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2013年1月

滕文公編 一章②

孟子、性善を道(い)い、言えば必ず堯・舜を称せり」とあるのは、孟子が四端、すなわち人間が生まれながらに持っている「惻隠」の心が「仁」の端緒、「羞悪」の心が「義」の端緒、「辞譲」の心が「礼」の端緒、「是非」の力が「智」の端緒であるという性善説を唱え、仁や義による政治の例として、帝堯や帝舜の話をしたのだと思われます。「性善」という語が出てくるのは、この章が初めてです。また、「四端」については、「公孫丑篇」六章で説明されています。

文公(この章では太子時代ですが、分かりやすくするため文公で通します)が帰路に再び孟子を訪ねたとき、孟子は「「世子よ、吾(わ)が言(ことば)を疑うか。夫(そ)れ道は一のみ」と言っています。孟子が堯・舜の道を説いたので、文公は、その目標の高さにかえって不安になり、とても自分にはできないと思ったのです。そこで孟子は、仁政への道はひとつだけであり、堯・舜のような聖人も、自分たちのような凡人も、同じ道を進まざるを得ない、といいます。

勇者の道もひとつだから、成けんは、景公がどれだけ他の勇者を褒めようが、自分も精進鍛錬して、その勇者に追いついてみせるという気概を示しました。孔子の高弟である顔淵も、君子への道はひとつしかないから、帝舜を目指して切磋琢磨するしかない、そうして努力すれば必ず聖人に近づくことができる、と言いました。公明儀は、孔子の門人曽子の弟子ですから、孟子とは思想的に同系列です。公明儀が言わんとしたのは、周公が父である文王を師と仰いでそれを目指したのなら、私も周公を目指して努力しよう、ということです。いずれの例も、目標がどんなに高く、険しくても、道はひとつなのでそこを目指すしかないが、刻苦勉励すれば近づけないことはない、といって文王を励ましているのです。

滕の領土は五十里四方といいました。「公孫丑篇」三章に、湯王は七十里四方、文王は百里四方の小さな国から天下をとった、とありますが、滕はこれらよりさらに小さな国です。しかも、大国である斉(せい)と楚に挟まれています。天下を取るどころか、存続さえ危ぶまれています。孟子はそんな弱小国の君主に、あえて王道を説くのです。

この章から吉田松陰が取り上げたのは、最後の句、「若(も)し薬、瞑眩(めんげん)せずんば、厥(そ)の疾(やまい)瘳(い)えず」です。松陰は、なぜこの薬がめまいを起こさせるのかということは、真に志を立てたものでないと知ることができないと言います。たいていの人間は、十人並みでいいと思っており、百人・千人・万人に傑出しようと思う者はきわめて少ないです。十人並みでいいと思っている人間は、自ら実践しようとはせず、好んで当てのない大言をはき、聖人になることも、仁政によって良い国にすることも、茶漬けでも食うように軽く言う者が多いのです。そんな者たちには、とうていめまいがするほど強い薬であることが分かりません。

松陰自身は、この言葉に接して、自らを省みるとき、背中に汗をかき、顔が真っ赤になり、身の置き所がないと感じます。この言葉こそが、自分にとっての良薬だといいます。高い志があるからこそ、自分がやらなければならないことの厳しさが分かるのです。

これで、「滕文公篇一章」を終わります。

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滕文公編 一章①

今回から「滕文公篇」です。上篇が五章、下篇が十章より成っています。上篇には、農家、墨家といった諸子百家のライバルに対する論駁も出てきます。さっそく、首章から始めましょう。

【訓読文】

滕(とう)の文公の世子(せいし)たりしとき、将(まさ)に楚に之(ゆ)かんとして、宋に過(よ)ぎりて、孟子を見る。孟子、性善を道(い)い、言えば必ず堯・舜を称せり。

世子、楚より反(かえ)るときも、復(また)孟子を見る。孟子いわく「世子よ、吾(わ)が言(ことば)を疑うか。夫(そ)れ道は一のみ。成けん(せいけん、けんは間の右に見)、斉(せい)の景公に謂(い)いていわく、『彼も丈夫(ますらお)なり、我も丈夫なり。吾、何ぞ彼を畏れんや』と。顔淵いわく、『舜は何人(なんびと)ぞや、予(われ)は何人ぞや。為すこと有らんとする者は、亦(また)是(かく)の若くなるべし』と。公明儀いわく、『文王は我が師なり。周公、豈(あに)我を欺かんや』と。今、滕は長きを絶ち、短きを補わば、将に五十里にならんとす。猶(なお)以て善き国と為すべし。書にいわく、『若(も)し薬、瞑眩(めんげん)せずんば、厥(そ)の疾(やまい)瘳(い)えず』と」。

【現代語訳】

滕(とう)の文公がまだ世子(お世継ぎ)でおられたころ、楚の国へ行こうとされたが、(孟子が宋に滞在していると聞いて)宋に立ち寄って、孟先生と会見された。孟先生は、(自分の説である)人間の本性は善であることをいい、性善の話をするときには必ず、古の聖人である帝堯・帝舜のことを引き合いに出された。

世子は楚から滕へ戻られるときも、また孟先生にお会いになった。孟先生がいわれた。「世子よ、私の言葉を疑ってはなりません。正しい道はひとつだけなのです。(春秋時代の)斉(せい)の勇者である成けんは、(別の勇者を褒めた)主君の景公に向かって『彼も丈夫(ますらお)なら、私も丈夫です。私がどうして彼を畏れることがありましょうか』と言いました。また顔淵は、『舜とは何者ぞ、私は何者ぞ(。同じ人間ではないか)。舜のようになろうと目指して努力を続けていれば、きっとなれるのだ』と言っています。魯の公明儀は、『昔、周公は「文王は私の師である」と言ったが、(努力すれば師に近づけるという周公の言葉は正しいものであり、)周公(の言葉)がどうして私をだますようなことがあろうか』と言いました。今、滕の国は、長いところを断ち切って、(その面積で)短いところを補えば、ほぼ五十里四方になりますが、それだけの領土があれば、よい国にすることができます。「書経」にも『飲んでめまいがするほど強い薬でなければ、病気は治らない』とあります。(ですから、世子も国政を改革するなら、それくらい覚悟をしてください)」と。

滕の文公は、「梁惠王篇」二十章から二十二章に出てきました。孟子の政策を取り入れた、君主です。この章では、まだ太子時代ですが、孟子とは、孟子が斉王の正使として滕へ弔問に訪れたときにすでに会っていたのでしょう(「公孫丑篇」十五章)。そのときから孟子を尊敬するようになり、今回の再会となったのです。

滕は、斉と楚に挟まれた小国です。斉と楚との間には、宋や魯、そして孟子の故郷である鄒(すう)もありますが、滕はそのなかでもひと際小さな国です。平均すれば五十里四方とありますから、東京二三区より一回り大きい程度でした。

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