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2012年11月

公孫丑篇 二十一章①

孟子はとうとう斉(せい)を去りました。宣王の孟子への信頼が厚かっただけに、斉の家臣からのやっかみを受けたにちがいありません。そうした連中は、王と孟子の関係が良好な時は黙っていますが、いざ孟子が職を辞することになると、孟子を悪くいい始めます。

【訓読文】

孟子、斉(せい)を去る。尹士(いんし)、人に語りていわく「王の湯(とう)・武(ぶ)為(た)るからざるを識(し)らざれば、則(すなわ)ち、是(これ)不明なり。其の不可なるを識りて、然(しか)も且(か)つ至れるならば、則ち、是、沢(たく)を干(もと)むるなり。千里にして王に見(まみ)え、遇(あ)わざるが故に去るに、三宿して後に昼(ちゅう)を出(い)ずるは、是、何の濡滞(じゅたい)ぞや。士は則ち玆(これ)を悦(よろこ)ばず」と。高子(こうし)、以て告ぐ。

【現代語訳】

孟先生が、ついに斉(せい)国を去られた。(斉の家臣の)尹士(いんし)という者が、人にこう語った。「宣王に、商の湯王(とうおう)や周の武王のように天下を統一できるだけの器量がないことが分からないで、斉に来たとすれば、孟子はそれだけ不明な人であったということになる。また、宣王に器量がないことを知りながら、斉に来たとすれば、俸禄を求めて来たことになる。千里の遠方から王に会いに来て、王と意見が合わないからといって去ったのに、(都の郊外の)昼(ちゅう)に三泊もして、ようやく出立するとはなんとぐずぐずしていて未練たらしいのだろう。私は、これを快く思いませんね」。(孟子の門人である)高子(こうし)が、孟先生にこの話を伝えた。

沢(たく)は、恩徳(めぐみ、なさけ)、俸禄・給与のことです。濡滞(じゅたい)は、とどまり、とどこおる、ことから、ぐずぐずするという意味です。

そもそも、この尹士(いんし)という家臣は、主君である宣王を「商の湯王(とうおう)や周の武王のように天下を統一できるだけの器量がない」という不忠者です。他国出身の孟子が、湯王や武王になれる素質(慈悲の心)があるとみて、宣王に期待をかけたのです。家臣であれば、主君をそれほど高く評価してくれる孟子を称賛こそすれ、不明だとか、金目当てなどというべきではありません。まさに小人(しょうじん)です。

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公孫丑篇 二十章②

孟子を斉(せい)に引き留めようと訪ねた人の説得を、横になったまま、聴いているのか聴いていないのか、何も応えないままの孟子。これに腹を立てて、立ち上がった人に向かって、孟子が最後に言ったのは、「貴方の方が私との縁を絶とうとしているのでしょうか、それとも、私の方が貴方との縁を絶とうとしているのでしょうか」という言葉でした。ここは順序を逆にして、「私のこの態度が、貴方との縁を絶とうとしているのではなく、これまでの貴方の、そして宣王の私への対応が、縁を絶とうとしているのです」とする方が分かりやすいかもしれません。

宣王がその人を、孟子の宿舎まで派遣したとしたら、孟子と親しかった人でしょう。その人が自主的に行ったとしたら、なおさらです。さらにいえば、宣王と孟子の関係がだんだん冷えてきたときに、間に立って取り持てる人だったに違いありません。それだけに、孟子からすれば、何故今頃になって、という気持ちでいっぱいだったでしょう。宣王や(孟子を訪ねた)その人が、もっと早く、魯の穆公や賢人たちが子思のことを慮ったのと同じくらいに、孟子のことを大事と思ってくれたら、自分は斉国に留まっていただろうに、というのが孟子の本心です。

たしかに、身を清め、つつしんで説得にあたる相手を前にして、きちんと座りもしないのは、礼に反します。およそ儒者のすることではありません。宣王とその人の誠意の薄さを責めるのに、孟子は非礼をもって表現しました。孔子なら、決してそういう手段はとらなかったでしょう。このことをもって、孟子を傲慢な人と見るか、孟子は心を率直に出す人と見るかは、分かれるところです。

吉田松陰も、この章では、同じく「子、長者を絶つか、長者、子を絶つか」を取り上げています。松陰は、君子の議論は、形式的な善し悪しではなく、心のありようをいう、と述べています。表面ばかりを取り繕うのではなく、自分の内面に仁をしっかり持っていなければ、人は受け容れてくれないと言います。人に誤解されることを恐れず、心を素直に出すのは、松陰の生き方でもありました。松陰の場合は、それで多くの人に愛されたのです。

これで、「公孫丑篇二十章」を終わります。

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公孫丑篇 二十章①

宣王は、孟子を引き留めるのに、都の中心に住まわせ、弟子の養成に十分な厚禄を出すという条件を示しましたが、孟子は断りました。ついに孟子は、斉(せい)の都、臨淄を出発します。

【訓読文】

孟子、斉(せい)を去らんとして、昼(ちゅう)に宿す。王の為に行(こう)を留めんと欲する者あり。坐して言えるに、応えずして几(き)に隠(よ)りて臥(ふ)せり。客、悦(よろこ)ばずしていわく「弟子(ていし)、斉宿(さいしゅく)して、而して後(のち)に敢えて言えるも、夫子(ふうし)臥して聴きたまわず。請う、復(また)敢えて見(まみ)ゆること勿(なか)らん」。

いわく「坐せよ。我、明らかに子(し)に語(つ)げん。昔者(むかし)、魯の繆公(ぼくこう)、子思(しし)の側(かたわら)に人なければ、子思を安(やす)んずること能(あた)わず。泄柳(せつりゅう)・申詳(しんしょう)、繆公の側に人なければ、其の身を安んずること能わず。子、長者の為に慮(おもんばか)りて、子思に及ばず。子、長者を絶つか、長者、子を絶つか」。

【現代語訳】

孟先生は、斉(せい)を去ろうとして、都の郊外にある昼(ちゅう)という町に泊られた。斉の宣王のために孟先生が去るのを引き留めようとする人がいた。その人は、きちんと座って、引き留めるために話をしたが、孟先生は何も応えず、脇息(ひじかけ)にもたれて横になったままであった。その人もさすがに立腹して、「私は、身を清めて、かしこみつつしんでから、あえてこのように申し上げたのです。しかし先生は、横になったまま、聴こうとなさらない。(もう我慢なりません)もはや、もう二度とお目にかかることはございますまい」と言って、立ち上がった。

そこで孟先生はいわれた「まぁ、お座りなさい。理由(わけ)をお話ししましょう。昔、魯の穆公(ぼくこう)は、子思(しし)の側に接待の人を付けていなければ、子思を引き留めておけるか心配でなりませんでした。賢者といわれていた、泄柳(せつりゅう)や申詳(しんしょう)も、穆公の側に(子思のような)立派な人物がいなければ、心配でなりませんでした。貴方が、この年寄りのために配慮して下さるのはありがたいが、それは穆公や泄柳・申詳が子思に配慮したことにはとても及びません。ということは、(いまは)貴方の方が私との縁を絶とうとしているのでしょうか、それとも、私の方が貴方との縁を絶とうとしているのでしょうか」。

几(き)は脇息です。斉宿は、ものいみして、一夜を過ごすという意味です。孟子を訪ねた人は、身を清め、一夜を過ごした後に、翌日、孟子に会ったと思われます。

子思(しし)は、孔子の孫で、孟子は、子思の孫弟子にあたります。穆公(ぼくこう)は魯の第三十代の君主で、名君でした。穆公が君主に就いたのは紀元前四一五年、子思は紀元前四〇二年頃亡くなっていますから、子思が穆公の側にいたのは、その晩年だったのでしょう。泄柳(せつりゅう)も申詳(しんしょう)も、魯の賢人です。申詳は、孔子の高弟の子です。長者は、年寄りのこと、ここでは孟子自身を指します。

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公孫丑篇 十九章③

宣王は、孟子に都の中心に住まわせ、厚禄をもって遇することで、斉(せい)に引き留めようとします。それに対する孟子の答えです。

【訓読文】

孟子いわく「然り。夫(か)の時子(じし)、悪(いずく)んぞ其の不可なるを知らんや。如(も)し予(われ)をして富を欲せしむれば、十万を辞して万を受く。是(こ)れ、富を欲すと為さんや。季孫いわく『異なるかな子叔疑(ししゅくぎ)。己(おのれ)をして政(まつりごと)を為さしめ、用いられざれば則(すなわ)ち亦(また)已(や)めんのみ。又(また)其の子弟をして卿(けい)たらしむ』と。人、亦、(たれ)か富貴を欲せざらん。而(しか)るに、独り富貴の中(うち)に於いて、龍断(ろうだん)を私(わたくし)するものあり。古(いにしえ)の市(あきない)を為すや、其の有(も)てる所を以て、其の無き所の者に易(か)え、有司(ゆうし)は之(これ)を治むるのみ。賤(いや)しき丈夫(おとこ)あり。必ず龍断を求めて之に登り、以て左右を望みて市利を罔(あみ)せり。人、皆、賤しと以為(おも)い、故に従いて之を征(ぜい)せり。商(あきんど)を征するは、此の賤しき丈夫より始まれり」。

【現代語訳】

孟先生がいわれた。「そうか。あの時子(じし)では、私がそうするわけにはいかないことが分からないだろう。もし私が富を欲しいのならば、どうしてこれまで十万鐘(しょう)の禄を断って、一万鐘の禄を受け取ることがあろうか。これでも(私が)富を欲している人間だといえるだろうか。季孫(きそん)氏がこういっている。『おかしな男だ、子叔疑(ししゅくぎ)は。自分が卿(けい)になって政治を行った(が、やがて用いられなくなった)。政治の任に当たる者は、用いられなくなったら辞職するだけである。それなのに彼は、(自分が用いられなくなった後)子弟を卿の地位につけた(。これはまったくおかしなことである)』と。人は誰しもが富貴を望むものである。しかし子叔疑は、富貴のなかにあって、これをひとり占めしようとするやり方である。昔の商いをする者は、自分に余っているものを、不足しているものと交換していた。役人はこれを(不正が行われていないか)監督するだけであった。だがあるとき、ひとりの欲深い男があらわれ、必ず小高い丘に登って、左右を見回して、(安く売られているものを買って、高く買われているところで売ることで)利益を独占した。人は皆、彼を卑劣だと思い、役人も人々の憎しみをもっともだと考えて、彼に課税するようになった。商人に税をかけるのは、この欲深な男から始まったのである」。

征は、税をとりたてることです。「壟(この章では龍)」は小高い丘のことで、「壟断」はそこの切り立った所、という意味です。崖の上から市場の様子を見回して、自分に都合のいい取引をして利益を独占していたのでしょう。「壟断する」という語は、『孟子』で使われているこの故事に由来しています。

孟子は、富で自分をつなぎとめようという宣王の考えが残念でならなかったに違いありません。自分が斉(せい)を去るのは、禄に不足があったわけではなく、自分の提言が用いられなくなったためです。「用いらざれば則(すなわ)ち亦(また)已(や)めんのみ」とは、孟子が宣王にいいたかった言葉です。自分が用いられずに辞する以上、自分の弟子たちを仕えさせようというのは、「壟断を私する」ことなのです。宣王に期待をしていただけに、「何故分かってくださらぬのか」という気持ちも強かったのでしょう。

これで、「公孫丑篇十九章」を終わります。

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公孫丑篇 十九章②

宣王が「これからも引き続いて、先生にお会いすることはできますでしょうか」と問うたのに対し、孟子が「是非にとお願いしなかっただけで、もとよりそれは私も願っていることです」と答えたので、数日後、王は家臣を呼んで、孟子を引き留めるように依頼します。

【訓読文】

他日、王は時子(じし)に謂いていわく「我、国(みやこ)に中(もなか)にして孟子に室(いえ)を授け、弟子を養うに万鐘(ばんしょう)を以てし、諸大夫・国人(こくじん)をして皆、式(きょうしょく)する所あらしめんと欲す。子(し)、蓋(なん)ぞ我が為に之を言わざる」。

時子、陳子(ちんし)に因(よ)りて、以て孟子に告げしむ。

【現代語訳】

他日、王は時子(じし)にいわれた。「余は、都の中心に孟子のために邸宅を与え、弟子たちの養成費として一万鐘(しょう)の扶持し、大夫や国人(こくじん)たちに孟子を手本とするよう、敬わせたいと思う。どうか余のために、このことを話してきてはくれまいか」。

時子は、孟子の弟子の陳子(ちんし)にたのんで、孟子に王の言葉を伝えた。

国は国都のこと、すなわち、斉(せい)の都である臨です。鐘(しょう)は、禄高を測る単位ですが、どのくらいの容積かよくわかりません。いずれにせよ、一万鐘は大変高い禄高に違いありません。式(きょうしょく)とは、尊重して手本とする意です。陳子(ちんし)は、孟子の弟子の陳臻(ちんしん)です。

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