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公孫丑篇 十六章

孟子が、継母の葬儀を行うために、斉(せい)の隣国魯へ行ったときの話です。

【訓読文】

孟子、斉(せい)より魯に葬り、斉に反(かえ)るとき、贏(えい)に止まる。

充虞(じゅうぐ)謂いていわく「前日は、虞の不肖(おろか)なるを知らず、虞をして匠(しょう)を敦(あつ)くせしむ。事(こと)、厳しければ、虞あえて謂わず。今、願わくば、竊(ひそか)に謂うことあらん。木、以(はなは)だ美なるが若(ごと)し」。

いわく「古(いにしえ)は、棺椁(かんかく)に度(のり)なし。中古は棺七寸にして、椁も之(これ)に称(かな)う。天子より庶人に達(いた)る。直(ただ)に観の美を為すのみに非ず。然る後に、人心を尽くす。得ざれば以て悦(よろこび)を為すべからず。財なければ以て悦を為すべからず。之を得て、財も有れば、古の人、皆これを用いたり。吾(われ)何為(なんすれぞ)独(ひと)り然(しか)せざらんや。且(かつ)化するときまでに、土をして膚(はだえ)に親(ちか)づかしむる無きは、人の心において独り恔(こころよ)きこと無からんや。吾、之を聞けり。君子は天下の以(ゆえ)に其の親に倹(つづま)やかにせずと」。

【現代語訳】

孟先生は、(母親が亡くなったので)斉(せい)から魯へ行き葬儀を済ませて、斉(の都)へ戻る途中で、(斉の中にある)贏(えい)という町に留まられた。

そのとき弟子の充虞(じゅうぐ)が尋ねた。「先日は、不肖、この私に母君の棺(ひつぎ)をつくる監督をお命じになられました。あのときは大変急でしたので、私は強いてお尋ねしませんでした。(葬儀も終わりました)今、すこしお尋ねしたいことがございます。棺に用いた材木があまりに立派だったように思いますが、いかがでしょうか」。

孟先生がいわれた。「古代には、棺(内棺、ひつぎ)や椁(外棺、そとばこ)には規定はなかった。周代になって、棺の材は厚さ七寸、外棺もそれに合わせた厚さにするようになった。これは、天子から庶民にいたるまで同じように適用される。(私が母の棺を)このように立派にしたのは、ただ外観の美を飾るのが目的だったのではない。ここまでやってはじめて、子が親を思う心を表すことができるからである。国法で(自分の身分では)棺を立派にすることができなければ、親を思う子の心を満たすことはできないし、(国法で認められていても)立派な木材がなければ、やはり、親を思う子の心を満たすことはできない。国法でも許され、木材も手に入ったならば、昔の人は誰でも立派な木材を用いて、棺と椁を作ったのである。私のみがそうしないわけはなかろう。しかも、親の身体が土に変わるまで、土が親の肌に触れないように(棺と椁を厚く)するのは、子の心を快くさせることではないか。私はこのように聞いている。『君子は天下のためといって、親にけちったりしない』と」。

孟子の継母の葬儀については、「梁惠王篇」の終章で、「孟子の後の喪は前の喪に(こ)えたり」(孟子は、母の葬式を、その前に行った父の葬式よりもりっぱなものにしました)と、魯公の家来に非難されています。男尊女卑の時代背景からすると、母親の葬儀を父親のそれより立派なものにするのは、良くないことだとされたのです。しかし孟子は、父親が亡くなったときに比べて、自分の収入が多くなったのだから、母親の葬儀の方が立派になるのは当然であるとします。つまり、子は、そのときできる限りのことをしてあげることで心を尽くすのが、正しい孝行のあり方だと考えていたからです。

この章で問題となった、棺やその外箱の厚さも、子としてできる限りのことをする、という点で一貫しています。世間の目を気にして質素にすることはない、というのが孟子の態度です。

これで、「公孫丑篇十六章」を終わります。

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