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2013年3月

滕文公篇 三章⑤

文公と孟子との直接の対話は、ここでいったん終わります。日を置いて、文公は井田(せいでん)制について尋ねるべく、家臣を遣わします。

【訓読文】

畢戦(ひつせん)をして井地(せいち)を問わしむ。

孟子いわく「子(し)の君、将に仁政を行わんとし、選択して子を使わす、子必ず勉めよ。夫(そ)れ仁政は必ず経界(けいかい)より始まる。経界正しからざれば、井地均(ひと)しからず、穀禄(こくろく)平らかならず。是(こ)の故に暴君汙吏(おり)、必ず其の経界を慢(あなど)る。経界既に正しければ、田を分かち禄を制すること、坐(ざ)して定むべきなり。

【現代語訳】

(文公が家臣の)畢戦(ひつせん)を孟先生のところへ遣わして、井田(せいでん)制について尋ねさせた。

孟先生がいわれた。「あなたの主君がいままさに仁政を行おうとして、多くの家臣の中からあなたを選んで私の元へ遣わされたのですから、あなたも努めて学んでください。さて仁政とは、まず境界を定めるところから始まります。境界が正しくないと、井田の面積が等しくなくなり、その結果、(耕地からの収穫に不公平が生じ)禄高も公平でなくなります。ですから、昔から暴君や貪欲な役人たちは、必ずこの境界を(自分に都合がいいように)いいかげんにしたのです。(これに対し)いったん境界を正しく定めれば、田畑を井田に分けることも、禄高を決めることも、居ながらにしてたやすくできるのです」。

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滕文公篇 三章④

恒産ある者は恒心あり、恒産なき者は恒心なし。正しい税制によって、「恒産」、すなわち民の経済生活を安定させる方法を説いた後は、「恒心」のための道徳教育です。

【訓読文】

「庠(しょう)序(じょ)学校を設け為して、以て之を教う。庠は養なり、校は教なり、序は射なり。夏には校といい、殷には序といい、周には庠といい、学は則(すなわ)ち三代之を共にす。皆、人倫を明らかにする所以(ゆえん)なり。人倫、上(かみ)にて明らかにすれば、小民、下(しも)にて親しむ。王者起こること有らば、必ず来たりて法を取らん。是(これ)、王者の師為(た)るなり。

詩に『周は舊邦(きゅうほう)なりと雖(いえど)も、其れ命ぜられて惟(こ)れ新たにす』といえるは、文王の謂(いい)なり。子(し)力(つと)めて之を行わば、亦(また)以て子(し)の国を新たにせん」。

【現代語訳】

「(次に)庠(しょう)・序(じょ)・学校を作って、民を教育しなければなりません。庠は養の意味で、老人を敬い養う道を教えるところであり、校は教の意味で、子弟を教え導くところであり、序は射の意味で、射礼を教えるところです。夏王朝では校といい、殷(商)王朝では序といい、周王朝では庠といい、(それぞれ呼び方は異なりますが)そこで学ぶ内容は三王朝とも共通のもので、すべて、人倫(人の道)を明らかにする教育でした。上の者が人倫を明らかにすれば、下々の民は互いに親しむようになります。もし天下に王者が興ったならば、必ず(その王者はこの滕に)やって来て、(滕の)やり方を手本とするでしょう。そうなれば、(あなたは)王者の師に為ることが出来ます。

「詩経」に『周は古い国であるが、天命を受けて周を新たにした』とありますが、これは、天命を受けた文王の出現によって、古い国であった周が天下を統一できる国として一新されたことをいいます。あなたも、努めて、私が申し上げたことを実行すれば、また、あなたの国も一新することができましょう」。

射は、周では六芸(りくげい)のひとつで、君子が身につけるべき教養ですが、武を通して礼を学びます。「公孫丑篇」七章にも「仁者は射の如し」とあるように、心の鍛錬が目的なのです。

滕は小国なので、天下を統一するのは不可能です。ですから、孟子の説き方も、魏の惠王や斉の宣王に対するのとは違います。天下の王者にはなれなくとも、王者の手本になることはできるので、それを目指しましょう、といいます。

詩は、「詩経」の「大雅」の「文王篇」からの引用です。「文王之什」の首篇です。

吉田松陰は、この章から、先ず「王者起こること有らば、必ず来たりて法を取らん。是(これ)、王者の師為(た)るなり」の句を取り上げます。君子が政治を行うのは、ただ自分の国だけのためだけではなく、天下後世のために手本となることを願うべきで、それが手本となったとしても、それは自分が考えたとか自分が行ったとか、誇ってはいけないといいます。目先の功利で判断せず、天下後世のためになるかを考えるようでないと、政治を一新することはできないのです。

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滕文公篇 三章③

夏王朝の貢(こう)法、殷(商)王朝の助(じょ)法、周王朝の徹(てつ)法の三つのうち、どれが優れた税制なのでしょうか。孟子は、古の賢人の言葉を引いて、続けます。

【訓読文】

「龍子(ろうし)いわく『地を治むるに助より善きはなく、貢より善からざるはなし』と。貢は、数歳の中(うち)を校(くら)べて、以て常と為す。楽歳(らくさい)には粒米(りゅうべい)狼戻(ろうれい)し、多く之(これ)を取るも虐(むご)しと為さざるに、則(すなわ)ち寡(すく)なく之を取り、凶年には其の田を糞(つちか)うにも足らざるに、則ち必ず盈(みつる)を取る。民の父母と為りながら、民をして、盻盻然(けいけいぜん)として将に終歳(しゅうさい)勤め動(はたら)かんとすとも、其の父母を養うこと得ざらしめ、又、称貸して之を益(ま)し、老稚をして溝壑(こうがく)に転ばしむ。悪(いず)くにか、其の民の父母為(た)るに在らんや。

詩にいう『我が公田に雨ふりて、遂に我が私(田)に及ぶ』と。惟(た)だ助にのみ公田有りと為す。此れに由(よ)りて之を観れば、周と雖(いえど)も亦(また)助するなり」。

【現代語訳】

「古の賢人龍子は、『土地を治める税制としては、助法がもっともよく、貢法がもっとも悪い』と言っています。貢法は、数年間の収穫高を計量して、その平均を毎年の収穫高とみなします。(これに十分の一税をかけるわけです。)豊作の年には穀物はありあまって、あちこち散らばっているくらいです。ですからもっと多く(税を)取っても虐政にはならないのに、少なく取ることになります。一方、凶作の年には(次の年のために)田に肥料を施す資力も足りないのに、必ず(決まった税の量だけ)目いっぱい取ることになります。(これが貢法の制度的欠陥です。)民の父母(である君主)となりながら、その民は、怨んでにらみながら一年中懸命に働いても、自分の父母を養うこともできず、また、(行政側が)種もみや金銭などを貸し付けて高い利息を取るような貸付を増やすので、老人や子供は溝に転んで飢えて死ぬことにもなります。これではどうして民の父母といえましょうか。

「詩経」には『(まず)私たちの公田に雨が降り、ついに私の私田に(雨が)及ぶ』とあります。公田があるのは、(井田(せいでん)制をとっていた殷の)助法だけです。この詩は周人(しゅうひと)の作であることを勘案しますと、周王朝でも(徹法と併せて)助法も採っていたことが推測できます(ですから、あなたが治める滕でも井田制の助法を採用されるとよいでしょう)」。

「粒米(りゅうべい)」は穀物のつぶ、「狼戻(ろうれい)」は乱れて散らばっているさまをいいます。「糞(つちか)う」は、耕作地に肥料を施す、の意です。次の年の耕作のためには、土地に肥料を与えなければならず、それを買うための資力が必要です。また、税として収穫物から過度に取られてしまうと、種もみすら食糧に回さざるを得なくなり、翌年の不作を生むという悪循環に陥ってしまいます。

詩は、「詩経」の「小雅」の「大田(たいでん)篇」からの引用です。「甫田の什」という十篇の二つめの篇です。周王朝は徹法を布いており、徹法には公田はないはずなのですが、周人(しゅうひと)の作である詩の中に公田という語が出ているので、助法の併用も行われていたのでしょう。孟子が理想としていたのは、井田制と十分の一税です。周においても公田があったことは、龍子の言葉と合わせて、孟子が文公に助法を勧める根拠になっています。

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滕文公篇 三章②

恒産ある者は恒心あり、恒産なき者は恒心なし。ではどうすれば人々の経済生活を安定させることができるのでしょうか。孟子は、税制のあり方を取り上げます。

【訓読文】

「是(こ)の故に賢君は、必ず恭倹して下を礼し、民より取るに制(かぎり)あり。陽虎(ようこ)いわく『富を為さんとすれば仁ならず、仁を為さんとすれば富まず』と。夏后(かこう)氏は五十にして貢(こう)し、殷人(いんひと)は七十にして助(じょ)し、周人(しゅうひと)は百畝にして徹(てつ)す。其の実は、皆、什(じゅう)に一(の税)なり。徹は徹なり、助は藉(しゃ)なり」。

【現代語訳】

「ですから、賢君といわれる人は、恭しく倹(つづま)やかで、下の者にも礼儀正しく、人民から取り立てる税にも制限がありました。(魯の家臣であった)陽虎は『富を蓄えようとすれば仁者になることができず、仁者になろうとすれば富むことができない』といいました。さて、夏王朝では、成人ひとりに五十畝を与えて貢(こう)という税制を、殷王朝では、成人ひとりに七〇畝を与えて助(じょ)という税制を、周王朝では成人ひとりに百畝を与えて徹(こう)という税制を、それぞれ実施しました。各王朝によって制度の名前は違っておりますが、その中身は同じく十分の一税です。徹とは、年貢を徹、すなわち取るという意味です。助とは、藉(しゃ)、すなわち借りるという意味です」。

陽虎(または陽貨)は、孔子と同時代の魯の政治家です。はじめは魯の実権を握っていた公族に仕えていましたが、やがて反旗を翻し、魯の実権を握ります。このとき孔子を政権に招きますが、実現しませんでした。その後、公族の巻き返しに遭い、魯を追放されました。

一畝は約一・八二アールですから、五〇畝で約〇・九ヘクタール、七〇畝で約一・三ヘクタール、百畝は約一・八ヘクタールの面積です。助が「借りる」という意味だといったのは、井田(せいでん)制では、耕作地を三×三の九区画に等分し、真ん中の公田を除く八区画を私田として民に支給し、公田は民の労力を借りて耕すからです。

重税は、民を経済的に疲弊させ、飢饉のときには餓死したり、生き残ったとしても与えられた田畑を棄て、流民化したりする事態を招いてしまいます。そこで、夏・殷(商)・周王朝では、「十分の一」の税率を制度にしていた、と孟子はいいます。

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