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公孫丑篇 九章②

君主を選ぶこと、友を選ぶことに、清廉潔癖であった伯夷(はくい)。今度は、それとは対照的な人物を挙げます。

【訓読文】

「柳下惠(りゅうかけい)は汙君(おくん)を羞(は)じず、小官を卑(いや)しとせず。進められては賢を隠さず、必ず其の道を以てし、遺佚(いいつ)せらるるも怨みず、阨窮(やくきゅう)すれども憫(うれ)えず。故にいわく『爾(なんじ)は爾たり、我は我たり。我が側(かたわら)に、袒裼裸裎(はだぬぎ)すると雖(いえど)も、爾焉(いずく)んぞ能(よ)く我を浼(けが)さんや』と。故に由由然として之(これ)と偕(とも)にして、自ら失わず。援(ひ)きて之を止むれば、而(すなわ)ち止まるなり。援きて之を止むれば而ち止まるは、是(こ)れ亦(また)去るを屑(いさぎよ)しとせざればなり」。

【現代語訳】

「柳下惠(りゅうかけい)は不徳の君にも平気で仕え、つまらない官職でも卑しいと思わず就いた。推挙されて仕える以上は、自分の才智を惜しみなく発揮し、必ず正しい道を行った。主君に見捨てられても怨まず、困難に陥ってもそれを苦にしなかった。だから彼は『人は人、私は私だ。私の横で他人が上半身裸になろうと、私がどうして汚されることがあろうか』といった。そのような心構えであったので、だれが一緒にいても、おおらかで、しかも自分を失わなかった。(意見が合わなくなって職を辞そうとしても)引き止められれば、その職に止まるのであった。引き止められたら職に止まるというのは、(相手が引き止めてくれるのにそれでも辞めるのは)自分の信念に合わないと思うからである」。

柳下惠は、孔子と同じ魯の生まれですが、孔子より一五〇年ほど前の人です。朱子の注によれば、「柳下」は食邑(しょくゆう、君主に封ぜられた領地)の名、「惠」は(おくりな)としています。別の儒学者の注では、姓は「展(てん)」、名は「禽(きん)」、字(あざな)は「季(き)」とあります。別の説では姓は「姫」とありますから、魯の公族とも考えられます。いずれにせよ、魯の大夫で、賢者として有名だったようです。

『論語』の「衛霊公篇」十四章に、「臧文仲(ぞうぶんちゅう)は其れ位を窃(ぬす)む者か。柳下惠の賢なるを知りて、而(しか)るに与(とも)に立たざるなり」とあります。賢人として名高い柳下惠を、自分と同格にして政治を行わせるように主君(魯公)に推挙しなかった臧文仲は、なにもしないで給料をもらっているようなものだ、という意味です。孔子も、柳下惠を高く評価していたのです。

『孟子』では、「万章篇」十章に、柳下惠について、この章とまったく同じ内容(「汙君(おくん)を羞(は)じず」から「我を浼(けが)さんや』と」まで)が出てきます。さらに、「告子篇」二六章、「尽心篇」二八章、同六一章にもその名が出てきます。「尽心篇」六一章については、この後で触れます。

「汙(お)」は「汚」と同じです。由由然(ゆうゆうぜん)は、おおらかなありさまです。

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