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公孫丑篇 十一章⑤

主君に対する基本的な礼儀がなっていないという景丑の非難に対して、世俗の権力のほかに尊ぶべきものがあり、それは長幼の序と仁義の徳であると言います。つまり諸侯である宣王といえども、年長者であり徳を具えた自分(孟子)を軽んじてはならず、孟子を呼びつけた宣王こそ礼に反する、と示唆します。さらに言えば、自分を呼びつけるのに、風邪を口実にしたやり方も、孟子には姑息に感じられたのです。

【訓読文】

「故に、将(まさ)に大いに為すあらんとするの君には、必ず召さざる所の臣ありて、謀ることあらんと欲すれば、則(すなわ)ち之に就く。其(そ)の、徳を尊び道を楽しむこと、是(か)くの如くならざれば、与(もっ)て為すあるに足らざるなり。故に湯(とう)の伊尹(いいん)におけるは、学びて後に之を臣とす。故に労せずして王たり。桓公の管仲におけるも、学びて後に之を臣とす。故に労せずして覇たり。今、天下、地は醜(たぐい)し、徳は斉(ひと)しくして、能(よ)く相尚(まさ)るものなきは、他なし。其の教うる所を臣とするを好みて、其の教えを受くる所を臣とするを好まざればなり。湯の伊尹における、桓公の管仲におけるは、則ち敢えて召さざりき。管仲すら且(かつ)猶(な)お召すべからず。而(しか)るを況(いわん)や管仲たらざる者をや」。

【現代語訳】

「ですから、大業をなそうとする君主には、必ず呼びつけにしない臣下がありました。相談したいことがあれば、主君の方から臣下の宅へ赴きました。徳を尊び(仁義の)道を楽しむことがここまでいかないと、大業を成すことはできないのです。それゆえ、(商(殷)王朝を開いた)湯王(とうおう)は伊尹(いいん)に対して、最初は師として接し(伊尹から)学んだ後に、宰相として迎えました。だからこそ、大した苦労もなく天下の王者になれたのです。(斉(せい)の君主であり、春秋時代最初の覇者であった)桓公も、管仲に対して、最初は師として学んだ後に、宰相として迎えました。だからこそ、大した苦労もなく天下の覇者になれたのです。さて今、天下の諸侯を見渡しますと、領土も似たり寄ったり、徳も似たり寄ったりで、抜きん出ている君主がいませんが、その理由はほかでもありません。君主が、自分で教えてやれるような者を臣下にしたがり、自分が教えを受けるような者を臣下にしたがらないからです。湯王は伊尹に対し、桓公は管仲に対して、決して呼びつけることはありませんでした。管仲でさえも呼びつけられませんでした。ましてや、管仲に比べられることすら心外である者(孟子のこと)を、どうして呼びつけることができましょうか」。

醜(たぐい)は類(たぐい)と同じです。斉(ひと)し、とともに、同等という意味です。「地は醜し」「徳は斉し」は、領土の広さでも君主の徳でも、抜きん出た国はないことを言っています。

「管仲たらざる者」とは、いうまでもなく孟子自身のことですが、「為(た)らざる」とは、及ばないという意味ではなく、その逆です。「公孫丑篇」の首章で、管仲と比べられたことに不満でした。自分は管仲より優れており、管仲と比較されるのは心外である、というのが孟子の本心です。その管仲ですら、桓公に召し出されなかったのですから、自分が宣王の召し出しに応じなかったのは当然である、と言いたいのです。

孟子は、自分は普通の臣下ではなく、宣王の師でもある客分だと考えています。そこには、世俗的な権力とは違う尺度で、王に勝っているという自負があります。しかしそうした孟子の態度は、景丑のような宣王の家臣の理解を得られるものではありませんでした。

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