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2012年8月

公孫丑篇 十三章②

斉(さい)の平陸という町を治める大夫である孔距心(こう・きょしん)に、凶作飢饉のときに民が苦しんでいるのは、領主である彼の無策のためであり、領主としての任務を全うしていないことを自覚させた孟子は、王の下へ戻ります。

【訓読文】

他日、王に見(まみ)えていわく「王の都(おおきなまち)を為(おさ)むる者、臣(われ)五人を知れり。其の罪を知れる者は、惟(ただ)孔距心のみ」とて、王の為に之(これ)を(と)く。

王いわく「此れ、則(すなわ)ち寡人の罪なり」と。

【現代語訳】

後日、王にお目にかかったとき、孟先生がいわれた。「王様の大きな邑を治めている地方長官を、私は五人知っていますが、その中で自らの責任を自覚しているのは、ただ孔距心だけです」といって、(孔距心との問答を)王に話した。

王は(孟子の意図を悟って)「それは(孔距心の責任ではなく)、私の責任だ」といわれた。

孟子は、地方の状況を報告しながら、王に統治者としての責任をただしています。ただし、孟子が目指すのは、法や規律で縛りながら王の意を下達する政治(これが法家の考え方で、秦が採用しました)ではなく、王の仁政が地方の長官によって地方にも及んでいくという王道政治です。地方の長官が責務を果たさないのは、王が王としての責務を果たしていないからだ、と孟子は暗に言っています。またそうした孟子の意図をくみ取れる宣王だからこそ、孟子の期待も大きかったのでしょう。

吉田松陰は、人から罪(責任を果たしていないこと)を指摘されて、それに気付きながら、自ら改めようとしないのは、もはやどうしようもない、と言います。そして、そうした人間があまりに多いと嘆いています。

松陰は、孔距心や宣王に対し、自分の罪を自覚しながら改めようとしないと、手厳しい評価を下しています。確かに、その後の宣王をみるとそうかもしれません。しかし、このときの孟子はまだ宣王に期待をかけており、「梁惠王篇」の七章から十六章に記されているような対話をしていたのだと思います。

これで、「公孫丑篇十三章」を終わります。

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公孫丑篇 十三章①

前の十二章は、孟子が斉(せい)を出た後の話でしたが、この十三章では、斉にいた頃に戻ります。

【訓読文】

孟子、平陸に之(ゆ)きしとき、其の大夫に謂(い)いていわく「子(し)の持戟(じげき)の士、一日にして三たび伍(ご)を失わば、則(すなわ)ち之(これ)を去らんか否や」。

いわく「三たびを待たず」。

「然(しか)らば則ち、子(し)の伍を失えるも、亦(また)多し。凶年飢歳(きさい)に、子の民、老羸(ろうるい)は溝壑(こうがく)に転び、壮者(そうしゃ)は散じて四方に之く者幾千人なり」。

いわく「此(こ)れ距心(きょしん)の為すを得る所に非ざるなり」。

いわく「今、人の牛羊を受けて之を牧(か)う者あらば、則ち必ず之が為に牧(まきば)と芻(まぐさ)とを求めん。牧と芻とを求めて得ざれば、則ち諸(こ)れを其の人に反(かえ)かんか。抑(そもそも)、亦、立(い)ながら其の死を視んか」。

いわく「此れ則ち距心の罪なり」。

【現代語訳】

孟先生が、斉(せい)の領内にある平陸という町へ行かれた時、そこの大夫である孔距心(こう・きょしん)に対していわれた。「あなたの配下の護衛の兵士が、一日に三回も隊伍を離れたら、その兵士を罷免しますか」。

孔距心がいった。「三回も待たずに罷免します」。

孟先生がいわれた。「それならば、あなたも隊伍を離れるような、職責を果たしていないことが多くあります。凶作飢饉の年には、あなたの領内でその民は、老人や病人は溝や坑(あな)に転がり落ちて倒れており、若者は散り散りになり、四方へ去っていく者は何千人もいるではありませんか」。

孔距心がいった。「しかし、それはわたくしの為し得ることではありません(いかんともしがたいことです)」。

孟先生がいわれた。「今、人から牛や羊を預かって飼っている者がいるとします。その人は必ず、牛や羊のために、牧場と牧草とを探すでしょう。もし牧場や牧草が見つからないときは、持ち主に返すでしょうか。それとも、黙って立ったまま牛や羊が死んでいくのを見ているでしょうか」。

孔距心がいった。「これは(人民が苦しんでいるのは)、わたくしの責任です」。

平陸は斉国内の町です。孟子の時代より百年前、斉と魯が戦った場所です。孟子は斉に滞在していた時、首都の臨輜(りんし)にいて宣王の相手をしていたばかりではなく、こうして、地方を視察し、状況を宣王へ報告するとともに、施策の助言をおこなっていたのでしょう。

持戟(じげき)の士とは、戟(ほこ)を持った兵士で、護衛兵のことです。護衛兵が隊伍を離れるというのは、任務を放棄することを意味します。任務を放棄した護衛兵を許さないのであれば、領地をよく治めて民の暮らしを守るという任務を果たしていない孔距心も、当然許されません。

牛や羊を返す、というのは、王から封ぜられた領地を返上することの譬えになっています。「自分ではどうすることもできない」という孔距心に、任務を果たせないのであれば、封地を返上しなさい、さもなければ民はますます苦しみますよ、と孟子は言っているのです。孟子の譬えを聞いて、孔距心は、民が苦しんでいるのは自分の責任だ、とはじめて自覚します。

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公孫丑篇 十二章②

以前、斉(さい)にいたときは、王からの贈り物を受け取らなかったのに、宋や薛(せつ)では贈り物を受け取った孟子に、弟子の陳臻(ちんしん)はその理由を問いました。それに対する孟子の答えです。

【訓読文】

孟子いわく「皆、是(ぜ)なり。宋に在(お)るに当たりては、予(われ)、将(まさ)に遠くに行くあらんとせり。行く者には必ず贐(はなむけ)を以てす。辞(ことば)に『贐餽(おく)る』といえば、予、何為(なんす)れぞ受けざらん。薛(せつ)に在るに当たりては、予、戒心(かいしん)あり。辞に『戒(いましめ)ありと聞けり。故に兵の為に之(これ)を餽る』といえば、予、何為れぞ受けざらん。斉(せい)に於けるが若(ごと)きは、則(すなわ)ち、未だ処することあらざりき。処すること無くして之に餽るは、是(こ)れ、之に貨(まいない)するなり。(いず)くんぞ君子にして貨を以て取るべきもの有らんや」。

【現代語訳】

孟先生が答えられた。「どちらも皆、間違っていない。宋にいたときは、私は、ちょうど遠くへ旅立つ所であった。旅立つ者には必ず餞別を贈るのが礼儀である。『餞別をお贈りします』と言われたならば、どうして受け取らずにいられよう。薛(せつ)にいたときは、私は、身の危険を感じて、用心していた。『警戒されていると聞きました。警護する兵を雇うためにこれをお遣い下さい』と言われたならば、どうして受け取らずにいられよう。ところが、斉にいたときには、私は何も金を必要としていなかった。必要としていない者に金を贈るのは、賄賂である。君子が賄賂を受け取って、その心を不自由にされてなるものか」。

戒心とは用心、警戒心の意味です。薛(せつ)にいたときに、用心をしていたというのは、どういうことでしょうか。薛は斉の南東の邦(くに)で、楚に対する前線拠点になります。田嬰は、宣王の末弟という説と、宣王の父である威王の弟という説がありますが、いずれにせよ、威王のときに薛に封せられたといいますから、孟子が斉にいたとき、つまり宣王の治世には、すでに薛の領主になっています。しかも、一時期、険悪だった宣王と田嬰との仲も、すでに関係が修復していました。したがって、孟子が薛を通る際に身の危険を感じたとすれば、それは斉と薛との争いというより、斉と楚の関係悪化に伴って、薛で戦争の準備が行われたと考えるのが妥当でしょう。「梁惠王篇」二一章で、(とう)の文公が「斉は薛に城を築こうとしています。私は心配でなりません。どうしたらよいのでしょうか」と言っているのも、斉と楚が一触即発の状況であったことを言っているのではないでしょうか。

金品の受領について、孟子の方針は確固たるものでした。正当な必要性があれば受け取る、そうでなければ賄賂とみなして固辞する、極めて明快な方針です。弟子の疑問に答えることで、己の一点の曇りのなさを誇示しています。必要ならば、受け取って当然、というのは、戦国時代の慣習であり、春秋時代には「あつかましい」と思われていたかもしれません。これも、孔子と孟子が生きた時代の違いです。

これで、「公孫丑篇十二章」を終わります。

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公孫丑篇 十二章①

孟子が、贈り物を受け取ったり受け取らなかったりする、その基準はどこにあるのかを、弟子の陳臻(ちんしん)が尋ねます。

【訓読文】

陳臻(ちんしん)問いていわく「前日、斉(せい)において、王、兼金一百を餽(おく)りしも受けず。宋においては、七十鎰(いつ)を餽られて受け、薛(せつ)においては、五十鎰を餽られて受く。前日の受けざりしが是(ぜ)ならば、今日の受くるは非(ひ)なり。今日の受くるが是ならば、前日の受けざりしは非なり。夫子(ふうし)必ず此(こ)の一(いつ)に居らん」。

【現代語訳】

弟子の陳臻(ちんしん)が尋ねた。「先日、斉(せい)の国で、先生は、王から銀百鎰(いつ)を贈られたのに、固辞されました。しかし、最近、宋の国では、七十鎰を贈られて受け取られ、薛(せつ)の国でも五十鎰を贈られて受け取られました。もし、先日(斉で)固辞されたのが正しいのならば、最近(宋や薛で)受け取られたのは間違っていることになります。もし最近受け取られたのが正しいのならば、先日固辞されたのは間違っていることになります。先生のお考えは、必ずこのうちのどちらか一つにあるのでしょう(それを教えていただけませんでしょうか)」。

この章は、斉の国を離れた後の会話だと思われます。孟子に銀を贈った王は、宣王です。この記述から、斉を離れた孟子は、宋、薛と回ったことになります。宋は斉の隣国です。斉は宣王の後を継いだ王が宋を滅ぼして併合します。薛(せつ)は斉の衛星国で、当時、宣王の異母弟であった田嬰(でんえい)の所領でした。田嬰の子が、有名な孟嘗君(もうしょうくん)です。兼金は銀のこと、鎰は銀の重さで二十両に相当します。

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公孫丑篇 十一章⑥

この章では、孟子の価値観と、斉(せい)の君主・家臣との価値観がぶつかります。後者は、斉にとどまらず、戦国時代一般の価値観といえるでしょう。景丑が「内には則(すなわ)ち父子、外には則ち君臣というは、人の大倫なり(家庭内では父子の関係、家庭を出れば君臣の関係が、人が守るべき大きな道徳です)」と言っているのは、その通りです。忠孝は儒教でも重要な道徳です。しかし孟子は、君臣の関係と、具えた徳の優劣とを、同列に考えます。孟子の言葉を使えば、爵(世俗の権力)、歯(長幼の序)、徳(仁義の徳の高さ)を相対化しているのです。むしろ、戦国の世だからこそ、「徳を尊び(仁義の)道を楽しむ」のを極めることが大事で、それができた者のみが大業を成すことができるといいます。

国が統一され、社会が安定しているときであれば、世俗権力による主従関係や長幼の序を重んじることで秩序が保たれるかもしれません。しかし、弱肉強食の戦国にあっては、徳の高い者を師とし、その導きによって仁政を布(し)き、やがて王道によって天下を統(す)べるようになることが、君主にとっても、人民にとっても重要なのです。

孟子は、自分は宣王にとって必要な師であり、普通の臣下は違うと考えています。ですから、王が自分を呼びだすのではなく、王の方から(師である)自分の屋敷へ赴くべきなのです。しかしそうした孟子の態度は、景丑のような宣王の家臣の理解を得られるものではありませんでした。

貝塚茂樹は、孟子の態度は、「何か大人気ない感じがするが、これが戦国時代中期の侠客にも共通する男子の意気であった」と解説しています(講談社学術文庫『孟子』)。「孔子のような穏健で時宜に適した行動をするのとは、たいへん相違している」(同上)ことは、孟子生来の性格が、戦国時代の気風と相まったものでしょう。しかしそれが、宣王との関係が冷え込んでいく原因にもなっているのです。

吉田松陰は、この章からは、「郷党は歯に如くは莫(な)し」と「召さざる所の臣あり」の二句を挙げています。

松陰は、長州藩の人間が、学問の功利を求め、自分の才能に鼻をかける傾向があり、そのため年輩者を敬わない藩風を嘆いています。ですから、爵・歯・徳のうち、長州藩に喫緊に必要なのは、歯(長幼の序)を重んじることだといいます。

また、幕末の国歩艱難のときにあって、「召さざる所の臣」が出てこないのを、もどかしく思っています。藩主に講義する儒学者は何を話しているのだろう、それを聞いている藩主は何を考えているのだろう。そんな松陰の門下から、「召さざる所の臣」が出て、長州藩を苛烈に行動させ、維新へと回天させます。

これで、「公孫丑篇十一章」を終わります。

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公孫丑篇 十一章⑤

主君に対する基本的な礼儀がなっていないという景丑の非難に対して、世俗の権力のほかに尊ぶべきものがあり、それは長幼の序と仁義の徳であると言います。つまり諸侯である宣王といえども、年長者であり徳を具えた自分(孟子)を軽んじてはならず、孟子を呼びつけた宣王こそ礼に反する、と示唆します。さらに言えば、自分を呼びつけるのに、風邪を口実にしたやり方も、孟子には姑息に感じられたのです。

【訓読文】

「故に、将(まさ)に大いに為すあらんとするの君には、必ず召さざる所の臣ありて、謀ることあらんと欲すれば、則(すなわ)ち之に就く。其(そ)の、徳を尊び道を楽しむこと、是(か)くの如くならざれば、与(もっ)て為すあるに足らざるなり。故に湯(とう)の伊尹(いいん)におけるは、学びて後に之を臣とす。故に労せずして王たり。桓公の管仲におけるも、学びて後に之を臣とす。故に労せずして覇たり。今、天下、地は醜(たぐい)し、徳は斉(ひと)しくして、能(よ)く相尚(まさ)るものなきは、他なし。其の教うる所を臣とするを好みて、其の教えを受くる所を臣とするを好まざればなり。湯の伊尹における、桓公の管仲におけるは、則ち敢えて召さざりき。管仲すら且(かつ)猶(な)お召すべからず。而(しか)るを況(いわん)や管仲たらざる者をや」。

【現代語訳】

「ですから、大業をなそうとする君主には、必ず呼びつけにしない臣下がありました。相談したいことがあれば、主君の方から臣下の宅へ赴きました。徳を尊び(仁義の)道を楽しむことがここまでいかないと、大業を成すことはできないのです。それゆえ、(商(殷)王朝を開いた)湯王(とうおう)は伊尹(いいん)に対して、最初は師として接し(伊尹から)学んだ後に、宰相として迎えました。だからこそ、大した苦労もなく天下の王者になれたのです。(斉(せい)の君主であり、春秋時代最初の覇者であった)桓公も、管仲に対して、最初は師として学んだ後に、宰相として迎えました。だからこそ、大した苦労もなく天下の覇者になれたのです。さて今、天下の諸侯を見渡しますと、領土も似たり寄ったり、徳も似たり寄ったりで、抜きん出ている君主がいませんが、その理由はほかでもありません。君主が、自分で教えてやれるような者を臣下にしたがり、自分が教えを受けるような者を臣下にしたがらないからです。湯王は伊尹に対し、桓公は管仲に対して、決して呼びつけることはありませんでした。管仲でさえも呼びつけられませんでした。ましてや、管仲に比べられることすら心外である者(孟子のこと)を、どうして呼びつけることができましょうか」。

醜(たぐい)は類(たぐい)と同じです。斉(ひと)し、とともに、同等という意味です。「地は醜し」「徳は斉し」は、領土の広さでも君主の徳でも、抜きん出た国はないことを言っています。

「管仲たらざる者」とは、いうまでもなく孟子自身のことですが、「為(た)らざる」とは、及ばないという意味ではなく、その逆です。「公孫丑篇」の首章で、管仲と比べられたことに不満でした。自分は管仲より優れており、管仲と比較されるのは心外である、というのが孟子の本心です。その管仲ですら、桓公に召し出されなかったのですから、自分が宣王の召し出しに応じなかったのは当然である、と言いたいのです。

孟子は、自分は普通の臣下ではなく、宣王の師でもある客分だと考えています。そこには、世俗的な権力とは違う尺度で、王に勝っているという自負があります。しかしそうした孟子の態度は、景丑のような宣王の家臣の理解を得られるものではありませんでした。

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