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公孫丑篇 二十一章③

「王、庶幾(こいねが)わくば之(これ)を改めよ」ですが、金谷治氏は、燕(えん)討伐や占領政策の誤りを正すことと解釈します。小林勝人氏の訳は「王様よ、どうかお考え直しのほどを」、貝塚茂樹氏の訳は「王様よ、どうか気をかえてください」になっています。おそらく、両氏の念頭にも、燕への侵攻があったと思います。つまり、宣王と孟子との関係が決裂した直接的な要因が、ここにあったのです。

貝塚氏は、孟子の真情の吐露に、優しい一面を認めつつも、宣王に呼び返してもらいたいという気持ちがあったのなら、何故、十九章で王から高禄による引き止め策があったときに、それに応じなかったのかと批判します。それが孟子の性格の欠点だと断じます。

金谷氏は、孟子のことばに「天下の戦乱を憂え、民衆の苦痛をあわれむ、熱いまごころのひびき」を読み取ります。そのことばを繰り返し読むと、「孤高の道を抱いて去りゆく孟子の姿に、涙ぐましい感激をさえ覚える」とまで言います。

吉田松陰は、この章から「仁人の心」を知るべきだといいます。このときの孟子に重なる言葉として、『史記』「楽毅伝」の「古(いにしえ)の君子は交(まじわり)絶えて悪声を出(い)ださず、忠臣は国を去りて其の名を潔くせず」を引用しています。つまり、「昔の君子は、交際が絶えても、相手の悪口を言わなかった。忠臣は、自分の意見が容れられず国を去ることになっても、自分を正当化する(主君を悪く言う)ことはなかった」のです。孟子は、宣王に期待し、大国斉(せい)の君主が仁政を布き、王道政治を行ったならば、おのずと天下を統一することができ、天下の民が安らかな暮らしができるようになると信じました。それだけに諫言も繰り返したことでしょう。王も、最初のころは孟子に深く心服していました。しかし、王との関係はだんだんと冷えて行き、燕への侵攻と占領が直接の要因となって、孟子は斉を去ることになります。

これが並みの人間だったら、王をさんざん悪く言い、自分の提言がいかに正しかったか、周りに吹聴することでしょう。ところが、孟子は、怨みのことばも怒りのことばも発することはありません。昼(ちゅう)に三泊して、愛惜の心を示したのです。まさに、楽毅のいう、君子であり忠臣です。

この違いは、孟子の心が「物を愛する心」だったのに対し、並みの人間は「己を衒うの心(自分をひけらかそうとする心)」だからです。松陰は、有志の士は物を愛する心を自分の心とし、ひけらかそうとする心を禁じなければならないといって、この章の解説を結んでいます。

これで、「公孫丑篇二十一章」を終わります。

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