« 滕文公篇 二章② | トップページ | 滕文公篇 二章④ »

滕文公篇 二章③

「三年の喪」とは、あしかけ三年、つまり二十五ヵ月(正確には丸二年と一日)、縫いとりをしない粗布の服をまとい、(喪に入って三日間の断食の後)お粥をすすり、仕事をせずにひたすら親の死を悼む、というものです。文公のような諸侯の場合は、いっさいの政務を大臣に任せなければなりません。戦国の世にあって、滕のような弱小国にとっては自殺行為です。「父兄百官」がこぞって反対するのも無理はありません。そこで文公は、再び然友を遣わして、孟子に助言を求めます。

【訓読文】

いわく「吾(われ)之(これ)を受けし所あるなり」と。

然友に謂いていわく「吾、他日、未だ嘗(かつ)て学問せず、馬を馳せ剣を試むることを好めり。今や、父兄百官、我を足れりとせず。其の大事を尽くす能(あた)わざらんことを恐る。子(し)、我が為に孟子に問え」と。然友、復(ふたたび)鄒(すう)に之(ゆ)きて、孟子に問う。

孟子いわく「然り。他に求むべからざるのものなり。孔子いわく『君薨(こう)ずれば、冢宰(ちょうさい)に聴(まか)せ、粥を歠(すす)り、面(おもて)は深墨(しんぼく)し、位に即(つ)きて哭するのみなれば、百官有司、敢えて哀しまざるものなし』と。(みずから)之に先んずればなり。上(かみ)、好むものあれば、下(しも)、必ず焉(これ)より甚だしきことあり。君子の徳は風なり、小人の徳は草なり。草は之に風を尚(くわ)うれば、必ず偃(ふ)す。是(こ)れ世子に在り」。

【現代語訳】

(滕の定公は)「自分はこのことをしかるべき人から教えられた(のであり、決して自分勝手に言っているのではない)」といわれた。

(その後)然友に向かって「自分はこれまで学問というものをやってこなかった。馬を乗り回したり剣を振り回したりすることを好んできた。だから今、一族の年長者や家臣たちは、私を未熟者とみなして反対するのだ。このままでは、三年の喪という大事を成し遂げられそうにない。そこで、私のために、孟先生に相談してきてもらいたい」といった。然友は、再び鄒(すう)へ行って、孟先生に相談した。

孟先生がいわれた。「なるほど、状況は理解できます。しかし、親の喪は他人に頼むわけにはいきません。孔子もこうおっしゃっています。『君主が薨去すれば、世子(太子)は政務を執政に任せ、粥をすすり、顔色は暗く沈み込み、喪主として哭泣の礼を行うだけである。すると大勢の家臣役人たちは誰ひとり哀しまないものはいない』。これは世子が率先して哀悼の意を表すからです。上に立つ者が好むことは、下の者は必ず、それに輪をかけてまねるものです。『君子(為政者)の徳は風であり、小人(庶民)の徳は草である。草はこれに風を加えれば、必ずなびくものだ』といいます。(三年の喪をすべきかどうかは)世子が決める問題なのです」。

「孔子いわく」の引用は、「論語」憲問篇四十章の「君薨ずれば、百官己を総(すべ)て、以て冢宰に聴くこと三年」からです。また「君子の徳は風なり、云々」は、「論語」顔淵篇十九章に、同じ内容が孔子の言葉として記されています。

孟子は文公に対し、「他に求むべからざるのものなり」「是(こ)れ世子に在り」と言って、決意を迫ります。父君の喪は、これから君主になる文公にとって最初の仕事です。ここで他人の権威をあてにしては、この先、厳しい状況に直面するたびに、他人に頼ってしまいます。最初が肝心なのです。だから孟子は突き放すように言ったのです。

|

« 滕文公篇 二章② | トップページ | 滕文公篇 二章④ »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 滕文公篇 二章③:

« 滕文公篇 二章② | トップページ | 滕文公篇 二章④ »