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2009年12月

公孫丑篇 一章②

斉(せい)の国に生まれた公孫丑(こうそんちゅう)にとって、管仲(かんちゅう)と晏嬰(あんえい、晏子はその敬称)は斉が誇る歴史上の名宰相です。しかし孟子はそれを「君は本当に斉の人なんだな。だから人物と言えば、管仲と子しか知らんのだ」と言って切り捨てます。仁義(慈しみの心と正しい行動基準)による王道政治を理想とする孟子にとっては、周王朝の基礎を築いた文王・武王・周公は手本になりえても、富国強兵によって覇を唱えた桓公(かんこう)を支えた管仲と比べられても嬉しくはありません。

【訓読文】

「或るひと曽西(そうせい)に問いていわく『吾子(ごし)と子路(しろ)とは(いず)れか賢(まさ)れるや』と。曽西、蹴然(しゅくぜん、蹴は、足が就の下に来る字)として、『吾(わ)が先子(せんし)の畏れたまいし所なり』といえり。『然(しか)らば吾子と管仲(かんちゅう)とは孰れか賢れるや』といえば、曽西、艴然(ぼつぜん)として悦(よろこ)ばずしていわく『爾(なんじ)何ぞ曽(すなわ)ち予(われ)を管仲に比(くら)ぶるや。管仲は、君を得ること彼(か)の如く其(そ)れ専(もっぱ)らにして、国政を行うこと彼の如く其れ久しかりしも、功烈(こうれつ)は彼の如く其れ卑(いや)しかりき。爾何ぞ曽ち予を是(これ)に比ぶるや』と。日(すなわ)ち、管仲は曽西の為さざりし所なり。而(しか)るに、子(し)は我が為(ため)に之(これ)を願うか」と。

【現代語訳】

「ある人が曽西(そうせい)に『君と子路(しろ)はどちらがまさっているのでしょうね』と尋ねた。曽西は慎み深くして『子路は、私の父である曽参(そうしん)でさえ畏敬していたほどの人物です。(どうして私なんぞが比べられましょうか)』と答えた。『それでは、あなたと管仲ではどちらがまさっているのでしょうか』と尋ねると、曽西はむっとして不機嫌になり、『君はまたどうして私を管仲ごときと比べるのか。管仲は、君主の信任を得ることをあれほどまでに独占し、国政を行うことがあれほどまでに長かったのに、その功績たるやあれほどまでにつまらないものであった。君はどうして私をそんな管仲と比べようとするのか』と言った。つまり、管仲は曽西が人物とはみなさなかったのだ。それなのに君は私を管仲のようになって欲しいというのか」。

曽西(そうせい)の父曽参(そうしん)は孔子の高弟のひとりで、曽参の門人からは曽子と呼ばれています。孔子の孫である子思(しし)は曽参の弟子で、子思の孫弟子のひとりが孟子になります。したがって孟子は、孔子門下の中では、思想的に曽参に列なっています。その曽参は親孝行としても知られます。また「曽参、人を殺す」ということわざにもなっています。これは、次のような故事からきたものです。曽参の一族が人を殺しました。ある者が誤って、「曽参が人を殺した」と曽参の母へ言います。しかし母は孝行者の曽参を信じてますから、そんな話は信じません。また別の者が同じことを言いますが、母は平然と機(はた)を織っています。ところがさらに別の者が同じことを言うと、さすがの母も機を捨てて、垣根をこえて走り出したそうです。信じがたい嘘も、何度も言われると信じてしまう、という意味です。

吾子(ごし)とは、友人を親しんでいう二人称です。曽西と「或る人」とは親しい友人だったことが分かります。

子路(しろ)は、本名を仲由(姓がちゅう、名がゆう)といい、子路は字(あざな)です。彼も孔子の高弟のひとりで、『論語』に最も多く登場する弟子です。武勇に優れ、後に衛(えい)という小国の要職に就きますが、反乱に巻き込まれて命を落します。孔子は、子路の実直な人柄を愛しました。中島敦の『弟子』は、子路を扱った小説です。

曽西が管仲の功績を「彼(か)の如く其(そ)れ卑(いや)しかりき」と断じているのは、管仲が行ったのが覇道政治だったからです。

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公孫丑篇 一章①

「梁惠王(りょうのけいおう)篇」を書き終えて、二箇月が経ってしまいました

二つめの篇は「公孫丑(こうそんちゅう)篇」といいます。公孫丑は、孟子の弟子の名前です。彼は、斉(せい)の国の人です。公孫丑篇は、孟子が斉へ入ってから、宣王の政治顧問となり、やがて斉を出て行くまでのことが書かれています。時期を斉の滞在期間に絞っているため、梁惠王篇より詳しい内容になっていますし、人間の内面への考察も入っています。

それでは早速、第一章の初めの部分を読んでみましょう。

【訓読文】

公孫丑(こうそんちゅう)問いていわく「夫子(ふうし)、もし斉(せい)に路(みち)に当たらば、管仲(かんちゅう)・子(あんし)の功(いさしお)、復(ふたたび)許(き)すべきか。

孟子いわく「子(し)は誠に斉の人なり。管仲・子を知れるのみ」。

【現代語訳】

公孫丑(こうそんちゅう)がたずねた。「先生がもし斉の国の政治の要職につかれたら、あの管仲(かんちゅう)・子(あんし)のような功績が期待できますでしょうか」。

孟先生が答えられた。「君は本当に斉の人なんだな。だから人物と言えば、管仲と子しか知らんのだ」。

管仲は紀元前七世紀前半の政治家で、斉の君主桓公(かんこう)の宰相として、桓公が最初の「春秋の覇者」となるのに貢献しました。子は紀元前六世紀後半の政治家で、斉の三代の君主に仕えましたが、最後の景公(けいこう)のときに斉を大いに盛り立てました。身長は六尺(一三五センチ)に満たなかったと言われていますが、春秋時代のなかでも傑出した名宰相として、人気と尊敬を集めています。

公孫丑は斉の国の人ですから、自分の先生である孟子が斉の要職に就いたならば、必ずや管仲や子のように国の威信を高めてくれるに違いないと思ったのです。夫子とは、先生や年長者に対する尊称です。孔子の弟子が言えば孔子を指し、孟子の弟子が言えば孟子を指します。

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