること勿(なか)れ』と。君よ請う、斯(こ)の二者より択(えら)べ」。

【現代語訳】

(とう)の文公がたずねられた。「滕は小国です。力を尽くして大国に従っても、彼らの侵略から免れそうにありません。どうしたらよいのでしょうか」。

孟先生がお答えになられた「むかし、大王(=古公父)が(ひん)を領地にされておられたとき、北方の蛮族に攻め込んできました。大王は毛皮や絹を贈りましたが、侵略をやめません。犬や馬を贈りましたが、侵略をやめません。宝玉を贈っても、やはり侵略をやめません。そこで大王は邠の長老たちを集めていわれました『蛮族が欲しがっているのはこの土地である。私はこう聞いている。君子は人が生きていくための手段である土地を争って、人そのものを犠牲にはしないものだ、と。諸君は君主がいなくなっても心配することはない。私はここを出て行こうと思う』といってを邠を退去して、梁山(りょうざん)を越えて、岐山(きざん)のふもとに新しいまちを造られました。邠の人は『大王のような慈しみぶかい君主はほかにいない。この方を失ってはならない』といって、まるで市場へ向かうようにぞろぞろと大王に従ってついて行ったそうです。これが一つの道だとすると、もうひとつ別の道があります。ある人がこういっています『土地は代々受け継ぎ、守ってきたもの。死んでも自分の土地を去ってはならない』と。殿様、このふたつのうちどちらかをお選びください」。

吉田松陰は、ふたつの選択肢のうち、孟子の本心は後者(死を覚悟して土地に立て籠もる道)だといいます。他国から侵略される危機にある土地を棄てて、新しい場所を本拠とし、やがてそれが天下統一の大業へ発展していくのは、大王(およびその孫・曾孫である文王・武王)だからこそできたのであり、めったにできることではありません。むしろわれわれは、目の前の小さな結果にとらわれれず、義(ただ)しい道を貫き通すという志を失ってはならない、というのが松蔭の考えです。

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梁惠王篇 二十一章

食客数千人といわれる孟君は、本名を田文(でんぶん)と言います。父は、斉の宣王の異母弟(すなわち威王の子)田嬰(でんえい)です。孟子が(とう)の文公の顧問になった頃(紀元前三〇七年)は、すでに田嬰は宣王より薛(せつ)の地を与えられ、その領主になっていましたが、もともとは独立した小国でした。薛は、現在の山東省滕州にあり、その地名からも滕と薛とが隣り合わせであったことが分かります。

【訓読文】

(とう)の文公問いていわく「斉人(せいひと)、将(まさ)に薛(せつ)に築かんとす。吾(われ)甚(はなは)だ恐る。如之何(いかにせば)則(すなわ)ち可ならん」。

孟子対(こた)えていわく「昔者(むかし)、大王は(ひん)に居り、人(てきじん)の之(これ)を侵(おか)せしとき、去りて岐山(きざん)の下(ふもと)に之(ゆ)きて居れり。択(えら)びて之(これ)を取りしに非ず。已むを得ざりしなり。(いやし)くも善を為(な)さば、後世の子孫に必ず王者有らん。君子は業(ぎょう)を創(はじ)め、統(とう)を垂(た)れ、継ぐべきことを為さんのみ。夫(か)の成功は則ち天なり。君、彼(か)を如何(いかに)せんや。強(つと)めて善を為さんのみ」。

【現代語訳】

(とう)の文公がたずねられた。「斉(せい)は薛(せつ)に城を築こうとしています。私は心配でなりません。どうしたらよいのでしょうか」。

孟先生がお答えになられた「むかし、大王(周王朝の始祖武王の曽祖父である古公父のこと)が(ひん)を領地にされていましたが、北方の蛮族に攻め込まれたので、邠を退去して岐山(きざん)のふもとへゆき、そこを新しい領地とされました。岐山のふもとを選んで取ろうとしたのではありません。やむをえず遷ったのです。ですから、もし殿様が大王のように善行を積まれたなら、後世の子孫に必ずや王者が出てくるでしょう。君子は、事業を起こし、受け継がれていく系統のいとぐちを作って、子孫に受け継がれるようにすればよいのです。成功するかどうかは天が決めることです。斉に対してどう対処しようというのですか(何もできません)。ひたすら善政に努めることです」。

斉(せい)が城を築こうとしたといいますから、南の大国楚(そ)に対する橋頭堡としての城市だったのかもしれません。たとえ矛先は楚に向けられていても、小国(とう)にとっては脅威でした。

趣旨は前章と同じですが、先では「吾(われ)の能(よ)く及ぶ所にあらず(私の能力が及ぶところではありません)」と答えていたのに対し、「夫(か)の成功は則ち天なり」と正面をきっています。目下の苦難は、もはやいかなる奇策も用を成さないのです。

もちろん、斉に併呑されてしまうというのもひとつの処し方です。その場合、文公は追放され、斉の王族が支配者となるでしょう。民がどういう扱いを受けるか分かりません。もしそれを潔(いさぎよ)しとしないのであれば、私利や策謀を考えずに、君主はひたすら民のことを考えて善政を敷くしかない。その上で、あとは天の差配を待つのみ、というのが孟子の主張です。

吉田松陰にとっては、小国の方が、幕末の日本が置かれた立場と重なったのでしょう。第二十章では、彼の講義も大変熱がこもっており、聴講者である野山獄の囚人たちは皆、扼腕切歯したと、桂小五郎に書き送っています(近藤啓吾氏による注)。

本章でも、「業(ぎょう)を創(はじ)め、統(とう)を垂(た)れ、継ぐべきことを為さんのみ」を「最も心を付くべし」といい、「君、彼(か)を如何(いかに)せんや」を「亦(また)深思(しんし)すべし」といって、よくよく孟子の言葉をかみ締めることを求めています。結びの松蔭の言葉「自分を強くするための努力をしないで、相手が弱くなることを願うのが、今の人の考えだ、悲しいかな、悲しいかな」は、われわれにも響きます。

これで、「梁惠王篇二十一章」を終わります。

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梁惠王篇 二十章

故郷の(すう)国にいた孟子は、隣の小国(とう)の文公の招きを受けます。当時、「戦国の七雄」の一角である斉(さい)と楚(そ)の間に、宋(そう)、魯(ろ)、鄒、滕の四ヵ国がありました(田嬰(でんえい)の領地であった薛(せつ)は、斉王に封ぜられたものです)。ちなみに魯は孔子の生国です。四ヵ国の中でも、滕はもっとも小さな国でしたので、つねに斉・楚どちらかに併呑される恐れがありました。これを避けるには、どちらかに付いて守ってもらうしかない、というのが滕を治めていた文公の悩みでした。

【訓読文】

(とう)の文公問いていわく「滕は小国にして、斉と楚に間(はさ)まる。斉に事(つか)えんか、楚に事えんか」。

孟子対(こた)えていわく「是(こ)の謀(はかりごと)は吾(われ)の能(よ)く及ぶ所にあらず。已(や)むなくんば一(いつ)有り。斯(こ)の池を(うが)ち、斯の城を築きて、民と与(とも)に之(これ)を守り、死を効(いた)しても民は去らざれば、則(すなわ)ち是(こ)れ為すべきなり」。

【現代語訳】

(とう)の文公がたずねられた。「は小国で、斉(せい)と楚(そ)という大国にはさまれています。斉についたらいいのでしょうか、楚についたらいいのでしょうか」。

孟先生がお答えになられた「ご質問の外交政策については、私の能力が及ぶところではありません。どうしてもということでしたら、ひとつの方策があります。このお城の堀を深くし、この城壁を高くし、人民とともに城に籠もり、人民が殿様のために命を投げ出しても城から逃げ出すようなことがなければ、国を守ることができるでしょう」。

孟子の答えのところにある「効」は「いたす」と読み、与える、授ける、といった意味になります。

君主の(おくりな)を見れば、どれくらい有能な君主であったかが分かります。孟子が顧問となった(とう)の君主は「文公」と追(ついし)されたのですから、名君だったにちがいありません。この文公の問いに対し、「私の能力が及ぶところではない」という孟子の答えはあまりにそっけなく見えます。しかし孟子の真意は、「私が助言したからといって、殿様に決死の覚悟がなければ何の役にも立ちません」ということだったのでしょう。吉田松陰の解釈に、私も同意します。決して、非現実的な方策を説いてその場をとりつくろったわけではありません。

孟子が真に説きたいのは王道政治です。文公が名君であることを見抜いた孟子は、斉の宣王で果たせなかった思いをこの君主にかけたいと考えたでしょう。しかし小国の滕がこれを実践するには、相当の覚悟が必要です。だからこそ、ここで君臣一体となって決死の籠城をするくらいの覚悟を決めてください、と言いたかったのではないでしょうか。こののち孟子は文公に対して農地政策・租税政策を勧め、文公もそれを実行に移していくことになりますが、本章は、文公に孟子の献策を聞くに当たっての態度を迫った導入部になります。

これで、「梁惠王篇二十章」を終わります。

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梁惠王篇 十九章②

古代中国では、行政と軍事は一体化しており、知識人=行政官=指揮官といえます。すると日ごろの行政のあり方、行政官と領民の関係が、そのまま戦争における指揮官と兵卒の関係に反映しました。虐政であれば領民は怨みます。怨んだまま戦争に出れば、士気は上がるはずがありません。自分の指揮官が窮地に陥ろうと平気であり、むしる敵の手を借りて怨念を晴らすくらいにしか思っていないでしょう。行政官でもある指揮官たちが見殺しにされたのには、行政における背景があるのです。

孟子は故国(すう)の大敗と、指揮官と兵卒の戦死者数の違いを聞いて、即座に背景を見抜いたのでしょう。公(ぼくこう)に対する答えは、自業自得だといわんばかりです。民に憤る前に、自省すべきことはないか。「戒めよ、戒めよ」は公に向けられた言葉です。仁政を施せば、民はきっと応えてくるのだ、と。秦(しん)国が、強大化を突き進めるために取り入れている法家思想のように、人々の暮らしを規律で縛り上げるのは、王道政治を理想とする孟子からすれば、誤ったやり方です。短期的には強兵に成功するかもしれませんが、長続きするものではありません。

しかし、故国でも孟子の手法が実際の政治に取り入れられることはありませんでした。

吉田松陰は、鬨(こう)の字について、朱子(十二世紀後半に儒教の体系化を図った思想家)の解釈をとります。鬨は、「戦う」のほかに、「多くの人がいっせいに声を出して騒ぐ」の意味もあります。鄒は「鬨(とき)」の声で壊走した、という解釈です。すると、鄒の兵卒が指揮官を置き去りにして逃げてしまったところに、魯の兵が鄒の将校の多くを討ち取ったことになります。鄒は力で負けたのではなく、指揮官と兵卒の心がひとつになっていなかったために自壊したのだといいます。上の者が下の者を慈しんであれば、下の者は上の者に親しみを感じ、上の者を死なせてなるものかという気概が起きます。このようにして士気がまとまっていることが一番重要なのであり、訓練や道具は枝葉にすぎないといいます。少し精神論に過ぎるきらいはありますが、上下の信頼関係が肝要であることは、軍事でも行政でもビジネスでも変わるところはありません。

これで、「梁惠王篇十九章」を終わります。

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梁惠王篇 十九章①

斉(せい)の宣王のもとを去った孟子は、隣の宋国や、宣王の異母弟である田嬰(孟君:もうしょうくんの父)の領地(せつ)へ立ち寄りながら、四年ほどかけて故郷の(すう)国へ帰ります。

【訓読文】

(すう)と魯(ろ)と(たたか)う。公(ぼくこう)問いていわく「吾(わ)が有司(ゆうし)の死せる者は三十三人なるに、民は之(これ)に死せるものなし。之を(ちゅう)せんとすれば則(すなわ)ち勝(あげ)て誅すべからず。誅せずんば則ち其(そ)の長上の死を疾視(しっし)して救わざらん。如之何(いかに)せば則ち可(か)ならん」。

孟子対(こた)えていわく「凶年歳(きさい)のとき、君の民は、老弱は溝(こうがく)に転び、壮者は散じて四方へ之(ゆ)く者、幾千なりき。しかるに君の倉(そうりん)は実(み)ち、府庫(ふこ)も充(み)ちながら、有司は以って告ぐることなし。是(これ)上(かみ)慢(おこた)りて下(しも)を残(そこな)えるなり。曽子にいう『戒(いまし)めよ戒めよ、(なんじ)より出(いず)るものはに反(かえ)るものなれば』と。夫(か)の民は、今にして後、之(これ)を反(かえ)すことを得たり。君よ、(とがむ)ることなかれ。君が仁政を行わば、斯(すなわ)ち民は其の上(かみ)に親しみて、其の長のために死せん」。

【現代語訳】

(すう)国と魯(ろ)国とが戦って、鄒国が大敗した鄒の穆公(ぼくこう)がお尋ねになった。「この戦いで、(戦争のときは隊長となる)役人は三十三人も戦死したのに、(兵卒である)人民は隊長のために死んだ者がいない。隊長を見殺しにした人民たちを罰して処刑しようと思うのだが、全員を殺すのは(数が多すぎて)できない。かといって処刑しなければ、これからも、上司が死ぬのを憎らしげににらんだままで助けようとしないだろう。どうすればよいであろうか」。

孟先生がお答えになられた「飢饉の年には、殿様の人民のうち、年寄りや子供は飢えて溝や堀に落ちて死んでしまい、若者は食を求めて四方へ散り散りになるものが何千人といました。ところが殿様の米倉には穀物がいっぱいで、金庫には金銭がいっぱいなのに、役人たちはこれを殿様に申し上げて、人民を助けようとしませんでした。これは、上に立つ役人が怠慢で、下じもの人民を見殺しにしてしまったといえます。曽先生もこういっています『戒(いまし)めなさい。自分が行ったことは、必ず自分に返ってきます』。人民たちは、ようやく今(魯との戦いで)、役人たちに報復することができたのです。ですから殿様、お咎(とが)めになってはなりません。殿様が仁政を行えば、人民も役人たちに親しみを持ち、隊長のために死ぬようにさえなるでしょう」。

曽子からの引用は出典が不明です。曽子(曽参:そうしん)は、孔子晩年の弟子で、孔子の孫である子思を教えています。孟子は子思の弟子に教わったと伝えられていますから、思想の系譜としては、孔子-曽子-子思-子思の弟子-孟子、となります。曽子は親孝行でも有名だった人です。「論語」でも冒頭に近い学而篇四に登場します。「曽子いわく、吾日に吾が身を三省す。人の為に謀(はか)りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝えしか、と」。「戒(いまし)めよ、戒めよ」と言った曽子は、自分にはもっと厳しかったのです。

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