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2012年7月

公孫丑篇 十一章④

孟子の反論に対し、景丑は、自分は仁義の道という高尚な敬愛の示し方ではなく、礼儀の基本を言っているのだと、改めて責めます。

【訓読文】

景子(けいし)いわく「否、此れの謂(い)いに非ざるなり。礼にいわく『父の召すときは諾(だく)するなく、君の命じて召すときは駕(が)を俟(ま)たず』と。固(もと)より将(まさ)に朝(ちょう)せんとすべきなり。王命を聞きて遂に果たさざりしは、宜(ほと)んど夫(か)の礼と相い似ざるが若(ごと)し」。

いわく「豈(あに)是(こ)れを謂うか。曽子いわく『晋・楚の富は及ぶべからざるなり。彼は其(そ)の富を以てせば、我は吾(わ)が仁を以てせん。彼は其の爵を以てせば、我は吾が義を以てせん。我、何ぞ慊(けん)せんや』と。夫(そ)れ豈不義にして、曽子之(これ)を言わんや。是れ一道(いちどう)あるなり。天下に達尊(たつそん)三あり。爵一、歯(よわい)一、徳一なり。朝廷は爵に如(し)くは莫(な)く、郷党は歯に如くは莫く、世を輔(たす)け民に長たるに徳に如くは莫し。悪(いずく)んぞ、其の一を有して、以て其の二を慢(あなど)ることを得んや」。

【現代語訳】

景氏がいった。「いや、私が言っているのは仁義の道ではありません(もっと基本的な礼儀の話です)。礼の本にも『父が呼んだら、ゆっくりした返事をする間もなく、すぐさまかけつけよ。主君が呼んだら、馬車に馬をつけるのを待たずに、すぐさまかけつけよ』とあります。ですから本来は、先生は参内なさるべきでした。ところが先生は、宣王から『朝廷へ来てほしい』というお召しを受けたのに、結局参内なされなかった。先生のふるまいは、礼の本に書かれていることと、ほとんど合っていないように思われます」。

孟先生がこたえられた。「なんと、そういうことを言われるのですか(私の申し上げたことがまったくお分かりになっていませんね)。曽先生がこうおっしゃっています。『晋国や楚国の富には、私の富は到底及ばない。しかし、もし彼等が富を持っていることを誇るなら、私は仁の徳を持っていることを誇るだろう。彼等がその爵位を誇るなら、私は義の徳を持っていることを誇るだろう。私がどうして彼ら引け目を感じるだろうか』。もしこれが義しく(正しく)ないのであれば、曽先生がおっしゃいますでしょうか。これも、ひとつの正しい道なのです。天下に最も尊いものが三つあります。爵位、年齢、道徳です。朝廷では爵位が第一で、郷里では年齢が第一で、世を救い人民を率いるには道徳が第一です。どうして、そのうちの一つを具えているからといって、他の二つを具えた者を軽んじることができましょうか」。

「礼にいわく」とありますが、まったく同じ表現をしているものは後世に残っていません。『礼記』(「玉藻篇」および「曲礼篇」)や『論語』(「郷党篇」)に近い表現がありますから、何かもとになる典拠があったのかもしれません。「諾」はゆるゆるとした返事で、「はい」とひとこと返事する「唯」と対比されます。

曽子(曽参)は、孔子の高弟で、孟子は曽子の思想系統に連なります。

爵位、年齢、道徳は、それぞれ異なる分野のなかで一番尊いものです。爵位が年齢や道徳の上に立つものではありません。「そのうちの一つを具えているからといって、他の二つを具えた者を軽んじる」の「そのうちの一つ」とは、爵位、つまり王や諸侯が持つ権力のことです。王や諸侯が、世俗の権力を持っているからといって、年長者で徳の優れた者を軽んじてはならない、と説いています。

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公孫丑篇 十一章③

孟子に用があった斉(せい)の宣王は、風邪だと言って、孟子を召し出そうとします。王の誠意に疑問を持った孟子は、仮病を使って参内しませんでした。その翌日、孟子が出かけて留守のときに、王の使者が見舞いに訪れたため、進退に困った孟子は、知人の景丑(けいちゅう)の屋敷に泊ることにしました。こうした経緯を知らない景丑は、孟子の王に対する態度を非難します。

【訓読文】

景子(けいし)いわく「内には則(すなわ)ち父子、外には則ち君臣というは、人の大倫なり。父子は恩を主とし、君臣は敬を主とす。丑(ちゅう)は、王の子(し)を敬するを見るも、未だ王を敬する所以を見ざるなり」。

いわく「悪(ああ)、是(こ)れ何の言(げん)ぞや。斉人(せいひと)仁義を以て王と言う者なきは、豈(あに)仁義を以て美ならずとなさんや。其の心にいわく『是れ何ぞ与(とも)に仁義を言うに足らんや』と云うのみ。則ち不敬(なること)是れより大なるはなし。我、堯舜(ぎょう・しゅん)の道に非ざれば、敢えて以て王の前に陳(の)べず。故に斉人は我の王を敬するに如(し)くなきなり」。

【現代語訳】

景氏が孟先生にいった。「家庭内では父子の関係、家庭を出れば君臣の関係が、人が守るべき大きな道徳です。父子のあいだは恩愛が第一ですし、君臣のあいだは敬愛が第一です。私は、王があなたを敬われるのは見ておりますが、いまだに、あなたが王を敬われているところを見ておりません」。

孟先生がいわれた。「ああ、これは何ということを言われる。斉(せい)には、王様と仁義の道を語り合う人がいませんが、それは仁義の道をよくないことだと考えているからなのでしょうか(まさかそうではありますまい)。そうでないとしたら、心の内で、『王様は一緒に仁義の道を語り合うには足りない方だ』と思っているのでしょう。そうだとしたら、王様に対する不敬は、これよりはなはだしいことはありますまい。私は、帝堯・帝舜の道でなければ、王様の前では何も申し上げないのです。ですから、斉の人で、私より王様を敬っている人はいないのです」。

孟子は、王の前で仁義の道を語り、王が仁義に照らした政治を行うように働きかけることが、王を敬うということだと反論します。王の前で諂(へつら)い、直言をしない家臣は忠義の者とは言えません。家臣は誠意をもって王に義しい道を語り、王はこれに応えて仁政を布くことが、君臣のあるべき関係であり、敬愛の真の姿である、というのが孟子の主張です。

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公孫丑篇 十一章②

宣王が、風邪にかこつけて、孟子を召し出そうとしたことに腹を立てた孟子は、仮病を使ってとうとう参内しませんでした。その翌日、孟子が外出すると、運悪く王の使者がやってきます。

【訓読文】

明日(あくるひ)、出(い)でて東郭氏(とうかくし)を弔(ちょう)せんとす。公孫丑いわく「昔者(きのう)は辞するに病を以てし、今日は弔す。或いは不可ならんか」。

いわく「昔者は疾みしも、今日は癒えたり。之(これ)を如何(いか)でか弔せざらん」。

王、人をして疾(やまい)を問わしめ、医をして来たらしむ。

孟仲子、対(こた)えていわく「昔者は王命ありしも、采薪(さいしん)の憂いありて、朝(ちょう)に造(いた)ること能(あた)わず。今、病少しく癒えたれば、趨(はし)りて朝に造れるも、我能(よ)く至るれるや否やを識(し)らず」と。

数人をして路(みち)に要(むか)わしめていわく、「請(こ)う、必ず帰ることなくして、朝に造れ」と。

已(や)むを得ずして、景丑氏(けいちゅうし)に之(ゆ)きて、宿れり。

【現代語訳】

翌日、孟先生は、(斉の大夫である)東郭氏(とうかくし)を弔問しようとされた。公孫丑が(心配して)申し上げた。「昨日は、病気だといって参内をお断りになられました。それなのに今日、弔問にお出かけになるというのはよろしくないのではないでしょうか」。

孟先生がいわれた。「昨日は病気であったが、今日は治ったのだ。どうして弔問にいかずにおられようか」(といって、お出かけになられた)。

(孟先生が出かけられた後)王の使者が、医者を連れて見舞いに来た。

留守居の孟仲子がお答えした。「昨日、王様のお召しがございましたときは、病気のために参内することができませんでした。今日は病気が少し良くなりましたので、急いで朝廷へ出かけられましたが、無事に着くことができたかどうか、心配していたところです」。

と言っておいて、数人を使いに出して、孟先生をつかまえて、「どうかお屋敷にはお戻りになられないで、朝廷へお出かけ下さい」と言わせた。

孟先生は、(いまさら参内はしたくないし、かといって帰宅するわけにもいかず)景丑氏の家へ行って、そこに泊られた。

孟仲子は、孟子の弟子か従兄弟、もしくはその両方であると言われています。「采薪(さいしん)の憂い」とは軽い病のことを意味する雅言です。景丑氏は斉の家臣のひとりです。

公孫丑の心配は的中してしまいました。王の使者に対しては、孟仲子が取り繕いましたが、先生の斉国での立場が危うくなるのを恐れた弟子たちは、なんとかして孟子を参内させようとします。しかし、昨日仮病をつかってまで参内しなかった孟子には、今日朝廷に赴くことはできません。かといって、弟子たちの心配を無視して、このまま帰宅するわけにもいきません。窮した孟子は、知人宅に泊まることにしたのでした。

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公孫丑篇 十一章①

「梁惠王篇」は七章から十八章まで、その半ばを孟子と宣王との対話に割いています。宣王は大国斉(せい)の君主であり、慈悲の心もあったことから、孟子がもっとも期待した王でした。王と孟子とは、君臣ではありましたが、弟子と師の関係の面もありました。それが、ときに両者の思いの行き違いを生じさせます。

「公孫丑篇」十一章では、そうしたエピソードのひとつが述べられます。

【訓読文】

孟子、将(まさ)に王に朝(ちょう)せんとす。王、人をして来たらしめていわく「寡人、如(ゆ)き就きて見んとせるも、寒疾(かんしつ)あり。以て風(ふう)すべからず。朝すれば、将に朝(ちょう)にて視るべし。識(し)らず、寡人を見ること得しむべきか」。

対(こた)えていわく「不孝にして、疾(やまい)あり。朝(ちょう)に造(いた)るあたわず」。

【現代語訳】

孟先生が、宣王に謁見するため参内しようとしておられたとき、王が使者をよこして、王の言葉を伝えた。「私は、先生の屋敷へ参ってお目にかかるつもりでいたが、あいにく風邪をひいてしまったので、外出して外気にあたることができない。もし先生のほうから朝廷へ来て下されば、病をおしてでもお会いしましょう。(朝廷へ来てもらって)私と会って下さるまいか」。

孟先生が答えていわれた。「残念ながら、私も病気です。朝廷へ参ることはできません」(といって断られた)。

「寡人」は、王や諸侯が自分を指していう人称です。「如」は、金谷訳、小林訳、貝塚訳ともに、「将(まさ)に」と訓読していますが、「至る」の意味をとって、「ゆく」と読みました。「就く」も「行く」、「赴(おもむ)く」の意味です。「寒疾」は風邪のことです。「造る」も「ある場所へいたる」ことです。廟にいたって祝祷するのが初義です(『字統』)。

冒頭にあるように、孟子はもともと参内しようとしていました。ところが王の使者から、「王は風邪なのでそちらへ行けない。こちらへ来てもらえないか」と言われると、急に仮病を使って、参内できないと断ります。

おそらく、王が孟子に尋ねたいことがあるときは、王が孟子の屋敷へ赴くという了解があったのだと思います。しかし、王は孟子に用があったのに、風邪を言い訳にして、孟子を呼びつけました。これが孟子には「不誠実」と映りました。このときは、孟子の方にも王に用があったので参内しようとしていたのですが、王の心をみて、孟子の態度も頑なになったのです。

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公孫丑篇 十章②

もっとも大事な「人の和」を得るにはどうしたらいいのでしょうか。

【訓読文】

「故にいわく、『民を域(かぎ)るに、封彊(ほうきょう)の界(さかい)を以てせず、国を固むるに、山谿(さんけい)の険を以てせず、天下を威するに兵革の利を以てせず』と。道を得たる者は助け多く、道を失える者は助け寡(すく)なし。助け寡なしの至りは、親戚も之(これ)に畔(そむ)き、助け多きの至りは、天下も之に順(したが)う。天下の順う所を以て、親戚の畔く所を攻む。故に君子は戦わざる有るも、戦えば必ず勝つ」。

【現代語訳】

「そのため昔から、『人民を国境によって制限してはならない。国を守るのに山や谷が険しいことに恃(たの)んではならない。天下を威圧するのに武器や甲冑(かっちゅう)の鋭利さを用いてはならない』というのである。正しい道にかなった者には、それに味方する人が多く、正しい道にかなっていない者には、味方が少ない。味方が少ない者の極端な場合は、親戚さえも背いてしまうが、味方が多い者の極端な場合は、天下の人々がこれに従う。天下の人々が従う者が、親戚さえも背いてしまう者を攻めるのである(勝敗は決まっている)。だから徳のある君子は戦わない場合がある(多い)が、いざ戦う場合には必ず勝つ」。

「君子は戦わざる有るも」の「有」は「尊」の字が崩れたもの、という説もあり、その場合は「君子は戦わないことを尊ぶが」と訳されます。

「道」とは、人としての正しい道であり、仁義のことです。

天の時、地の利、人の和という戦略論から、仁義による政治を行うことの有効性を説くところは、孟子の議論の上手さです。ここでも、覇道ではなく王道こそが天下取りの近道であるというのが、孟子の謂わんとするところです。

ところで、この章が何故、斉(せい)国を出る経緯を綴った諸章の前に置かれているのでしょうか。おそらく、こういうことではないでしょうか。

孟子は、斉国の宣王に、王道政治を採用してくれるのではないかと期待していました。宣王には、慈悲の心があると見てとったからです。しかし、斉による隣国燕(えん)の占領政策は、仁義の道にはずれ、強き者が弱き者を苦しめるものでした。子が親を慕うように、人民が君主を慕う王道政治とは正反対の統治を行っていました。燕の怨みは、宣王の天下取りを躓かせることになり、それどころか、後に斉を危機的状況へと陥らせるのです。宣王への期待と失望。それが、この章の隠れた主題(編纂者の意図)になっているだと思います。

これで、「公孫丑篇十章」を終わります。

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公孫丑篇 十章①

「梁惠王篇」もそうでしたが、このブログでは、同じ篇は上下通した章番号にしています。「公孫丑篇」は上が九章で、今回の章からは下に入りますが、章番号を改めず十章にします。

「公孫丑篇」下は、孟子が斉(せい)を離れるにいたった経緯が記されていますが、この十章では、斉での話に先立って、孟子の戦争論が述べられます。

【訓読文】

孟子いわく「天の時は地の利に如(し)かず、地の利は人の和に如かず、三里の城、七里の郭(くるわ)、環(めぐ)らせて之(これ)を攻むるも勝たず。夫(そ)れ環らせて之を攻むるは、必ず天の時を得ること有りしなり。然(しか)れども勝たざる者は、是(こ)れ天の時は地の利に如からざればなり。城高からざるに非(あら)ず、池深からざるに非ず。兵革(へいかく)堅利(けんり)ならざるに非ず、米粟(べいぞく)多からざるに非ざるも、委(す)てて之を去るは、是れ地の利は人の和に如からざればなり」。

【現代語訳】

孟先生がいわれた。「天の時がどんなに良くとも地の利には及ばないし、地の利がどんなに良くとも人の和には及ばない。いま、三里四方の内城と七里四方の外城をもつ(それほど大きくない)城を、ぐるりと囲んで攻めても、陥落させることができない。ぐるりと囲んで攻めているのだから、きっといずれの方角かで天の時を得ていたはずである。しかしながら城を落とせないのは、天の時が地の利に及ばないからである。また、城壁は高く、掘りも深く、武器や甲冑(かっちゅう)は堅固で鋭利で、兵糧の米や粟もたくさんあるにもかかわらず、敗れて、城を棄てて退却するのは、地の利が人の和に及ばないからである」。

「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」もまた、『孟子』から引かれる数多い故事成句のひとつです。孟子の解説も分かりやすいですから、補足は要らないでしょう。古くから戦(いくさ)の際に重要視された、天の時、地の利、人の和のうち、人の和がもっとも大事です。

吉田松陰も、この成句を取り上げています。松陰は、だから「さかさ」に考えるとよいといいます。つまり、人の和が得られたら、その上で城壁や堀を堅固にし、武器を鋭利にし、兵糧を豊かにすればいいのです。松陰はまた、これを人の教育に例えています。忠孝の念を具えてこそ、学問をし、武芸を学んで役に立つのです。忠孝の念がない者に、学問・武芸を学ばせ、武器を与えたならば、かえって害になります。先ずは学ぶ者の心を導こうとする、教育者松陰らしい考えです。

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公孫丑篇 九章③

清廉であった伯夷(はくい)。これとはまったく逆におおらかであった柳下惠(りゅうかけい)。孟子は二人をどのように評価するのでしょうか。

【訓読文】

孟子いわく「伯夷(はくい)は隘(せま)く、柳下惠(りゅうかけい)は恭(つつし)まざるなり。隘(あい)と不恭(ふきょう)とは、君子は由(よ)らざるなり」。

【現代語訳】

孟先生がいわれた。「伯夷(はくい)は心が狭い。柳下惠(りゅうかけい)は慎みが足りない。心が狭いのも、慎みが足りないのも、どちらも(一方に偏っており)、教養人が従うべき態度ではない」。

孟子は、「尽心篇」六一章で、伯夷(はくい)も柳下惠(りゅうかけい)も、「百代にわたって模範とすべき聖人」と言っています。ところがこの章では、二人の態度は両方とも、「君子(教養人)が従うべき態度ではない」と批判しています。これはどういうことでしょうか。

伯夷の清廉さも、柳下惠の寛容さも、常人ではとてもまねのできない域です。つまり、伯夷は清廉さという美徳(仁義礼智のなかでは義)の模範であり、柳下惠は寛容さ(仁義礼智でいえば仁)という美徳の模範です。しかも常人ではとても到達できない域にありますから、聖人なのです。しかし教養人は、いずれに偏ってもいけません。仁義礼智がバランスよく修養されていなければならないのです。これが儒学で言う「中庸」の考え方です。中庸の観点からすれば、二人の態度は模範とすべきではありません。孟子も、孔子と同様に、中庸を大切に考えていたことが分かります。

吉田松陰は、柳下惠の融和の態度が好きであると言っています。どのような人物とも折り合いをつけ、どのような人物にもそれぞれ影響を与える教育ができた松陰は、たしかに、伯夷よりも柳下惠に近いでしょう。ですから、柳下惠(の性格)を主体とし、これを伯夷(の性格)で補うことを心がけています。そして目指すのは、「仕えるべきときは仕え、辞めるべきときは辞める、長く仕えるべきときは長く仕え、速やかに辞めるべきときは速やかに辞める(立ち去る)」(「公孫丑篇」二章)という孔子の態度でした。

これで、「公孫丑篇九章」を終わります。

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公孫丑篇 九章②

君主を選ぶこと、友を選ぶことに、清廉潔癖であった伯夷(はくい)。今度は、それとは対照的な人物を挙げます。

【訓読文】

「柳下惠(りゅうかけい)は汙君(おくん)を羞(は)じず、小官を卑(いや)しとせず。進められては賢を隠さず、必ず其の道を以てし、遺佚(いいつ)せらるるも怨みず、阨窮(やくきゅう)すれども憫(うれ)えず。故にいわく『爾(なんじ)は爾たり、我は我たり。我が側(かたわら)に、袒裼裸裎(はだぬぎ)すると雖(いえど)も、爾焉(いずく)んぞ能(よ)く我を浼(けが)さんや』と。故に由由然として之(これ)と偕(とも)にして、自ら失わず。援(ひ)きて之を止むれば、而(すなわ)ち止まるなり。援きて之を止むれば而ち止まるは、是(こ)れ亦(また)去るを屑(いさぎよ)しとせざればなり」。

【現代語訳】

「柳下惠(りゅうかけい)は不徳の君にも平気で仕え、つまらない官職でも卑しいと思わず就いた。推挙されて仕える以上は、自分の才智を惜しみなく発揮し、必ず正しい道を行った。主君に見捨てられても怨まず、困難に陥ってもそれを苦にしなかった。だから彼は『人は人、私は私だ。私の横で他人が上半身裸になろうと、私がどうして汚されることがあろうか』といった。そのような心構えであったので、だれが一緒にいても、おおらかで、しかも自分を失わなかった。(意見が合わなくなって職を辞そうとしても)引き止められれば、その職に止まるのであった。引き止められたら職に止まるというのは、(相手が引き止めてくれるのにそれでも辞めるのは)自分の信念に合わないと思うからである」。

柳下惠は、孔子と同じ魯の生まれですが、孔子より一五〇年ほど前の人です。朱子の注によれば、「柳下」は食邑(しょくゆう、君主に封ぜられた領地)の名、「惠」は(おくりな)としています。別の儒学者の注では、姓は「展(てん)」、名は「禽(きん)」、字(あざな)は「季(き)」とあります。別の説では姓は「姫」とありますから、魯の公族とも考えられます。いずれにせよ、魯の大夫で、賢者として有名だったようです。

『論語』の「衛霊公篇」十四章に、「臧文仲(ぞうぶんちゅう)は其れ位を窃(ぬす)む者か。柳下惠の賢なるを知りて、而(しか)るに与(とも)に立たざるなり」とあります。賢人として名高い柳下惠を、自分と同格にして政治を行わせるように主君(魯公)に推挙しなかった臧文仲は、なにもしないで給料をもらっているようなものだ、という意味です。孔子も、柳下惠を高く評価していたのです。

『孟子』では、「万章篇」十章に、柳下惠について、この章とまったく同じ内容(「汙君(おくん)を羞(は)じず」から「我を浼(けが)さんや』と」まで)が出てきます。さらに、「告子篇」二六章、「尽心篇」二八章、同六一章にもその名が出てきます。「尽心篇」六一章については、この後で触れます。

「汙(お)」は「汚」と同じです。由由然(ゆうゆうぜん)は、おおらかなありさまです。

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