滕文公篇 二章④
孟子に、「親の喪は他人に頼むわけにはいきません。世子(文公のこと)が決める問題なのです」と言われた傅役(もりやく)の然友は、滕へ戻って文公に伝えます。
【訓読文】
然友、反命す。世子いわく「然り。是(こ)れ、誠に我に在り」と。
五ヵ月蘆(ろ)に居り、未だ命戒あらず。百官族人、可とし、謂いて「知(さと)りたり」という。葬に至るに及び、四方より来りて之を観る。顔色の戚(いた)めること、哭泣の哀しめること、弔う者大いに悦(よろこ)べり。
【現代語訳】
然友が滕へ戻り、孟先生の言葉を伝えると、世子(文公)は「その通りである。これは私自身が決めなければならないことなのだ」といわれた。
(大喪の礼までの)五ヵ月間、喪主として仮小屋にこもり、いっさいの命令や戒告を出さなかった。先に反対していた一族や家臣たちも(世子が三年の喪を行うことを)認め、「世子は賢君であったのだ(ようやくそのことが分かった)」というようになった。いよいよ大喪の日になると、伝え聞いた人々が四方より観に来た。会葬者は、世子の顔色がやつれ、哭泣が哀しみに満ちているのをみて、大いに感服した。
文公みずから、「馬を乗り回したり剣を振り回したりして、学問をあまりしてこなかった」と言っていますから、公族や家臣たちもあまり期待していなかったのでしょう。文公が最初に「三年の喪を行う」と言ったときも、「学問をしていないので、やはり愚かな君だ」と思い、一斉に反対しました。「自分はこのことをしかるべき人から教えられたのであり、決して自分勝手に言っているのではない」と文公がいっても、「なんだ、どこぞの先生にかぶれて、その受け売りか」と、かえって逆効果だったのではないでしょうか。
しかし、孟子に背中を押された文公は、三年の喪をみずから決断し、仮小屋にこもり、粥をすするだけの生活を始めます。古来の正しい礼に従った葬礼を、自身の身体を苦しめてでも実践するのは、仁義礼智を重視する王道政治を布く、つまり不退転の覚悟で政治改革を断行する決意表明です。ここに及んで、公族や家臣たちの文公を見る目も変わりました。「文」とは王・諸侯の謚(おくりな)のなかでは最高のものです。周の文王、晋の文公(重耳)がその著名な例です。名君としての評価は、このときから始まったのです。
三年の喪は、春秋戦国時代になって、久しく行われていませんでした。また、吉田松陰によれば、これ以降の歴史においても、三年の喪に服した君主は数名に過ぎません(魏呉蜀の三国時代を終わらせた晋の武帝(司馬炎)もそのひとりに挙げられています)。文公は、これをまじめに実施したことで、歴史に名を刻みました。
吉田松陰は、この章における孟子の言葉の主意は、「自尽(自ら尽くす)」の二字にあるといいます。さらに再訪した然友に「他に求むべからざるのものなり(他人に頼むわけにはいきません)」「是(こ)れ世子に在り(世子が決める問題なのです)」と答えたのも、自分で決意することを促すものです。そしてこれは、先君の葬礼にとどまらず、すべてのことをそのようにしなければならないことを意味します。文公も孟子の言葉をよく理解し、「然り。是(こ)れ、誠に我に在り」と言ったのです。
これで、「滕文公篇二章」を終わります。
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