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公孫丑篇 六章②

いよいよ「性善論」が説かれます。

【訓読文】

「人皆、人に忍びざるの心有りと謂(い)う所以(ゆえん)のものは、今、人、乍(にわ)かに孺子(じゅし)の将(まさ)に井(せい)に入(い)らんとするを見れば、皆、怵惕(じゅつてき)隠(そくいん)の心有り。交わりを孺子の父母に内(い)れんとする所以にも非(あら)ず、誉(ほま)れを郷党(きょうとう)朋友に要(もと)むる所以にも非ず、其の声(きこえ)を悪(は)じて然(しか)るにも非ざるなり」。

【現代語訳】

「『人は誰もが、(他人の不幸や苦痛を見過ごしにできない)同情心を持っている』という理由はこうである。たとえば、よちよち歩きの幼児が今にも井戸に落ちようとしているのを見かけたら、人は誰でも、おどろき、いたたまれない気持ちになって、思わず井戸へ駆け寄るだろう。それは、この子供の親と親しくなろうとするからでもなく、郷里の友人の間で名誉を得ようとするからでもなく、助けなければ悪いうわさがたってしまうことを気にするからでもない」。

孟子は、とても分かりやすい例で、人が誰でも、人に対する同情心を持っていることを説明します。よちよち歩きの幼児は、まったく無力な存在です。その幼児が井戸に落ちてしまったら、間違いなく死んでしまいます。その場面に遭遇したら、人は誰しも、すぐさま迷うことなく駆け寄るでしょう。そこには何の打算もありません。無力な幼児を自分の力で助けなきゃ、という瞬時の反応です。何の打算もなく、発作的な反応ですから、それは人間が本能として持っている心情に違いありません。

孟子はその論を、人間の本質とは何か、善とは何か、のような形而上学的な問いかけではなく、日常生活の中で経験しうる具体例を挙げ、それに対し、人間はみな共通した反応をするから、人間一般が持つ本質なのである、というように展開します。

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