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2012年4月

公孫丑篇 二章⑫

「孟先生は孔子を超えているのではないか」と言って、孟子にたしなめられた公孫丑は、今度は逆に、孔子の高弟と比較しようとします。

【訓読文】

「昔者(むかし)、(ひそ)かに之を聞けり。子夏・子游・子張は、皆、聖人の一体あり。冉牛(ぜんぎゅう)、閔子(びんし)、顔淵は、則(すなわ)ち体を具(そな)うるも微なりと。敢えて(夫子の)安(お)る所を問わん」。

いわく「姑(しばら)く是(こ)れを舎(お)け」。

【現代語訳】

公孫丑がいった。「かつて私が内内にうけたまわったところでは、子夏・子游・子張は、皆それぞれ、聖人としての一面を備えており、冉牛(ぜんぎゅう)、閔子(びんし)、顔淵は、聖人としての徳はあるが、まだ十分でないとのことでした。失礼ですが、先生はこのうちどなたに相当するのでしょうか」。

孟先生が答えられた。「しばらくこの話はやめておこう」。

孟子は孔子の高弟たちでいえば誰に当たるのか、という問いに、孟子は「この話はやめにしよう」と、話題を打ち切ります。プライドの高い孟子にとって、孔子の弟子たちと比較されるのは面白くなかった、という考えもあります。あるいは、孟子の先生筋に当たる曽子(孔子の孫である子思の師。孟子は子思の門下生に学んだ)の名が挙げられないので不快に思ったのかもしれません。

ただ、孔子は特別です。公孫丑との対話は、最後は孔子の評価へと移っていきます。

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公孫丑篇 二章⑪

すっかり孟子に心酔して「孟先生は(孔子を超えて)聖人の域に達しておられるのですね」と口走った公孫丑に対し、孟子はきっぱり否定します。

【訓読文】

いわく、「ああ、是(こ)れ何の言ぞや。昔者(むかし)子貢、孔子に問いて、『夫子(ふうし)は聖なるか』といえるとき、孔子は『聖は則(すなわ)ち吾(われ)能(あたわ)ず。我、学びで厭(いと)わず、教えて倦(う)まざるのみ』とのたまえり。子貢は『学びて厭わざるは智なり、教えて倦まざるは仁なり。仁にして智ならば、夫子は既に聖なり』といえりとぞ。夫(そ)れ聖は、孔子さえ居たまわず。是れ何の言ぞや」。

【現代語訳】

孟先生が答えられた。「ああ、君はとんでもないことをいう。むかし、子貢が孔子に『先生は聖人であられますか』と尋ねたとき、孔子は『聖人など、私には思いもよらない。私はただ、学んであきず、教えていやにならないだけだ』と答えられた。すると子貢は、『学んであきないのは智であり、教えていやにならないのは仁です。仁であり智であるのですから、先生は既に聖人でいらっしゃいます』といったという。このように、聖人とは、偉大な孔子でさえもみずから任じておられなかったのだ。なのに、君はなんということをいうのだ」。

「学びて厭わず、教えて倦まず」は、『論語』「述而篇 二」の「黙して之を識(しる)し、学びて厭わず、人に誨(おし)えて倦まず。何をか我に有らんや」から来ています。意味は、「(理解したことを)黙って心に刻んで記憶し、学んで厭(あ)きるということがなく、人に教えて倦むこともない。それらは(他人と異なり)この私において問題はない」(加地伸行氏の訳注より)です。最後の「何をか我に有らんや」については諸説があり、加地氏は「これ以外、私に何があるだろうか」という含意を紹介されています。孔子らしい謙虚さであり、それゆえ孟子も、「孔子さえ居たまわず」と言ったのです。

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公孫丑篇 二章⑩

孟子が、「もしまた聖人が現れたならば、必ず私の考えに賛成して下さるに違いない」というので、孟子にすっかり心服した公孫丑は、孟子こそ聖人ではないか、と言い出します。

【訓読文】

「宰我(さいが)、子貢(しこう)は善く説辞を為し、冉牛(ぜんぎゅう)、閔子(びんし)、顔淵(がんえん)は善く徳行を言い、孔子は之を兼ねたまえるも、『われは辞命においては則(すなわ)ち能(あた)わず』とのたまえり。然らば夫子(ふうし)は既に聖なるか」。

【現代語訳】

公孫丑がいった。「宰我(さいが)、子貢(しこう)は言説にすぐれ、冉牛(ぜんぎゅう)、閔子(びんし)、顔淵(がんえん)は徳行にすぐれ、孔子はどちらも兼備されていたが、『わたしは話すのは得意ではない』とおっしゃっています。すると孟先生は、すでに(孔子以上の)聖人の域に達しておられるのですね」。

宰我、子貢、冉牛、閔子、顔淵は、すべて孔子の弟子です。『論語』の「先進篇 三」に、「徳行には、顔淵・閔子騫(けん)・冉伯牛(はくぎゅう)・仲弓(ちゅうきゅう)あり。言語には、宰我・子貢あり。政事には、冉有(ぜんゆう)・季路(きろ)あり。文学には、子游(しゆう)・子夏(しか)あり」と述べられています。徳行、言語(弁論)、政事(政治)、文学(文芸)は、「孔門の四科」といって、孔子門下が学ぶべき四つの学科でした。ちなみに「先進篇」に名前が挙がった十名を「孔門十哲」といいます。顔淵(顔回)は、孔子の弟子の中でもっとも優秀で、後継者と見られていましたが、残念ながら若くして亡くなっています。季路は、姓は仲、名は由ですが、『論語』では字(あざな)である子路と呼ばれることが多いようです。中島敦の『弟子』の主人公であることは前に紹介しました。

孔子が「わたしは話すのが得意でない」といったというのは、どこを典拠にしているのでしょうか。むしろ『論語』「堯日篇 三」に「言を知らざれば、以て人を知る無きなり」とありますから、孔子も十分に「知言の人」だったと思います。孟子が「我は言(ことば)を知れり」といったときも、『論語』のこの節が念頭にあったでしょう。「孟先生は孔子を超えた聖人」というのは、ちょっと公孫丑の勇み足だったようです。

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公孫丑篇 二章⑨

先に孟子は、告子と比べてどこが優れているのか、という問いに対して、他人の言葉が分かること(知言)と「浩然の気」を養っていることだと答えました。後者についての説明を受けた公孫丑は、今度は「知言」について尋ねます。言葉は「心のなかの心」があらわれたものです。言葉をよく聞くことによって、語る者の心の有り様を見抜くことができる、と孟子はいいます。

【訓読文】

「何をか言(ことば)を知ると謂うや」。

いわく「詖辞(ひじ)は其の蔽(おお)わるる所を知り、淫辞は其の陥る所を知り、邪辞は其の離るる所を知り、遁辞(とんじ)は其の窮(きわ)まる所を知る。(四者)其の心に生(おこ)れば、其の事(しわざ)に害あり、其の事に発(おこ)れば、其の政(まつりごと)に害あり。聖人復(また)起こるとも、必ず吾(わ)が言(ことば)に従わん」。

【現代語訳】

公孫丑がいった。「先生が『私は他人の言葉がよく分かる』とおっしゃったのはどういうことですか」。

孟先生が答えられた。「詖(かたよ)った辞(ことば)からは、その人の心の一方が蔽われているので、物事の一面しか見えなくなっていることが分かる。淫らな辞、つまり根拠のない、でたらめな言葉からは、その人の心が何かに惑わされて迷いがあることが分かる。邪(よこしま)な辞からは、その人の心が正しいことから離れていることが分かる。言い遁(のが)れの辞からは、その人の心が行き詰って逃げられない状態にあることが分かる。こうした良くない四つの言葉(詖辞、淫辞、邪辞、遁辞)がその人の心に起きると、その人の行動に害を及ぼすようになり、その人の行動に害が及ぶようになると、その人が行う政治にも害が及ぶようになる。もしまた聖人が現れたならば、必ず私の考えに賛成して下さるに違いない」。

良くない言葉を聞き取って、語り手の心のなかの状態を見抜くことは、心の状態が及ぼすその人の行動や、その人の行う政治への弊害を止めるために重要です。孟子は、自分にはそれができると言っています。

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公孫丑篇 二章⑧

自分の心の内の義によって浩然の気を養う、ということを言いました。では、浩然の気を養う上で、大切なことは何でしょう。

【訓読文】

「(およそ気を養うには)必ず(義と道とに)副(そ)うことありて、(気を)正とする勿(なか)れ。心に忘るること勿れ。助長すること勿れ。宋人(そうひと)の若(ごと)くすること無かれ。宋の人に、其(そ)の苗の長ぜざるを(うれ)えて、之を(ぬ)ける者あり。芒芒然として帰り、其の(家)人に謂(かた)りていわく、『今日は病(つか)れたり。予(われ)苗を助けて長ぜしめたり』と。其の子趨(はし)りて往きて之を視れば、苗は則(すなわ)ち槁(か)れたり。天下の(人に)苗を助けて長ぜしめざる者は寡(すくな)し。以って益なしと為して之を舎(す)つる者は、苗を耘(くさぎ)らざる者なり。之を助けて長ぜしむる者は、苗を揠く者なり。徒(ただ)に益なきのみにあらず、又これを害(そこな)わん」。

【現代語訳】

(孟子の答えの続き)「浩然の気は必ず義と道とにともなって存在するものであるから、浩然の気を養うのに、気だけを目標にしてはいけない。そうかといって、気を養うことを忘れてしまってもいけない。また、あせってむりに助長しようとしてもいけない。つまり、あの宋の人のようにしてはいけない。むかし宋の人で、苗がなかなか成長しないのを憂えて、成長を早めようと、一本一本引っ張った者がいた。ぐったりとして家に帰ると彼は家の人たちに、『今日は疲れた。苗を引っぱって伸びるのを助けたから』と言った。これを聞いた息子が、急いで田んぼへ走って行って見ると、苗はすっかり枯れてしまっていた。世の人々には、苗を引っ張って成長させようとしない者は少数しかいない(多くの人々が、あの宋の人のように苗をだめにすることをやっている)。(浩然の気を養うことは)無益なことだと思って何もしない者は、田んぼの草取りをしない者と同じである。(浩然の気を養おうとはするが、)あせって早く成長させようとする者は、苗を抜く者と同じである。ただ無益なだけではなく、害になるのである」。

周は、商(殷)を滅ぼした後、最後の王であった紂王の異母兄を、宋という国に封じました。宋からは、いくつか後世に残る逸話が生まれています。分不相応の情けを「宋襄の仁(宋の襄公の仁)」といいますし、小学校の音楽教材に使われたことがある「待ちぼうけ」(作詞は北原白秋)も宋の百姓の話です。宋は、孟子の時代まで続きましたが、孟子が亡くなった直後に、大国斉(せい)によって滅ぼされました。

浩然の気を養うにあたっての心得を、孟子は簡潔に述べています。そもそも義と道によって養われるものだから、気を養うことだけを目標にしてはいけない(義と道を心の内に積み重ねることが大事である)。気を養うことを忘れてもいけないし、あせって無理に成長させようとしてもいけない。

「浩然の気を養うことは無益なことだと思って何もしない者」とは告子のことです。「浩然の気を養おうとはするが、あせって早く成長させようとする者」とは、気概にばかり頼ろうとする、北宮(ほくきゅうゆう)や孟施舎(もうししゃ)のことです。

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公孫丑篇 二章⑦

【訓読文】

「其(そ)の気たるや、義と道に配し、是(こ)れ無ければ(う)うるなり。是れ義に集(あ)いて生ずる所のものにして、襲(おそ)いて之(これ)を取るにあらざるなり。行いて心に慊(あきた)らざるもの有れば、則(すなわ)ちう。我、故に、告子は未(いま)だ嘗(かつ)て義を知らずといえるは、其の、之を外のものとしたるを以ってなり」。

【現代語訳】

(孟子の答えの続き)「この気というのは、義と道とにともなってこそ存在するものであり、この義と道がなければ飢えてしまう。これは義を(自分の内に)積み重ねていくうちに(自然と)生じるものであり、外から無理やり取ってくるものではない。みずからの行為において、心にかなわないことがあれば、(浩然の気は)飢えてしまう。私が『だから、告子はまだ義というものが分かっていない』といったのは、告子がこれ(義)を自分の心の外側にあるものと考えていたからである」。

餒は飢と同じです。浩然の気が、養分を失って、消えてなくなってしまうことをいいます。浩然の気の養分は、義(正義)と道(人道)です。行為のたび義に照らして判断することによって、心の内に義が積み重なります。それが養分となって、浩然の気が生まれるのです。義は自分の心の内にあるのです。義も心の外側にあるのではなく、したがって浩然の気も外から取ってくるものではありません。自分の内なる義をもって育てるのです。

「義を外のもの」と考えると、自分の心の外に判断基準があることになり、「千万人といえども、われゆかん」といった大勇は出てきません。孟子が告子より優れているという一番のポイントです。

『字統』によれば、義という字は、「羊」と「我」から出来ていますが、「我」は「鋸(のこぎり)」の象形です。つまり羊を鋸で切って犠牲として神に供えたものです。神に捧げるのですから、欠陥がなく、神意にかなうものでなければなりません。そこから「ただしい」という意味が生まれます。

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公孫丑篇 二章⑥

「不動心」についての問答もいよいよ佳境に入ってきます。公孫丑は、孟子が告子とどう違うのか、と聞きます。

【訓読文】

「敢(あ)えて問う、夫子(ふうし)はいずくにか長(まさ)れるや」。

いわく、「我は言(ことば)を知れり。我は善(よ)く吾(わ)が浩然の気を養えり」。

「敢えて問う、何をか浩然の気というや」。

いわく、「言い難し。その気たるや、至(きわ)めて大、至めて剛にして直(なお)く、養いて害(そこな)うことなければ、天地の間にも塞(み)つ」。

【現代語訳】

公孫丑がいった。「たってお尋ねしますが、先生は告子よりも、どこがまさっているのでしょうか」。

孟先生が答えられた。「私は他人の言葉がよく分かる。また浩然の気を養っている。この二点が勝っているのだ」。

公孫丑がいった。「またお尋ねしますが、浩然の気とはどういうものでしょうか」。

孟先生が答えられた。「言葉ではなかなか説明しにくい。きわめて広大で、きわめて剛健で、正しく素直なものである。正しく育てて、そこなうことがなければ、天地に充満するほどにもなる」。

孟子は、告子と比べてどこが優れているのか、と聞かれ、他人の言葉が分かること(知言)と「浩然の気」を養っていることだといいます。「知言(言葉を知る)」とは、先に告子を批判したときに使った「言(ことば)に得らざるときは、心に求むること勿(なか)れ」という告子の主張に関連していると思われます。告子が「言葉によって分からない」ことがあると言うのに対し、孟子は「自分はそんなことはない、他人の言葉は分かる」と言って、告子より勝っている点のひとつとしているのです。

より重要なのは、もうひとつの長所である「浩然の気を養っている」点です。ただ、「浩然の気」の説明は難しい、と孟子自身が言います。正しく素直に育てれば、天地に充満する、つまり自然と合一する、といいます。これは、伝統的な儒家にはない考え方です。やはり、当時、道家、墨家の思想が流行しており、孟子もその影響を受けたものと考えられます。

ただ、道義心を重んじる点で、孟子は、道家とは一線を画します。

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公孫丑篇 二章⑤

言葉は「心のなかの心」から発せられた音であるとする道家は、言葉によってわからないのであれば、(より表層にある)心によってわかろうとしてはいけないと考えるのですが、それを(儒家である)孟子は消極的であると批判しました。では、孟子が考える積極的な「不動心」とはどういうものでしょうか。

【訓読文】

「夫(そ)れ、志至れば気はこれに次ぐ。故に『其の志を持(まも)りて、其の気を暴(そこな)うこと無(な)かれ』というなり」。

「既に『至れば気はこれに次ぐ』といい、又『其の志を持りて、其の気を暴うこと無かれ』というは何ぞや」。

いわく、「志壱(もっぱ)らなれば則(すなわ)ち気を動かし、気壱らなれば則ち志を動かせばなり。今夫れ趨(はし)りて(つまず)くものは、是(こ)れ気なり。而(しか)れども反(かえ)って其の心を動かさん」。

【現代語訳】

(孟子の答えの続き)「そもそも(心のはたらきである)意志は気力を率いるものであり、さらに気力は肉体に充満しているものであるから、意志が動けば気力もそれにともなって動くのである。だから、『(不動心として心を鍛えるためには)意志をかたく守って、気力をむやみにはたらかせて害(そこな)わないようにすべきである』というのだ」。

公孫丑がいった。「先生は先に『意志が動けば気力もそれにともなって動く』とおっしゃりながら、また『意志をかたく守って、気力をむやみにはたらかせて害わないようにすべきである』とおっしゃられるのは、(矛盾しているように思えますが)どういうことでしょうか」。

孟先生がこたえられた。「意志がひとつのことに集中すると気力を動かすことになるが、また気力が集中すると、かえって意志を動かすこともあるからである。たとえば、走って道でつまずくのは、気力が集中しすぎた(あせりすぎた)からである。しかしこのことがかえって心を動揺させてしまう」。

気力は先走ると心を動揺させることになりかねないので、気力に注力することは勧めません。先ずは心の働きである意志をしっかりと確立させよ、と孟子は言います。心の鍛錬が先、ということです。武道で気を身体の隅々まで行き渡らせる呼吸法がありますが、まさに気(力)は肉体に充満させることができます。意志がしっかり確立されていれば、その意志が動くとき、気力はおのずと付いてくるのです。

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公孫丑篇 二章④

孟子は、「不動心」(心が動揺しないこと)を得る第一の方法として、「大勇」(本当の勇気)を挙げ、孔子の言葉を借りた曽子の説明が非常に簡潔で要領を得ているといいました。そこで公孫丑は、この章の冒頭に出てきた、「我(孟子を指す)に先んじて心を動かさざりき(告子でさえ、私より先に不動心を得たのだ)」と評された告子(こくし、孟子の論敵)との比較を問います。

【訓読文】

いわく、「敢えて問う、夫子(ふうし)の不動心と告子の不動心と、聞くことを得(う)べきか」。

「告子は『言(ことば)に得らざるときは、心に求むること勿(なか)れ。心に得られざるときは、気に求むること勿れ』といえり。『心に得らざるときは、気に求むること勿れ』とは可なれども、『言に得らざるときは、心に求むること勿れ』とは不可なり」。

【現代語訳】

公孫丑がいった。「たってお尋ねしますが、先生(孟子のこと)の不動心と告子の不動心とはどのように違うのか、お聞かせ願えませんでしょうか」。

孟先生がこたえられた。「告子は、『言葉によってわからないことを、心によってわかろうとしてはいけない。心によってわからないことを、気力によってわかろうとしてはいけない』と言っている。ところで、『心によってわからないことを、気力によってわかろうとしてはいけない』というのはよいが、『言葉によってわからないことを、心によってわかろうとしてはいけない』というのはよろしくない」。

告子の言葉ですが、当時流行していた道家の思想(老荘思想)を反映しています。ちなみに、「老荘」の「荘」である荘子(荘周)と孟子は同時代に活躍しています。貝塚氏は、それまでの解釈が、当時の斉(せい)国の思想界で有名であった原始道家の学説を踏まえていなかったので的外れであったとしています。たしかに、貝塚氏の現代語訳は、金谷氏や小林氏よりもすっきり理解できます。貝塚氏は、「言」は「心のなかの心」があらわれた「原初的な言」をさす、としています。「それ(原初的な言)をつかまえず、心のなかの心でなく、普通の心でどんなに求めてみても何もわからない」と解釈します。

では孟子は、「言(ことば)に得らざるときは、心に求むること勿(なか)れ(言葉によってわからないことを、心によってわかろうとしてはいけない)」のどこを批判したのでしょうか。

「心に得らざるときは、気に求むること勿れ(心によってわからないことを、気力によってわかろうとしてはいけない)」は「可(よし)」としていますね。これは(この後の文を先取りして解説しますが)、心のはたらきである意志は気力を率いるものだから、心が納得できていないのに、気力だけでどうこうしようとしてはいけない、心が納得すれば気力は自然と付いてくる、からです(ここでは、自分の「心」「気」をいいますので、正確には貝塚氏の解釈と異なります)。

しかし前回、「大勇」で述べましたように、孟子にとっては、道義心に照らして正しいかどうかの判断が重要です。「心によってわかろうとしない」というのは、判断の停止であり、外部との関わりを断つことです。孟子は、告子の発言を消極的とみて、批判しているのです。むしろ、言葉によってわからないのであれば、もっと心を鍛えて、心が動き、気力が動くようにすべき(そして、自分が正しいと判断されれば勇を奮うべき)と考えたのです。

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公孫丑篇 二章③

孟子は、辱めを受けたらどんな相手でも報復するという北宮(ほくきゅうゆう)の「勇」より、どんな相手であろうが懼(おそ)れないという気概を大切にする孟施舎(もうししゃ)の「勇」を、(あくまでも相対的にですが)評価しました。吉田松陰も、孟施舎の勇は武士が戦場に向かうときにこうありたいと思うものである、と評価しています。とともに、この勇気は普段から養って大きくしておかなければ、「勇気、敵を呑む」というところまではいかない、と言います。士たるものは、勇気の養う鍛錬が求められるのです。

ただ孟子は、孟施舎はまだ「勇」のレベルであり、孔子が唱える「大勇」には比べるべくもない、と言います。ここで、故事成語になっている「千万人といえども、われゆかん」が出てきます。

【訓読文】

「昔者(むかし)、曽子は子襄(しじょう)に謂(かた)りて曰(いわ)く、『子(し)は勇を好むか、吾(われ)は嘗(かつ)て大勇のことを夫子(ふうし)より聞きたり。自(み)ずから反(かえ)りみて縮(なお)からずんば、褐寛博(かつかんぱく)のうちと雖(いえど)も吾は惴(ゆ)かず。自ずから反りみて縮くば、千万人のうちと雖も吾は往(ゆ)かん』と。孟施舎の気を守れることは、又、曽子の約を守りしことには如(し)かず」。

【現代語訳】

「むかし曽子が、弟子の子襄に向かって語られた。『あなたは勇気を好むようだが、自分はかつて先生(孔子)から「大勇」について伺ったことがある。自分から反省してみて、正しくないと思うときは、たとえ相手が卑賎の者であろうと、自分は恐れてしまって往けないだろう。しかし、自分を反省してみて、正しいと思うときは、たとえ相手が千万人であろうと、恐れず前へ進むだろう。このように先生は言われた』と。孟施舎が気概を守るというのは、たんに相手を恐れないということであったが、曽子は「自分が正しいか正しくないか」という道義的な裏付けがないとだめだと言っている点で、(「本当の勇気」の)最も要約を得た説明になっている。

子襄は曽子の弟子です。夫子とは賢者・先生の意味で、ここでは曽子の先生、つまり孔子を指します。褐寛博は前出の通り、褐(あらぬの)をまとった者のことで、卑賎な人をたとえて言っています。「縮」は形容詞で、「なおし」と読み、「真っすぐなさまさま。正しい」意です(『漢辞海』)。原文「曽子之守約也」は、金谷氏が「約を守りしことには」と読み下すのに対し、小林氏も貝塚氏も「曽子の守り約なるに」と読んでいます。意味はどちらも「要約を得た」「簡潔」ということなので、「守り約なる」と用言(ようげん)が連なるよりは、直前の「気を守れることは」と対(つい)になる金谷氏の読み方を採りました。

「大勇」は、「勇」に対して、「本当の勇気」をいいます。この章の冒頭で、不動心(心が動揺しないこと)の話が出てきますが、「大勇」は「不動心」を得る第一の方法です。そして「大勇」では、相手と戦うには、自分の内心に一点の曇りもない状態にあることを条件にしています。自分の側に道義があるかどうか自信がないときには、「勇」を奮うのを自制すべきなのです。

ただ、「道義」自体が独りよがりのものになっていてはいけません。独善的な「道義」を振りかざすことは、蛮勇にすぎません。一時的に「勝利」を得るかもしれませんが、やがて人心は離れ、最終的には敗北、撤退せざるをえなくなるでしょう。歴史がそれを証明しています。

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公孫丑篇 二章②

ずいぶんと間があいてしまいましたが、公孫丑(こうそんちゅう)篇の二章の二回目です。

【訓読文】

「北宮(ほくきゅうゆう)の勇を養うや、膚(はだ)撓(ちぢ)むことなく、目逃(まじろ)ぐことなし。一毫(いちごう)を以って人に挫(ぬ)かるるを思うこと、之(これ)を市朝(しちょう)にて撻(むちう)たるるがごとく、褐(かつ)寛博(かんぱく)にも受けず、亦(また)万乗(ばんじょう)の君にも受けず。万乗の君を刺すを視ること、褐夫(かっぷ)を刺すがごとし。諸侯を厳(おそ)るることなく、悪声至らば必ず之(これ)を反(かえ)せり。

孟施舎(もうししゃ)の勇を養う所(てだて)は、いわく「勝たざるを視ること、猶(な)お勝つがごとし。敵を量(はか)りて後に進み、勝ちを慮(はか)りて後に会うは、是(これ)三軍を畏るる者(にして、勇にはあらざる)なり。われ舎は (あに)能(よ)く必ず勝つことを為さんや。能(よ)く懼(おそ)るることなきのみ」と。孟施舎は曽子(そうし)に似、北宮黝は子夏(しか)に似たり。かの二子の勇は、未だその孰(いず)れか賢(まさ)れるやを知らず。然(しか)れども、孟施舎は気を守れり」。

【現代語訳】

「あの北宮(ほくきゅうゆう)が勇気を養う方法は、たとえ自分の膚(はだ)に刃物が迫っても尻込みをせず、目の近くまで針を突かれてもまばたきをしない。人から毛筋ほどの侮りを受けても、(これを恥とし)市の役所の前の公衆の面前で撻(むち)をうたれたかのように屈辱を感じる。ダブダブの衣服を着た卑賎な者はもとより、万乗の戦車を持った大国の君からさえも、辱めを受けまいとする。万乗の君を刺し殺すのも、卑賎の者を刺し殺すのとなんら変わらないくらい平気であった。諸侯を恐れ遠慮することはなく、自分への悪口を耳にしたならば、必ず仕返しをしていた。

一方、孟施舎(もうししゃ)が勇気を養う方法はこれと違う。彼は『勝てない相手でも、勝つ相手と同じように対応する。敵の力をはかって、自分より劣っている方を攻め、勝てるという見込みがついてから会戦を挑むというのは、敵が三軍(三万七千五百人もの大軍)を畏れる者であって、勇気がある者ではない。わたしは、必ず勝てるとは思わないが、(そうした勝敗を問題にはせず)どんな時にも畏れないことを第一としている』という。孟施舎のやり方は、(孔子の門人でいえば)曽子(そうし)に似ており、北宮黝は子夏に似ている。この二人の勇気はどちらが勝っているかはいえないが、孟施舎の方は気概を大切にしている」。

曽子も子夏も、孔子の高弟です。曽子は、前の章(公孫丑篇の二章)で紹介しました。本名は曽参(そうしん)といい、孔子の孫である子思(しし)の師です。孟子は、孔子の教えを子思の孫弟子から学びましたので、曽子の曾孫弟子になります。一方、子夏の系統は、同じ儒家でも、孟子の「性善説」を批判する「性悪説」を唱えた荀子(じゅんし)になります。

孟子は、「どちらが勝っているとはいえない」としながらも、曽子に似ているとした孟施舎が、勝敗を問題とせず、どんなことにも畏れないという気概を養うことを重視したのを評価しています。

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