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2012年5月

公孫丑篇 五章②

孟子は、王道論的な富国強兵策として、人材の登用と税制についての五つの政策を挙げました。

【訓読文】

「信(まこと)に能(よ)く此(こ)の五者を行わば、則(すなわ)ち隣国の民すら、之を仰ぐこと父母の若(ごと)くならん。其の子弟を率いて其の父母を攻めしむること、生民ありてより以来(このかた)、未(いま)だ能く済(な)せる者有らざるなり。此(かく)の如くんば、則ち天下に敵無からん。天下に敵無き者は、天吏なり。然(かくのごと)くして王たらざる者は、未だ之(これ)有らざるなり」。

【現代語訳】

「この五つの政策を本当によく実施すれば、その国の君主は、(自国の民はもちろんのこと)隣国の民でさえ、父母のように慕うであろう。たとえ隣国の君主がその民を率いて攻めようとしても、それは子供に他人のために父母を攻めさせるようなものである。人類あって以来、このようなことを成功させた者はいない。だから、五つの政策を実施する君主は、天下に敵がいないだろう。天下に敵がいない者は、天吏、すなわち天の使徒である。天の使徒となって王者になれなかった君主は、いまだかつて一度もないのである」。

公孫丑篇の二章から四章は、不動心、浩然の気、仁、徳、と心の姿勢を説く内容でしたが、五章は一変して具体的な政策論です。流れとしては、すでに大国で人口も多い斉(せい)であれば、君主が仁政さえ行えば天下取りはたやすい、と述べた一章に続いてもよさそうな章です。ただ、覇道ではなく王道を説くところは一貫しています。

吉田松陰は、五つの政策のなかでは、その第一条である「人材の登用」が最も重要だとします。政治を行う者は、「天下の人材が悦んでその朝廷に仕官したいと願う」ように考えるべきだといいます。有能な人を登用し、適材を適所に就ける。そうしておけば、おのずと有能な人が集まってくるようになります。その有名な例が、燕(えん)国による郭隗(かく・かい)の採用、いわゆる「隗より始めよ」の故事です。郭隗を優遇した燕に、やがて楽毅(がく・き)という軍事の天才が入り、燕王の斉国に対する復讐を実現するのです。

また、人事によって魅力的にするというのは、国家の運営である政治だけでなく、すべての組織運営についていえるでしょう。

これで、「公孫丑篇五章」を終わります。

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公孫丑篇 五章①

三章と四章は、孟子が仁政について述べた章でした。君主が仁政を布けば、たとえ小国でも天下への道が開けます。しかし、平穏な時に徳を積むことを怠れば、禍を招くことになります。五章では、こうした君主の心の姿勢ではなく、具体的な政策、おもに税について述べられます。

【訓読文】

孟子いわく「賢を尊び、能を使いて、俊傑位に在れば、則(すなわ)ち天下の士は、皆悦びて其の朝(ちょう)に立たんことを願わん。市(いち)は廛(てん)するも征(ぜい)せざれば、則ち天下の商(あきんど)は、皆悦びて其の市に蔵(おさ)めんことを願わん。関(せきしょ)は譏(しらぶ)るも征せざれば、則ち天下の旅(たびびと)は、皆悦びて其の路に出でんことを願わん。耕す者には(公田を)助(じょ)せしめて(私田に)税せざれば、天下の農は、皆悦びて其の野に耕さんことを願わん。廛に夫・里の布(ふ)無ければ、天下の民は、皆悦びて之(これ)が氓(たみ)と為(な)らんことを願わん」。

【現代語訳】

孟先生がいわれた。「賢人を尊重し有能な人を用い、すぐれた人がしかるべき地位に就いていれば、天下の人材は悦んでその朝廷に仕官したいと願うだろう。市場では、店舗税は取るが物品税をかけなければ、天下の商人は悦んでその市場で蔵敷きして商売をしたいと願うだろう。関所では、取り調べはするものの通行税を取らなければ、天下の旅人は悦んでその国の道路を使いたいと願うだろう。耕す者には、公田からの収穫物のみを税として納めさせ、私田には課税しなければ、天下の農民は悦んでその国の田野を耕したいと願うだろう。居宅について、夫布(力役の代償)と里布(土地税)を取ることがなければ、天下の人民は悦んでその国の住民になりたいと願うだろう」。

五つの政策のうち、最初の人材登用策を除けば、すべて税制です。その基本方針は、人民の税負担を軽くすることにあり、それによって他国から人口の流入を促すことを目的にしています。

古代社会において、国力の基本は人口です。人口が増えれば、田野を耕す人が増えます。税率が軽くても、収穫量が多ければ税収は増えます。商人は物流を盛んにし、全国に物資が行き渡るようになります。物流が盛んであれば、主要穀物だけでなく、交換できる商品作物、地域の特産物も作られるようになります。都市に十分な食料が入ってくるようになれば、職人も多く集まるようになり、加工品の生産も増えます。人口が多いことのもうひとつのメリットは兵力です。天下の人民が、悦んでその国の住民になりたいと願うような国にすることが、富国強兵の近道なのです。

税制について、孟子の案は、実に合理的です。店舗税を取る一方で物品税をかけなければ、商人にとって、取引量が増える分はすべて儲けになります。また、公田からの収穫物のみを税として納めさせ、私田からの収穫物はすべて耕した者のものになれば、農民はみなやる気を出して働きます。何をどれだけ作るかを懸命に考え、さまざまな工夫を凝らすでしょう。商人や農民ひとりひとりに対する課税は固定でも、人口が増えれば、税収は伸びます。働く意欲が湧くように魅力的な税制にし、人口の流入を図れば、国家も人民も豊かになるのです。

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公孫丑篇 四章③

孟子はさらに続けて、禍福はみずからが招くもので、必然であるといいます。

【訓読文】

「今、国家に暇(かんか)あり。是(こ)の時に及びて般楽(はんらく)・怠傲(たいごう)せば、是れ自ら禍(わざわい)を求むるなり。禍福は己(おの)れより之を求めざるものなし。詩に『永(なが)く言(ここ)に命に配し、自ら多福を求む』といい、太甲に『天の作(な)せる(わざわい)は猶(なお)違(さ)くべきも、自ら作せるは活(のが)るべからず』といえるは、此れ之(こ)の謂いなり」。

【現代語訳】

「いま、国家が平穏であるとしよう。このときに、遊楽し、怠け驕るならば、これはみずから禍(わざわい)を求めるようなものだ。災いも幸いも、すべて自分から招いているである。『詩経』でも『末永く天命に従い、みずから幸多きを求めよ』とある。また、『書経』の「太甲篇」では、『天が降した災いは、なお避けることができようが、自分が招いた災いは、逃れることができない』とあるが、いずれもこのことを述べているのである」。

『詩経』の引用は、「大雅」の「文王」(「文王之什」の首篇)の第六章からです。『孟子』では、「離婁篇 第四章」でも引用されています。この句の後に、「殷がまだ民衆を失う前は、よく天命を保持していた。殷を鑑みよ、まことに天命は保持しがたいのだ」(石川忠久訳)と続きます。

『書経』は、四書(論語、大学、中庸、孟子)五経(易経、書経、詩経、礼記、春秋)のひとつで、最古の歴史書です。「太甲篇」は、商(殷)王朝の創業者湯王(とうおう)の孫である太甲(たいこう)と、湯王の代からずっと商の阿衡(宰相)を務めている伊尹(いいん)との会話です。聖王と呼ばれた湯王に対し、あまりに君主にふさわしくない振る舞いの多かった太甲に、伊尹は再三諫言しますが、太甲は聞き入れません。ついに伊尹は太甲を追放し、三年後、心を入れ替えたのを見て、王へ復位させます。引用されたのは、反省した太甲の言葉です。「のがる」と読んだ「活」は、書経原文では「逭」になっています。

この章での孟子の主張は、「仁なれば則(すなわ)ち栄え、不仁なれば則ち辱めらる」であり、しかも、平穏無事な時にこそ徳を積まなければならないというものでした。「天が降した災いは、なお避けることができようが」には違和感がありますが、「自分が招いた災いは、逃れることができない」は、その通りだと思います。

吉田松陰は「是(こ)の時に及びて」について、「ただ日も足らず」という朱子の解釈を紹介します。日夜、刻苦勉励(こっくべんれい)しても時間が足りないくらいだ、という姿勢であるべきで、日夜、般楽怠傲(はんらくたいごう)しても時間が足りないくらいだ、という生活に陥ってはならないといいます。ペリー来航後、つかの間の「平穏」を無為に過ごしている幕府当局を嘆いているのです。

また本章からは、「禍福は己(おの)れより之を求めざるものなし」の一文を取り上げています。「禍」も「福」も「示」偏なので、神事に関係が深いものですが、自分の努力を怠り、神頼みで幸福を求めるのは、つまらぬ人間のすることだ、と言い切っています。

これで、「公孫丑篇四章」を終わります。

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公孫丑篇 四章②

続く孟子の言葉は、君主として、屈辱を免れる術(すべ)です。

【訓読文】

「如(も)し之(これ)を悪(にく)まば、徳を貴(とうと)びて士を尊ぶに如(し)くは莫(な)し。賢者は位に在り、能者は職に在りて、国家に閒暇(かんか)あり。是(こ)の時に及びて其(そ)の政刑を明らかにせば、大国と雖(いえど)も必ず之を畏れん。詩に云わく、『天の未(いま)だ陰雨せざるに(およ)んで、彼(か)の桑土(そうど)を徹(と)りて、戸(いうこ)を綢繆(ちょうびょう)せり。今此(こ)の下民(かみん)、敢えて予(われ)を侮ること或(あ)らんや』と。孔子いわく、『此の詩を為(つく)れる者(ひと)は、其れ道を知れるか』と。能(よ)く其の国家を治むれば、誰(たれ)か敢えて之を侮らん」。

【現代語訳】

「もし屈辱を受けるのがいやなら、道徳を尊び、人材を重んじるのがいちばんである。賢人が重い位にあり、能力ある人が重職にあれば、国家がよく治まって平穏になる。その時に、政治と刑罰を公明正大にして人民に分かりやすくすれば、いかなる大国でも必ずこうした国を畏れるようになるだろう。『詩経』にも、『空がかき曇り、雨が降る前に、桑の根を取り、戸口をきちんと直しておいた。そうしておけば、下を通る人々はだれも私を侮ることはあるまい』とある。孔子は、『この詩の作者は、国を治める道をよく分かっている』といわれた。このように、君主が、(平穏な時に万全の備えをして)国家をよく治めれば、誰がいったいその国を侮ることがあろうか」。

『詩経』からの引用は、「國風」の「風(ひんぷう)」の二番目にある「鴟鴞(しきょう」の第二章から取られています。もとは鳥の歌で、鳥がしっかり巣を作っていれば、巣の下を通る人間たちから侮られ、襲われることはない、という意味です。孔子は、これを平穏なときこそ、弛むことなく、有事になっても外から付け込まれないように、内から崩されないように、備えを怠らない君主の統治姿勢と解釈しました。

順調にみえるときに、実は、禍や恥辱が忍び寄ってきます。順風だからついつい見過ごしてしまうことに、災いの原因が潜んでいます。油断せずに徳を積むことが、屈辱から逃れる方法であり、たとえ急に不幸が襲ってきても「不動心」で対応できるのです。

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公孫丑篇 四章①

四章も仁政についてです。どのようにしたら、小国でも、周囲からの尊敬を集められるような国にし、君臣、人民ともに幸福になれるのだろうか、というのが主題です。

【訓読文】

孟子いわく「仁なれば則(すなわ)ち栄え、不仁なれば則ち辱めらる。今、辱めらるることを悪(にく)みて不仁に居(お)るは、是(これ)猶(なお)湿りを悪みて下(ひく)きに居るがごとし」。

【現代語訳】

孟先生がいわれた。「仁徳を治めていれば必ず栄えるし、悪いことばかりしていれば必ず屈辱をうけるのである。ところが屈辱を免れようとしながら悪いことばかりしているのは、ちょうど濡れるのを嫌いながら水溜りにいるようなものだ」。

「仁なれば則(すなわ)ち栄え、不仁なれば則ち辱めらる」は、一般の人々にも通じる言葉です。その場合、「仁徳を修めて生活していれば、必ず名声を得て栄達する」という意味になるでしょうか。少し功利主義のにおいがしますが、孟子が言いたいのは、力や策謀に頼るのではなく、仁義の基本を貫きなさい、ということです。「栄え」はあくまでもその結果にすぎません。

ここでは君主のことです。戦国時代の諸侯は、君主としての尊敬を得ようとしながら、実は悪政をおこなっている、と言っています。では、どのようにしたら「栄え」るようになるのでしょうか。

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公孫丑篇 三章

周王の力が衰えた春秋時代になると、諸侯のなかで力ある者が、紛争の解決などで天下に号令をかけていました。斉(せい)の桓公や晋の文公などです。これらを覇者といいます。しかし孟子が目指すのは、商(殷)王朝の創始者である湯王(とうおう)や、周王朝の基礎を築いた文王といった、仁や徳の政治を布く王者です。

【訓読文】

孟子いわく「力を以て仁を仮(か)る者は覇たり。覇は必ず大国を有(たも)つ。徳を以て仁を行う者は王たり。王は大を待たず。湯(とう)は七十里を以てし、文王は百里を以てせり。力を以て人を服する者は、心服せしむるには非ず、力(た)らざればなり。徳を以て人を服する者は、中心より悦びて誠に服せしむるなり、七十子の孔子に服せるが如し。詩に、『西より東より、南より北より、思(ここ)に服さざる無し』と云えるは、此れの謂いなり」。

【現代語訳】

孟先生がいわれた。「表立っては仁政にかこつけながら、力の政治を行う(武力で支配する)のは覇者である。覇者は必ず大国であることを背景にしている。これに対し、徳によって仁政を行うのが王者である。王者は大国の君主である必要はない。湯王(とうおう)は七十里四方、文王は百里四方の小さな領土から興って、天下の王者となった。力によって人民を服従させる者は、人民を心から服従させているのではない。ただ力が足りないから従っているだけである。徳によって人民を服従させる者は、心から悦んで服従するので、七十人の高弟が孔子に心服したのと同じである。『詩経』に『西からも東からも、南からも北からもやってきて、(武王に)心服しない者はいなかった』とあるのは、このことを言っているのである」。

小さな領土からでも、仁政を施していけば天下の王者になることができる、という孟子の主張は、梁(魏)の惠王に対しても、斉の宣王に対してもなされています(「梁惠王篇」五章および十八章)。力によった覇者ではなく、仁によった王者の方が、人民に慕われ、周囲の国からの抵抗も少ないため、天下統一への早道であり、天下の王者になった後も長続きするのです。

大国は、周囲の国が連合してこれに対抗するため、天下をとることが難しい、と孟子はいいます。歴史では、孟子が斉の宣王の政治顧問でいたころから約百年後に、軍事大国となった秦によって統一されます。しかし、その秦は天下統一後、わずか十五年で滅んでしまいます。

『詩経』からの引用は、「大雅」の「文王十篇(文王之什)」の十番目(最後)にある「文王有声」の第六章から取られています。「文王有声」は、「文王・武王を祀る祭事詩」(白川静)です。原文は、「鎬京(こうけい)辟廱(へきよう)、西より東より、南より北より、思(ここ)に服さざる無し、皇王(おお)いなるかな」(石川忠久『新釈漢文大系 詩経』)です。鎬京は、現在の西安近郊で、商(殷)王朝を滅ぼした武王が、それまでの周の都を川の対岸に移して建てた新都です。春秋時代に入るまでの約二八〇年間、周の政治の中心でした。秦が中国を統一するとその近郊に咸陽(かんよう)が、さらに漢王朝になると長安が建設されています。辟廱は聖地という意味、皇王は武王のことです。

吉田松陰は「この章は、王道と覇道との区別を明確に論じている。味わうべき章である」(近藤訳)と述べます。松陰は、王者と覇者の区別は、なにも王や諸侯(つまりは君主)のことに限った話ではなく、士・農・工・商の一般の人々にも通じることだといいます。つまり、力ではなく、仁徳によるべきだと。そして、道徳の基盤が崩れたいま、いずれの職種にあっても「王者」を見つけることは難しいと言っています。そのまま現代社会にもあてはまる言葉です。

これで、「公孫丑篇三章」を終わります。

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公孫丑篇 二章⑰

吉田松陰は、この章のなかの「至(きわ)めて大、至めて剛にして直(なお)く、養いて害(そこな)うことなければ、天地の間にも塞(み)つ」(松陰の読みは、「至大至剛(しだいしごう)、直(ちょく)を以て養ひて害することなければ、則(すなわち)天地の間に塞(ふさ)がる」)の一節を取り上げ、これを最も詳(つまび)らかに読まなければならない、と言っています。

先ず「至大」とは浩然の気の形状です。平素この気を養っていれば、無限に広がるものなので、千万人に対してもたじろぐことがない一方、養わなければしぼんでしまって、相手が一人でも恥じ入ってしまいます。

次に「至剛」とは浩然の気の模様、性質です。浩然の気がしっかりと固まっていれば、どんな高官・厚禄(高い地位や高給)を提示されても、どんな美女を並べられても、心が揺らぐことはありません。

「直を以て養ひて害することなし」とは浩然の気を養う方法です。松陰は、「直を以て」を「志を保って、たゆまず続ける」と解釈します。学問をする上でもっともよくないのは、やったりやらなかったりすることです。それではいつまでたっても成就しません。真剣に継続することが肝要だといいます。松陰らしいですね。「養ひて害することなし」は、本文にも出てきた、「田んぼの草取りをしない者(浩然の気を養うことは無益なことだと思って何もしない者)」と「苗を抜く者(浩然の気を養おうとはするが、あせって早く成長させようとする者)」になってはならない、ということです。

「天地の間に塞がる」とは浩然の気の効験です。学問を志す者一人ひとりが自分のなかに徳を積み(孟子の言葉でいえば義を蓄え)、多くの人に施して、これが天下の道、天下の法になるように心がけていけば、いつの日か天地に満ち、歴史を貫いて続くだろう、といいます。世の中が暗く、変わらないように見えても、自分から道を進んでいけば、やがてそれが広がり、世の中が明るく変わっていく、という信念に基づいています。周りがどうであろうと、先ず自分が義(ただ)しい道を歩む。たゆまず真剣に学んでいけば、周りもしだいに感化されていく。そういう人が増えていけば、やがてそれが世の中の道となり法になる。オプティミスト松陰の真骨頂です。

これで、「公孫丑篇二章」を終わります。

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公孫丑篇 二章⑯

「公孫丑篇二章」は、『孟子』の中では「梁惠王篇七章」に次いで長い章だということは、先に述べました。「梁惠王篇七章」は、孟子が斉の宣王に初めて謁見して、王が持っている慈悲の心で仁政を布くことが、天下を統一する王者への近道であることを説く章です。孟子の巧みな譬え、見事な論理展開が発揮された、大変分かりやすい内容でした。

これに対し、「公孫丑篇二章」は、「斉の大臣の位に就いても動揺しないのか」の問いに始まって、「大勇」や「不動心」へと話題が移り、告子との比較から、「浩然の気」や「知言」が説かれます。「道義心で気を養い、弁論も得意な孟子は、孔子を超えているのではないか」という公孫丑の勇み足をいさめることから、聖人論議へと移って、最後は孔子の礼讃で終わります。テーマが遷移するだけでなく、政治論議であった「梁惠王篇」と異なり、形而上学的な議論が入っているので、分かりにくい章です。とくに有名な「浩然の気」については、道家の影響を受けながら、あくまでも儒家にとどまる孟子の議論は、道家的な自在さを失っている印象は否めません。

「浩然の気」については、吉田松陰の『講孟箚記』の記述に譲り、ここでは、私が重要と思う点を二つ挙げます。

ひとつは、「知言」です。言葉は「心のなかの心」の表れであるから、言葉が分かるということは、その人の心の状態が分かるということです。ですから、告子が、「言葉によってわからないことを、心によってわかろうとしてはいけない。心によってわからないことを、気力によってわかろうとしてはいけない」と言ったのに対し、孟子は、「『言葉によってわからないことを、心によってわかろうとしてはいけない』というのはよろしくない」と言います。言葉は心によって理解すべきで、そうしてこそ、その人が物事の一面しか見えなくなっていないか、何かに惑わされて迷いがないか、正しいことから離れていないか、行き詰って逃げられない状態に陥っていないか、が分かり、もしそうである場合は、その人の行動を止めることができるのです。

言葉を「心のなかの心」の表れととらえ、相手の言葉を「心のなかの心」で理解しなければならない、というのは道家的な考えです。孟子が、他学派との論争の中で、道家的な考えも一部取り入れたことが窺えます。しかし、相手の心の状態の「害毒」が、行動、そして政治に及ぶので、それをいち早く察知して、正しい道に導くか、少なくとも行動を止めさせなければならない、というのは儒家的な考えです。たんに「知言」だけでなく、それをどう活かすかにも、孟子と告子の違いがあると思います。

もうひとつが、「聖人論議」です。『論語』でも人物についての評価は述べられます。とくに、孔子の弟子についてはしばしば登場します。また、「公冶長(こうやちょう)篇」の後半は、衛の孔圉(こうぎょ)、鄭の子産(しさん)、斉の晏嬰(あんえい、晏子)、楚の闘子文(とうしぶん)など、自国他国の大臣・大夫クラスの人物評が続きます。しかし、自分(孔子)も含め、周王朝の初期以降の人物を「聖人」には数えません。伝説上の帝である堯(ぎょう)や舜(しゅん)、周が天下をとる基礎を築いた文王、周初に王朝を支えた周公らが、理想とすべき聖人君主であり、それより時代が下ってからの人物は、長所短所の両面を評価すべき対象なのです。「述而篇」の冒頭で、「述べて作らず、信じて古(いにしえ)を好む」と、自分の活動指針を宣言した孔子にとって、理想とすべきは古の君子しかいませんでした。

しかし、孟子の時代になると、百家争鳴、思想学派のあいだの競争が激しくなっていました。中原の西端にあって後進国であった秦は、法家による改革で軍事大国へと変貌しており、古代の制度を理想とする儒家の考えが実用的なのか、疑問を持つ人も少なくありませんでした。また、人為を嫌う道家や、兼愛を説く墨家の思想が、儒家よりも盛んなこともありました。そのなかで、弟子の公孫丑が、「孟子こそ聖人ではないか」とか「孔子の弟子たちも聖人の一面をもっているのではないか」というのは、他学派との競争上、無理からぬことでした。

そういう弟子の、孔子の教え、孟子の教えを大事にしたい、他学派に劣ると言われたくない、という気持ちは、孟子も十分分かっていたはずですし、だれより孟子その人が、一番強く持っていたはずです。ですから、公孫丑の問いかけに、少しだけ付き合います。しかし最後は「孔子はずば抜けた聖人である」と、きっぱりと言い、「聖人論議」を止めさせます。古代の理想の君主と、生き方の達人であった孔子のみを絶対化し、それを手本とする、それが儒家本来の学び方であり生き方である、と諭したのです。

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公孫丑篇 二章⑮

伯夷、伊尹、孔子とも、仁政で天下を統一できる王者になりえたことでは共通している、と孟子はいいます。では、孟子が手本にしたいという孔子は、どう優れているのでしょうか。

【訓読文】

いわく「敢(あ)えて、其の異なる所以(ゆえん)を問わん」。

いわく「宰我(さいが)・子貢(しこう)・有若(ゆうじゃく)は、智は以て聖人を知るに足り、(くぼ)みても其の好む所に阿(おもね)るには至らず。(しかるに)宰我いわく『予(よ)を以て夫子(ふうし)を観れば、堯(ぎょう)・舜(しゅん)に賢(まさ)ること遠し』と。子貢いわく『其の礼を見れば其の政を知り、其の楽(がく)を聞けば其の徳を知る。百世の後より百世の王を等(はか)るに、之(これ)に能(よ)く違(たが)うもの莫(な)きなり。生民(せいみん)有りてより以来(このかた)、未だ孔子(のごとき人)有らず』と。有若いわく『豈(あ)に惟(た)だ民のみならんや。麒麟の走獣におけると、鳳凰の飛鳥におけると、太山(たいざん)の丘(きゅうてつ)における、河海(かかい)の行潦(こうろう)における、類(に)たるものなり。聖人の民におけるも、亦(また)類たるものなり。其の類たるものより出(い)でて、其の(あつまり)より抜きんでるたること、生民有りてより以来、未だ孔子より盛んなるものは有らず』と」。

【現代語訳】

公孫丑がいった。「失礼ながらお尋ねしますが、(伯夷・伊尹と)孔子の異なる点はどこにあるのでしょうか」。

孟先生が答えられた。「宰我(さいが)・子貢(しこう)・有若(ゆうじゃく)(といった孔子の高弟たち)は、聖人を理解するだけの知能を持ち、いかに低劣になったとしても自分の好きな人物におもねったりしなかった。(この三人が孔子についてこう語っている)。宰我は、『私の目から先生を拝見すると、(古代の聖人である)堯・舜よりはるかに優れている』という。子貢は、『その人が定めた礼の制度を見れば、その人の政治が分かる。その人が好んだ音楽を聴けば、その人の徳性が分かる。礼の制度と音楽を目安にすれば、百代もの後世から、歴代の王を比較しても、少しも間違えない。こうして比較してみると、人類が生まれ出て以来、孔子のような方は出ていない』という。有若は、『(同類の中に抜きん出たものがあるのは)人間だけではない。走る獣の中での麒麟、飛ぶ鳥の中での鳳凰、小さい丘の中での泰山、水溜りのなかでの黄河や大海。これらはそれぞれ同類のうちにある。人類の中での聖人もこれと同じである。聖人は、(そうでない人々と人類という点では同類だが)人類の中でも抜きんでた人物をいう。その聖人のあつまりなかでもずば抜けた存在が孔子であり、人類が生まれ出て以来、孔子ほど盛んで偉大な聖人はいない』と」。

対話の結びは、孔子の三人の弟子の言葉を借りて、孔子のずば抜けた偉大さを称えます。これについては、次回詳しく述べます。

「汙」は「汚」にも通じる字です。くぼみ、という意味があるので、「くぼみても」と読みました。意味は、金谷氏に倣って、「低劣になったとしても」と解釈しました。

麒麟、鳳凰は、ともに想像上の動物ですが、これらが現れるのは瑞兆とみなされる、獣類・鳥類の長です。太山は泰山のことで、現在の山東省にある霊山です。古来より天子がここで封禅(ほうぜん)と呼ばれる最高儀式を行っていました。春秋戦国時代には、斉と魯の国境に位置していたため、両国の君主も、天子と同様の儀式を行うことが許されていました。水溜りの中での最高のものですから、河は黄河、海は東の大海をいいます。

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公孫丑篇 二章⑭

孟子は、伯夷の潔癖な生き方、伊尹の君主を選ばない、宰相として一貫した生き方、そして孔子の出処進退の見事な生き方を比べて、どれも聖人といえる生き方だが、自分の手本としては孔子である、と言いました。

孔子が、生国である魯の昭公(第二五代君主)のときに、宮仕えを始めました。当時の魯は、三桓氏と呼ばれる公族の重臣が、君主を凌ぐ力を持っていました。昭公はこれに抵抗しますが、逆に斉国へ追放されます。三十六歳だった孔子も、このとき昭公の後を追って、斉へ亡命します。その後、魯へ戻って来ますが、第二六代の定公に地方官に取り立てられたのは五十二歳のときです。その四年後には、国政に失望し、ふたたび魯を離れます。六十九歳で帰還するまで、弟子たちと十三年におよぶ亡命生活を送るのです。

【訓読文】

「伯夷(はくい)・伊尹(いいん)の孔子におけるは、是(か)くの若(ごと)く班(ひと)しきか」。

いわく「否(いな)。生民(せいみん)有りてより以来(このかた)、未だ孔子(のごとき人)有らず」。

いわく「然(しか)らば則(すなわ)ち同じき(ところ)有りや」。

いわく「有り。百里の地を得て之(これ)に君たらば、皆能(よ)く以て諸侯を朝(ちょう)せしめて、天下を有(たも)たん。一つにても不義を行い、一人にても不辜(ふこ・つみあらざる)を殺して天下を得ることは、皆為さざるなり。是(こ)れ則ち同じき(ところなり)」。

【現代語訳】

公孫丑がいった。「伯夷(はくい)・伊尹(いいん)も、孔子とは同等なのでしょうか」。

孟先生が答えられた。「いや違う。人類が生まれ出て以来、孔子のような方は出ていない」。

公孫丑がいった。「それでも、(孔子と一緒に古(いにしえ)の聖人と呼ぶからには)どこか共通したところがあるのではないでしょうか」。

孟先生が答えられた。「それは有る。百里四方の土地(程度の小国)を得て、そこの君主になれば、たちまち諸侯を来朝させて、天下を統一できるだろう。しかし、ひとつでも不正を行ったり、一人でも罪のない者を殺したりしてまでも天下を手に入れようとは、三人とも絶対にしない。この点では共通している」。

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公孫丑篇 二章⑬

聖人にこだわる公孫丑は、孔子よりずっと前の人物を引き合いに出します。

【訓読文】

いわく「伯夷(はくい)と伊尹(いいん)は如何(いかん)」。

いわく「道を同じくせず。其の君に非(あら)ざれば事(つか)えず、其の民に非ざれば使わず、治まれば則(すなわ)ち進み、乱るれば則ち退くは、伯夷なり。何(いず)れに事うるとてか君に非ざらん、何れを使うとてか民に非ざらん、治まるも亦(また)進み、乱るるも亦進むは、伊尹なり。以て仕(つこ)うべくんば則ち仕え、以て止(や)むべくんば則ち止み、以て久しくすべくんば則ち久しくし、以て速やかにすべくんば則ち速やかにするは、孔子なり。皆、古(いにしえ)の聖人なり。吾(われ)未だ行うこと有る能(あた)わざるも、乃(すなわ)ち願う所は、則ち孔子を学ばんことなり」。

【現代語訳】

公孫丑がいった。「では、伯夷(はくい)と伊尹(いいん)はいかがでしょうか」。

孟先生が答えられた。「(私が行きたいのと)歩く道(生き方)が違う。仕えてよいと思う主君でなければ仕えないし、使ってもよいと思う人民でなければ使わない、世の中がよく治まっていれば進んで仕えるが、乱れると隠遁するのが、伯夷の生き方である。どんな主君にも仕え、どんな人民でも使い、世の中が治まっていようと乱れていようと進んで仕えるのが、伊尹の生き方である。一方、仕えるべきときは仕え、辞めるべきときは辞める、長く仕えるべきときは長く仕え、速やかに辞めるべきときは速やかに辞める(立ち去る)、それが孔子である。たしかに三人は皆、聖人である。自分にはまだ、どの生き方ひとつ同じようにできないが、できるならば孔子の生き方を学びたい」。

伯夷は、周の前の王朝である商(殷)の末期の人物です。彼は孤竹(こちく)という国の王の長男でした。父王は、王位を三男の叔斉(しゅくせい)に譲ることを告げます(ちなみに、古代中国の名前の付け方として、伯は長男または長女、仲は次男または次女、叔は三男または三女、季が末っ子です。三男の名に叔が付いているということは、兄弟は四人以上いたのでしょう)。父王が亡くなると、伯夷は遺言に従がって、叔斉に継がせようとしますが、叔斉は、兄を差し置いて王位に就くことはできないと、拒みます。あくまでも父の意を守りたい伯夷は、国を捨てて出ていきます。ところが、叔斉も兄を追って、国を出るのです(結局、孤竹国は次男が後を継ぎます)。伯夷・叔斉の二人は、仁政を布く名君との評判だった周の文王(商王朝が倒れる前ですから、正確には「周という有力諸侯の君主であった姫昌(きしょう)」と呼ぶべきですが、便宜上、文王にしておきます)に仕えようとして周へ赴きます。しかし、二人が周に着いた時には文王は亡くなっており、息子の武王が、商の最後の王であり、暴君として有名な紂王(ちゅうおう)の討伐に向かうところでした。父が亡くなって間もないのに、(諸侯である周にとっては主君にあたる)紂王を討つのは不孝であり不仁であると言って、武王の討伐を諌めます。しかし、武王は聞き入れず、紂王を破り、商王朝を倒します。中華が周王朝になると、伯夷・叔斉は山へ身を隠し、ゼンマイを食べながら暮らしましたが、やがて餓死します。

伊尹は、元々料理人でしたが、縁あって商の君主であった子履(しり)に仕えます。伊尹に補佐された子履は、夏王朝の暴君、桀王(けつおう)を滅ぼし、商王朝を建てます。この子履こそが、聖君として名高い湯王(とうおう)です。湯王亡き後、湯王の二人の子が、第二代、第三代の王に就きますが、伊尹はこれにもよく仕えます。ところが、第四代(湯王の孫である太甲)が国を乱したので、伊尹は王をいったん追放します。数年後、王が反省したのをみて、復位させています。つまり、伊尹は、善政を行う主君にも、悪政を行う主君にも仕え、国が治まっていようと乱れていようと仕えたのです。

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