« 2012年11月 | トップページ | 2013年1月 »

2012年12月

公孫丑篇 二十三章

「公孫丑篇」の終章です。首章と第二章で登場した弟子の公孫丑が、この章で再び孟子に問います。

【訓読文】

孟子斉(せい)を去りて休(きゅう)に居る。公孫丑、問いていわく「仕えて禄を受けざるは古」いにしえ)の道か」。

いわく「非なり。崇(すう)において吾(われ)王に見(まみ)ゆることを得、退きて去らんとするの志あり。変(いつわ)るを欲せざるが故に受けざりしなり。継いで師命(しめい)ありて、以て請うべからず。斉に久しきは我が志に非ざりしなり」。

【現代語訳】

孟先生が斉(せい)国を去って、帰国の途中で、休(きゅう)という町におられたとき、弟子の公孫丑が尋ねた。「先生は斉におられたとき、王に仕えていながら、禄を受けられませんでした。これは昔からの正しい道なのでしょうか」。

孟先生がこたえられた。「いや、そうではない。崇(すう)で、初めて宣王にお目にかかったときから、(自分の意見が容れられないことを察して)斉を去るつもりであった。王をいつわりたくなかったので、禄を受けなかったのだ。またまもなく戦争が始まって、国家の一大事になったので、暇乞いをすることができなくなったのだ。だから、こんなに長く斉にいたのは、私の本意ではなかったのだ」。

変辞(いつわりのことば)という語がありますが、孟子の回答の中の「変」も、「いつわる」と読むのが通説です。「師」は軍隊の意ですから、「師命」は軍隊を出動させる命令、すなわち戦争を始めることです。ここでは、燕(えん)へ侵攻したことを指します。

孟子が斉に来て宣王と会ったのは、魏(梁)の惠王が亡くなって、後を継いだ襄王に失望した後ですから、紀元前三一八年だったと思われます。このとき、宣王は即位二年目でした。それから孟子は足かけ七年ほど、客卿として、宣王の政治顧問を務めました。最初は即位後間もない王の心も初々しく、孟子の意見に耳を傾けていたように思われますが、しだいに関係は冷えて行き、紀元前三一四年(宣王六年)の斉軍の燕への侵攻は、王と孟子の関係を決定的に悪くさせます。

しかし、孟子がひとたびは宣王に期待をかけ、もし大国斉の王が仁政を布いてくれるなら、(覇者ではなく)王者による天下統一がなるにちがいないと思っていた歳月も、決してなかったわけではありません。ですから、「初めて宣王にお目にかかったときから、(自分の意見が容れられないことを察して)斉を去るつもりであった」というのは、少し言い過ぎのような気がします。しかし、禄を受けないことで、王に対して言うべきことを、たとえそれが王の耳に痛い言葉でも、言える立場においたことは、そのとおりです。

燕への侵攻については、孟子の進言が容れられませんでしたが、だからといって、斉を去るのは無責任すぎます。占領後も、斉の政策が失敗に終わることが誰の目にも明らかになるまで、孟子は宣王への進言を繰り返していたでしょう。

「こんなに長く斉にいたのは、私の本意ではなかったのだ」というのも額面通りに受け取っていいのでしょうか。斉を去るにあたって孟子が見せた態度は、王への期待が絶ち切り難かったことを物語っています。そう口にすることで、名残惜しさを打ち消そうとしているような気がしてなりません。

吉田松陰は、禄を受けることの意味がいかに重いかを説いています。仕えて禄を受けるからには、この身を挙げて主君に捧げ、主君のために役立たなければならないといいます。このことが分かっている(松陰と同時代の)人々が、いかに少ないことかと嘆いています。

これで、「公孫丑篇」を終わります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

公孫丑篇 二十二章②

斉(せい)から故郷への道中、浮かぬ顔をしている孟子に、「以前、先生は『君子は天や人を責めることはない』とおっしゃっていたではありませんか」と尋ねる弟子の充虞に、孟子は「彼も一時(いっとき)なり、此(これ)も一時なり」と答えます。

孟子のこの言葉は、表面的な訳は「あの時はあの時、今は今」になりますが、それでは孟子の本意を見誤ります。金谷治氏は「彼此の間に違いはない」とみ、「かの堯・舜の平和な時代も一時なら、道の行われない今の時代も一時」で、一貫した道理があるのであり、むしろ孟子の天への絶対的な信頼を述べたものと解釈しています。小林勝人氏も、「みんな同じことで、なんら道理に変わりはない」と、訳を補足しています。

この言葉については、このあと、吉田松陰の解釈もとりあげます。

「五百年にして、必ず王者の興る」というのは、夏、商(殷)、周の三王朝の興亡が背景にあります。夏王朝は、舜から禅譲を受けた禹が開祖になりました。それから約四七〇年経って、湯王が夏を滅ぼし、商王朝を建てます。さらに約五五〇年後に、文王・武王が商を滅ぼし、周王朝を興します。また、禹王には皋陶(こうよう)が、湯王には伊尹(いいん)が、文王・武王には呂尚(太公望)や周公が、補佐役や軍師として付いたことを、「其の間、必ず世に名ある者あり」といっています。

 周王朝は紀元前一〇四六年頃に始まりますから、孟子が斉を去ったと思われる紀元前三一二年頃ですと、七三〇年以上続いていることになります。ですから、いつ王者が現れてもおかしくないのですが、それをまだ天が望んでいないのを、孟子は憂いているのです。同時に、もし今、王者が現れれば、伊尹や周公のような名補佐役になれるのは自分しかいない、という自信と気概も示しています。

吉田松陰は、「彼も一時(いっとき)なり、此(これ)も一時なり」を、「時」のことを言っているのではなく、君子の心の両面であると解釈します。ひとつは、貧賤の極みにいようと、艱難が甚だしかろうと、おおらかな態度で対処して、天を怨まず、人をとがめないことです。もうひとつが、世を憂うる心です。天下を視ること我が家のように思い、万民を視ること我が子のように思い、世が乱れ、民が苦しむのを視ると、食事をしても味が分からず、安眠できない、そんな心です。

しかし、このふたつは、実はひとつの心の両面の現れです。自分の身が、貧賤・艱難にあろうと平然としているからこそ、天下や万民のことを我が家、我が子のことのように思えます。逆に、本性本能のままに行動し、爵禄にひかれるような人間は、天下万民を顧みることはありません。ですから、松陰は、ふたつながら、ひとつの心の現れというのです。

これで、「公孫丑篇二十二章」を終わります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

公孫丑篇 二十二章①

孟子が斉(せい)を去って、故郷の鄒(すう)に向かいます。その道中、孟子が悲痛な表情を浮かべているのを見た弟子の充虞(じゅうぐ)が、孟子の心の内を尋ねます

【訓読文】

孟子斉(せい)を去る。充虞(じゅうぐ)、路(みち)に問いていわく「夫子(ふうし)、豫(たの)しまざるの色(かおいろ)あるが若(ごと)し。前日、虞、諸(これ)を夫子に聞けり。いわく『君子は天を怨みず、人を尤(とが)めず』と」。

いわく「彼も一時(いっとき)なり、此(これ)も一時なり。五百年にして、必ず王者の興るありて、其の間、必ず世に名ある者あり。周より而来(じらい)、七百余歳。其の数を以てすれば則(すなわ)ち過ぎたるも、其の時を以て之を考うれば則ち可なり。夫(そ)れ天は、未だ天下を平治(へいち)することを欲せざるなり。如(も)し天下を平治せんことを欲すれば、今の世に当たりて、我を舎(お)きて其れ誰ぞや。吾、何為(なんす)れぞ、豫しまざることあらんや」。

【現代語訳】

孟先生が、斉(せい)国を去られた。弟子の充虞(じゅうぐ)が、道中で、孟先生に尋ねた。「先生は、浮かぬ顔をしておられるようです。以前、私は先生から、『君子は、決して天を怨んだり、人をとがめたりしないものだ』と聞いたことがあります。(それなのに、どうしてこのように浮かぬ顔をなさっているのですか)。

孟先生がこたえられた。「あの時はあの時、今は今。私はこう考えている。天下は五百年ごとに必ず王者が現れて、そのとき必ず世に名の聞こえる人物が出て、王者を補佐したものである。いま、周王朝が興ってから七百年以上が経った。年数からいえば、すでに二百年も過ぎているが、時勢からいえば、王者が出てくるにはいい時機である。(それなのに王者が現れないのは)天がまだ、天下を平らかに治めることを望んでおられないからであろう。もし天が天下を平らかに治めようと望まれたならば、今の世にあって、私以外に誰が王者の補佐としてふさわしい人物がいるだろうか。そう思えば、私が浮かぬ気分でいるはずはないではないか」。

「天を怨みず、人を尤(とが)めず」は、『論語』の「憲問」三十五章にあります。孔子が「私の価値を知る者がいない」といったときに、弟子の子貢が「どうして先生の価値を知る者がいないといえましょうか」と述べたのに応えて、孔子がいった言葉です。「天が悪いのでもなければ、人が悪いのでもない。私は知識の学習に始まり、道徳の修養にまで至り、最善を尽くしてきた。私のことをもっともよく知っているのは、天であろうぞ」(加地伸行訳)。

斉(せい)で結局用いられなかったからといって、君子である孟子は、天や人を責めることはない、と充虞は思っています。ならばどうして浮かぬ顔をしているのか、と聞いたのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

公孫丑篇 二十一章③

「王、庶幾(こいねが)わくば之(これ)を改めよ」ですが、金谷治氏は、燕(えん)討伐や占領政策の誤りを正すことと解釈します。小林勝人氏の訳は「王様よ、どうかお考え直しのほどを」、貝塚茂樹氏の訳は「王様よ、どうか気をかえてください」になっています。おそらく、両氏の念頭にも、燕への侵攻があったと思います。つまり、宣王と孟子との関係が決裂した直接的な要因が、ここにあったのです。

貝塚氏は、孟子の真情の吐露に、優しい一面を認めつつも、宣王に呼び返してもらいたいという気持ちがあったのなら、何故、十九章で王から高禄による引き止め策があったときに、それに応じなかったのかと批判します。それが孟子の性格の欠点だと断じます。

金谷氏は、孟子のことばに「天下の戦乱を憂え、民衆の苦痛をあわれむ、熱いまごころのひびき」を読み取ります。そのことばを繰り返し読むと、「孤高の道を抱いて去りゆく孟子の姿に、涙ぐましい感激をさえ覚える」とまで言います。

吉田松陰は、この章から「仁人の心」を知るべきだといいます。このときの孟子に重なる言葉として、『史記』「楽毅伝」の「古(いにしえ)の君子は交(まじわり)絶えて悪声を出(い)ださず、忠臣は国を去りて其の名を潔くせず」を引用しています。つまり、「昔の君子は、交際が絶えても、相手の悪口を言わなかった。忠臣は、自分の意見が容れられず国を去ることになっても、自分を正当化する(主君を悪く言う)ことはなかった」のです。孟子は、宣王に期待し、大国斉(せい)の君主が仁政を布き、王道政治を行ったならば、おのずと天下を統一することができ、天下の民が安らかな暮らしができるようになると信じました。それだけに諫言も繰り返したことでしょう。王も、最初のころは孟子に深く心服していました。しかし、王との関係はだんだんと冷えて行き、燕への侵攻と占領が直接の要因となって、孟子は斉を去ることになります。

これが並みの人間だったら、王をさんざん悪く言い、自分の提言がいかに正しかったか、周りに吹聴することでしょう。ところが、孟子は、怨みのことばも怒りのことばも発することはありません。昼(ちゅう)に三泊して、愛惜の心を示したのです。まさに、楽毅のいう、君子であり忠臣です。

この違いは、孟子の心が「物を愛する心」だったのに対し、並みの人間は「己を衒うの心(自分をひけらかそうとする心)」だからです。松陰は、有志の士は物を愛する心を自分の心とし、ひけらかそうとする心を禁じなければならないといって、この章の解説を結んでいます。

これで、「公孫丑篇二十一章」を終わります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

公孫丑篇 二十一章②

斉(せい)の家臣尹士(いんし)に、千里の遠方から斉に来たのは金目当てだったではないか、とか、斉を去るにあたっても未練たらしかった、などと悪く言われているのを聞いた孟子は、みずからの心の内を述べます。

【訓読文】

いわく「夫(か)の尹士(いんし)、悪(いずく)んぞ予(われ)を知らんや。千里にして王に見(まみ)えしは、是(こ)れ予(わ)が欲する所なるも、遇わざるが故に去るは、豈(あに)予が欲する所ならんや。予、已(や)むを得ざるのみ。予、三宿して昼(ちゅう)を出(い)ずるも、予が心に於いては、猶(なお)以て速やかなりと為す。王、庶幾(こいねが)わくば之(これ)を改めよ。王、如(も)し諸(これ)を改むれば、則(すなわ)ち必ず予を反(かえ)さん。夫れ、昼を出ずるも、王、予を追わざるなり。予、然る後に浩然として帰らんとする志あり。予、然りと雖(いえど)も、豈、王を舎(す)てんや。王、由(なお)用(もっ)て善を為すに足れり。王、如し予を用いなば、則ち豈、徒(ただ)に斉の民安きのみならんや。天下の民挙(ことごと)く安からん。王、庶幾わくば之を改めよ、と。予、日に之を望めり。予、豈是(か)の小丈夫の若(ごと)く然らんや。其の君を諫めて受けられざれば、則ち怒りて、悻悻(こうこう)然として其の面(おもて)に見(あら)わし、去るときは、則ち日の力を窮(きわ)めて、後に宿(しゅく)せんや」と。

尹士、之を聞きていわく「士、誠に小人なり」と。

【現代語訳】

孟先生がいわれた。「あの尹士(いんし)程度の者に、どうして私の心が分かるというのだ。千里の遠方からやってきて宣王にお目にかかったのは、私が望んだことである。一方、王と意見が合わずに去るのは、どうして私の望むところだろうか。やむをえずそうしたのだ。私が昼(ちゅう)に三泊した後に出立したのも、私の気持ちとしては、それでも早すぎると思うくらいであった。『王よ、どうかお考えを改めてください。もし王がお考えを改めたならば、必ず私を呼び返すにちがいない』と思って、昼に留まっていたのである。しかし、私が昼を出立しても、王は私を呼びもどさなかった。私は、ここに至って、広々とすがすがしい気持ちになって、故郷へ帰る決心がついた。それでも私は、どうして王を見捨てられようか。王は、それでもやはり善政を行うことのできる方である。王が、もし私を用いてくだされば、ただ斉(せい)の民が安らかな暮らしができるようになるばかりでなく、天下の民みなが安らかになるのである。私は、『王よ、どうかお考えを改めてください』と、毎日それを願っているのだ。私は、(斉の朝廷の)小物のようなことは決してしない。主君を諫めて、それが受け入れられなければ、すぐに怒りを顔にあらわす。国を去るときも、一日中できるだけ歩いて遠くまで進んでから宿泊する。(そんな薄情なことはしない)」。

尹士は、孟先生のこの話を聞いて、「私は(孟子のことを誤解していました。)本当に小人です」といった。

「公孫丑篇」の二章で、「浩然の気」が取り上げられましたが、ここでいう「浩然として」は、どこまでも広がる雄大な、なんのわだかまりもない、すがすがしい気持、と訳しました。ただ、宣王の斉を離れて帰国の途に就く孟子の心は、天地の間いっぱいに広がるほど一点の曇りもないものだったのでしょうか。悻悻(こうこう)然として、とは怒るさまをいいます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2012年11月 | トップページ | 2013年1月 »