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2010年1月

公孫丑篇 一章⑧

この章は、儒家の王道原理主義的要素を感じさせます。曽西(そうせい)が子路と比べられると恐縮し、管仲と比べられると怒り出すという態度の変化は、その典型です。たしかに管仲は身分をわきまえないところがありましたから、非難されてもしかないかもしれません。とりわけ、桓公と管仲が亡くなった後の斉(せい)の国の混乱を考えると、彼らに原因の一端があったと言わざるを得ません。子は、主君に遠慮することなく諫言を繰り返していましたが、私心はなく、むしろ高潔であったことが、後世の人からの人気につながっています。管仲と一緒にされるのは可哀想なくらいです。

ただ、孟子が「今の斉なら天下がとれる」というのは、決して妄信でもハッタリでもありませんでした。彼は本気で、王道政治による天下統一を考えていました。当時、西の大国秦(しん)は、厳しい法律で人民を縛ることで富国強兵化し、隣国を攻めながら領土を拡大していくという覇道政治を突き進んでいました。これに対し孟子は、正反対の路線で天下を敬服させることができると考えます。秦の民が苦しみ、その秦によって他国が苦しんでいるからこそ、王道政治が生かせるチャンスであると計算したのです。大国であり、慈悲の心もある宣王(せんおう)が治める斉だからこそできる、と思ったのです。

公孫丑の首章は、斉の政治顧問を始めるに当たっての、孟子の所信表明と言えます。

これで、「公孫丑篇一章」を終わります。

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公孫丑篇 一章⑦

吉田松陰は、この章から学ぶべき点として二つのことをあげています。

ひとつは『大学』にいう格物、到知、誠意、正心、修身、斉家、治国、平天下の順序を正しく実践しなければならないことです。『大学』には、次のように書かれています。

「古(いにしえ)の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ずその国を治む。

 その国を治めんと欲する者は、先ずその家を斉(ととの)う。

 その家を斉えんと欲する者は、先ずその身を修む。

 その身を修めんと欲する者は、先ずその心を正す。

 その心を正さんと欲する者は、先ずその意を誠(まこと)にす。

 その意を誠にせんと欲する者は、先ずその知を致す。

 知を致すは、物に格(いた)るに在り(知に致るは、物を格(ただ)すに在り)。

 物格りて后(のち)に知至る(物格して后に知至る)。

 知至りて后に意誠なり。

 意誠にして后に心正し。

 心正しくして后に身修まる。

 身修まりて后に家斉う。

 家斉いて后に国治まる。

 国治まりて后に天下平らかなり」。

明徳とは天から授けられた徳性で、具体的には、仁、義、礼、智、信の五つです。上の言葉は、世の中に徳を広めていくための段階を語っています。物事の原理が究(きわ)められてはじめて正しい知識が得られます(あるいは、自己の心を事象を正してはじめて自己の生来の良知を発揮することができる、という解釈もあります)。正しい知識を窮めてはじめて自分の意思に誠実になることができます。自分の意思に誠実になることができてはじめて自分の心を正しくすることができます。自分の心を正しくしてはじめて自らの心がけや行いを正しくすることができます。自らの心がけや行いを正しくしてはじめて家族をよくまとめることができます。家族をよくまとめることができてはじめて一国をよく治めることができます。一国をよく治めることができてはじめて天下を平和に保ち人々を幸福にすることができます。

松蔭はこの順序が大切とし、斉(せい)の桓公(かんこう)とその宰相管仲(かんちゅう)は、たしかに斉を周王に代わって天下に号令をかけるだけの覇権国にしたかもしれません。しかし桓公はその家をよくまとめることができませんでした。そのため桓公亡き後、五人の公子が跡目を争い、桓公の亡骸を埋葬することすらできなかったといいます。管仲も臣下としての分をわきまえず、まるで諸侯のようなふるまいをしていました。心がけや行いが正しいとは言えません。つまり桓公や管仲は、斉家(せいか)や修身ができていなかったのです。そこが抜けていながら、治国、平天下を行おうとしたのですから長続きしませんでした。桓公、管仲が亡くなった後十年ほどで、春秋の覇権は晋の文公にとって代わられ、斉は内乱に明け暮れることになります。

松蔭は、日本の例で豊臣秀吉を挙げます。秀吉も斉家ができなかったために、彼の死後、豊臣家が滅亡したのです。一方、松蔭の主君である毛利家は、毛利元就より家をよくととのえ、まとめてきたために、代々大藩として続いてきたと言います。『大学』で述べられている順序の大切さを、「公孫丑一章」の解説の中で強調しています。

松蔭が学ぶべき点とあげたもうひとつは、暴虐をきわめた紂王(ちゅうおう)が出ても、商(殷)に故家(こか)・遺俗(いぞく)・流風(りゅうふう)・善政の四つがあったために、すぐには滅びなかったことです。一国がよく治まり(治国)、それが何代も続くのは、領土が大きいからでも人口が多いからでもなく、譜代の家臣、善い風俗、代々伝わる教化、りっぱな政治の四者の力によるのです。そこで松蔭は、自分の家の祖先の業績、主君の家の祖先の事業、家老以下勲功のあった家の伝記を調べ、長州藩古来の制度や風俗などを研究して、すでに忘れられたことまでも顕在化させて、古来の善き制度・風俗・伝統を保存できるようにしたい、と壮大な夢を語っています。この章を読んでますます奮発した、願わくは諸君(野山獄で松蔭が講義している囚人仲間)と大いに相談したい、と言っています。松蔭自身も囚人であり、獄から出される保証はどこにもないのです。それでもこうした思いを馳せるのが、どこまでも明るく前向きな松蔭らしいところです。

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公孫丑篇 一章⑥

周の文王は小国から出発した上に、商(殷)には歴代王の遺徳があり、暴君王(ちゅうおう)を補佐する王族・賢臣もいたために、文王は商(殷)の王(ちゅうおう)の臣下で生涯を終え、新たな王朝の樹立は次代によって成し遂げられました。大国斉(せい)にはそのハンディキャップはない、と孟子は言い切ります。

【訓読文】

「且(かつ)王者の作(おこ)らざること、未(いま)だ此(こ)の時より疏(ひさ)しきことは有らず、民の虐政に憔悴せること、未だ此の時より甚だしきことは有らず。飢えたる者は食を為し易(やす)く、渇きたる者は飲を為し易し。孔子いわく『徳の流行は置郵(ちゆう)して命(めい)を伝うるよりも速やかなり』と。今の時に当たりて、万乗の国が仁政を行わば、民の之(これ)を悦(よろこ)ぶこと、猶(なお)倒懸(とうけん)を解(と)かるるがごとし。故に事(しわざ)は古(いにしえ)の人に半(なかば)にして、功(いさしお)は必ず之に倍せん。惟(ただ)此(こ)の時を然りと為さんのみ」。

【現代語訳】

「その上、今日よりも久しいあいだ王者が現れなかったことはないし、今日ほどひどく人民が虐政に苦しんでいることはなかった。飢えている者はご馳走にとびつきやすく、のどが渇いた者は飲み物にとびつきやすい。孔子は『君主の徳が伝わっていくさまは、命令が早馬・早飛脚で伝わっていくよりも早い』といわれた。今のような時勢に、万の戦車を持つ大国が仁政を行えば、人民がこれを喜ぶことは、逆さ吊りの拷問から解放されるようなものだ。だから、やることは昔の聖人・賢人の半分でも、倍の成果が得られるであろう。ただ今こそがその時なのだ」。

王道政治を敷く真の王者は長い間現れていない。それどころか人民は悪政に苦しんでいる。そんな今こそ、仁政によって天下の人心をつかみ、王者になる絶好の機会なのだ、というのが孟子の主張です。斉(せい)は大国であり、人口も多くいます。農耕社会では人口の多さがそのまま生産力につながり、また軍事力にもなります。ですから、この時勢に大国斉が仁と義による内政・外交を行えば、天下の人民は親を慕うように斉の君主に帰服し、他国は斉に従うよりほかはなくなるのです。これが孟子が描く理想の天下統一であり、それを実現するために魏(梁)を離れて、斉へやってきたのでした。

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公孫丑篇 一章⑤

周が商を倒して天下の王者になるのになぜ文王一代ではかなわなかったか、について解説した孟子は、こんどは、なぜ斉(せい)にとって天下取りが難しいことではないか、の説明に入ります。

【訓読文】

「斉人(せいひと)の言に有り。いわく『智慧(ちえ)有りと雖(いえど)も勢(せい)に乗ずるには如(し)かず、基(すき)有りと雖も時を待つに如かず』と。今の時は則(すなわ)ち易然(やす)し。夏后(かこう)・殷・周の盛んなりしときも、地未(いま)だ千里を過ぐるものは有らざりき。而(しか)して斉は其(そ)の地を有(たも)てり。鶏鳴(けいめい)狗吠(くばい)は相い聞こえて四境に達せり。而(しか)して斉は其の民を有てり。地は改め(ひら)かず、民も改め(あつ)めずとも、仁政を行いて王たらんには、之(これ)を能(よ)く禦(とど)むるものなからん」。

【現代語訳】

斉(せい)の人のことわざにも、『智慧(ちえ)があっても勢いに乗ったものには勝てぬ、鋤(すき)があっても雨期を待つしかない』というではないか。今の時こそ、王者になるのにたやすい時期なのだ。夏・商(殷)・周の三王朝が盛んなときでも、その直轄領が千里(四〇〇キロ)四方を超えたことはなかった。今、斉はその(千里四方の)領地を持っている。鶏の鳴き声、犬の吠える声は、あちらこちらから聞こえてきて、四方の国境まで聞こえるほど、人々が住む村は領地に行き渡っている。今、斉はそれだけ多い人口を抱えている。新しく土地を開拓したり、新しく人民を他国から移住させたりしなくても、仁政を行って天下の王者になるのを、だれが止めることができようか」。

すでに大国で人口も多い斉(せい)が、慈しみの心による政治を行えば、天下の王者となることはたやすい、と孟子は言います。あくまでも王者であって覇者ではありません。もともと国力があるのだから、仁政を施せば自然と天下の民は斉に帰服したくなる、というのが孟子の信念でした。

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公孫丑篇 一章④

公孫丑(こうそんちゅう)は、生国斉(せい)を戦国の七雄(韓・魏・趙・秦・楚・斉・燕)の筆頭にしたいという気持ちから、師である孟子に、斉のかつての名宰相である管仲(かんちゅう)や子(あんし)のような活躍を期待します。しかし孟子は、管仲に例えられるのは不本意であり、しかも斉を天下の王者にすることすら自分であれば容易だと言います。周の文王ですら一代では商王朝を倒せなかったのに、どうして斉が容易に天下を統一できるのだろうか、と訝(いぶか)る公孫丑に、孟子は分かりやすく解説します。

【訓読文】

いわく「文王には何ぞ当たるべけんや。湯(とう)より武丁(ぶてい)に至るまで、賢聖の君も六七にん作(おこ)り、天下の殷(いん)に帰(つ)くこと久し。久しければ則(すなわ)ち変じ難(かた)し。武丁は諸侯を朝(ちょう)せしめ、天下を有(たも)てること、猶(なお)之(これ)を掌(たなごころ)に運(めぐ)らすがごとくなりき。紂(ちゅう)の武丁を去るや、未(いま)だ久しからず。其(そ)の故家(こか)・遺俗(いぞく)・流風(りゅうふう)・善政、猶存するもの有り。又、微子(びし)・微仲(びちゅう)・王子比干(ひかん)・箕子(きし)・膠鬲(こうかく)有り。皆賢人にして、相与(とも)に之を輔相(たす)けたり。故に久しくして後に之を失えるなり。尺地(せきち)も其の有(ゆう)にあらざるはなく、一民(いちみん)も其の臣(しん)にあらざるはなし。然(しか)り而(しこう)して文王は方百里に猶(よ)りて起これり。是(こ)の以(ゆえ)に難かりしなり。

【現代語訳】

孟先生がいった。「文王とわれわれとをどうして比べることができようか。周の前の王朝である商(殷)は、開祖湯王(とうおう)から第二十二代武丁(ぶてい)に至るまでに聖人・賢人の王が六、七人も出て、天下の人心は商(殷)に帰服することが長かった。これだけ長い間帰服していると、人心もなかなか変わりにくいものだ。武丁がいったん衰えた商を立て直して、諸侯を来朝させて天下を再統一したときも、掌の上で転がすように容易なことであった。暴虐の王として知られる紂王(ちゅうおう)は第三十代であり、武丁からまだそれほど時代が離れていない。武丁の時代からの譜代の家臣、善い風俗、代々伝わる教化、りっぱな政治もまだ残っていた。さらには微子(びし)・微仲(びちゅう)・王子比干(ひかん)・箕子(きし)・膠鬲(こうかく)といった王族や家臣がいた。皆、賢人であり、助け合って王を補佐していた。だから天下を失って国が滅びるまでに長い時間がかかったのだ。それまでは一尺(周代の尺は二四センチ)の土地も紂王の領地でないものはなく、一人の人民も紂王の臣下でないものはなかった。一方、文王は百里(四〇キロ)四方の領地しかない諸侯から起こった。そのために、天下の王者になるのは大変難しかったのである」。

湯王(とうおう)は名臣伊(いいん)の補佐を受けて、夏(か)王朝を倒して商(殷)を起こした王です。この夏から商への革命を描いたのが、宮城谷昌光さんの『天空の舟』です。また武丁は商王朝中興の祖で、中国で文字を発明した王と伝えられています。宮城谷さんの『沈黙の王』は武丁を主人公にした小説です。

微子(びし)は紂王(ちゅうおう)の長兄、庶子であったため王を継がず諸侯となりました。微仲(びちゅう)は紂王の次兄で、同じく庶子です。比干(ひかん)も箕子(きし)も紂王の叔父です。膠鬲(こうかく)は周の文王に推挙された賢臣です。いずれも暴虐な紂王を諌め(そのために比干は殺され、箕子は狂人を装わざるをえませんでした)、滅びゆく商を支えています。宮城谷さんの『王家の風日』は、箕子を主人公にしながら、商王朝の最期を、王朝側から描いた小説です。

周が文王の代で商を滅ぼすことができず、子の武王や周公(武王の弟)の代までかかったのは、湯王から武丁にいたるまでに現れた名君の遺徳があったこと、紂王が暴虐であったとはいえこれを支えた王族・賢臣がいたこと、文王の出発点が小国の諸侯であったこと、が理由です。孟子の論はきわめて説得力があります。

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公孫丑篇 一章③

孔子の弟子であった曽参(そうしん)の息子の曽西(そうせい)は、やはり孔子の高弟の子路(しろ)と比べられたときは、自分の父が尊敬していた人物だといって慎み深くしていましたが、管仲(かんちゅう)と比べられたとたんにむっとして怒ります。仁(慈しみの心)を徳の中心においた孔子の学派にとっては、力による政治は蔑むべきものでした。

弟子の公孫丑(こうそんちゅう)から管仲のような功績を期待された孟子は、さぞかし腹立たしかったことでしょう。しかし管仲と同じ斉(せい)の出身である公孫丑にとって、管仲と晏子(あんし)は歴史上の偉人です。納得がいかない彼は、孟子に反論します。

【訓読文】

いわく「管仲(かんちゅう)はその君を以って覇たらしめ、子(あんし)はその君を以って顕(あら)われしめたるに、管仲と子すら猶(なお)為(い)うに足らざるか」。

いわく「斉(せい)を天下の王たらしむるは、由(なお)手を反(かえ)すがごとし」。

いわく「是(かく)の若(ごと)くんば、則(すなわ)ち弟子(ていし)の惑いは滋(ますます)甚(はなは)だし。且(そ)れ文王の徳ありて百年にして後に崩ぜるを以ってしてすら、猶未(いま)た天下に洽(あまね)からず。武王と周公之(こ)れを継ぎ、然る後に大いに行われたり。今、王たること易然(やすき)が若(ごと)く言う。則ち文王も法(のっと)るに足らざるか」と。

【現代語訳】

公孫丑(こうそんちゅう)がいった。「管仲(かんちゅう)は桓公(かんこう)をたすけて諸侯の覇者にさせましたし、子(あんし)は景公(けいこう)をたすけて名君であることを天下にあきらかにしました。そのような管仲・子ですら言うに足らない人物なのでしょうか」。

孟先生がいわれた。「斉(せい)を天下の王者にすることは、手のひらを裏返すくらい簡単なことだ」。

公孫丑がいった。「先生のようにおっしゃいますと、私にはますますわからなくなります。文王ほどの徳があり、百歳まで長生きされてもまだ天下を統一することができず、(子供の)武王や周公に受け継がれてようやく王者になることができました。今、先生は王者になるのを易しいことのようにおっしゃられますが、それでは文王も模範とするに足りないのですか」。

公孫丑は、斉の宣王を、天下の王者とするところまでは考えていませんでした。せめて桓公が(周王に代わって)天下に号令をかけたように、諸侯(当時は七つの大国がありました)の第一人者になることを想定していました。それを孟子はあっさりと、王者にすることもたやすいと言います。天下を統一するのは、聖王といわれる文王ですら、一代ではなしえなかったのです。公孫丑は混乱するばかりです。

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