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公孫丑篇 六章④

四端を大切に育てることの重要性を述べて、六章を結びます。

【訓読文】

「是(こ)の四端有りて、自ら能(あた)わずと謂う者は、自ら賊(そこ)なう者なり。其の君を能わずと謂う者は、其の君を賊なう者なり。凡(およ)そ我に四端有る者、皆拡(おしひろ)めて之(これ)を充(み)たすことを知らば、火の始めて然(も)え、泉の始めて達するがごとくならん。(いやし)くも、能(よ)く之(これ)を充たせば、以て四海を保(やす)んずるに足らんも、くも、之を充たさざれば、以て父母に事(つか)うるにも足らざらん」。

【現代語訳】

「この(仁義礼智の)四つの徳の芽生えを持ちながら、自分には四つの徳を行う能力はないと言う者は、自分で(自分を)否定する者である。主君には四つの徳を行う能力がないと言う者は、その主君を否定する者である。自分に四つの徳の芽生えがある者はみな、これを拡充することができることを自覚したならば、火が燃え始め、泉が流れ始めるように、(はじめは小さくても、やがて拡がって行くように)大いなる徳へと育つだろう。もしかりに、これを育てて大きくしていけば、天下を安らかに治めることができるが、もしかりに、これを育てていかなければ、父母にさえ満足に仕えることはできないであろう」。

「賊」は「そこなう」とも「ころす」とも読めます。『字統』によれば、鼎(かなえ)に刀で刻された重要な誓約を武器で削りとるのが元々の意です。貝塚訳の「殺す」では強すぎ、小林訳の「見くびる」では弱すぎると思い、ここでは「否定する」と訳しました。人間は皆、仁義礼智の芽生えをもっているのですから、これを伸ばして徳を実行すべきです。

しかし、そのためには不断の修養によって、徳の芽を育てなければなりません。しっかり育てれば大きく伸び、やがては古(いにしえ)の聖王のように、徳を以て天下を治めることもできるでしょう。しかし修養を怠ると、伸びてくれません。それどころか放置してしまうとやがて萎んでしまいます。こうなったら、いちばん身近な両親にすら、まともに仕えることはできないのです。徳を実行できる人が少ないのは、修養を続けられる人が少ないからであって、生まれつきの問題ではありません。

ところで、惻隠の心(あわれみいたむ心)は、よちよち歩きの幼児のたとえで、人間が皆、備えていることがよく分かりました。しかし、羞悪の心(悪しきことをはじにくむ心)、辞譲の心(譲り合う心)、是非の心(善し悪しを見分ける心)も、生まれつき持っていると、どうして言えるのでしょうか。それについて吉田松陰は、羞悪の心も、辞譲の心も、是非の心も、みな惻隠の心から出てくるといいます。憐れみ悼む心は、同情心です。同情心があれば、悪しき者が弱き者を苦しめているのを見れば、これを羞じ、悪しきを憎みます。つまり同情心から正義感が出てくるのです。また、人を憐れみ悼む心があれば、おのずと譲り合う礼節が生まれます。さらに、道徳心も生じるでしょう。同情心から、正義感、礼節、道徳心が出てくるから、人はみな、これらを生まれつき持っているといえるのです。

このうち、道徳心(是非の分別)は、その向けられる対象が自分の外だけでなく、自分自身の心にも向けられます。道徳心に照らして正しいと判断すれば、「公孫丑篇」の二章にあった、「千万人といえども、われゆかん」という「大勇」が沸き起こってきます。

さらに二章との関連でいえば、「浩然の気」を養う方法と、「四端」を拡充する方法とは基本的に同じです。不断の修養、これに尽きます。四端が拡充されれば、道義心で養われる「浩然の気」も大きくなり、無限に拡がっていくでしょう。

これで、「公孫丑篇六章」を終わります。

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