公孫丑篇 十三章②
斉(さい)の平陸という町を治める大夫である孔距心(こう・きょしん)に、凶作飢饉のときに民が苦しんでいるのは、領主である彼の無策のためであり、領主としての任務を全うしていないことを自覚させた孟子は、王の下へ戻ります。
【訓読文】
他日、王に見(まみ)えていわく「王の都(おおきなまち)を為(おさ)むる者、臣(われ)五人を知れり。其の罪を知れる者は、惟(ただ)孔距心のみ」とて、王の為に之(これ)を誦(と)く。
王いわく「此れ、則(すなわ)ち寡人の罪なり」と。
【現代語訳】
後日、王にお目にかかったとき、孟先生がいわれた。「王様の大きな邑を治めている地方長官を、私は五人知っていますが、その中で自らの責任を自覚しているのは、ただ孔距心だけです」といって、(孔距心との問答を)王に話した。
王は(孟子の意図を悟って)「それは(孔距心の責任ではなく)、私の責任だ」といわれた。
孟子は、地方の状況を報告しながら、王に統治者としての責任をただしています。ただし、孟子が目指すのは、法や規律で縛りながら王の意を下達する政治(これが法家の考え方で、秦が採用しました)ではなく、王の仁政が地方の長官によって地方にも及んでいくという王道政治です。地方の長官が責務を果たさないのは、王が王としての責務を果たしていないからだ、と孟子は暗に言っています。またそうした孟子の意図をくみ取れる宣王だからこそ、孟子の期待も大きかったのでしょう。
吉田松陰は、人から罪(責任を果たしていないこと)を指摘されて、それに気付きながら、自ら改めようとしないのは、もはやどうしようもない、と言います。そして、そうした人間があまりに多いと嘆いています。
松陰は、孔距心や宣王に対し、自分の罪を自覚しながら改めようとしないと、手厳しい評価を下しています。確かに、その後の宣王をみるとそうかもしれません。しかし、このときの孟子はまだ宣王に期待をかけており、「梁惠王篇」の七章から十六章に記されているような対話をしていたのだと思います。
これで、「公孫丑篇十三章」を終わります。
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