滕文公編 一章②
「孟子、性善を道(い)い、言えば必ず堯・舜を称せり」とあるのは、孟子が四端、すなわち人間が生まれながらに持っている「惻隠」の心が「仁」の端緒、「羞悪」の心が「義」の端緒、「辞譲」の心が「礼」の端緒、「是非」の力が「智」の端緒であるという性善説を唱え、仁や義による政治の例として、帝堯や帝舜の話をしたのだと思われます。「性善」という語が出てくるのは、この章が初めてです。また、「四端」については、「公孫丑篇」六章で説明されています。
文公(この章では太子時代ですが、分かりやすくするため文公で通します)が帰路に再び孟子を訪ねたとき、孟子は「「世子よ、吾(わ)が言(ことば)を疑うか。夫(そ)れ道は一のみ」と言っています。孟子が堯・舜の道を説いたので、文公は、その目標の高さにかえって不安になり、とても自分にはできないと思ったのです。そこで孟子は、仁政への道はひとつだけであり、堯・舜のような聖人も、自分たちのような凡人も、同じ道を進まざるを得ない、といいます。
勇者の道もひとつだから、成けんは、景公がどれだけ他の勇者を褒めようが、自分も精進鍛錬して、その勇者に追いついてみせるという気概を示しました。孔子の高弟である顔淵も、君子への道はひとつしかないから、帝舜を目指して切磋琢磨するしかない、そうして努力すれば必ず聖人に近づくことができる、と言いました。公明儀は、孔子の門人曽子の弟子ですから、孟子とは思想的に同系列です。公明儀が言わんとしたのは、周公が父である文王を師と仰いでそれを目指したのなら、私も周公を目指して努力しよう、ということです。いずれの例も、目標がどんなに高く、険しくても、道はひとつなのでそこを目指すしかないが、刻苦勉励すれば近づけないことはない、といって文王を励ましているのです。
滕の領土は五十里四方といいました。「公孫丑篇」三章に、湯王は七十里四方、文王は百里四方の小さな国から天下をとった、とありますが、滕はこれらよりさらに小さな国です。しかも、大国である斉(せい)と楚に挟まれています。天下を取るどころか、存続さえ危ぶまれています。孟子はそんな弱小国の君主に、あえて王道を説くのです。
この章から吉田松陰が取り上げたのは、最後の句、「若(も)し薬、瞑眩(めんげん)せずんば、厥(そ)の疾(やまい)瘳(い)えず」です。松陰は、なぜこの薬がめまいを起こさせるのかということは、真に志を立てたものでないと知ることができないと言います。たいていの人間は、十人並みでいいと思っており、百人・千人・万人に傑出しようと思う者はきわめて少ないです。十人並みでいいと思っている人間は、自ら実践しようとはせず、好んで当てのない大言をはき、聖人になることも、仁政によって良い国にすることも、茶漬けでも食うように軽く言う者が多いのです。そんな者たちには、とうていめまいがするほど強い薬であることが分かりません。
松陰自身は、この言葉に接して、自らを省みるとき、背中に汗をかき、顔が真っ赤になり、身の置き所がないと感じます。この言葉こそが、自分にとっての良薬だといいます。高い志があるからこそ、自分がやらなければならないことの厳しさが分かるのです。
これで、「滕文公篇一章」を終わります。
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