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公孫丑篇 二十三章

「公孫丑篇」の終章です。首章と第二章で登場した弟子の公孫丑が、この章で再び孟子に問います。

【訓読文】

孟子斉(せい)を去りて休(きゅう)に居る。公孫丑、問いていわく「仕えて禄を受けざるは古」いにしえ)の道か」。

いわく「非なり。崇(すう)において吾(われ)王に見(まみ)ゆることを得、退きて去らんとするの志あり。変(いつわ)るを欲せざるが故に受けざりしなり。継いで師命(しめい)ありて、以て請うべからず。斉に久しきは我が志に非ざりしなり」。

【現代語訳】

孟先生が斉(せい)国を去って、帰国の途中で、休(きゅう)という町におられたとき、弟子の公孫丑が尋ねた。「先生は斉におられたとき、王に仕えていながら、禄を受けられませんでした。これは昔からの正しい道なのでしょうか」。

孟先生がこたえられた。「いや、そうではない。崇(すう)で、初めて宣王にお目にかかったときから、(自分の意見が容れられないことを察して)斉を去るつもりであった。王をいつわりたくなかったので、禄を受けなかったのだ。またまもなく戦争が始まって、国家の一大事になったので、暇乞いをすることができなくなったのだ。だから、こんなに長く斉にいたのは、私の本意ではなかったのだ」。

変辞(いつわりのことば)という語がありますが、孟子の回答の中の「変」も、「いつわる」と読むのが通説です。「師」は軍隊の意ですから、「師命」は軍隊を出動させる命令、すなわち戦争を始めることです。ここでは、燕(えん)へ侵攻したことを指します。

孟子が斉に来て宣王と会ったのは、魏(梁)の惠王が亡くなって、後を継いだ襄王に失望した後ですから、紀元前三一八年だったと思われます。このとき、宣王は即位二年目でした。それから孟子は足かけ七年ほど、客卿として、宣王の政治顧問を務めました。最初は即位後間もない王の心も初々しく、孟子の意見に耳を傾けていたように思われますが、しだいに関係は冷えて行き、紀元前三一四年(宣王六年)の斉軍の燕への侵攻は、王と孟子の関係を決定的に悪くさせます。

しかし、孟子がひとたびは宣王に期待をかけ、もし大国斉の王が仁政を布いてくれるなら、(覇者ではなく)王者による天下統一がなるにちがいないと思っていた歳月も、決してなかったわけではありません。ですから、「初めて宣王にお目にかかったときから、(自分の意見が容れられないことを察して)斉を去るつもりであった」というのは、少し言い過ぎのような気がします。しかし、禄を受けないことで、王に対して言うべきことを、たとえそれが王の耳に痛い言葉でも、言える立場においたことは、そのとおりです。

燕への侵攻については、孟子の進言が容れられませんでしたが、だからといって、斉を去るのは無責任すぎます。占領後も、斉の政策が失敗に終わることが誰の目にも明らかになるまで、孟子は宣王への進言を繰り返していたでしょう。

「こんなに長く斉にいたのは、私の本意ではなかったのだ」というのも額面通りに受け取っていいのでしょうか。斉を去るにあたって孟子が見せた態度は、王への期待が絶ち切り難かったことを物語っています。そう口にすることで、名残惜しさを打ち消そうとしているような気がしてなりません。

吉田松陰は、禄を受けることの意味がいかに重いかを説いています。仕えて禄を受けるからには、この身を挙げて主君に捧げ、主君のために役立たなければならないといいます。このことが分かっている(松陰と同時代の)人々が、いかに少ないことかと嘆いています。

これで、「公孫丑篇」を終わります。

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