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公孫丑篇 二十二章②

斉(せい)から故郷への道中、浮かぬ顔をしている孟子に、「以前、先生は『君子は天や人を責めることはない』とおっしゃっていたではありませんか」と尋ねる弟子の充虞に、孟子は「彼も一時(いっとき)なり、此(これ)も一時なり」と答えます。

孟子のこの言葉は、表面的な訳は「あの時はあの時、今は今」になりますが、それでは孟子の本意を見誤ります。金谷治氏は「彼此の間に違いはない」とみ、「かの堯・舜の平和な時代も一時なら、道の行われない今の時代も一時」で、一貫した道理があるのであり、むしろ孟子の天への絶対的な信頼を述べたものと解釈しています。小林勝人氏も、「みんな同じことで、なんら道理に変わりはない」と、訳を補足しています。

この言葉については、このあと、吉田松陰の解釈もとりあげます。

「五百年にして、必ず王者の興る」というのは、夏、商(殷)、周の三王朝の興亡が背景にあります。夏王朝は、舜から禅譲を受けた禹が開祖になりました。それから約四七〇年経って、湯王が夏を滅ぼし、商王朝を建てます。さらに約五五〇年後に、文王・武王が商を滅ぼし、周王朝を興します。また、禹王には皋陶(こうよう)が、湯王には伊尹(いいん)が、文王・武王には呂尚(太公望)や周公が、補佐役や軍師として付いたことを、「其の間、必ず世に名ある者あり」といっています。

 周王朝は紀元前一〇四六年頃に始まりますから、孟子が斉を去ったと思われる紀元前三一二年頃ですと、七三〇年以上続いていることになります。ですから、いつ王者が現れてもおかしくないのですが、それをまだ天が望んでいないのを、孟子は憂いているのです。同時に、もし今、王者が現れれば、伊尹や周公のような名補佐役になれるのは自分しかいない、という自信と気概も示しています。

吉田松陰は、「彼も一時(いっとき)なり、此(これ)も一時なり」を、「時」のことを言っているのではなく、君子の心の両面であると解釈します。ひとつは、貧賤の極みにいようと、艱難が甚だしかろうと、おおらかな態度で対処して、天を怨まず、人をとがめないことです。もうひとつが、世を憂うる心です。天下を視ること我が家のように思い、万民を視ること我が子のように思い、世が乱れ、民が苦しむのを視ると、食事をしても味が分からず、安眠できない、そんな心です。

しかし、このふたつは、実はひとつの心の両面の現れです。自分の身が、貧賤・艱難にあろうと平然としているからこそ、天下や万民のことを我が家、我が子のことのように思えます。逆に、本性本能のままに行動し、爵禄にひかれるような人間は、天下万民を顧みることはありません。ですから、松陰は、ふたつながら、ひとつの心の現れというのです。

これで、「公孫丑篇二十二章」を終わります。

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