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公孫丑篇 七章②

この章の主題は仁の実践です。前章で、人は皆生まれつき、仁(・義・礼・智)の萌芽を具えていると言いました。その萌芽を不断の修養によって大きく育んでいかなければなりません。しかし、仁の萌芽を育み、仁を実践することができない立場、職業もあります。矢を作る職人は、人を殺傷する武器を作るのが仕事です。憐れみ悼む心を押し殺さないとできない仕事です。棺桶を作る大工は、死人が出ないと仕事になりません。瀕死の人がいても、素直に助かってほしいとは願えないでしょう。

もちろん、こうした職業の人々が、まったく仁の実践をできないわけではありません。屠殺をする肉屋は、たしかに生き物を殺さないと生計を立てられませんが、憐みの心をなくさずにいることはできます。しかし、殺生をしている以上、心安らかな状態で同情心を保つことはできません。ですから、孔子も孟子も、安心して仁を実践できるところに身を置きなさい、と説きます。実践できない職業に就きながら、実践できないことを嘆くのは知恵者のすることではない、といいます。

孔子や孟子は、君子(教養人)を目指す人や、諸侯・重臣たちを相手にしているので、それで問題ないですし、当然の教えです。しかし、そういう人たちばかりでは、そういう職業ばかりでは、世の中成り立ちません。どうしても仁を実践できない職業があり、それに従事する人がいるのです。そうした人々が救われたいと願うとき、儒学では、仁を実践できる仕事に変わりなさい、というしかありません。その職業にとどまったまま、心の平穏を願うのは合理的ではないとされます。

イエスは、ユダヤ教の戒律を守りたくても守ることができない職業の人々(罪びと)や、金の亡者のように思われて忌み嫌われた取税人たちと食事をしました。律法では救われない彼らも救われる教えをはじめました。「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という親鸞の教えも、世の中の凡夫が救われる道を開くものです。儒学は個人レベルにあっては生き方の教えであり、天下国家レベルにあっては政治の教えですが、救いのための宗教ではありません。

「発(はな)ちて中(あた)らざるも、己に勝てる者を怨みず。諸(これ)を己に反(かえり)み、求(もと)むるのみ」(放った矢が命中しなくても、自分に勝った者を怨んだりしない。当たらなかったことを、自分に立ち返って反省し、どこを直すべきか探し求めるのである)は、君子たる者がとるべき態度です。

『論語』の「八(はちいつ)篇」七章に、「君子は争う所無し。必ずや射か」とあり、孔子も、教養人の競り合いがあるとすれば、射の試合くらいかと言っています。試合中は礼儀を守り、勝敗がついても負けた方が酒を飲むだけです。勝ち負けにこだわるのではなく、自省し精進するのが教養人のとるべき姿勢です。

吉田松陰は、この章からは「仁は、天の尊爵(そんしゃく)なり。人の安宅(あんたく)なり」を取り上げています。

仁の道を失わなかったならば、たとえ一時(いっとき)志を抑えられようと、つまらぬ輩(やから)に侮られようと、道を知る者からは尊敬されるでしょう。道を知る者から尊敬されることこそ、天から与えられた爵位です。どんな豪邸に住んでいても、徳を実践していなければ、人の怒りや怨みを買ってしまいます。人からの怒り・怨みが向けられた家に住んでいても心は安らかになりません。

もし仁を体得すれば、貧富苦楽、どのような境遇になろうとも、安らかで楽しむことができます。真の尊爵、真の安宅は、心から得ようと思えば、仁の実践によってかなうことなのです。

これで、「公孫丑篇七章」を終わります。

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