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2012年9月

公孫丑篇 十八章②

「聖人周公にも、兄である管叔に叛かれた過ちがあったのだから、失敗を恥じることはありません」と宣王のご機嫌をとった斉(せい)の大夫賈(ちんか)は、孟子に対して、王の弁明を行います

【訓読文】

孟子に見(まみ)えて、問いていわく。「周公は何人(なんぴと)ぞや」。

いわく「古(いにしえ)の聖人なり」。

いわく「管叔をして殷を監せしめたるに、管叔、殷を以(もち)いて畔(そむ)けり。諸(これ)有りしや」。

いわく「然り」。

いわく「周公は、其の将に畔かんと知りながら之(これ)をせしめたるか」。

いわく「知らざりしなり」。

「然らば、聖人も且(また)過ちあるか」。

いわく「周公は弟なり、管叔は兄なり。周公の過つも、亦、宜(むべ)ならずや。且(か)つ、古の君子は、過てば則(すなわ)ち之を改む。今の君子は、過てども則ち之に順(したが)う。古の君子は、其の過つや、日月の食するが如く、民、皆之を見、其の更(あらた)むるに及びては、民、皆之を仰ぎたり。今の君子は、豈(あに)徒(ただ)に之に順うのみならんや。又、従いて之が辞(いいわけ)を為す」。

【現代語訳】

それから賈(ちんか)は孟先生に会いに行って、こう尋ねた。「周公とはどういうお方でしょうか」。

孟先生がいわれた。「昔の聖人です」。

賈がさらに尋ねた。「周公は、兄の管叔に滅ぼした殷の遺民の監督をさせたところ、管叔は殷の民を率いて、周に叛いた、というのは本当でしょうか」。

孟先生が答えられた。「その通りです」。

賈はさらに尋ねた。「周公は、管叔が叛くことを知っていながら、任じたのでしょうか」。

孟先生が答えられた。「いえ、知りませんでした」。

そこで陳賈がいった。「そうだとすると、周公のような聖人といえども、過ちはあるということですね」。

孟先生がいわれた。「周公は弟であり、管叔は兄です。周公が兄を信じて、兄弟の情から判断を誤ったとしても、それは無理からぬことです。それに、昔の君子は、過ちがあればすぐに改めました。ところが、今の君子は、過ちがあっても、それを続けようとします。昔の君子の過ちは、日食や月食のように、隠したりはしません。過ちがあれば、民はみな知っています。しかし、すぐに改めるので、民はみな、かえって尊敬します。今の君子は、過ちをそのまま続けるだけではなく、さらに言い訳をしに来るようですね」。

「古の君子は、其の過つや、日月の食するが如く、民、皆之を見、其の更(あらた)むるに及びては、民、皆之を仰ぎたり」は、ほぼ同じ文が「論語」の「子張篇」二一章にあります。「過てば則(すなわ)ち之を改む」は、いうまでもなく、「論語」の「学而篇」八章の「過ちては則ち改むるに憚ること勿れ」からです。

孟子は、周公の「過ち」を、兄弟の情によるものとしました。しかも、管叔の謀反には、弟二人(文王の五男と八男)も加わっていました(八男については諸説あり)から、周公の心痛は如何ばかりだったでしょう。三年におよんだ反乱は、管叔の死で終わりました。

主君の過ちを正すどころか、故事を自分の都合のいいように解釈し、主君におもねる賈のような家臣をもっとも嫌います。こういう家臣が、王の目を曇らせ、仁政の路から遠ざけるのです。もちろん、賈の意見に納得して、己の過ちを改めない宣王も、孟子は批判しています。

吉田松陰は、周公の故事から、知を好む者は人を疑い過ぎる傾向があり、仁を好む者は人を信じすぎる傾向があるが、どちらかといえば、信じすぎる方がいい、といいます。信じすぎて失敗することがあっても、信じたからこそ、失敗までの道のりがあったのです。疑うくらいなら信じたい、松陰らしいですね。

これで、「公孫丑篇十八章」を終わります。

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公孫丑篇 十八章①

十七章では、燕(えん)の混乱に乗じて、斉(せい)が侵攻し、占領したところまででした。十八章は、その続きです。

【訓読文】

燕人(えんひと)畔(そむ)く。

王いわく「吾(われ)甚だ孟子に慙(は)ず」と。

賈(ちんか)いわく「王、患(うれ)うることなかれ。王は、自ら周公と孰(いず)れか仁にして且(か)つ智なりと以為(おも)えるか」。

王いわく「ああ、是(これ)何の言(い)いぞや」。

いわく「周公、管叔をして殷を監せしめたるに、管叔、殷を以(もち)いて畔きたり。知りながら之(これ)をせしむれば、是、不仁なり。知らずして之をせしむれば、是、不智なり。仁智は、周公といえども未だ之を尽くさざりき。而(しか)るを、況(いわん)や王においてをや。賈、請う。見(まみ)えて、而して之を解かん」。

【現代語訳】

燕(えん)の人々は、占領軍の斉(せい)に叛いて、(昭王をたてて)独立した。

(斉の)宣王がいわれた。「(孟子の進言を容れなかったために、こういう事態になってしまった。)孟子に対して、合わせる顔がない」。

大夫の陳賈(ちんか)がいった。「王様、ご心配することはございません。王様は、ご自分と周公と、どちらが仁者であり智者だと思われますか」。

王がいわれた。「ああ、何ということを申すのだ(周公のような聖人と比べられるはずがないではないか)」。

賈が答えた。「周公は、兄の管叔に、滅ぼした殷の遺民の監督をさせたところ、管叔は殷の民を率いて、周に叛きました。周公が、管叔が叛くことを知っていながら任じたとしたら、これは不仁ということになります。また、知らずに任じたとしたら、これは不智ということになります。このように仁と智は、周公といえども、完全ではなかったのです。ましてや王様であればなおさらです(ですから、今回のような失敗も仕方のないことで、恥じることはございません)。私にお願いがございます。私が孟子にお会いして、弁解いたすことをお命じ下さい」。

宣王が孟子に対して恥じているのは、「梁惠王篇」十七章の「もし燕国を併合しても燕の民がよろこぶようであれば、併合なさいませ。もし燕国の占領を続けると燕の民がよろこばないようであれば、併合をおやめなさいませ」、さらには、「梁惠王篇」十八章の「王様、速やかに命令を出して、捕らえた燕の老人と子供を解放してやり、燕の宝物も返還し、燕の民衆の意思を聞いて彼らの君主を立てて、斉の軍隊を撤退させることです」という孟子の進言を容れなかったからです。斉軍は、燕の人民の反抗に会い、燕から撤退せざるをえなくなりました。占領政策は失敗に終わったのです。

周公は周の文王の四男で、孔子が聖人と仰ぐ人物です。武王(文王の二男)が殷王朝を滅ぼして周王朝を建てた後、ほどなくして亡くなり、継いだ武王の子、成王がまだ幼かったため、周公が摂政になりました。管叔(文王の三男)は、「管」という地に封ぜられた「叔」(三男のこと)なので、この呼称ですが、名は鮮です(周公も名は旦といいます)。管叔は、殷の遺民を統治する任にあたっていましたが、弟である周公が王位を簒奪しようとしているのではないかと疑い、最後の殷王の遺児を立てて、周に謀反を起こしました。

この故事を使って、陳賈(ちんか)は宣王のご機嫌をとろうとします。孟子のもっとも嫌うタイプの家臣です。

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公孫丑篇 十七章②

紀元前三一四年、斉(せい)は、内乱状態にあった燕(えん)に侵攻し、これを一時併合します。宰相であった子之(しし)に王位を禅譲した前の燕王(かい)も、この混乱の中で亡くなります。

【訓読文】

或るひと問いていわく「斉(せい)に勧めて、燕(えん)を伐(う)たしむ。諸(これ)有りしか」と。

いわく「未(いま)だし。沈同(しんどう)燕伐つべきかと問いたれば、吾(われ)之(これ)に応えていえり。彼、然(しか)して之を伐ちしなり。彼、如(も)し孰(たれ)か以て之を伐つべきかといわば、則(すなわ)ち将に之に応えて、天吏たらば則ち以て之を伐つべしといわん。今、人を殺せる者あり。或るひと之を問いて、(この)人殺すべきかといわば、則ち将に之に応えて、可なりといわん。彼、如し孰か以て之を殺すべきかといわば、則ち将に之に応えて、士師たらば則ち以て之を殺すべしといわん。今、燕を以て燕を伐つ。何為(なんす)れぞ之を勧めんや」。

【現代語訳】

ある人が、孟先生に尋ねていった。「先生が、燕(えん)を伐つように斉(せい)に勧めたというのは、本当でしょうか」。

孟先生がいわれた。「そこまでは言っていません。(大夫の)沈同(しんどう)が『燕を伐ってもよいでしょうか』と聞くので、『伐ってもよいでしょう』と答えたのです。そして彼は、燕を伐つように動きました。しかし、もし彼が(続けて)『誰が燕を伐つべきでしょうか』と聞いていたならば、私は『天の使徒(仁政を布く君主、王者)であれば、燕を伐ってもいいでしょう』と答えるつもりでした。今、ここに人を殺した者がいるとします。ある人が、『この殺人者を殺してもよいでしょうか』と聞いたら、『よいでしょう』というでしょう。彼がさらに続けて、『誰が殺すべきでしょうか』と聞いたら、『士師(裁判の長官)であれば、この殺人者を殺してもいいでしょう』と答えるでしょう。今回の討伐(斉による侵攻)は、義(ただ)しくないものが義しくないものを伐つ、つまり燕が燕を伐っているのです。どうして、私がこれを勧めるでしょうか」。

金谷氏は「未(いま)だし」という表現に、孟子の言い逃れの含みがあると述べています。

孟子は、宣王が王道政治を布いてくれるのではないかという期待がありました。燕への侵攻を「よし」としたのは、孟子の「賭け」だったのではないでしょうか。もし燕の民がもろ手を挙げて、斉軍を迎え入れ、宣王に治められることを喜ぶようであれば、王道による天下統一へ一歩近づくことになります。しかし実際には、斉軍は燕で抵坑を受け、併合が失敗に終わったことが分かります。これには、占領政策に関する、孟子の進言が受け入れられなかったという事情(「梁惠王篇」十七章、十八章)もあります。「『天の使徒(仁政を布く君主、王者)であれば、燕を伐ってもいいでしょう』と答えるつもりだった」というのは、孟子の偽らざる気持ちだったと思います。

斉の侵攻の翌年、前の燕王噲(かい)の長子平(へい)が子之(しし)を倒し、斉軍を燕(えん)から撤退させ、王位に就きます。「先ず隗より始めよ」の故事成語で有名な郭隗を用いた昭王です。郭隗の人材募集策は当たり、二十年後、昭王のもとに、天才的な軍略家楽毅(がくき)が来ます。斉は、すでに宣王から湣王(びんおう)に代わっていました。紀元前二八四年、楽毅は、燕とこれに呼応した韓・魏・趙・楚の連合軍を率いて斉を攻め、斉は滅亡寸前となり、湣王も敗死します。孟子が亡くなって数年後のことです。

これで、「公孫丑篇十七章」を終わります。

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公孫丑篇 十七章①

紀元前三一七年、斉(せい)の北隣の燕(えん)で、王が宰相に王位を譲る、という「事件」が起きました。燕王噲(かい)は、宰相である子之(しし)に政治を任せきりでしたが、聖王とおだてられて、古の聖人堯・舜をまねて、子之に王位を禅譲してしまいます。しかし、子之にも統治能力はなく、さらに前三一五年になると、噲の長子平(へい)が子之を攻める兵を挙げたため、国内は内乱状態になりました。

斉の宣王は、これを機に燕を攻め取るべきか、孟子の考えを聞くよう、家臣の沈同(しんどう)に命じます。

【訓読文】

沈同(しんどう)其の私(わたくし)を以て問いていわく「燕(えん)は伐(う)つべきか」と。

孟子いわく「可なり。子(しかい)は人に燕を与うることを得ず。子之(しし)は燕を子噲より受くることを得ず。此(ここ)に仕(し)有りて、子(し)之(これ)を悦(よろこ)び、王に告げずして、私(ひそ)かに之に吾子(ごし)の禄爵を与え、夫(か)の士も亦(また)王命無くして、私かに之を子(し)より受くれば、則(すなわ)ち可ならんや。何を以てか是(これ)に異(こと)ならん」。

斉人(せいひと)、燕を伐つ。

【現代語訳】

斉(せい)の大夫沈同(しんどう)が、(本当は王に命じられたのだが)私的に聞きたいといって、「燕(えん)を伐ってもよろしいでしょうか」と尋ねた。

孟先生がいわれた。「伐ってもよいでしょう。燕王噲(かい)は、(天子の許可なく)勝手に人に燕国を与えることはできません。また、子之(しし)も勝手に燕王から国を譲り受けることはできません。例えばここに一人の役人がいて、あなたがこの者を大変気に入ったからといって、王の許可なく、勝手にこの者にあなたの俸禄や爵位を与え、当人もまた王命もなく勝手に俸禄や爵位をあなたから譲り受けたとすれば、それは許されることでしょうか。今回の燕の内紛は、これと同じことです」。

その後、斉は燕を伐った。

孟子が目指していたのは王道政治です。仁政で自国の民を慈しめば、他国の悪政に苦しむ民は、競って自国へ流れてくるでしょう。人口が増えれば国は富み、兵力も大きくなります。また、悪政に苦しむ民は、民を慈しむ君主が攻め込んでくれば、喜んでこれを迎えるでしょう。孟子の目には、燕の状況は、燕王とその宰相の義(ただ)しくない政治、つまり悪政が生んだのであり、民はそのために苦しんでいる、と映りました。ただ、その燕を斉が攻めることは、本当に王道だったのでしょうか。

吉田松陰は、「子(しかい)は人に燕を与うることを得ず。子之(しし)は燕を子噲より受くることを得ず」をとりあげます。上は天子から、下は庶人にいたるまで、土地、人民、田畑・宅地は、みな自分の私有物ではなく、必ず受け継いだものだから、勝手に人に与えてはいけないといいます。だから、幕府が自分の私有地でもないのに、箱館(函館)・下田をアメリカに与えたり、クシュンコタン(大泊)をロシアに与えたりするのは、とうてい理解できない、と断じています。孟子の言葉を、憂国の論理に使っています。

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公孫丑篇 十六章

孟子が、継母の葬儀を行うために、斉(せい)の隣国魯へ行ったときの話です。

【訓読文】

孟子、斉(せい)より魯に葬り、斉に反(かえ)るとき、贏(えい)に止まる。

充虞(じゅうぐ)謂いていわく「前日は、虞の不肖(おろか)なるを知らず、虞をして匠(しょう)を敦(あつ)くせしむ。事(こと)、厳しければ、虞あえて謂わず。今、願わくば、竊(ひそか)に謂うことあらん。木、以(はなは)だ美なるが若(ごと)し」。

いわく「古(いにしえ)は、棺椁(かんかく)に度(のり)なし。中古は棺七寸にして、椁も之(これ)に称(かな)う。天子より庶人に達(いた)る。直(ただ)に観の美を為すのみに非ず。然る後に、人心を尽くす。得ざれば以て悦(よろこび)を為すべからず。財なければ以て悦を為すべからず。之を得て、財も有れば、古の人、皆これを用いたり。吾(われ)何為(なんすれぞ)独(ひと)り然(しか)せざらんや。且(かつ)化するときまでに、土をして膚(はだえ)に親(ちか)づかしむる無きは、人の心において独り恔(こころよ)きこと無からんや。吾、之を聞けり。君子は天下の以(ゆえ)に其の親に倹(つづま)やかにせずと」。

【現代語訳】

孟先生は、(母親が亡くなったので)斉(せい)から魯へ行き葬儀を済ませて、斉(の都)へ戻る途中で、(斉の中にある)贏(えい)という町に留まられた。

そのとき弟子の充虞(じゅうぐ)が尋ねた。「先日は、不肖、この私に母君の棺(ひつぎ)をつくる監督をお命じになられました。あのときは大変急でしたので、私は強いてお尋ねしませんでした。(葬儀も終わりました)今、すこしお尋ねしたいことがございます。棺に用いた材木があまりに立派だったように思いますが、いかがでしょうか」。

孟先生がいわれた。「古代には、棺(内棺、ひつぎ)や椁(外棺、そとばこ)には規定はなかった。周代になって、棺の材は厚さ七寸、外棺もそれに合わせた厚さにするようになった。これは、天子から庶民にいたるまで同じように適用される。(私が母の棺を)このように立派にしたのは、ただ外観の美を飾るのが目的だったのではない。ここまでやってはじめて、子が親を思う心を表すことができるからである。国法で(自分の身分では)棺を立派にすることができなければ、親を思う子の心を満たすことはできないし、(国法で認められていても)立派な木材がなければ、やはり、親を思う子の心を満たすことはできない。国法でも許され、木材も手に入ったならば、昔の人は誰でも立派な木材を用いて、棺と椁を作ったのである。私のみがそうしないわけはなかろう。しかも、親の身体が土に変わるまで、土が親の肌に触れないように(棺と椁を厚く)するのは、子の心を快くさせることではないか。私はこのように聞いている。『君子は天下のためといって、親にけちったりしない』と」。

孟子の継母の葬儀については、「梁惠王篇」の終章で、「孟子の後の喪は前の喪に(こ)えたり」(孟子は、母の葬式を、その前に行った父の葬式よりもりっぱなものにしました)と、魯公の家来に非難されています。男尊女卑の時代背景からすると、母親の葬儀を父親のそれより立派なものにするのは、良くないことだとされたのです。しかし孟子は、父親が亡くなったときに比べて、自分の収入が多くなったのだから、母親の葬儀の方が立派になるのは当然であるとします。つまり、子は、そのときできる限りのことをしてあげることで心を尽くすのが、正しい孝行のあり方だと考えていたからです。

この章で問題となった、棺やその外箱の厚さも、子としてできる限りのことをする、という点で一貫しています。世間の目を気にして質素にすることはない、というのが孟子の態度です。

これで、「公孫丑篇十六章」を終わります。

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公孫丑篇 十五章

斉(せい)に隣接する小国滕(とう)の君主が薨去しました。孟子は斉王の正使として、滕を弔問します。

【訓読文】

孟子、斉(せい)に卿(けい)たりしとき、出でて滕(とう)に弔う。王、蓋(こう)の大夫王驩(おうかん)をして輔行(ほこう)たらしむ。王驩、朝暮(ちょうぼ)に見(まみ)えしも、斉と滕の路(みち)を反(ゆきき)して、未だ嘗(かつ)て之と行事(こうじ)を言わざりき。

公孫丑いわく「斉の卿の位は小となさず。斉と滕の路は近しとなさず。之を反して、未だ嘗てともに行事を言わざるは何ぞや」。

いわく「夫(かれ)、既に之を治むる或り。予(われ)何をか言わんや」。

【現代語訳】

孟先生が、斉(せい)の卿(けい)であったとき、王の正使として、滕(とう)に弔問に行かれた。王は、蓋(こう)の大夫、王驩(おうかん)を副使として、孟先生に随行させた。道中、王驩は孟先生に朝晩会見したが、斉から滕へ行って帰ってくる間、使節の仕事のことは一言も話をしなかった。

(それを不思議に思った)公孫丑が尋ねた。「先生は、卿の身分ですから、低くない地位にいらっしゃいます。また斉と滕の道のりは、けっして近いものではありません。それなのに、行って帰ってくる間、一度も使節の仕事についてお話しされなかったのは、何か理由があってのことでしょうか」。

孟先生が答えられた。「使節のことは、彼がすべてしっかりやってくれている。私がとくに言うことはなかったからだよ」。

春秋戦国時代、卿(けい)も大夫(たいふ)も領地を持つ貴族ですが、卿は大臣クラス、大夫は卿の下位で長官クラスです。孟子は、もちろん斉の貴族ではありませんから、客分の大臣ということです。「之を反して、未だ嘗てともに行事を言わざるは何ぞや」と尋ねた公孫丑は、孟子の弟子として、この使節に同行したのでしょう。毎日朝晩、王驩(おうかん)が孟子に挨拶に来るのに、正使・副使である二人が弔問の段取りなどを話さないので、不思議に思ったのです。

言葉の表面通りとれば、「王驩が段取りをすべて整えてくれていたので、自分は何も指示しなくてもよかった」となりますが、儒家は儀礼にうるさいはずです。ましてや君主が亡くなった隣国への弔問ですから、孟子が王驩に任せきりというのは、通常では考えられないことです。

実は、王驩は斉(せい)の宣王の寵臣で、しかも孟子とはそりの合わない人物でした。孟子を正使としながら、王驩を副使に付けたのは、宣王が人間関係を気にしない性格であったのか、孟子の仲が冷めていたのか、のどちらかですが、おそらく後者でしょう。いずれにせよ、孟子が面白かろうはずはありません。道中、儀礼について、王驩と一言も話をしなかったのは、不快感を表したかったのだと思います。もちろん、そのことは王驩から宣王に報告されたはずです。こうして、宣王と孟子の関係は、ますます悪化していくのでした。

「孟子を読む」の鈴元氏は、孟子の答えを、「弔問もひとつの外交であり、外交とは人物どうしの付き合いであるから、実務は王驩に任せ、自分は人としての付き合いを担当したのだ」と解釈しています。斉にとって外国人である孟子が、宣王の代理として、弔問の正使になるのは、大変名誉なことです。宣王の付託を受けている孟子の自負から出た言葉になります。

これで、「公孫丑篇十五章」を終わります。

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公孫丑篇 十四章②

前述のように、孟子には召さざる所の臣」という自負があります。実際、孟子は宣王から特定の役職を与えられたわけではなく、王の顧問として振舞っていました。しかし斉(せい)の多くの人には、そうした事情は分かりません。孟子が蚳鼃に「どうしてまだ諫言しないのか」と責めたことは、斉の国のためにも、蚳鼃個人のためにも、良いことをしたと評価しましたが、実際、蚳鼃の諫言が用いられず、蚳鼃が辞職すると、その原因を作った孟子には責任はないのか、と孟子を非難します。

「自らためにせる所以は」を、「孟子が自分の役目を果たしているかどうかについては」と解釈する説もありますが、孟子は普段より、宣王を王道に導くために、王の耳に痛いことも言っていますから、役目を果たしていないわけではありません。ここは、蚳鼃の士師としての責任は追及しながら、その結果に対する自分の責任には知らぬふりをしていることを非難しているのでしょう。

それに対する孟子の答えは明快です。自分は、士師の責任を果たしていない者を責めたのであって、その者の諫言が用いられるかどうかにまで責任は持たない。「召さざる所の臣」である自分は、王の助言者なのだから、本件に関して責任をとる必要ない、というものでした。

貝塚茂樹は、孟子の弁解は、論理的に成立するとしながらも、「道徳的な責任」について、表面上けろりとしているところを問題にしています。孟子も、おそらく友人であった蚳鼃に対し、心中は「すまなかった」と思いつつ、他人から非難されると「身構えて反駁する」。孔子に比べて、孟子は理に勝ちすぎ、情に欠ける点を指摘します。

吉田松陰は、「今、既に数月なるも、未だ以て言うべからざるか」の「未」の一字が、非常に意味が深いといいます。数ヵ月も経って一言もないのは、初めて官を拝命しその職をよく知っていないために諫言する余裕がないのか、同僚や先輩に遠慮するところがあるのか、まだ諫言するほどの大きな問題が生じていないのか、と孟子は蚳鼃の心中を推察したのだろうと、解釈します。その上で、孟子が彼に注意した要点は、時機を待って言おうと思っていると、言うべき時機を逸してしまう、事の大小に関係なく一日も早く申し上げよ、ということだといいます。松陰の指摘は、われわれの仕事に対する姿勢にも当てはまります。

これで、「公孫丑篇十四章」を終わります。

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公孫丑篇 十四章①

十一章で孟子は、自らを「召さざる所の臣」とし、斉の宣王に仕えていても、家臣・大夫とは違うと言いました。この章も孟子の自負にまつわるエピソードが述べられます。

【訓読文】

孟子、蚳鼃(ちあ)に謂(い)いていわく「子(し)の霊丘(れいきゅう)を辞して、士師を請(こ)いしは、似たり。其の以て言うべきが為(ため)ならん。今、既に数月なるも、未だ以て言うべからざるか」。

蚳鼃、王を諌めて用いられず。臣たるを致して去る。

斉人(せいひと)いわく「蚳鼃のためにせる所以(ゆえん)は、則(すなわ)ち善きも、自らためにせる所以は、則ち吾(われ)知らざるなり」。

公都子(こうとし)以て告ぐ。

いわく「吾、之を聞けり。『官守あるものは、其の職を得ざれば則ち去り、言責あるものは、其の言を得ざれば則ち去る』と。我には官守なく、我には言責なかれば、則ち吾が進退、豈(あに)綽(しゃくしゃく)然として余裕あらざらんや」。

【現代語訳】

孟先生が、斉(せい)の大夫である蚳鼃(ちあ)に対していわれた。「あなたが霊丘(れいきゅう、地名)の長官を辞めて、士師を希望したのは、道を行うのに似て、大変りっぱなことでした。(中央の要職に就いて)王様に諫言できるからなのでしょう。しかし、今、就任されてから数ヵ月になりますが、まだお諌めする案件がないのですか」。

(孟子に促されて、)蚳鼃は王様に諫言したが、用いられなかった。そこで職を辞して朝廷を去った。

この話を聞いた斉(せい)の人々はこう噂した。「孟子が蚳鼃のためにしたことはよいことであったが、孟子自身の処し方としてはどうであろうか」。

公都子(こうとし)が、人々の噂を孟先生に告げた。

孟先生がいわれた。「私は聞いている。『官職がある者は、その役職の責任が果たせない場合は辞職し、言責のある者は、その諫言の責任が果たせない場合は辞職すべきである』と。私は斉の家臣や大夫ではないので、役職の責任もなければ諫言の責任もない。私の進退は、ゆったりとしていて、余裕があるのが当たり前ではないか」。

士師は、裁判や監獄を司る長官ですから、司法長官といっていいでしょう。蚳鼃(ちあ)は、霊丘という地方の長官を辞めて、中央の長官になったのですから、王様へ諫言できる立場になったわけです。

公都子は、孟子の弟子のひとりです。「公都」が姓になります。

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