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2013年2月

滕文公篇 三章①

三章は、滕の文公が即位してからの話です。

【訓読文】

滕(とう)の文公、国を為(おさ)むるを問う。孟子いわく「民の事は緩やかにすべからず。詩にいう、『昼は爾(なんじ)茅(かや)を于(と)り、宵(よる)は爾綯(なわ)を索(な)い、亟(すみや)かに屋(おく)を乗(おお)い、其れ始めて百穀を播(ま)け』と。民の道たる、恒産ある者は恒心あり、恒産なき者は恒心なし。苟(いやしく)も恒心なければ、放辟邪侈(ほうへきじゃし)為さざるなきのみ。罪に陥るに及んで、然る後に、従いて之を刑すは、是(こ)れ、民を罔(あみ)するなり。焉(いず)くんぞ、仁人の位に有りながら、民を罔すること為(な)すけんや」。

【現代語訳】

滕(とう)の文公が、孟先生に国を治める方法について質問された。孟先生がいわれた。「人民の暮らしに関わることは、決して引き延ばしてはなりません(速やかに行うべきです)。詩経にも『昼は茅を刈り、夜に縄をなって。急いで屋根をふきかえろ。それが終わってはじめて種が蒔ける(種を蒔く季節が始まる前に終わらせろ)』とあります。そもそも人民というものは、安定した収入がある者は、道徳心も揺るぎませんが、安定した収入がない者は、道徳心も安定しません。安定した心がなければ、放辟(自分勝手でわがまま)、邪侈(よこしまでぜいたく)など、悪いことで行わないものはありません(どんな悪いことでもしでかすものです)。(それを知っていながらとめる工夫は何もしないで)、ひとたび人民が罪を犯したならばこれを処罰するというのは、人民を網にかけて捕らえるようなものです。仁政を施すべき君主が政治の地位にいながら、このように人民を網にかけることがあっていいのでしょうか」。

いよいよ滕の文公が即位しました。礼を尽くして孟子を滕に招いたのでしょう。孟子もこれに応じて、文公の政治顧問となります。

「詩経」からの引用は、「豳風(ひんぷう)篇」の冒頭の詩「七月」という農業詩からです。引用された部分は、十月に五穀の刈り入れが終わった後、春の種蒔きの季節が始まるまでの屋内の作業の様子がうたわれています。収穫が終わって、男も女も田畑へ出ることがなくなります。種蒔きまでの間に、家の手入れを急いでしなければならない、そんな農村での庶民の暮らしぶりが描かれています。

苟(いやしく)も恒心なければ、放辟邪侈(ほうへきじゃし)為さざるなきのみ」およびそれに続く部分は、ほとんど同じ文章が「梁惠王篇」七章にも出てきました。人々の経済生活を安定させることが、仁政、良い政治の第一歩である、という孟子の信念は、斉(せい)の宣王に説いたときからいささかも変わっていません。

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滕文公篇 二章④

孟子に、「親の喪は他人に頼むわけにはいきません。世子(文公のこと)が決める問題なのです」と言われた傅役(もりやく)の然友は、滕へ戻って文公に伝えます。

【訓読文】

然友、反命す。世子いわく「然り。是(こ)れ、誠に我に在り」と。

五ヵ月蘆(ろ)に居り、未だ命戒あらず。百官族人、可とし、謂いて「知(さと)りたり」という。葬に至るに及び、四方より来りて之を観る。顔色の戚(いた)めること、哭泣の哀しめること、弔う者大いに悦(よろこ)べり。

【現代語訳】

然友が滕へ戻り、孟先生の言葉を伝えると、世子(文公)は「その通りである。これは私自身が決めなければならないことなのだ」といわれた。

(大喪の礼までの)五ヵ月間、喪主として仮小屋にこもり、いっさいの命令や戒告を出さなかった。先に反対していた一族や家臣たちも(世子が三年の喪を行うことを)認め、「世子は賢君であったのだ(ようやくそのことが分かった)」というようになった。いよいよ大喪の日になると、伝え聞いた人々が四方より観に来た。会葬者は、世子の顔色がやつれ、哭泣が哀しみに満ちているのをみて、大いに感服した。

文公みずから、「馬を乗り回したり剣を振り回したりして、学問をあまりしてこなかった」と言っていますから、公族や家臣たちもあまり期待していなかったのでしょう。文公が最初に「三年の喪を行う」と言ったときも、「学問をしていないので、やはり愚かな君だ」と思い、一斉に反対しました。「自分はこのことをしかるべき人から教えられたのであり、決して自分勝手に言っているのではない」と文公がいっても、「なんだ、どこぞの先生にかぶれて、その受け売りか」と、かえって逆効果だったのではないでしょうか。

しかし、孟子に背中を押された文公は、三年の喪をみずから決断し、仮小屋にこもり、粥をすするだけの生活を始めます。古来の正しい礼に従った葬礼を、自身の身体を苦しめてでも実践するのは、仁義礼智を重視する王道政治を布く、つまり不退転の覚悟で政治改革を断行する決意表明です。ここに及んで、公族や家臣たちの文公を見る目も変わりました。「文」とは王・諸侯の謚(おくりな)のなかでは最高のものです。周の文王、晋の文公(重耳)がその著名な例です。名君としての評価は、このときから始まったのです。

三年の喪は、春秋戦国時代になって、久しく行われていませんでした。また、吉田松陰によれば、これ以降の歴史においても、三年の喪に服した君主は数名に過ぎません(魏呉蜀の三国時代を終わらせた晋の武帝(司馬炎)もそのひとりに挙げられています)。文公は、これをまじめに実施したことで、歴史に名を刻みました。

吉田松陰は、この章における孟子の言葉の主意は、「自尽(自ら尽くす)」の二字にあるといいます。さらに再訪した然友に「他に求むべからざるのものなり(他人に頼むわけにはいきません)」「是(こ)れ世子に在り(世子が決める問題なのです)」と答えたのも、自分で決意することを促すものです。そしてこれは、先君の葬礼にとどまらず、すべてのことをそのようにしなければならないことを意味します。文公も孟子の言葉をよく理解し、「然り。是(こ)れ、誠に我に在り」と言ったのです。

これで、「滕文公篇二章」を終わります。

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滕文公篇 二章③

「三年の喪」とは、あしかけ三年、つまり二十五ヵ月(正確には丸二年と一日)、縫いとりをしない粗布の服をまとい、(喪に入って三日間の断食の後)お粥をすすり、仕事をせずにひたすら親の死を悼む、というものです。文公のような諸侯の場合は、いっさいの政務を大臣に任せなければなりません。戦国の世にあって、滕のような弱小国にとっては自殺行為です。「父兄百官」がこぞって反対するのも無理はありません。そこで文公は、再び然友を遣わして、孟子に助言を求めます。

【訓読文】

いわく「吾(われ)之(これ)を受けし所あるなり」と。

然友に謂いていわく「吾、他日、未だ嘗(かつ)て学問せず、馬を馳せ剣を試むることを好めり。今や、父兄百官、我を足れりとせず。其の大事を尽くす能(あた)わざらんことを恐る。子(し)、我が為に孟子に問え」と。然友、復(ふたたび)鄒(すう)に之(ゆ)きて、孟子に問う。

孟子いわく「然り。他に求むべからざるのものなり。孔子いわく『君薨(こう)ずれば、冢宰(ちょうさい)に聴(まか)せ、粥を歠(すす)り、面(おもて)は深墨(しんぼく)し、位に即(つ)きて哭するのみなれば、百官有司、敢えて哀しまざるものなし』と。(みずから)之に先んずればなり。上(かみ)、好むものあれば、下(しも)、必ず焉(これ)より甚だしきことあり。君子の徳は風なり、小人の徳は草なり。草は之に風を尚(くわ)うれば、必ず偃(ふ)す。是(こ)れ世子に在り」。

【現代語訳】

(滕の定公は)「自分はこのことをしかるべき人から教えられた(のであり、決して自分勝手に言っているのではない)」といわれた。

(その後)然友に向かって「自分はこれまで学問というものをやってこなかった。馬を乗り回したり剣を振り回したりすることを好んできた。だから今、一族の年長者や家臣たちは、私を未熟者とみなして反対するのだ。このままでは、三年の喪という大事を成し遂げられそうにない。そこで、私のために、孟先生に相談してきてもらいたい」といった。然友は、再び鄒(すう)へ行って、孟先生に相談した。

孟先生がいわれた。「なるほど、状況は理解できます。しかし、親の喪は他人に頼むわけにはいきません。孔子もこうおっしゃっています。『君主が薨去すれば、世子(太子)は政務を執政に任せ、粥をすすり、顔色は暗く沈み込み、喪主として哭泣の礼を行うだけである。すると大勢の家臣役人たちは誰ひとり哀しまないものはいない』。これは世子が率先して哀悼の意を表すからです。上に立つ者が好むことは、下の者は必ず、それに輪をかけてまねるものです。『君子(為政者)の徳は風であり、小人(庶民)の徳は草である。草はこれに風を加えれば、必ずなびくものだ』といいます。(三年の喪をすべきかどうかは)世子が決める問題なのです」。

「孔子いわく」の引用は、「論語」憲問篇四十章の「君薨ずれば、百官己を総(すべ)て、以て冢宰に聴くこと三年」からです。また「君子の徳は風なり、云々」は、「論語」顔淵篇十九章に、同じ内容が孔子の言葉として記されています。

孟子は文公に対し、「他に求むべからざるのものなり」「是(こ)れ世子に在り」と言って、決意を迫ります。父君の喪は、これから君主になる文公にとって最初の仕事です。ここで他人の権威をあてにしては、この先、厳しい状況に直面するたびに、他人に頼ってしまいます。最初が肝心なのです。だから孟子は突き放すように言ったのです。

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滕文公篇 二章②

滕の文公(この章の当時はまだ世子)は、傅役(もりやく)の然友を孟子のもとへ遣り、父君の葬儀の礼について尋ねさせます。

【訓読文】

孟子いわく「亦(また)善(よ)からずや。親の喪(も)は、固(もと)より自ら尽くす所(べ)きなり。曾子いわく『生けるときは之に事(つか)うるに礼を以てし、死せるときは之を葬るに礼を以てし、之を祭るに礼を以てす。孝と謂う可(べ)し』と。諸侯の礼は、吾、未だ之を学ばず。然りと雖(いえど)も、吾、嘗(かつ)て之を聞けり。三年の喪、齊疏(しそ)の服、飦粥(せんじゅく)の食(し)は、天子より庶人に達(いた)るまで、三代も之を共にす」と。

然友、反命す。定めて三年の喪を為さんとす。父兄百官、皆、欲せずしていわく「吾(わ)が宗国魯の先君も之を行うことなく、吾が先君も行うことなきなり。子(し)の身に至りて之に反(そむ)くは、不可なり。且(か)つ志(誌)にも『喪と祭とは先祖に従うべし』といえり」。

【現代語訳】

孟先生がいわれた。「まことに善いことをお尋ねになりました。親の喪には、もとより、子としてできるかぎりのことを尽くさねければなりません。曽子も『父母がお元気なときは、礼に従ってお仕えし、お亡くなりになれば、礼に従って葬り、また礼を守って、祖先となられた御霊をお祭りする。これを孝というべきである』といっています。諸侯の礼については、まだ十分に学んでおりませんが、以前、こういうことを聞いたことがあります。『親の喪はあしかけ三年、そのあいだは、縫いとりをしない粗布の服を着て、(喪に入って三日間の断食の後)お粥をすすって過ごす。これは天子から庶民にいたるまで同じきまりであり、夏・商・周と王朝が交代しても変わることはない』と」。

然友が復命すると、文公は三年の喪を行うことにした。すると一族の年長者や家臣たちはみな反対して、「我が国の御本家である魯国の歴代の君主もなさらなかったし、我が滕のご先代にもなさった方はいらっしゃいません。それなのに、あなた様の代になって先例に叛くことなさっては、けっしてなりません。昔の記録にも『喪と祭は先祖の定めに従え』とあります」といった。

孟子の答えで、曽子の言葉として引用されているのは、「論語」為政篇五章にある孔子の言葉です。孟子は、儒家のなかでは曽子の系統ですし、曽子は親孝行としても有名でしたので、「孝」についての孔子の話を、曽子の言葉と考えていたのかもしれません。むしろ、そのあとで引用されている「三年の喪」云々が、「礼記」に記されている曽子の言葉です。

さて、前章で孟子がいった「めまいがするほど強い薬」がさっそく出てきました。戦国時代、食うか食われるかの世にあって、しかも斉・楚二大国に挟まれた小国滕の君主として、あしかけ三年、すなわち二十五ヵ月も政務から遠ざかって喪に臥すというのは、極端な理想主義です。まさに劇薬です。その劇薬を飲む覚悟でないと、国政の改革はできない、というのが孟子の趣意です。

もちろん、これには文公の一族や家臣が一斉に反対します。彼らは、礼を重んじるのであれば、本家筋である魯は、孔子が尊敬してやまない聖君周公(周王朝を建てた文王の子、武王の弟)が開祖の国であり、孔子の生国でもあるので、その魯の先例に倣うべきだといいます。また滕にも、そのようなことを行った君主はいません。文公は孤立無援の状態です。

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滕文公篇 二章①

二章でも、滕の文公はまだ世子(太子)ですが、父君である定公が薨去したときの話です。

【訓読文】

滕(とう)の定公、薨ず。世子(せいし)、然友に謂(い)いていわく「昔者(むかし)、孟子、嘗(かつ)て我と宋にて言えりしこと、心に於いて終(つい)に忘れず。今や、不幸にして、大故に至れり。吾(われ)、子(し)をして、孟子に問わしめ、然る後に事を行わんと欲す。然友、鄒(すう)に之(ゆ)きて、孟子に問う。

【現代語訳】

滕(とう)の定公が薨去された。世子(文公のこと)が、傅役(もりやく)の然友に向かっていわれた。「先年、宋で孟先生にお会いしたが、そのとき孟先生が私にお話しされたことが、いまだに忘れられない。今、不幸にして、父君の大喪となった。そなたに、孟先生のところへ行って、葬儀の礼について聞いてきてもらいたい。その上で、大喪の儀を行いたいのだ」。そこで然友は、鄒へ赴き、孟先生にお尋ねした。

ここで、事が起きた前後関係を整理しましょう。

孟子と文公が初めて会った(「公孫丑篇」十五章)のは、孟子が斉(せい)の正使として滕を弔問したときですから、孟子が斉を去る紀元前三一二年より前になります。「公孫丑篇」が時の前後に従って書かれているという前提ならば、孟子が母の葬儀で魯に一時帰る(「公孫丑篇」十六章)前ですから、さらにさかのぼって紀元前三一五年より前になります。次に、文公は、楚への往路・帰路で、宋にいた孟子と話をしています(「滕文公篇」一章)が、これが紀元前三一一年です。そして、故郷の鄒に戻っていた孟子を、文公の傅役(もりやく)である然友が訪ねるのが、紀元前三〇七年(か三〇八年)です。したがって、本章で文公が「先年、宋で孟先生にお会いした」というのは、三、四年前の孟子との語らいのことをいいます。

傅役には、君主が、世子のために自分の家臣のなかから信頼できるものを選びます。ですから、然友は、まだ世子であった文公がにとって、先君の家臣なのです。然友のことを「子(そなた)」と呼ぶのは、そのためです。

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