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公孫丑篇 十八章①

十七章では、燕(えん)の混乱に乗じて、斉(せい)が侵攻し、占領したところまででした。十八章は、その続きです。

【訓読文】

燕人(えんひと)畔(そむ)く。

王いわく「吾(われ)甚だ孟子に慙(は)ず」と。

賈(ちんか)いわく「王、患(うれ)うることなかれ。王は、自ら周公と孰(いず)れか仁にして且(か)つ智なりと以為(おも)えるか」。

王いわく「ああ、是(これ)何の言(い)いぞや」。

いわく「周公、管叔をして殷を監せしめたるに、管叔、殷を以(もち)いて畔きたり。知りながら之(これ)をせしむれば、是、不仁なり。知らずして之をせしむれば、是、不智なり。仁智は、周公といえども未だ之を尽くさざりき。而(しか)るを、況(いわん)や王においてをや。賈、請う。見(まみ)えて、而して之を解かん」。

【現代語訳】

燕(えん)の人々は、占領軍の斉(せい)に叛いて、(昭王をたてて)独立した。

(斉の)宣王がいわれた。「(孟子の進言を容れなかったために、こういう事態になってしまった。)孟子に対して、合わせる顔がない」。

大夫の陳賈(ちんか)がいった。「王様、ご心配することはございません。王様は、ご自分と周公と、どちらが仁者であり智者だと思われますか」。

王がいわれた。「ああ、何ということを申すのだ(周公のような聖人と比べられるはずがないではないか)」。

賈が答えた。「周公は、兄の管叔に、滅ぼした殷の遺民の監督をさせたところ、管叔は殷の民を率いて、周に叛きました。周公が、管叔が叛くことを知っていながら任じたとしたら、これは不仁ということになります。また、知らずに任じたとしたら、これは不智ということになります。このように仁と智は、周公といえども、完全ではなかったのです。ましてや王様であればなおさらです(ですから、今回のような失敗も仕方のないことで、恥じることはございません)。私にお願いがございます。私が孟子にお会いして、弁解いたすことをお命じ下さい」。

宣王が孟子に対して恥じているのは、「梁惠王篇」十七章の「もし燕国を併合しても燕の民がよろこぶようであれば、併合なさいませ。もし燕国の占領を続けると燕の民がよろこばないようであれば、併合をおやめなさいませ」、さらには、「梁惠王篇」十八章の「王様、速やかに命令を出して、捕らえた燕の老人と子供を解放してやり、燕の宝物も返還し、燕の民衆の意思を聞いて彼らの君主を立てて、斉の軍隊を撤退させることです」という孟子の進言を容れなかったからです。斉軍は、燕の人民の反抗に会い、燕から撤退せざるをえなくなりました。占領政策は失敗に終わったのです。

周公は周の文王の四男で、孔子が聖人と仰ぐ人物です。武王(文王の二男)が殷王朝を滅ぼして周王朝を建てた後、ほどなくして亡くなり、継いだ武王の子、成王がまだ幼かったため、周公が摂政になりました。管叔(文王の三男)は、「管」という地に封ぜられた「叔」(三男のこと)なので、この呼称ですが、名は鮮です(周公も名は旦といいます)。管叔は、殷の遺民を統治する任にあたっていましたが、弟である周公が王位を簒奪しようとしているのではないかと疑い、最後の殷王の遺児を立てて、周に謀反を起こしました。

この故事を使って、陳賈(ちんか)は宣王のご機嫌をとろうとします。孟子のもっとも嫌うタイプの家臣です。

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