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公孫丑篇 十五章

斉(せい)に隣接する小国滕(とう)の君主が薨去しました。孟子は斉王の正使として、滕を弔問します。

【訓読文】

孟子、斉(せい)に卿(けい)たりしとき、出でて滕(とう)に弔う。王、蓋(こう)の大夫王驩(おうかん)をして輔行(ほこう)たらしむ。王驩、朝暮(ちょうぼ)に見(まみ)えしも、斉と滕の路(みち)を反(ゆきき)して、未だ嘗(かつ)て之と行事(こうじ)を言わざりき。

公孫丑いわく「斉の卿の位は小となさず。斉と滕の路は近しとなさず。之を反して、未だ嘗てともに行事を言わざるは何ぞや」。

いわく「夫(かれ)、既に之を治むる或り。予(われ)何をか言わんや」。

【現代語訳】

孟先生が、斉(せい)の卿(けい)であったとき、王の正使として、滕(とう)に弔問に行かれた。王は、蓋(こう)の大夫、王驩(おうかん)を副使として、孟先生に随行させた。道中、王驩は孟先生に朝晩会見したが、斉から滕へ行って帰ってくる間、使節の仕事のことは一言も話をしなかった。

(それを不思議に思った)公孫丑が尋ねた。「先生は、卿の身分ですから、低くない地位にいらっしゃいます。また斉と滕の道のりは、けっして近いものではありません。それなのに、行って帰ってくる間、一度も使節の仕事についてお話しされなかったのは、何か理由があってのことでしょうか」。

孟先生が答えられた。「使節のことは、彼がすべてしっかりやってくれている。私がとくに言うことはなかったからだよ」。

春秋戦国時代、卿(けい)も大夫(たいふ)も領地を持つ貴族ですが、卿は大臣クラス、大夫は卿の下位で長官クラスです。孟子は、もちろん斉の貴族ではありませんから、客分の大臣ということです。「之を反して、未だ嘗てともに行事を言わざるは何ぞや」と尋ねた公孫丑は、孟子の弟子として、この使節に同行したのでしょう。毎日朝晩、王驩(おうかん)が孟子に挨拶に来るのに、正使・副使である二人が弔問の段取りなどを話さないので、不思議に思ったのです。

言葉の表面通りとれば、「王驩が段取りをすべて整えてくれていたので、自分は何も指示しなくてもよかった」となりますが、儒家は儀礼にうるさいはずです。ましてや君主が亡くなった隣国への弔問ですから、孟子が王驩に任せきりというのは、通常では考えられないことです。

実は、王驩は斉(せい)の宣王の寵臣で、しかも孟子とはそりの合わない人物でした。孟子を正使としながら、王驩を副使に付けたのは、宣王が人間関係を気にしない性格であったのか、孟子の仲が冷めていたのか、のどちらかですが、おそらく後者でしょう。いずれにせよ、孟子が面白かろうはずはありません。道中、儀礼について、王驩と一言も話をしなかったのは、不快感を表したかったのだと思います。もちろん、そのことは王驩から宣王に報告されたはずです。こうして、宣王と孟子の関係は、ますます悪化していくのでした。

「孟子を読む」の鈴元氏は、孟子の答えを、「弔問もひとつの外交であり、外交とは人物どうしの付き合いであるから、実務は王驩に任せ、自分は人としての付き合いを担当したのだ」と解釈しています。斉にとって外国人である孟子が、宣王の代理として、弔問の正使になるのは、大変名誉なことです。宣王の付託を受けている孟子の自負から出た言葉になります。

これで、「公孫丑篇十五章」を終わります。

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