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公孫丑篇 六章③

よちよち歩きの幼児を、何の打算もなく心配し、同情する心が、人間だれしもが持っている本質であることを述べた孟子は、さらに論を進めて、人は四つの徳の端緒を持っていると説きます。

【訓読文】

「是(こ)れに由(よ)りて之(これ)を観れば、惻隠(そくいん)の心無きは人に非(あら)ざるなり。羞悪(しゅうお)の心無きは人に非ざるなり。辞譲(じじょう)の心無きは人に非ざるなり。是非の心無きは人に非ざるなり。惻隠の心は仁の端(はじめ)なり。羞悪の心は義の端なり。辞譲の心は礼の端なり。是非の心は智の端なり。人の是(こ)の四端(したん)有るは、猶(なお)、其の四体有るがごとし」。

【現代語訳】

「このことから考えると、惻隠の心(あわれみいたむ心)がない者は人間ではない。羞悪の心(悪しきことをはじにくむ心)がない者は人間ではない。辞譲の心(譲り合う心)がない者は人間ではない。是非の心(善し悪しを見分ける心)がない者は人間ではない。惻隠の心は仁の芽生えであり、羞悪の心は義の芽生えであり、辞譲の心は礼の芽生えであり、是非の心は智の芽生えである。人間にこの四つ(仁・義・礼・智)の芽生えがあるのは、ちょうど人間の身体に四本の手足があるのと同じで、本来生まれながらに具(そな)わっているものである」。

端(たん)には、端緒という言葉があるように、「糸口」の意味もありますが、仁義礼智を生まれながらに十全にそなえていると考えるには無理があります。ここでは、「芽生え」の意味をとります。仁義礼智の萌芽はあるのです。その、だれしもが持っている芽を、大きな樹へ育てるのが修養です。四端をしっかりとした四つの徳へ導くのが儒学といってもよいでしょう。

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